【エッセイ】未来の位置をめぐるエッセイ 第1回(全5回)
第1回 未来は「来る」のか
三十代のある秋、駅のホームで電車を待ちながら、ふいに奇妙な感覚に囚われた。
来年、という言葉が頭の中で鳴っていた。来年の春には転職しよう、とぼんやり考えていた。そのとき「来年」の「来」という字が、突然、見知らぬ顔をして私の前に現れた。
来る。未来は、来るのだ。
日本語で未来を表す言葉を並べてみると、何かに気づく。
来年、来月、来週。将来が来る。春が来る。
未来は「来る」ものだ。どこかから、こちらへ向かって、訪れてくるものだ。
それがずっと当たり前だった。当たり前すぎて、疑ったことがなかった。
"next" という響きには、階段を一段上がるような、あるいは列の次の順番が回ってくるような、自分の足で進む意志を感じる。
でも日本語の「来」は、そうではない。
自分はその場にいる。時間の方が、向こうからやって来る。
では、私たちは時間の中をどこかへ向かっているのか。それとも、時間が私たちの元へ届くのを、ただ待っているのか。
喪失は、いつも予告なく来た。
二十代のはじめ、大切な人が、ある朝を境にもう来なくなった。その人が去ったのか、それとも私の未来から退場したのか、今もうまく言えない。
しばらくのあいだ、私は朝になるたびに、来るはずのない通知を確認していた。
そのうち、それをやめた。
来年、という言葉が怖かった。来年には、何も来ないかもしれない。
未来が来るという日本語の構造は、裏を返せば、未来は来ないかもしれないという不安を内包している。
訪問者は気まぐれで、ときに素通りする。約束された未来など、どこにもない。
「未来」という言葉の「未」という字は、未だ来ない、という意味だ。完了していない。欠けている。それが日本語の未来の正体なのかもしれない。
日本語の時間感覚には、ある種の受動性がある。
でもそれは弱さではないと、今は思う。来るものを、丁寧に迎えるための姿勢だ。桜の季節が来る、冬が来る。来るかどうかわからないものに、静かに意識を向け続けること。
「待つ」という行為は、実は高度な集中だ。
あの秋の駅のホームで、電車は五分遅れてやって来た。
乗りながら、「来た」と思った。
英語なら "The train arrived." 事実の無機的な記述だ。でも「来た」という言葉には、待っていた自分と、到着した何かとの、小さな再会の感触がある。
未来が来る、ということは、未来と再会するということかもしれない。
かつて失った何かが、形を変えて戻ってくるかもしれないという予感。根拠はない。でも日本語という言語は、その根拠のなさを、静かに許容している。
未来はきっと来る。来ないかもしれないけれど。
📎 哲学メモ
マルティン・ハイデガー「時間性」
ドイツ語の "Zukunft"(未来)の語源は "zu-kommen"——「こちらへ来る」。
ハイデガーは未来を、前方から自己へと到来するものとして捉えた。
日本語の時間感覚と、奇妙なほど近い場所にある。
次回:「未だ来ない──日本語が描く"境界"の繊細さ」
