60代のリアル|第6話:「やめろ!離せ!警察を呼んでくれ!」
「遅くなるから起きて…自分の足で立って…」
そう声をかけながら、母の肩にそっと手を添えました。 ところが、その瞬間です。
「やめろ!離せ!警察を呼んでくれ!」
母が突然、大きな声を上げました。 私は一瞬、息が止まりました。
もしかすると、夢のつづきと現実を まだ区別できていないのかもしれない──言わるせん妄のような状態ではないかと思いました。
母は少し暴れましたが、 なんとか体を支えながら洗面所へ連れていきました。 洗面器には、あらかじめお湯を張っておいたので、 母はその前に座ると、急に表情が変わりました。
「ありがとう!」
大きな声で、とても嬉しそうに言い、 お湯で顔を洗い始めました。 その姿を見て、私もようやく肩の力が抜けました。
洗面を終えてベッドに戻ると、 母はベッドのふちに腰かけて、 目薬を差す準備をしていました。 もちろん、自分ではしないので、 私がそっと目薬を入れました。
……が、うまく入りません。 目薬が少し頬をつたってしまいました。
そのまま母はヤクルトを手に取り、 折れ曲がるストローで飲みながら、 ぽつりと言いました。
「下手くそ!」
先ほどの目薬のことを言っているのだと すぐに分かりました。
私は苦笑しながら、 「はいはい、すみませんね」と心の中でつぶやきました。
そのとき、母がふいに言いました。
「ババーの面倒みるの大変?」
突然の質問に、私は一瞬だけ言葉を選びましたが、 あえて正直に答えました。
「大変、大変。嫌になるくらい大変!」
すると母は、ヤクルトを飲みながら 小さな声で言いました。
「そう、ごめんね」
その“ごめんね”は、 怒っていたときの声とも、 目薬を嫌がるときの声とも違って、 どこか素直で、少しだけ弱い声でした。
私はその横顔を見ながら、 胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じました。
朝の慌ただしさと、 母の言葉に少しだけ救われる瞬間が、 いつも同じ場所に同居している気がします。
つづく
第7回はこちらです。↓
最初から読みたい方はこちらからどうぞ
