AIに判断を渡した先にあるもの
これだけさんざんAI、使っていこうぜ!って記事を投稿しまくっているくせに。ではありますが。笑
今日は、AIに依存しすぎると「自分で考えられなくなる」という、逆側のリスクについても書いておこうと思います。
前回「AIとの対話を通して自分の意見を疑う」ということを書いたからこそ、今度はその反対側を見ておきたい。アンチテーゼ的なサムシング。
人間はすぐ何かに依存したくなる。
人は弱い生き物です。
すーぐに迷うし、スマホでもコーヒーでもタバコでも異性でも、なんにでも依存してしまう。
逆に何にも依存していない人なんて居ないと思うので、ある種の人間に組み込まれたシステムの一つなんだとは思うけど。
でもね、特にAIを使いこなす上でそれは意識してコントロールしていかないといかんなと。
「AIに相談したら問題が解決した」という体験は、じわじわと積み重なっていく。最初は「参考にする程度」だったはずが、何度か繰り返すうちに「これを聞けばいい」という回路ができあがる。成功体験がそうさせる。これは別にAIに限った話ではないけど、AIの場合は少し様相が違うと思っている。
これまでの依存と何が違うか
ガラケーへの依存、Googleへの依存、スマホへの依存——これまでもテクノロジー依存の話は繰り返されてきた。でも、今回は構造として何かが違う気がしている。
調べ物や検索では人間はまず「何を検索するか」を考える。
結果が出ても、複数のページを読んで、自分なりに解釈して判断する。能動的に動いて、最後は自分が決める、という過程がそこにあった。
AIはその過程をまるごと省略する。
「教えてくれる」のだ。
しかも丁寧に、理由まで添えて。
気づいたら、人間側が指示を受け取るようになっている。
AIは「会話」のような動きをする(LLMなのであえて「ような」とはつけておくが)ので、人間は勝手に知性に似たものを感じとってしまう。
だから、信頼のしかたが根本的に違う。「あの人がそう言ってたから」という感覚に近い。
主導権を渡すことのリスク
AIがないと判断できなくなる——これが個人レベルで起きる最初のリスクだと思う。主導権をAIに握られる、という言い方をすると大げさに聞こえるかもしれないが、じわじわとそうなっていく可能性はある。というかかなり高い。
もうひとつ、見落とされがちなリスクがある。曖昧さの排除だ。
本来、白黒つかないことというのは世の中に山ほどある。
「正解がない問い」
「どちらも正しい状況」
「時と場合による判断」
それらはグレーのまま持ち続けることに意味があったりする。
でも、AIは問いに答えようとする。答えてしまう。人間がそれに慣れると、曖昧なまま抱えておく力が弱くなる。
正解なんてどうでも良い場面もある
創業当時は私も何かを聞かれるたびに、すぐ検索して「正しい」答えを返すことがクセになっていた。
部下の前では「ちゃんとした自分でいよう」
そんな意識が強かったのもあっただろう。
そのときに、ある年上の部下がこう言った。(口の回る頭のいい男だったんですよ…屁理屈ばっか言ってたけど笑)
「私はGoogleと話しているのではなく、あなたと会話しているんです。間違っているか正しいかなんてどうでもいいので、あなたの意見を聞かせてください。」
当時の私にはかなり、刺さった。
「正確な情報を渡すこと」と「自分の言葉で話すこと」は、別のこと。そんな当たり前のことを忘れていた自分に驚いた。
検索結果はどこまでも「誰かの答え」であって、自分の考えじゃない。それを渡し続けることで、会話の中に「自分」がいなくなっていた。
これは今のAI依存にそのまま重なる。AIの答えをただ転送し続けているだけなら、そこに「あなた」はいない。
判断基準は自分の中に
だからといって、AIを使わない、というつもりは全くない。便利なものは使う。それは変わらない。
ただ、あくまで判断基準は自分の中に持つ、というのは意識的に守っている。AIが出した答えを見て「そうか」で終わらせるのではなく、「自分はどう思うか」を必ず一回通す。この一手間が、主導権を手放さないための最低限の動作だと思っている。
前回の記事では「自分の意見を疑う」という話を書いた。今回はその反対側——「疑いすぎて、AIの意見を自分の意見にしてしまう」というリスクだ。どちらも極端に振れると問題になる。

まとめ
AIはただの道具だ。使い方次第で力になるし、使われ方次第では判断力を奪う。
「AIに聞いたらこう言っていた」が口癖になっていると感じたなら、一度立ち止まって「自分はどう思うか」を先に出す練習をしてみてはいかがでしょう?
ツールはあくまでツールとして、主役の座は手放さないでいたい。
