神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?
ただの宇宙人、梅太郎です。
「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」
もう7年も8年も前くらいに出てきた言葉なのですが、しかし、これをいざ仕事として始めてみようとすると、すべりだしはいいんだけれど、いろんなことでうまくいかなくなる、そんな企画のタネでした。
なんでだろなー?
単に「タイミングが合わなかったから」「まだ時が来ていないから」と感じていたのですが、どうやら「回答が自分でもうまくできなかった」からが一番の原因のようです。
宇宙からしたら、
「いや君、まだそれに答えられないよね?」
「自分でもわかってないこと、詳しく書けないよね?」
ということだったみたいです。
しかし、今なら、回答ができそうです。
ということで、説明してみましょう。
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ぶっちゃけ、結論はおもしろいものじゃない
「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」
答えは、「ケースバイケース」です。
ということになってしまいます。
はい。ズコーッ
超つまんないですよね。
「いや、そりゃそうだろう」と。
ただ、「ケースバイケース」という回答の中には、
・じゃあ、どうやったら当たるんだ?
・結局、当たらないのか?
・少しでも確率は上がるのか?
こういうことも含まれています。
(以前は、ここが上手に説明できませんでした)
なので、このあたりも含めて詳しく解説していきましょう。
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「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」
を考えていくには、要素を分解して考えてみると早そうです。
なので、次の3つのことを考えてみましょう。
問1:神さまとはナニモノか?
問2:お願いとはどういう行為か?
問3:宝くじとはどういうものか?
では、さっそくいってみましょう。
問1:神さまとはナニモノか?
神さまとはナニモノなんだ、誰なんだ……。
長年、不思議に思っていました。
日本の場合は名前がついている神さまも多いですよね。
誰々が一番えらいとか、そういう序列の話もあります。
そのあたりはあとで説明するとしまして、結論からいきますと、こう。
神さまとは、エネルギーのことである。
これが、私には一番しっくりくる形の答えです。
形があるにしろ、ないにしろ、そこに宿るエネルギーのことを神と呼んできた。そういう解釈です。
だから、どんなエネルギーを神とするかで、神さまに対する解釈、見方も変わります。
たとえば、山に住む神。
土地をおさめる神。
トイレの神。
自分の中にいる神。
この「神」という部分を、「エネルギー」に換えると、結構イメージしやすくなります。
「山に住むエネルギー」
「土地をおさめるエネルギー」
「トイレの(空間にある)エネルギー」
「自分の中にある(つながっている)エネルギー」
つまり、神とは何かということを考えたければ、「何を神とするか」「それはどんなエネルギーか」を解釈をすればいい。単に対象の問題なのです。
逆に言えば、何でも神さまになりえるのです。
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日本の神さま事情
一般的には、「より階層の大きなエネルギーの流れ」、「エネルギーのまとまり」を「神」と呼んでいる場合が多いのではないかなと思います。
たとえばその昔、日本では大いなる自然の中に神を見いだしていました。自然のエネルギーというのは、実はとても激しいものです。
山ならば、湧き水、生い茂る木々、そこに生きる動物や虫たちがいます。実に美しい、穏やかで元気な光景です。
一方で、地下にはマグマがある場合もあります。高地では、冬は決して近寄れないほど厳しい環境に変わります。
このように、自然というのは春夏秋冬、その強弱のエネルギーがとても強いですよね。エネルギーの幅がとても広いのです。
そういう意味で、自然の神さまというのは偉大であり、人間がどうこうできるようなものではない、ということがわかります。
だから人々は祈り、分け前をいただき、その土地(=神=エネルギー)とともに生きてきた。
これが、神という存在に対する、原初の考え方です。
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人間を神にしたひとたち
ただ、日本人の神さまのイメージというと、「すべてを包んでくれるおだやかで、万能で、大きな存在」という感覚が強いかもしれません。
なんとなく、人間的な存在を思い浮かべるのではないでしょうか。
それはなぜかというと、そういうふうに神さまのイメージをつくったからです。
たとえば「日本書紀」で考えてみましょう。日本書紀にはたくさんの神さまが出てきます。
しかし、ジャンルとしては「歴史書」なのです。
なぜ歴史書なのかというと、「国の王である天皇とは、神の血を継ぐものである」ということを言いたかったためです。
要するに、ああいうものに書かれている神さまは、「ただの人間(中身は宇宙人の場合が多いんですが)」なんですね。本当は。
当時、権力を握った人たちの正統性を証明するために描かれた物語だということです。
だから、序列もあります。人間社会をベースにしているので、人間社会のように描かれているのです。
「北欧神話」なども同じですね。
いろんな神さまがいますが、その世界の中心にいるのは「人間」です。しかし、偉大な神として見せるために、自然すらも司るすごい存在として描かれているわけです。
現代の日本では、この「人」をベースにした神さまへのイメージが強いでしょう。
ちなみに、なぜ世界中の神話が同じような構造になっているかというと、やっぱり、「つくった人が同じ」だからですね。
呪術(地球にはない知識や技)を使える宇宙人が、世界のいろんな場所で国をつくり、王さまになり、自分たちを神としたのです。
そして、神話をつくり、正統性を主張した。
要するに、「土地の乗っ取り」を行ってきたんですね。
だから、世界中に同じような仕組みがあります。偶然ではないのです。
(そしてそれは、今の今まで続いています)
※そのあたりの話はこちらに書きました。
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あんた、誰に願ってんのよ
余談になりますが、神さまとは何かを考えるうえで、こんな話もさせてください。
人が神さまになるという例は、日本で言ったら菅原道真が有名ですね。
「学問の神さま」です。
菅原道真という人は、平安時代に陰陽道に深く通じた人でした。
つまり、彼もまた、呪術的宇宙人の要素が強い人だったんですね。
道真は都から太宰府(福岡)に行き、呪術の知識をもって、日本という国を守ろうとした、あるいはより強い国にしようとした、そういうミッションを掲げた人だったと推察しています。
現代では、「太宰府に流された」ということにされていますが、本人からすれば、それは意気揚々とした栄転だったのです。しかし、それ自体が罠だったのか、政治的なもめごとに巻き込まれたのか、舞台からおろされてしまったということなのでしょう。
道真の遺したとされる和歌などもありますが、どうもフェイクっぽい気がします。
(「英雄扱い」「お涙ちょうだいもの」「悲劇」などは、呪術師の典型的な手口です)
ただ、道真は呪術の力が本当に強かったので、当時の政敵のみなさんも、死後の報復を恐れて、神として祀ったのですね。
呪術を使う人たちは、誰よりも呪術の怖さを知っています。
何よりも呪術の力を恐れているので、このような方法をとるのです。
(現代では、オカルトは非科学的だとされていますが、そのように言い出した人たちが、実は一番オカルトの力を知っていて、怖がっているのです)
菅原道真のような人間と、山や雷といった自然の神とでは、生まれた経緯が異なります。
人が神さまになる場合は、「畏敬の念」ではなく、「恐怖」がベースとなって生みだされているのです。
ここが、実は「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」という問題を考えるうえで結構大事なところです。
つまり、「その神は、何によって見いだされたものか?」。
先に例に出した「自然信仰」のベースには「畏敬」があります。
畏敬とは、「尊敬の対象」であり、「畏れ多い」ということです。
だから山などは「祈りの対象」になります。
人間の欲得ではなく、「住まわせてもらえて、ともにあってくれてありがたい、嬉しい」という感覚ですね。
一方、「恐怖」がベースに見いだされた神さまの場合、どうでしょう。
恐怖というのは、磁石のようなものです。
ベースとなった恐怖のエネルギーが強いほど、「近しいものが集まっていく」のです。

だから、学問の神さまとして祀られている菅原道真は、もはや生前の菅原道真とは似ても似つかぬ、「欲とエゴのエネルギーの集合体」となっています。
(ちなみに、こうすることによって、道真の本来のエネルギーを封印し、彼の呪いを回避することにもつながります。本当によく考えられた方法です)
自分はどんな神さまにお願いしようとしているのか?
それは、本当に神さまと呼べるものなのか?
そのエネルギーと結びつくことは、自分にとって必要なことなのか?
そんな視点が1つ重要になります。
(神社がどういう場所か、云々の話はまた別の機会に)
はい。そこで、次の問いです。
問2:お願いとは、どういう行為か?
「お金をください」
「私を幸せにしてください」
「第一志望の学校に受かりますように」
「健康になりたいです」
こういうものを、「お願い」と言います。
お願いとは、言い換えると「おねだり」です。
「ねぇ、買って。あれほしいの」

つまり、そういう行為なのです。
お願いというのは、極めて三次元的な性質を持っています。
なぜならば、お願いとは私たちの「恐怖」から生まれたものだからです。
お願い=恐怖=エゴ=欲
ここで一度、恐怖とエゴと、欲についての関係を考えてみましょう。
恐怖と、エゴと、欲。
これらは、実はほぼ同じ意味、性質を持つ概念です。
親兄弟みたいなものですね。
なぜなら、欲やエゴとは、「恐怖から生まれるもの」だからです。
人間は恐怖を感じたとき、恐怖を回避するために何かを欲する、何かから自分を守ろうとするのです。
関係を整理すると、こんな感じです。
恐怖・・・「大事なものを失ってしまうかもしれない」という心理的な衝動
欲・・・その恐怖を回避するために起きる「欲しい」「したい」という衝動
エゴ・・・恐怖から身を守るために起きる「防衛的」衝動。意地とも言える
もちろん、「魂の衝動から生まれる欲」(必要な欲)というものもあるので、すべてがこの図式ではありませんが、ただ、現代社会で叫ばれる欲やエゴは、基本はこの関係にあると考えたほうが適切でしょう。
つまり、「お金がほしい!」というのは、「お金がないことで起きる恐怖から逃げたい!」と、言い換えることができます。
お金がないことで起きる恐怖……たとえば、
・今の暮らしが壊れるかもしれない
・借金を返せず、家がなくなるかもしれない
・さまざまな面倒が起きるかもしれない
・今以上に働かないといけないかもしれない
こういうものですね。
こうした状況を、何としても回避したい! という衝動的な恐怖が、「お金がほしい」という願いの根底の理由です。
そう考えたときに、「宝くじに当たりたい」という欲求は、いったい何に由来したものなのでしょうか?
「恐怖」が由来ですよね。たぶん。
そして恐怖というのは、「呪術」の領域です。
だから、「意図的に宝くじに当たるかどうか」は、「呪術の力の強さ」が関係してくる問題だということです。
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人のために願うことは、どうなのか?
ちなみに、「人のために願う」場合はどうか?
というと、「願う」という行為である以上、それは「呪術的」だという答えになります。
たとえば、「子どもの受験がうまくいってほしい」という希望。
それは、「本当に、純粋に子どものためを思ったものですか?」ということです。
「子どもが受験に成功することで、私が安心したい」が本音ならば、それは恐怖にもとづいたお願いということになります。
お題が健康にしても、幸せにしても同じです。
一見、いい言葉でとりつくっていても、ベースに自身の恐怖があるのなら、「お金ください」と変わりません。
むしろ、他人に依存(=自分の幸福や、存在理由、理想を押しつけ)しながら呪いをかけているという点では、シンプルに「お金ください」よりタチが悪いです。
反対に、「子どもが、魂のままに、自由なままにいられますように」といったものであれば、これは祈りの領域に入ってくるかもしれません。
ただ、基本的に、他人のことはどうこう言うもんじゃないと思います。
今現在、「愛」と呼ばれているほとんどのものは、「欲」と「エゴ」でまみれてしまっています。
親も子も他人。友人も他人。全員他人。
そこからリスタートするのが一番です。
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問3:宝くじとはどういうものか?
お願いとは、恐怖の領域、呪術の領域にあるものだと説明しました。
では、3つ目のお題、「宝くじとは何か」についても見ていきましょう。
宝くじというのは、「期待値の低いギャンブル」などとよく言われます。
宝くじに当たるということは、「夢のようだ」と表現されるように、「一攫千金の機会を手にできるチャンス」であると同時に、その確率は極めて低いものだと、多くの人が考えているでしょう。
ここが1つポイントになります。
つまり、「そもそも当たる確率が低い」という刷り込み、認知がすでに私たちの中にあるということです。
「当たるのは奇跡に近い」という認知の状態では、基本的には当たらないでしょう。
たとえば空を飛ぶには、「空を自在に飛べる自分」のイメージが必要です。
そんなの無理だよね、難しいよね、そんな意識が少しでもあると、空を飛ぶことはできません。
しかし、呪術的な宇宙人は、そのイメージが完璧にできます。空を飛ぶ、空に浮くのはあたりまえだと認知しているので、「奇跡の技」を起こせます。

スポーツなどで勝負強い人も、この呪術的なイメージが得意なのです。
「完璧にできる」「勝てる」とはっきりイメージできる人が、「望んだ結果を手に入れられる」という呪術領域の話なのです。
(ちなみに、現在大活躍しているスポーツ選手からは、呪術的な宇宙人の気配を感じます。それは、彼らが「もう隠さなくなった」というサインにも見えます。そもそも、スポーツ自体が呪術師のつくった仕組みの1つです)
話を戻すと、「宝くじに当たって当然である」という認知のレベルを高めていけば、当選確率は上がっていく、とも言えます。
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がんばって、宝くじを当ててみよう
ということで、3つの命題、
問1:神さまとはナニモノか?
問2:お願いとはどういう行為か?
問3:宝くじとはどういうものか?
について見てきました。
「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」
その答えは、「ケースバイケース」です。
より厳密に言えば、「基本的に、一般的な地球人では意図して当てることは難しいが、方法がないこともない」
ということになります。
なぜならば、
・「神さまにお願いをするという行為」
・「宝くじに当たるという現象」
そのすべてが、「恐怖」から生まれたエゴと欲の産物だからです。
最初から、呪術の領域なのです。
だから、当たる確率を意図的に高めるためには、そもそもこれは呪術行為なのであると認識をしたうえで、呪術の力を高める必要があります。
逆に言うと、宝くじに参加するほとんどの人が、「当たるのは奇跡」だと認知していて、かつ「中途半端な欲」で購入するので、ぜんぜん当たらないんですね。
「当たるのが当然」だと思って、かつ「強力な欲」で望めば、当たる確率は上がっていくのです。
一応、その方法も解説してみましょう。
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お願いの力を増すための3つの案
呪術とは、言い換えると「支配する力」です。
「物事をコントロールし、思い通りにさせる力」。
そういう力なので、「念の強さ」が重要になってきます。
念とは、そのまま念じること。
「ほしい」。「何が何でもほしい」。
この、念の強さがある人は、お金に限らず、物事を支配していくのが上手な人です。
(このようなタイプの人は、概して「運がいい」と言ったりするのですが、実際には運ではなく、執念の力の強さで、物事をコントロールしているだけの場合が多いです)
だから、宝くじに当たりたければ、念の力を強めて、お願いの精度を高めていくことが一つの方法になるでしょう。
ただ、問題が1つ。
一般的な人のレベルでは、そこまで強い念を生み出すことはできません。
「宝くじがあたりまえに当たるレベルの自分」を、想像できますか? リアルに具現化できますか?
「無理かも」という刷り込みがすでに入っているので、このブロックを気合いや意思程度で取っ払うのはなかなか難しいことなのです。
こうしたブロックの外れている人は、生まれた境遇の問題で強烈なコンプレックスを抱えていたり、心身にハンデを負っていたりして、身体と魂がねじれている場合が多いのです。
そうしたものがない人が、後天的に念の力を獲得するには、努力と忍耐が必要です。
(そうして考案された呪術の仕組みが、仏教でいう「修行」なのです)
呪術や念というのは、恐怖の力です。
そのため、「生きるか死ぬか」のような極限の状態でこそ強い力を発揮します。
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方法1:命がけで願う
そこで、提案の1つ目は、「生きるか死ぬかの瀬戸際で願う」です。
どうでしょうか。
この方法の課題は、「果たしてそこまで自分を追い込めるか」ということ。
宝くじが当たるレベルの念の力を生むには、もしかしたら何年も修行が必要かもしれません。
生命の危機を感じるまで自分を追い込むほどの労力をかけるならば、そもそもお金を獲得する他の方法を探したほうが効率的だという話にもなってきそうです。
シンプルに「溺死寸前の状態で願ってみる」というのも……おすすめはしませんが、ありっちゃありかもしれません。
果たして、今際の際に願うのが宝くじのことなのかは、わかりませんが……。
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方法2:助けて魔神さん
また、もう1つの案としては、「呪術的な宇宙人の力を借りる」という方法もあります。
ただし、これは悪魔の契約みたいなものですから、契約できたとして、あまりいいことにはなりません。恐怖がどんどん強くなり、それにともなって、自身の欲もどんどん強くなります。
永遠に乾いて癒やされることのないエゴと欲望の海に投げ出される結果になってしまうでしょう。
自分が自分でなくなってもいい、悪魔に魂を売ってでも宝くじに当たりたいんだという、強い覚悟がある人向けの方法です。
悪魔と手っ取り早くお近づきになりたい場合には、いかにも悪魔がついていそうなエゴが強烈な人に近づいて、弟子入りしてみるのもいいでしょう。
基本的には相手にされないか、利用されて終わりですが、才能を見せればチャンスがめぐってくるかもしれません。
ちなみにフィクション作品では、「死神や悪魔との契約で自分の寿命や他の人の生命(生け贄)を差し出す」という行為が見られます。
あれも実はフィクションではなくて、本当に存在する儀式です。
(呼び出す方法はわかりません)
天才的な才能を持つアーティストが早逝してしまう例は少なくありませんが、無関係ではないと私は考えています。
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「何も望まないもの」が、一番強い
3つ目の案は、呪術を使いません。
「すべて天にゆだね、何の結果も望まない」という方法です。
そもそも、「神さまにお願いしたら宝くじに当たりますか?」という問い自体、すべてにおいて、他人任せで身勝手な発想です。
(思いついたのは私自身です)
「神さまとはナニモノか」で説明したように、神さまとは、要するにエネルギーのことです。
自分は、どんなエネルギー(神さま)と結びつきたいのか。
これは、言い換えると、「どう在りたいのか」ということです。
どう行動するか、物理的に何を手に入れるか。
その前に、「あなたはどう在りたいのか」をしっかり決めておくことです。
迷わずに生きる、豊かに生きる、安心して生きる。
そのためには、在り方を決める。腹をくくる。
結局、どこまでいってもここに行き着きます。
在り方を意識するには、日々の生活を、「恐怖」に焦点を合わせるのではなく、「自分がもっとも心地よい感覚」に焦点を合わせます。
ただしその感覚は、長くは続きません。
三次元の世界は、めちゃくちゃですから。
でも、それでいいのです。
「あ、また恐怖に引っ張られてるな」。
「よし、軸を戻そう」。
ひたすら、この繰り返し。
気づき、戻る。
「私は恐怖なんかしない」ではなく、「恐怖している」ことに気づくことが重要です。
気づいたら、戻れます。
気づかないふりをするから、戻れなくなるのです。
そんな「快適な在り方」の延長線上に「あ、今日は宝くじ買いかもな」という衝動が出れば、買ってみてください。
でも、結果は望みません。
当たらなくても、何も思いません。
当たっても当たらなくても、そういう自然な生活は、豊かなで美しいものです。
お読みくださり、ありがとうございました!
ではまた!
