フィードバックが、私の文章を照らしてくれた
今朝、起きてnoteのアプリを開いたら、たくさんのハートが目に入った。

あれ?
あ、この方は池松潤さんだ。
#嫉妬祭り
で嫉妬にまつわる記事を書き、フィードバック希望と書くと池松さんがしてくださるというもの。
私が書いた記事はこれ↓
池松さんからのフィードバックはこちらの前に。
この記事だけじゃないのも読んでくれてるってこと?
嫉妬祭りの参加記事以外にも私が書いたのを読んで、私へのフィードバックしてくれたってこと。
大勢の参加者がいて、他の方達にもきっとしているんだろう。すごい。
そして嬉しい。
そんなわけで、池松さんのフィードバックはこちら。

私は書いた記事にフィードバックをもらったことはほとんどない。
※今回は感想とは違い、フィードバックの話。いつもコメントしてくださる方には感謝でいっぱい!
だからどんなフィードバックが返ってくるかな?と楽しみだしドキドキしてた。
どんなに自分で納得して書いたものでも、誰かがそれをどう受け取るかはわからない。
だから、こうしてじっくりと読んでもらい、丁寧な言葉で返してもらえたことが、とても嬉しかった。
今回のフィードバックで特に印象に残ったのは、「特別」という言葉の両面性をしっかりと読み取ってくれたこと。
「しょうこは良いよね」
「しょうこはできるから」
「しょうこは特別だから」
この言葉は、一見すると褒め言葉のように聞こえるけれど。
それと同時に「しょうこは大丈夫」「しょうこなら平気」と思われることでもある。
つまり、「助けを求めてもいい人」「傷つかない人」として扱われることでもある。
「特別」と言われることは、賞賛でありながら、孤独でもある。
私が小さい頃に感じていたことを、池松さんは汲み取ってくれた。
それから、「特別」な主人公が「普通」の綾乃に憧れるという逆転の発見。
「綾乃になりたかったのかもしれない」と気づく瞬間を、「転」として捉えてくれたこと。
ここで「しょうこさんそのものなんですけど」と言われたのが面白かった。
そう。まるまる私の中身がここにつまっているからだ。
「ココに深みを与えると、一塩かけた料理みたいにパーっと味わいが広がるかも」と書かれていた。
そうして続いた言葉は、
「本質的に大切なのは『何を問いかけたいか』『誰に書くのか』『どんな反応を期待するか』を明確にすること。でもエッセイは違う。世界観なので」
たしかに、その感情をもう少し掘り下げることで、もっと読後感が変わったかもしれない。
嫉妬に気づくまでの心理の流れを、もう少し丁寧に描いたら、どうなっただろう。
でも私は多分書かないと思う。
なんでかって?書いたら私じゃないからだ。
今回読んでくれる人たちは、【しょうこの】嫉妬を読んでくれるだろうなって思ったから。
私は、この話を書くときに「問い」を意識していただろうか?
何を伝えたいかは明確にしていたつもりだったけど、それが「問い」になっていたかはわからない。
ただ、「こういう世界があったよ」と書いただけ。
私は、エッセイを書くときは自分の見た景色を、そのまま描きたいと思っている。
読んだ人がそこから何を受け取るかは、その人次第。
それでも、このフィードバックをくれた池松さんは、「優れたエッセイとは何か?」と考えさせられたと言ってくれた。
つまり、私の文章は、問いかけようとしなくても「問いを持つ余地のある世界」を描けていたのかな。
それって、すごく嬉しいことなんじゃないか。
「エッセイは世界観なので」
この言葉を何度も噛みしめる。
エッセイと思ってもらえた嬉しさに酔いしれる。
フィードバックの最後には「力不足で」と書かれていたけれど、そんなことは全然ない。
むしろ、こんなに深く深く読みこんでくれたこと、その上で、もっと良くなる可能性を示してくれたことに感謝しかない。
「フィードバック難しいです笑」と言いながら、ここまで的確な言葉をくれるのはすごい。
そして、そんなコメントをもらえたことが、何よりも嬉しい。
