見出し画像

「紹介したい人がいて。」テンセグリティの距離感|エッセイ

まず、マフィンにバターを塗る。
軽く焼いたら、ちりめんじゃことモッツァレラをたっぷり。オリーブオイルをくるりと二周して、もう一度、高温のトースターへ。チーズがふつふつと泡立ち、縁がきつね色になったら、できあがり。熱に溶けたオリーブオイルの香りが、ふわりと鼻を抜ける。

お気に入りの、朝ごはん。窓の外では、まだ淡い朝の光が、カーテン越しに台所の床を白く染めていた。なんでもない、いつもの朝のはずだった。

「紹介したい人がいて。」

カフェオレを淹れていた息子が、何気ない口調でそう言った。ミルクの温まる甘い匂いが、湯気とともに立っている。大学二年になったばかりの、春のことだった。

紹介したい人って?
聞けば、一か月後の学祭に来てほしい、という。そんな先なら、予定は余裕で空いている。考えているうちに、息子が「無理そうならいいけど」と引っ込めかけたので、慌てて大丈夫だと伝えた。

それから、つい聞いてしまった。

「……それって、あの、その、彼女とか?」

頷く。

「ちなみに、ギャル……だったりする?」

「え?」

「金髪の。ものすごく長かったり、爪。」

「いや、普通だけど。」

もちろん、ギャルには何の罪もない。私が勝手に身構えたのには、ちょっとした理由があった。

息子は、首をかしげてから、少し照れくさそうに、背筋を伸ばした。めずらしく、あらたまっている。

「じつはね。大学一年のときから、お付き合いしてる人がいて。二人にも会わせたいなと思って。」

次々と放たれる矢。まさか、まさか。一年のときからとは、まるで気づかなかった。思わず、夫と顔を見合わせた。私の空想ギャルは、一瞬で消えた。同じ大学の同級生だという。

息子の横顔が、ふいに大人びて見えた。カフェオレのカップが、その手のなかで、ずいぶん小さい。

***

じつは、とっさに口をついて出た金髪ギャル。あれは、ゆりこさんのせいだ。友人でもあり、子育ての先輩でもある。

子どもは六歳違いで、もう社会人。ちらほら結婚の話も出始めて、会えば、結婚観とかの話になる。

「結婚は、してもしなくても、その人が幸せならそれでいいよね。一人のほうが正直ラクだし。それでも、その面倒を全部引き受けても余りあるくらい、大事だと思える人に出会ったんなら……するよね、結婚」

ゆりこさんは、いいことを言ったかと思うと、次の瞬間には不穏なことを平気で言い出す人。だから、うっかり感動してはいけない。

「でも、どうする? とんでもない子を連れてきたら」

「たとえば?」

「『ちょりーす!』って入ってきて、爪がものすごく長くて。シザーハンズみたいに、チョキン、って」

そう言って、私の前髪を切る真似をした。

「金髪で、顔黒ギャルみたいな子」

思わず前髪を守りながら、「今どき、そんな子いないでしょう」と笑った。それでも、一度想像してしまうと、少しだけ身構える。ちょっと、ビビる。

でも、ゆりこさんは最後に、決まってこう言う。

「まあ、そんなに心配しなくても大丈夫。周りを見ていてもね、みんな『そうだよね』って子を、ちゃんと連れてくるから」

どういう意味、という顔をすると、彼女はいたずらっぽく目を細めた。

「子どもが好きになる人って、会えば分かるよ。ああ、この子はこんなふうに育ったんだな、って感じるから。」

そのときは、いまひとつよく分からなかった。けれど、まさか、こんなに早く我が家にも、その日が訪れるとは。

すごく緊張してきた。果たして、どんな子だろう。こんなことは、これまでなかった。

待ち合わせは、本郷キャンパス。三四郎池が浮かんだ。漱石の『三四郎』が、池のほとりで一目惚れをして、けれど恋は実らず、最後に「ストレイ・シープ(迷える羊)」とつぶやく、あの話。

そこから、想像は悪いほうへと転がっていった。うちの子に、洒落たデートなんてできるのか。三四郎みたいに、もじもじしているうちに、いいように振り回されて、騙されてやいないか。悪気はない。ないけれど、我ながら失礼なことを、大真面目に考えていた。ぜんぶ、漱石のせいだ。いやいや、縁起でもない、と首を振った。

そんな不穏なことを想像しておきながら、とりあえず、何を着ていこうか、とワクワクし始めた。お土産は何を渡せばいいんだろ。正解は何?!

手短に、ゆりこさんにLINEで伝えると、帰国子女らしいリアクションが返ってきて当惑した。ただ、見繕ってくれたアドバイスは、さすがだった。

LINE: ゆりこ
バリキャリでもないんだから、学祭にスーツはやめて。かといって、普段着でも行かない。上質なリネンの服がいい。あのベージュの、いいじゃん。似合ってたよ。差し色に、ストール巻いたら綺麗。

LINE: 私
当日暑いから、帽子をね、被っていこうと思うんだけど、失礼かな。

LINE: ゆりこ
相手に失礼っていうより、それはやめときな。ご挨拶のとき、脱ぐよね、ヘレンカミンスキー。そしたら、どうなる。髪はワカメみたいにぺたーってへばりついてるでしょ。若くないんだから。日除けは日傘で。その方が、上品に落ち着いて見える。

LINE: ゆりこ
お菓子は、そうだなぁ。大きな箱菓子とか、重い羊羹とか、荷物になるようなのはダメね。たとえ美味しくても。常温で溶けず、軽くて、でも、ちょっといいやつ。高すぎると、まるで息子のことをお願いしますーって、圧が強くなるから控えて。

その場では結局決まらなかった。ただ、さりげなく、彼女の好きなものを尋ねたら、息子から「紅茶」と返ってきた。うわ、これに決まり。

Mariage Frèresを買う気満々で、百貨店に行った。マリアージュ フレール。……待てよ。

「マリアージュ」って、結婚じゃない? 
初対面で「結婚」を手渡す母、にならない? 
いや、考えすぎか。
でも、考えすぎるのが母というものだ。

結局、たかが紅茶を一つ買うだけで、百貨店を三時間近く歩き回った。

***

五月の終わり。約束は、門の前だった。キャンパスの並木は、若葉を青々と茂らせていた。葉の一枚一枚が陽を弾いて眩しく輝き、道いっぱいに濃い影を落としている。日向に立つとやや汗ばむほどなのに、吹き抜ける風はまだ透き通って涼やかで、気持ちのよい日だった。

ところが、門をくぐった先は、人の海。奥の方から、バンドの重低音が地面を揺らし、模擬店の呼び込みが、あちこちから飛んでくる。

とりあえず、門の前には着いた。広過ぎてどこにいたらいいのか分からない。気づけば、約束の時間を過ぎていた。スマホが鳴った。

「今、どこ?」

「門のところにはいるんだけど。」

「近くのお店と、目印になる番号を教えて。」

門は門でも、どうやら、違う門だったらしい。

「そこから動かないで。大丈夫。すぐに、そっちに行くから。」

そう言い残して、電話は切れた。

大丈夫。その一言が、胸に響いた。

小さいころ、迷子になった息子に、何度も言った言葉だった。「大丈夫。」それを、子どもから言われるなんて。

バンドの音が、いちだんと激しくなる。ベースの音が足の裏から伝わってくる。人の流れが、右へ左へと、私たちをよけて過ぎていく。その真ん中で立ち止まっていると、遠い日のことが、よみがえってきた。

***

息子がまだ小学三年生だったころ、この学祭に連れてきたことがある。

入り口で、パンフをもらい、行きたいところを決めた。最初の幾つかだけ、一緒に回って、予約券みたいなものを取った。「もう一人で回れる、大丈夫」というから、午後二時のゴム飛行機の工作場所だけ確認して別れた。そういう約束だったから、リュックの中身は準備万端だった。

「迷わず回れるのかな。理系の棟まで遠いし」と心配している私に、夫は、問題ないよと言った。私が気を揉むそばで、夫はいつも、なんでもないことのように笑っている。この人がそうしていると、大丈夫な気がしてくるから、不思議だ。

待ち合わせの場所で待っていたら、リュック姿の息子が人混みから現れた。私たちを見つけると、大きく手を振る。額には汗、頬は赤い。左手には水色のかき氷、右手には…何だろう、工作か何か。目を細めてもわからない。

「これ、テンセグリティ。割り箸とゴムだけで作ったんだよ」作り方の紙も見せてくれた。

「見て。どこもくっついてないのに、崩れない。すごいでしょ」

言われてよく見ると、たしかに、木と木はどこも触れ合っていない。細い輪ゴムの張力だけで、互いを引っぱり合いながら、宙に浮くように、絶妙なバランスを保っている。

小さな両手で、ぱちんとそれをペシャンコに挟んだ。やめなさいと制止しようとすると、ぱっと離してビヨヨンと跳ねた。もとの形に戻る。得意気の顔だ。何度も何度も、私たちの前でつぶしては、跳ね返してみせた。

他にも、リュックからは缶バッジや、鉱物なのか、石ころなのか、よくわからないものが次々と出てきた。あんなに心配していたのに、親の心、子知らずとは、よく言ったものだ。

***

人混みの向こうに、息子を見つけた。スローモーションでもかかって、小学生だったころと、今の姿が重なった。大きくなったものだ。

向こうは、まだ気づいていない。その隣に、女性がいた。二人は、何か話している。周りがうるさいのだろう。息子が少しかがんで、彼女の言葉に耳を傾けていた。その仕草を見た瞬間、胸の奥が、とん、と鳴った。あれは、夫が、私の話を聞くときと、そっくりだった。

息子が、こちらに気づいた。笑顔で手を挙げる。その隣で、小さく会釈をしながら歩いてくる女性がいた。その景色だけで、「紹介したい人がいて。」という言葉の意味が、すっと、胸に落ちてきた。息子が好きになるのも、わかる気がした。

木陰へ移り、四人で挨拶をした。銀杏の枝が頭上で緑の天蓋をつくり、その隙間から、初夏の光がこぼれ落ちてくる。息子は茶色のチノパンに白の長袖シャツを腕まくりしていた。二人とも、少し、頬が赤い。淡い色のワンピースの彼女は、白いハンカチーフをそっと指に掛け直し、「はじめまして」と丁寧に頭を下げた。その所作が、驚くほど自然だった。

一通りの紹介が終わると、雑談タイムになった。息子も本を読むほうだが、彼女は、それ以上に読書家だという。本の話になると、声がひときわ弾んだ。

彼女が話しているとき、息子は黙って、隣でそれを聞いている。見たことのない横顔だった。誰かの言葉を、あんなにやわらかい目で受けとめるのか。

話しているあいだにも、友人たちが何人も、私たちの横を通り過ぎていった。そのたびに、二人がそろって手を挙げて、声をかける。

「あとで、いくね。」

冷やかされるわけでもなく、ごく当たり前のように。このキャンパスの中に、二人は溶け込んでいた。

「一年のころから、勉強をいろいろと教えてもらっていて」そう言って、彼女ははにかんだ。息子は息子で、いつも彼女に教えてもらっていると言う。どっちがどっちでも、いいような。ただ、二人の呼吸があまりにも合っていて、おかしくて、つっこみたくなった。

青葉のあいだを、風が掠めていく。さわさわと葉擦れの音がして、木漏れ日が、四人の足もとで、ちらちらと揺れていた。

「本当に、気が利かない人だから……いろいろ、ご迷惑をおかけしていないかしら」申し訳ない気持ちを伝えると、すぐに彼女は手を振った。

「全然。たくさん助けてもらっていて。ほんとうに優しい人です」

なんかもう、これだけで胸がいっぱいになった。思わず、握手をしたくなったが、怖がらせてもいけないので、しずかに微笑んだ。

ふいに、ゆりこさんの言葉が浮かんだ。会えば分かる。ああ、この子はこんなふうに育ったんだな、って。なんとなく、その意味が呑み込めた。


それにしても。

大学生活が忙しそうで、ゆっくり話す機会もなかったとはいえ、一年のときから彼女がいたなんて。少しも、感づかなかった。

でも、そう言えば、クリスマスも、家にいなかった。高校の仲間と遊んでいるとばかり、勝手に思い込んでいた。玄関で「いってきます」と言うときの、少し弾んだ声。鏡の前で髪を気にするようになったこと。大学生になって、だんだん身なりも小綺麗になって。

あのときの、ひとつひとつの小さな変化が、すべて繋がった。そうだったのか。気づかないうちに、成長しているのだ。

***

帰り道、三四郎池へ下りた。水辺に近づくだけで、空気が、ひやりと変わる。バンドの音も、呼び込みの声も、木立の向こうへ、潮が引くように遠のいていく。かわりに、どこかで鳥が鳴き、水面に落ちる木の葉の、かすかな音が耳に届いた。ゆれる水面に、新緑と空とがひとつに溶けて、ときおり、鯉の背が波紋を広げていく。

あの日も、ここへ下りたのだった。息子が、水面をのぞき込んで、「鯉がいる。金色」とはしゃいでいた。池は、あの頃と何も変わっていない。

あんなに不吉がっていた三四郎池。おそるおそる、漱石先生に謝っておいた。ストレイ・シープの出る幕なんて、どこにもなかった。

池を抜け、湯島天神のほうへ少し歩いて、老舗の和菓子屋さんに立ち寄った。名物の豆大福を、いくつか包んでもらう。手のひらに、ずっしりとした重みが返ってくる。

こんな日がくるなんて、いいものだな、と思った。

家に帰ってから、夫とお茶を淹れ、豆大福を頬張る。やわらかな餅と、ほんのり塩のきいた餡が広がっていく。昔と、少しも変わらない味だった。

「もう、そんな年頃になったんだね」しみじみと、二人で話していた。夫は、よけいなことは、何も言わない。私が何でも好きなようにできるのも、この人が、いつも静かに隣にいてくれるからだ。

初めて恋人を紹介された。母としてもっと寂しくなるものかと身構えていたけれど、不思議と、そんなことはなかった。むしろ、うれしかった。一緒に笑い合える人が、いたのか。そう思うだけで、目の奥が、つんと熱くなった。

***

季節が巡り、ふたりは一つずつ、決めていった。顔を合わせる折に、さりげなく、おいしい紅茶やお菓子を渡す。私のうれしい気持ちは、なるべく出しすぎないように気をつけて。近すぎず、遠すぎず。

でも、たのしい。この感覚。

あのテンセグリティは、今では私の机の上にある。輪ゴムは、途中で一度、息子が替えてくれた。

ときどき、そっと押してみる。ビヨヨンと、変わらず、もとへ戻る。木と木は、一ミリも触れていない。それなのに。絶妙なバランスで立っている。その姿が美しい。

こうして、なんでもない日が、一日、また一日と積み重なって、ゆっくりと形になっていくのだろう。あの朝、カフェオレの湯気の向こうで聞いた一言から、ずいぶん遠くまで来たものだ。


紹介してくれて、ありがとう。
あなたの大切な人を。








いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集