締切は、決心を引き受けてくれる|自学自習
幼いころの読書経験が自学自習の土台となった。中学受験や部活、趣味、模試といった節目の中で、「締切に間に合わせる習慣」が自立へとつながっていった。
もう十五年以上、使い続けている手帖がある。ハイタイドの文庫本サイズのリフィル。ペン先がすっと沈む、生成り色の紙。
その上に、リネンとリバティを組み合わせた手作りのカバーをかけている。いくつか作ってあり、ときどき気分に合わせて替える。リネンは、もうくったりと手に馴染んでいる。
ふと数年前のページを開くと、家族の足跡があった。並んでいるのは、部活の大会、模試、英検、イベントの日付ばかりだ。その一つひとつを目印にして、子どもは歩いていった。
幼いころは、漢字と計算と、それに読書が好きなら十分だと思っていた。
家の目の前に、公園と図書館があった。暗くなるまで外で遊び、両手に本を抱えて帰ってくる。家にも本は多く、漫画も含めて、本に囲まれて育った。宝探しのように一冊を選び、夢中で読んでいる。その姿を眺めるのが、私の楽しみでもあった。
やがて、「中学受験をしたい」と言い出した。よく遊んでいただけに、親のほうが戸惑った。
高学年になって初めて塾に通い、机に向かう時間は増えた。出遅れていて大変だったが、よく勉強した。あれもよい経験だったと思う。
受験が終わると、塾は辞めた。中受に少し疲れていたのかもしれない。中高では、自分のペースで進む道を選んだ。六年という時間の中で、試行錯誤を重ねたかったのだろう。
結局、大学受験まで塾には通わず、現役で合格した。続けられた背景には、幼いころからの読む力があった。長い文章に抵抗がなく、解説を追えれば、自学の選択肢も広がった。
一方で、自学自習は単調になりやすく、視野も狭くなる。そこで、早くから模試を受けていった。限られた時間で初見の問題に向き合い、取捨選択し、判断する。その経験が応用力を鍛えていった。
試験や大会のあとは、食卓に大好物を並べて、その日をねぎらった。大人も子どもも関係なく、いちばん頑張った人が主役。結果は問わない。うまくいった日も、いかなかった日も、同じように囲んで、ひと息つく。いつのまにか、それが我が家の習慣になっていた。
試験は、いつも自分で申し込んでいた。ただ、その直後がいちばん気持ちが高ぶり、日がたつにつれて、その熱は薄れていく。受けたい気持ちは確かにあったはずなのに、目の前のことに追われて、後回しになる。子どもなんて、そういうものだろう。
それでも、試験日は動かない。
その日が近づくと、「まずい」という感覚が戻ってくる。動かない日付が、本人を引っ張り上げてくれる。本番から逆算する目は、大人には当たり前でも、子どもには最初から備わっているものではない。
どれだけ努力を重ねても、締切への感覚が甘いと、届いたはずの成果を取りこぼす。「もう一週間あったら」と悔やんでも、その条件はみんな同じだ。これは才能というより、時間との向き合い方、つまり習慣の問題なのかもしれない。
締切という言葉には、よい印象がないかもしれない。でも、締切があるから、そこまでのものをいったん形にできる。自信がなくても、その日までにできることをやる。それで十分なのだ。最初から完璧を求めなければ、臆病にならずにすむ。重ねるうちに、完成度はあとからついてくる。
締切は、人を縛っているようで、実は動かすきっかけになっている。迷いを終わらせ、決心を引き受けてくれる。それは、自立を引き出すものなのかもしれない。
失敗もしながら、それでも自分でひとつひとつ締切に間に合わせてきた。
手帖には、その日付が残っている。
部活の大会、英検、模試。年を追うごとに、試験の名前は大きくなっていった。とくに年に一回しかない試験は家族も緊張した。
手帖は、いつもダイニングテーブルに、見開きのまま置いてあった。本来なら、カレンダーが担うような役目を、我が家では、この手帖が果たしていた。
多感な時期もあった。言葉が減り、距離を感じる日もあった。それでも、自分で間に合わせてきた。その積み重ねが、いまにつながっている。
ページをめくれば、そこにある。
リネンのカバーが、十五年でくったりと手に馴染んだように。
