神崎真紀 乗務日誌ep.01「忘れもの」忘れたのは、荷物ではなかった。
忘れものに気づくのは、たいてい、その場所から離れたあとだ。
神崎真紀がそれに気づいたのは、ひかり苑で先ほどの客を降ろし、空車表示のまま駅へ戻る途中だった。
駅前ロータリーへ入る一つ手前の信号で車を停め、何気なくバックミラーを見ると、後部座席の足もとに、見覚えのない青い布が落ちていた。
ハンカチにしては厚みがある。二十センチ四方ほどの何かを、風呂敷のように包んでいるらしい。布の端から、銀色の缶の角がのぞいていた。
さっきの客だ。
七十歳くらいの女だった。白髪を短く切り、薄紫色のコートを着ていた。駅の東口から乗り、川向こうにある介護施設、ひかり苑まで行った。
「ひかり苑までお願いします」
乗り込んだとき、女はそう言った。
声は小さかったが、行き先ははっきりしていた。
荷物は黒いハンドバッグと、青い布包みだけだった。布包みは膝の上に置き、両手で大事そうに抱えていた。
それなのに、降りるときには持っていかなかった。
信号が青に変わった。
後続車が短くクラクションを鳴らす。
「はいはい」
聞こえないとわかっていながら答え、真紀は車を発進させた。
すぐに引き返すべきか迷った。
施設を出てから、まだ十分もたっていない。戻れば、女はまだひかり苑にいるかもしれない。
だが、駅前では客が待っている時間だった。朝の雨が上がったばかりで、タクシーを探す人も多い。
忘れものを見つけた場合は本社に連絡し、内容を確認して記録する。持ち主が特定できれば返却し、できなければ所定の手続きを取る。
規則は単純だ。
問題は、たいてい、その外側にある。
真紀はハンズフリーの通話ボタンを押した。
「五一七号車、忘れものです」
『了解。遺留品は何?』
配車係の森下の声がした。
「青い布で包まれた缶のようなものです。直前のお客様だと思います。ひかり苑で降車」
『中身は?』
「まだ確認していません」
『停車できる場所で確認して。問い合わせが入ったら連絡する』
「了解」
真紀は次の角を左に曲がり、コンビニの駐車場に車を入れた。
エンジンは切らず、後部ドアを開ける。
布包みは座席の下へ半分滑り込んでいた。
拾い上げると、見た目より軽い。青い布は古び、ところどころ色が抜けている。結び目をほどくと、クッキーの空き缶が出てきた。
蓋には、赤や黄色の花を抱えた外国の少女が描かれている。縁には細かな傷があり、角がわずかにへこんでいた。
真紀は一瞬ためらい、蓋を開けた。
中には写真と手紙が入っていた。
一番上に、白黒写真が一枚。
十代半ばほどの少女が二人、海辺に並んでいる。よく似た顔立ちで、姉妹だとわかる。
一人は水玉模様のワンピースを着て笑い、もう一人は少し横を向き、まぶしそうに目を細めていた。
二人の間には、白い帽子をかぶった小さな女の子が立っている。
写真の下には、紐で束ねられた便箋と、封のされていない白い封筒があった。
封筒の表に、青いインクで名前が書かれていた。
――千鶴子へ。
差出人の名前はない。
真紀はそれ以上見ず、蓋を閉めて青い布で包み直した。
運転席に戻ろうとしたとき、助手席に置いたバッグから、白い紙がのぞいているのに気づいた。
今朝、冷蔵庫に貼ってあったメモだった。
――お母さんへ
今日、帰ったら話したいことがあります。
忘れないでください。
陽菜
朝は時間がなかった。
目玉焼きを焼きながら読み、返事を書くつもりでバッグに入れた。そのまま営業所へ来て、今まで忘れていた。
真紀は紙を二つ折りにし、制服の胸ポケットにしまった。
「忘れてないよ」
誰もいない車内でつぶやく。
言ってから、今思い出したのなら、忘れていたのと同じだと思った。
無線が鳴った。
『本社から五一七号車、駅東口。二名様。お名前はさとう様』
「五一七号車、了解」
真紀はシートベルトを締め、車を発進させた。
*
昼を過ぎても、忘れものの持ち主から連絡はなかった。
真紀は三組の客を乗せた。
病院へ向かう老夫婦。傘を忘れたことに気づき、途中で家へ引き返した会社員。幼稚園児を連れた母親。
幼稚園児は、後部座席から何度も話しかけてきた。
「運転手さんは、ずっと車にいるの?」
「ずっとじゃないよ。ときどき降ります」
「おうちにも帰る?」
「帰ります」
「子どもいる?」
「女の子が一人」
「何歳?」
「十歳」
「じゃあ、お姉ちゃんだ」
母親が「運転手さん、お仕事中だから」とたしなめたが、真紀は笑った。
「うちでは、あんまりお姉ちゃんらしくないけどね」
「うちも同じです」
母親が言うと、子どもは頬をふくらませた。
降り際、子どもは真紀に手を振った。
「お姉ちゃんによろしくね」
「はい。伝えておきます」
ドアが閉まると、真紀は胸ポケットの紙に触れた。
話したいこと。
学校で何かあったのだろうか。
友達と喧嘩をした。先生に叱られた。係を押しつけられた。欲しいものがある。
思いつくのは、そんなことばかりだった。
陽菜が小さい頃は、何でも話した。
保育園で転んだこと。給食のニンジンを全部食べたこと。アリの行列を見つけたこと。友達に髪を褒められたこと。
最近は、真紀が何を尋ねても「別に」と答えることが増えた。
別に、の中に何が入っているのか。
真紀にはわからない。
わからないから、聞かない日もあった。
子どもにも、話したくないことくらいある。
そう考えることにしていた。
それが陽菜への気遣いなのか、自分への言い訳なのかは、考えないようにしていた。
午後一時四十分、無線が入った。
『本社から、五一七号車どうぞ』
「五一七号車です。どうぞ」
『朝の忘れもの、持ち主が判明した。まだ、ひかり苑にいるそうだ。受付で預かると言っている。近くなら届けてくれ』
「今、中央通りです。十五分ほどで着きます」
『頼む』
「了解」
真紀はウインカーを出した。
道の先には、朝の雨雲が残っていた。空は明るくなっているのに、川の上だけが灰色に曇っている。
*
ひかり苑は、川沿いに建つ三階建ての施設だった。
白い壁の前に、小さな花壇がある。雨に濡れたパンジーが、冷たい風に揺れていた。
真紀が玄関前に車を停めると、朝の女がベンチから立ち上がった。
薄紫色のコートに、黒い傘。
真紀は青い布包みを持って車を降りた。
「こちらですね」
「すみません」
女は両手で受け取った。
そのまま胸に抱えるのかと思ったが、女は包みを見下ろし、困ったように笑った。
「見つからなければいいと、少し思っていたんです」
真紀は女の顔を見た。
「では、わざと車に置いていかれたんですか」
「いいえ。降りたときには、本当に忘れていました。でも、忘れたと気づいたとき、ほっとしたんです」
女はベンチに腰を下ろした。
真紀は車に戻るべきだった。
忘れものは返した。業務としては、それで終わりだ。ここから先は乗客の事情であって、運転手が立ち入ることではない。
それでも女は、隣に誰かが座るのを待っているように見えた。
真紀は腕時計を確認した。
――少しだけなら
ベンチの端に腰を下ろす。
川から吹く風には、雨上がりの匂いが残っていた。
女は青い布の結び目をほどいた。
「妹に会いに来たんです」
「妹さんが、こちらに?」
「ええ。千鶴子といいます」
封筒に書かれていた名前だった。
「十八年、会っていません」
女は缶の蓋を撫でながら言った。
「母が亡くなったあと、実家をどうするかで揉めました。妹は残したいと言って、私は売るしかないと言った。どちらにも事情がありました。でも、話しているうちに、昔のことまで出てきてしまって」
昔の喧嘩というのは、不思議なものだ。
始まりは小さい。
相手が忘れているような一言だったり、貸したまま返ってこなかった物だったり、自分だけが我慢したと思っている出来事だったりする。
一つ口にすると、その下から別の一つが出てくる。
全部出し終わる頃には、最初に何を怒っていたのかわからなくなっている。
「最後に妹が、もう姉さんとは会わないと言いました。私も、好きにすればいいと言いました」
女は花壇を見つめた。
「本当は、追いかければよかったんでしょうね」
「そのときは、できなかったんですね」
「できませんでした。腹が立っていましたから」
女は少し笑った。
「人は腹を立てているとき、自分が正しいことにしたがります。自分が正しいなら、謝らなくていいでしょう」
真紀は黙っていた。
思い当たることがないわけではなかった。
陽菜を叱るとき、真紀はよく、自分は間違ったことを言っていないと思う。
宿題をしなさい。早く寝なさい。脱いだ服を片づけなさい。
たしかに、間違ってはいない。
けれど、正しいことを言ったあと、陽菜がどんな顔をしていたか覚えていない日があった。
「先月、妹がここにいると連絡をもらいました」
女が続けた。
「認知症が進んで、昔のことをよく話すそうです。姉がいる。姉と海に行った。姉が写真を撮った、と」
女は缶の蓋を開け、一番上の白黒写真を取り出した。
「笑っているのが妹です。隣が私。真ん中は従妹の子です。五十年以上前の写真です」
「仲がよさそうですね」
「この頃はね」
女は写真の中の妹を、指でそっと撫でた。
「妹は、私を覚えていないかもしれません。覚えていたとしても、嫌いな姉のままかもしれない」
缶の中へ視線を落とす。
「何度も手紙を書きました。書くたびに、言い訳ばかり長くなりました。自分にも事情があった。あのときは仕方がなかった。あなたにも悪いところがあった。そんなことばかりです」
「今日の手紙は違うんですか」
「今日のは、三行だけです」
女は封筒を取り出した。
封はされていない。
「ごめんなさい。会いたかった。できれば、もう一度、姉さんと呼んでください」
女はゆっくり読み上げ、封筒に戻した。
「ずいぶん時間がかかりました」
短い言葉だった。
短いからこそ、その三行を書くまでにかかった十八年が見えるような気がした。
玄関の自動ドアが開き、職員らしい若い男が顔を出した。
「藤森さん、面会の準備ができました」
女――藤森は、はい、と答えた。
だが、すぐには立ち上がらなかった。
膝の上で缶を抱え直す。
「覚えていない人に謝ることに、意味はあるんでしょうか」
真紀に尋ねたのか、自分に尋ねたのかわからなかった。
真紀は答えを持っていなかった。
長く会っていない姉妹のことも、認知症の人の心も、真紀にはわからない。
ただ、青い包みが後部座席に残されていたときのことを思った。
持ち主が見つからなければ、写真も手紙も番号をつけられ、一定期間保管される。
誰にも渡らないまま、時間だけが過ぎていく。
そのほうが、藤森には楽だったのかもしれない。
それでも彼女は、問い合わせの電話をかけた。
「意味があるかどうかは、藤森さんが決めることではないと思います」
真紀は言った。
藤森が顔を上げる。
「どういうことですか」
「謝るかどうかは藤森さんが決めることで、受け取るかどうかは妹さんが決めることです」
少し冷たい言い方になったかもしれない。
「渡さなければ、妹さんは決めることもできません」
藤森は真紀の顔を見た。
それから、ほんの少し笑った。
「運転手さんは、厳しい方ですね」
「娘にも言われます」
「娘さんがいるんですか」
「小学四年生です」
「何でも話してくれます?」
真紀は答えに詰まった。
「最近は、あまり」
「それなら、今のうちですね」
藤森は立ち上がった。
青い布包みを胸に抱える。
「忘れたものを取りに戻るのは、時間がたつほど大変になりますから」
職員が自動ドアを押さえて待っている。
藤森は一歩進み、振り返った。
「届けてくださって、ありがとうございました」
「仕事ですから」
「それでも」
藤森は頭を下げ、施設の中へ入っていった。
自動ドアの向こうで職員と言葉を交わしている。
やがて二人の姿は廊下の奥へ消え、青い布包みも見えなくなった。
真紀は車に戻った。
運転席に座り、業務用端末に忘れものの処理を入力する。
品名。
――缶入り写真、手紙。
発見場所。
――後部座席足もと。
処理。
――本人確認のうえ返却。
備考欄には、何も書かなかった。
十八年間会っていなかった姉妹。
三行の手紙。
忘れたと気づいたとき、ほっとしたという持ち主。
そんなものを記入する欄は、端末のどこにもなかった。
*
午後七時を過ぎて営業所へ戻ると、森下がカウンターの向こうから顔を上げた。
「忘れもの、無事に返せた?」
「はい」
「中身、手紙だったんだって?」
「写真と手紙です」
「まあ、金じゃなくてよかったな。現金とかスマホだと、届けるほうも神経使うからさ」
「そうですね」
真紀は日報を送信した。
本日の乗車回数、二十八回。
走行距離、百七十六キロ。
忘れもの、一件。
返却済み。
数字にすると、今日一日はそれだけだった。
更衣室で制服の上着を脱いだとき、胸ポケットから折りたたんだ紙が落ちた。
――今日、帰ったら話したいことがあります。
忘れないでください。
真紀は時計を見た。
陽菜が寝るまで、あと一時間半。
真紀はいつもより急いで着替えた。
*
家に帰ると、リビングの灯りがついていた。
陽菜は食卓で宿題をしていた。ランドセルが床に置かれ、ノートと教科書がテーブルいっぱいに広がっている。
「ただいま」
「おかえり」
「カレー、食べた?」
「食べた」
「お風呂は?」
「入った」
会話が途切れた。
陽菜は漢字ドリルに目を落としたまま、鉛筆を動かしている。
真紀はバッグを椅子に置き、制服の胸ポケットから朝のメモを取り出した。
「朝のメモ、読んだよ」
鉛筆が止まった。
「いつ?」
「朝」
「ちゃんと覚えてた?」
「昼前に思い出した」
陽菜が顔を上げる。
「じゃあ、忘れてたんじゃん」
「うん。忘れてた」
言い訳をしようと思えば、いくらでもできた。
朝は忙しかった。仕事が始まれば、道路と無線と乗客に気を配らなければならない。
けれど、そんなことを言われても、陽菜には関係がない。
「ごめん」
真紀は椅子を引き、陽菜の向かいに座った。
陽菜はまた漢字ドリルに目を落とした。
「もういい」
「よくない」
少し強く言いすぎた。
陽菜の眉がわずかに動く。
真紀は声を落とした。
「お母さんが聞きたい。話したかったこと、何?」
陽菜は答えなかった。
消しゴムを指で押し、テーブルの上を少しずつ滑らせている。
「大したことじゃないから」
「大したことじゃなくてもいい」
「仕事で疲れてるでしょ」
「疲れてるけど、聞ける」
「すぐ寝るって言うじゃん」
真紀は黙った。
たしかに、そう言った夜があった。
続きは明日聞くから。
今度ゆっくり聞くから。
そう言ったまま、その続きを尋ねなかったこともある。
「今日は言わない」
真紀は言った。
「何を?」
「すぐ寝るって」
陽菜はしばらく真紀の顔を見ていた。
やがてランドセルを引き寄せ、中から折れ曲がったプリントを出した。
「授業参観」
真紀は紙を受け取った。
来月の第二金曜日。
五時間目、午後一時四十分から。
「来てほしい」
陽菜はプリントを見たまま言った。
その一言を口にするだけで、ずいぶん時間がかかったようだった。
「うん」
「前も来られなかったじゃん」
「前は、勤務を替われなかったから」
「陽菜、来なくていいって言った」
「そうだったね」
「でも、本当は来てほしかった」
「うん」
「みんな、お母さんとかお父さんとか来てた」
真紀はプリントの日付をもう一度確認した。
「明日、営業所で相談する」
「休めるの?」
「まだわからない」
「また来られなかったら?」
絶対に行くとは言えなかった。
タクシーの仕事には、予定どおりにいかないことがある。道路が混む。車が故障する。急に休む乗務員が出ることもある。
約束して、それを破るほうが陽菜を傷つけるかもしれない。
けれど、それを理由に何も言わなければ、陽菜はまた一人で諦める。
「行けるように頼んでみる」
真紀は言った。
「それでも無理だったら、わかった時点ですぐに話す。前の日まで黙っていたりしない」
「忘れない?」
「忘れない」
「絶対?」
真紀は少し考えた。
「行けるかどうかは、絶対とは言えない」
陽菜の顔が曇る。
「でも、忘れないことは約束する」
真紀は立ち上がり、冷蔵庫からマグネットを取った。
プリントを扉の中央に貼り、その隣に勤務表を並べる。
「ここに貼ったから?」
陽菜が聞いた。
「貼っただけじゃ忘れるかもしれない」
「じゃあ、だめじゃん」
「だから、明日の朝、陽菜からも言って」
「自分で覚えてよ」
「覚える。でも、陽菜も言って」
「どうして?」
「二人の予定だから」
陽菜は少し考え、ようやくうなずいた。
「五時間目、何をするの?」
真紀が尋ねると、陽菜はランドセルから別のノートを取り出した。
「総合の発表」
「何を発表するの?」
「家の人の仕事」
真紀は思わず陽菜を見た。
「お母さんのこと?」
「うん」
「何て書いたの?」
「まだ途中」
陽菜はノートを胸元に引き寄せた。
「見せて」
「だめ」
「どうして?」
「授業参観で発表するから」
「来なかったら聞けないね」
陽菜は真紀を見た。
「だから来てほしいって言ったの」
真紀は返す言葉がなかった。
陽菜はノートの表紙を指でなぞっている。
「少しだけ教えて」
「少しだけ?」
「うん」
陽菜は迷ったあと、ノートを開いた。
ページの上に、大きな字で題名が書かれている。
――町を走るお母さん。
「町を走る?」
「タクシーだから」
「そのままだね」
「まだ続きがある」
「どんな?」
「いろんな人を乗せる仕事」
「うん」
「道を知ってる仕事」
「全部は知らないよ。ナビも使うし」
「そういうこと言わないで」
陽菜がノートを閉じかける。
「ごめん。続けて」
陽菜は真紀を見た。
本当に聞くつもりがあるのか、確かめているような目だった。
「あと、話を聞く仕事」
真紀は動きを止めた。
「話を?」
「お客さん、いろんな話するんでしょ」
「する人もいる」
「お母さんは聞くんでしょ」
「うん」
「運転しながら?」
「前を見ながらね」
陽菜はノートに目を戻した。
「だから、話を聞く仕事って書いた」
真紀は、青い布包みを抱えていた藤森の姿を思い出した。
三行の手紙。
十八年間、言えなかった言葉。
意味があるのかと尋ねた声。
「変かな」
陽菜が聞いた。
「変じゃない」
「本当に?」
「うん。よく見てるね」
「でも、お母さん、家ではあんまり聞かないよね」
真紀は息を止めた。
陽菜は責めるようには言わなかった。
鉛筆を持ち直し、ノートの続きを書き始めている。
真紀は、その小さな横顔を見た。
正しい答えを探すのはやめた。
「そうだね」
それだけを言った。
「仕事では聞けるのにね」
陽菜が言う。
「仕事だと、お客さんが降りるまでだから」
「家だと?」
「明日も会えると思ってる」
「それで忘れるの?」
「たぶん」
陽菜は鉛筆を止めた。
「明日も会えるけど、今日の話は今日しかできないこともあるよ」
真紀はうなずいた。
「うん」
陽菜はノートに一行を書き足した。
真紀の席からは、何と書いたのか見えない。
「何て書いたの?」
「まだだめ」
「参観日まで?」
「うん」
「じゃあ、行かないと」
「うん」
陽菜は少し笑った。
真紀は麦茶を二人分注ぎ、片方を陽菜のそばに置いた。
窓の外を、一台の車が走っていった。
ヘッドライトの光がカーテンを横切り、冷蔵庫に貼られたメモと授業参観のプリントを、一瞬だけ白く浮かび上がらせる。
光はすぐに通り過ぎた。
「お母さん」
「なに?」
「もう一個、話していい?」
真紀はコップを置いた。
「うん」
今度はすぐに言葉を返さず、陽菜が話し始めるのを待った。
ep.01 End
