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『神崎真紀 乗務日誌』ep.02「授業参観」間に合ったのは、授業だけじゃない。


授業参観のプリントは、冷蔵庫の真ん中に貼られていた。

右隣には真紀の勤務表。左隣には、陽菜が給食袋を忘れないように書いたメモ。

第二金曜日。

五時間目、午後一時四十分から。

日付の周りを、陽菜が赤鉛筆で四角く囲んでいる。

その朝、真紀が目玉焼きを皿に移していると、食卓に座った陽菜が冷蔵庫を見た。

「今日だよ」

「うん」

「一時四十分」

「わかってる」

「五時間目」

「それも書いてある」

陽菜は黙って牛乳を飲んだ。

真紀はフライパンを流しに置き、トーストを二枚、テーブルへ運んだ。

「総合の発表だったね」

「うん」

「町を走るお母さん」

「題名、言わないで」

「どうして」

「恥ずかしいから」

「自分でつけたんでしょう」

「そうだけど」

陽菜はトーストの角を小さくちぎった。

「今日、来るよね?」

真紀は椅子を引いた。

「行けるようにしてもらってる」

「来るよね、って聞いたんだけど」

「うん」

陽菜は顔を上げた。

真紀も陽菜を見る。

「行く」

そう言うと、陽菜はトーストをかじった。

「制服?」

「着替える時間があればね」

「別に、そのままでいいよ」

「目立つよ」

「警察じゃないんだから」

「警察の制服に見えるって、よく言われるけどね」

「帽子は取ってよ」

「それは取る」

陽菜は少し笑った。

真紀は時計を見た。

「急がないと遅れるよ」

「お母さんもね」

「はいはい」

陽菜はランドセルを背負い、玄関へ向かった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

ドアが閉まりかけたところで、陽菜がもう一度顔を出した。

「一時四十分だからね」

「聞こえた」

「忘れないでね」

「忘れない」

今度こそドアが閉まった。

真紀は食卓に残された牛乳のコップを見た。

半分ほど残っている。

それを流しへ運び、冷蔵庫のプリントをもう一度見た。

赤い四角の右下には、小さな字で書き足されていた。

――お母さんに言う。

真紀は指でその文字をなぞり、家を出た。

営業所へ着くと、森下が配車室の窓を開けたまま、電話を二本続けて取っていた。

「はい、承知しました。玄関の奥まで入ります。はい。いつもの場所ですね」

受話器を置くと、今度は別の電話が鳴る。

「おはようございます。はい、ただいま確認します」

真紀は窓越しに会釈し、そのまま点呼場へ向かった。

アルコールチェックを済ませ、免許証を読み取り機に通す。車両の鍵と日報を受け取り、駐車場へ出た。

朝の空気には、昨夜の雨の匂いが残っていた。

五一七号車の周囲を一周する。

タイヤ。

ランプ。

車体の傷。

後部座席。

足もと。

忘れものはない。

運転席に座り、エンジンをかける。

メーターと無線、業務用端末を確認していると、助手席に置いたスマートフォンが震えた。

森下からだった。

「はい、神崎です」

『今、車か』

「はい」

『今日、何時だった』

「一時四十分です」

『一時には空車にして戻ってこい。休憩を前に回す』

「学校まで二十分くらいです」

『だったら十二時五十分。遅くてもな』

「ありがとうございます」

『一時過ぎの配車は外す。終わったら連絡だけくれ』

「わかりました」

電話の向こうで誰かが森下を呼んだ。

『じゃあ、気をつけて』

「はい」

通話が切れた。

真紀はスマートフォンの画面を消し、胸ポケットへ入れた。

午前八時十二分。

学校へ向かうまで、四時間半ほどある。

エンジンの振動が、座席から背中へ伝わってくる。

今日は行ける。

真紀は空車表示を出し、車を発進させた。

最初の客は、駅から市役所までだった。

二人目は、住宅街から総合病院。

三人目は、スーパーから古い団地。

午前中の道路は、雨上がりのせいか混んでいた。水たまりを避けながら走る自転車が車道へ膨らみ、交差点では配送車が何台も止まっている。

それでも時間は予定どおり進んでいた。

十一時を過ぎた頃、真紀は駅前の乗り場で三台目に並んでいた。

前の車が一台出る。

もう一台出る。

真紀の番になった。

買い物袋を下げた女が近づいてきたが、直前でスマートフォンを見て立ち止まり、そのまま別の方向へ歩いていった。

後ろに客はいない。

真紀は時計を見た。

十一時二十八分。

もう一本、二本は走れる。

業務用端末が鳴った。

配車表示に住所と名前が出る。

――立花様。

真紀は画面を見たまま、しばらく指を動かさなかった。

無線が入る。

『五一七号車、応答願います』

「五一七号車です」

『立花様。いつものご自宅から中央病院』

「了解しました」

返事をすると、無線の向こうが一瞬静かになった。

『神崎』

森下の声だった。

「はい」

『悪い』

「まだ時間ありますから」

『受付まででいい。帰りは別で取る』

「わかりました」

『十二時五十分までには戻れ』

「了解」

真紀は空車表示のまま駅前を離れた。

立花澄江の家は、営業所から車で十五分ほどの場所にある。

古い住宅街の一番奥。道は狭く、対向車が来ればどちらかが私道へ避けなければならない。

門の前ではなく、庭の奥まで車を入れる。

初めて行った乗務員は、たいてい門の外で待つ。

しばらくすると営業所から電話が入り、もう一度車を動かすことになる。

真紀が庭へ入ると、玄関の引き戸が少し開いていた。

メーターを迎車に切り替え、車を降りる。

「立花さん、おはようございます。神崎です」

声をかけると、家の中から返事がした。

「真紀ちゃん? 入って」

真紀は玄関まで歩いた。

立花は椅子に腰かけ、薄いベージュのコートを膝に置いていた。

八十をいくつか越えているはずだが、年齢を尋ねたことはない。白い髪はきれいに整えられ、口元には薄く紅が引かれている。

足もとには黒いバッグと、紙袋が一つあった。

「お待たせしました」

「大丈夫ですよ」

「今日は病院」

「はい。中央病院ですね」

「その前に、これ」

立花は小さなネックレスを差し出した。

「留め金が見えなくて」

「つけましょうか」

「お願い」

真紀は立花の後ろへ回った。

細い鎖の先に、小さな真珠が一つついている。

留め金をつまみ、首の後ろで合わせる。

「きつくないですか」

「大丈夫」

「入りました」

立花は胸元の真珠に触れた。

「これね、昔、主人にもらったの」

「似合ってますよ」

「そう?」

「はい」

「主人は何も言わなかったけどね。買って渡したら終わり。男の人って、そんなものね」

真紀は返事をせず、コートを広げた。

立花が片方ずつ腕を通す。

肩の位置を整え、襟を返す。

「今日は寒い?」

「風があります」

「じゃあ、これでいいね」

「バッグ、持ちます」

「紙袋も」

「はい」

真紀は荷物を持ち、立花の左側に立った。

玄関の段差を一段ずつ下りる。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

「真紀ちゃんのゆっくりは、私には速いの」

「じゃあ、もっとゆっくりにします」

「口だけでしょう」

「今日は本当にゆっくりです」

「いつも言うね」

立花が笑った。

庭を横切り、後部座席まで歩く。

真紀がドアを開けると、立花は車の屋根に片手を置いた。

右足を入れる。

腰を下ろす。

左足を持ち上げる。

最後にコートの裾を車内へ入れ、真紀がシートベルトを渡した。

「苦しくないですか」

「大丈夫」

「出発しますね」

「お願いします」

真紀は紙袋を助手席の足もとに置き、黒いバッグは立花の隣へ置いた。

運転席に戻って時計を見る。

十一時四十六分。

中央病院までは、混んでいなければ十五分ほど。

受付まで送っても、十二時十五分には出られる。

「今日は診察だけですか」

「血液検査もあるって」

「朝ごはん、食べてないんですか」

「食べた」

「大丈夫なんですか」

「食べていい検査」

「ならよかったです」

「食べないと薬が飲めないから」

車を発進させる。

住宅街を抜け、片側二車線の通りへ出た。

立花は窓の外を眺めていたが、信号を二つ過ぎたところでバッグを開けた。

「真紀ちゃん」

「はい」

「今日、何か急いでる?」

真紀はバックミラーを見た。

「どうしてですか」

「森下さんが、受付まででいいか?って言ったから」

「午後に用事があるんです」

「何の用事?」

「娘の授業参観です」

「あら」

立花はバッグを探る手を止めた。

「陽菜ちゃん、何年生になった?」

「四年生です」

「もう四年生」

「早いですよね」

「ついこの前、一年生だったでしょう」

「私もそう思います」

「何時から?」

「一時四十分です」

立花は腕時計を見た。

「間に合うの?」

「大丈夫です」

「本当?」

「はい」

「私、受付まで一人で行けるよ」

「転んだら困ります」

「転ばない」

「この前もそう言ってました」

「あれは床が滑ったの」

「今日は雨上がりです」

「じゃあ、腕だけ貸して」

「いつもどおりです」

立花は口をつぐみ、またバッグの中を探した。

診察券入れ。

財布。

小さな化粧ポーチ。

眼鏡ケース。

一つずつ膝の上へ出していく。

「ない」

「何がですか」

「保険証」

真紀は前方を見たまま尋ねた。

「別のところに入れてませんか」

「いつも診察券と一緒なの」

「財布の中は?」

「ない」

「コートのポケットは」

立花が左右のポケットへ手を入れる。

「ない」

信号が赤に変わった。

真紀はゆっくりブレーキを踏む。

「家に置いてきたかもしれない」

「どこに置きました?」

「玄関の棚の上。昨日、封筒から出して……たぶん」

時計は十一時五十五分を指していた。

病院までは、あと五分。

家へ戻れば十五分。

そこから病院へ、さらに十五分。

真紀はウインカーを出した。

「取りに戻りましょう」

「でも、参観」

「まだ間に合います」

「病院で言えば、今日はなくてもいいんじゃない?」

「確認してみますか」

真紀は路肩へ寄せ、ハンズフリーで病院へ電話をかけた。

代表から外来受付へ回される。

立花の名前と予約時間を伝えると、受付の女性は少し待ってから答えた。

『確認が必要ですので、できればお持ちください』

「わかりました。少し遅れます」

『先生には伝えておきます』

「ありがとうございます」

通話を切る。

「戻りますね」

「悪いねえ」

「忘れものは誰でもします」

「真紀ちゃんも?」

「しますよ」

「何を忘れるの」

「買い物に行って、買うものを忘れます」

「それは私も」

「お互いさまです」

立花は膝の上の物をバッグへ戻した。

車は来た道を引き返した。

真紀は時計を見なかった。

見ると急いでしまいそうだった。

住宅街へ入り、対向車を一台やり過ごす。

立花の家へ着いたのは十二時十分だった。

「私が取ってきます。棚の上ですね」

「白い封筒に入ってる」

「わかりました」

真紀は車を降り、玄関へ向かった。

引き戸は鍵がかかっていなかった。

棚の上に白い封筒がある。

中を見ると、保険証が一枚入っていた。

「ありました」

車へ戻って見せると、立花は胸を撫で下ろした。

「よかった」

「今度こそ大丈夫ですね」

「診察券もある。保険証もある。財布もある」

「はい」

「真紀ちゃんもいる」

「私は忘れて帰らないでください」

「それは大丈夫」

立花は笑った。

十二時十二分。

病院へ向け、もう一度車を走らせる。

大通りへ出る直前、前方を工事車両が塞いでいた。

作業員が赤い旗を振り、片側ずつ車を通している。

真紀は列の最後に停まった。

「混んでるね」

「すぐ動きます」

立花は腕時計を見た。

「間に合わなくなるんじゃない?」

「まだ大丈夫です」

「さっきから、そればっかり」

「大丈夫なうちは、大丈夫って言います」

「大丈夫じゃなくなったら?」

「そのとき考えます」

「昔からそうね、真紀ちゃんは」

「昔からですか」

「最初に来た頃から」

前の車が動き始めた。

真紀もゆっくり続く。

「最初は、あんまり笑わなかった」

「緊張してたんです」

「今はよく笑う」

「年を取りましたから」

「まだ若い」

「立花さんから見れば、みんな若いでしょう」

「失礼ね」

立花はそう言いながら笑った。

工事区間を抜け、車は病院へ向かった。

中央病院の玄関前には、送迎車が三台並んでいた。

真紀は係員の誘導に従い、屋根のある場所へ車を寄せた。

時計は十二時三十三分。

「着きました」

後部ドアを開け、立花の足もとを確認する。

立花がゆっくり車を降りる。

「バッグは私が持ちます」

「紙袋は?」

「それも」

「紙袋は別のところへ持っていくものだから、混ぜないでね」

「わかりました」

真紀は右手にバッグ、左手に紙袋を持ち、立花の歩調に合わせた。

自動ドアを抜ける。

床には雨で濡れた靴跡が残っていた。

「滑りますから、気をつけて」

「わかってます」

「私の腕につかまってください」

「それじゃ、真紀ちゃんが荷物を持てないでしょう」

「持てます」

「力持ちね」

「仕事ですから」

受付まで十数メートル。

立花は途中で一度立ち止まり、呼吸を整えた。

真紀も止まる。

先に行く人たちが、二人を避けて通り過ぎていく。

「急がなくていいですよ」

「あなたが急いでるでしょう」

「今は立花さんの時間です」

「上手なこと言って」

「本当です」

再び歩き出す。

受付の女性が立花に気づき、椅子を一つ寄せてくれた。

「立花さん、お待ちしていました」

「遅くなってすみません」

「大丈夫ですよ。保険証をお預かりします」

立花はバッグを開けた。

診察券入れを出す。

財布を出す。

眼鏡ケースを出す。

手が止まった。

「あら」

真紀は立花の顔を見た。

「どうしました?」

「診察券」

「さっき、あるって」

「あったのよ。あったはずなの」

バッグの中をもう一度探る。

小さなポケットも開ける。

コートの左右のポケットを確認する。

「家に置いてきたのかしら」

真紀は何も言わず、受付の女性を見た。

女性は端末を操作しながら笑った。

「お名前と生年月日で確認できますから、大丈夫ですよ」

「診察券がなくても?」

「はい。再発行もできますけど、今日はこのまま受診できます」

「そうなの」

立花は力が抜けたように椅子へ座った。

「よかったですね」

真紀が言うと、立花は眉を上げた。

「真紀ちゃん、笑ったでしょう」

「笑ってません」

「笑ってた」

「安心したんです」

「同じことよ」

受付の女性も口元を押さえていた。

立花は生年月日を答え、保険証を渡した。

受付票が出る。

「採血室へ先にお願いします」

「わかりました」

真紀は立花のバッグを肩にかけ直した。

「採血室まで行きましょう」

「ここでいいよ」

「場所、わかりますか」

「前に行った」

「何階ですか」

立花は天井を見上げた。

「……一階?」

「二階です」

「じゃあ、途中まで」

「受付まで行きます」

「参観は?」

「間に合わせます」

真紀は近くにあった車椅子へ手を伸ばした。

立花が首を横に振る。

「それは嫌」

「歩きますか」

「歩く」

「では、ゆっくり行きましょう」

「真紀ちゃんのゆっくりでね」

「今日は本当にゆっくりです」

二人はエレベーターへ向かった。

立花の足は、玄関から受付まで歩いたときより小さく動いていた。

真紀は歩幅を合わせる。

エレベーターの前には五人ほど待っている。

上の階から一基が降りてくる表示を見ながら、立花が小さな声で言った。

「悪かったね」

「何がですか」

「今日に限って、いろいろ忘れて」

「今日に限らないでしょう」

「それ、どういう意味」

「この前は杖を忘れました」

「あれは、帰りに忘れたの」

「美容室には眼鏡を忘れました」

「すぐ取りに戻ったでしょう」

「カラオケには傘」

「雨がやんでたから」

「今日は保険証と診察券」

「診察券は、まだ家にあると決まったわけじゃない」

「では、帰ってから探してください」

「真紀ちゃんは、よく覚えてるね」

「仕事ですから」

エレベーターが着いた。

人が降りるのを待ち、立花と一緒に乗り込む。

二階で降り、採血室の受付まで歩いた。

番号札を取り、立花を椅子へ座らせる。

「ここなら大丈夫ですね」

「うん」

「終わったら、帰りの車を営業所へ頼んでください」

「真紀ちゃんじゃないの?」

「今日は別の運転手が来ます」

「私、待つよ」

「今日は待たないでください」

「でも」

「娘が待ってますから」

立花は真紀を見た。

少しして、うなずいた。

「そうね」

真紀はバッグを立花の隣へ置いた。

「紙袋は?」

「これは一階の売店?」

「違う。看護師さんに渡すの」

「では、ここに置いておきます」

「中にお菓子が入ってる」

「わかりました」

「真紀ちゃん」

「はい」

「こっちの小さいほうは、陽菜ちゃんに」

立花が紙袋の中から、細長い箱を取り出した。包装紙には洋菓子店の名前が入っている。

「またですか」

「この前、クッキーが好きだって言ってたでしょう」

「覚えてたんですか」

「私は何でも忘れるわけじゃないの」

「ありがとうございます」

「授業参観が終わってから渡して」

「どうしてですか」

「先に渡すと、それで来たと思われるでしょう」

「誰にですか」

「陽菜ちゃんに」

真紀は箱を受け取った。

「そんなこと思いませんよ」

「子どもはよく見てるから」

立花は自分のネックレスに触れた。

「行ってあげて」

「はい」

「帽子は取ったほうがいいね」

真紀は笑った。

「陽菜にも言われました」

「でしょう」

 採血室の表示板に、立花の番号が出た。

「呼ばれましたよ」

「聞こえてます」

 立花は椅子から立ち上がった。

 真紀が手を差し出す。

 立花はその腕を借りて立ち、採血室の入口まで歩いた。

「では、失礼します」

「気をつけてね」

「立花さんも」

「真紀ちゃん」

入口をくぐる前に、立花が振り返った。

「間に合わなかったら、私のせいにしていいよ」

「しません」

「どうして」

「立花さんのせいじゃありませんから」

立花は何か言おうとしたが、看護師に名前を呼ばれ、そのまま中へ入った。

扉が閉まる。

真紀は腕時計を見た。

十二時五十二分。

「まずいな」

小さく言い、エレベーターへ向かった。

病院の玄関を出たところで、スマートフォンが鳴った。

森下だった。

「はい」

『今どこ』

「中央病院です。今、出ました」

『何があった』

「保険証を取りに戻りました」

『……そうか』

「診察券もありませんでした」

『また戻ったのか』

「それは名前と生年月日で大丈夫でした」

森下はしばらく黙った。

『学校、間に合うか』

「一時四十分ですよね」

『俺に聞くな』

「二十五分あれば」

『あるのか』

真紀は腕時計を見る。

十二時五十五分。

「あります」

『車はどうする』

「営業所へ戻すと遅くなるので、学校の近くに停めます。休憩は端末で入れます」

『わかった。終わったら連絡』

「はい」

『神崎』

「何ですか」

『違反だけはするなよ』

「わかってます」

『制服のまま行け』

「そのつもりです」

『じゃあ、急げ』

通話が切れた。

急げと言ったあとで違反をするなと言う。

森下らしいと真紀は思った。

車へ戻り、洋菓子の箱を助手席へ置く。

業務用端末で休憩開始を入力した。

時刻は十二時五十七分。

学校まで、ナビの表示では二十三分。

真紀はシートベルトを締めた。

エンジンをかけ、病院を出る。

昼休み前の道路は、思ったより流れていた。

信号に引っかかるたび、真紀は時計を見ないようにした。

前の車との距離を保ち、制限速度を守る。

急いでいるときほど、赤信号は長く感じる。

右折待ちの車は動かない。

横断歩道を渡る人は途切れない。

車線変更をすれば、変えた先が詰まる。

真紀は何度かハンドルを握り直した。

携帯電話が胸ポケットで震えた。

赤信号で停車してから画面を見る。

陽菜からではない。

小学校からでもない。

森下でもない。

立花からの着信だった。

真紀はハンズフリーで応答した。

「はい、神崎です」

『真紀ちゃん?』

「どうしました」

『診察券、コートの内ポケットにあった』

「ありましたか」

『あった。受付の人に笑われた』

「よかったですね」

『笑ってるでしょう』

「笑ってません」

『それだけ言いたかったの』

「わざわざありがとうございます」

『今どこ?』

「学校へ向かってます」

『間に合いそう?』

信号が青に変わった。

「たぶん」

『たぶんじゃ困るね』

「立花さんが言いますか」

『私のせいにしていいって言ったでしょう』

「しませんよ」

『じゃあ、陽菜ちゃんによろしく』

「はい」

『お菓子も忘れないで』

「助手席にあります」

『ならいい』

電話が切れた。

真紀は少し笑い、車を進めた。

学校へ近づくにつれ、道には自転車が増えた。

保護者らしい人たちが、同じ方向へ歩いている。

手提げ袋を持った母親。

仕事着のままの父親。

祖母らしい女性。

真紀は追い越すたび、時計を見たくなった。

学校の正門が見えたのは、一時二十八分だった。

来校者用の駐車場は満車の表示が出ている。

警備員が手で大きく丸を描き、先へ進むよう促した。

真紀は窓を開けた。

「授業参観なんですけど、どこか停められますか」

「体育館側もいっぱいです。保護者の方は、近くの臨時駐車場へお願いします」

「どのあたりですか」

「次の交差点を右に曲がって、二つ目の角です」

「ありがとうございます」

窓を閉め、車を進める。

一時三十分。

臨時駐車場にも、入口で数台が待っていた。

前の車がゆっくり進む。

係員が一台ずつ場所を指示している。

真紀の番になる。

「タクシーですけど、停めても大丈夫ですか」

「休憩中ですか」

「はい」

「一番奥へお願いします」

砂利の上を進み、白線の代わりに張られたロープの間へ車を入れる。

エンジンを切った。

一時三十三分。

真紀は帽子を取り、助手席へ置いた。

ミラーを見る。

制服の襟を直す。

髪を手で整える。

立花にもらった洋菓子の箱を持つか迷い、車内に置いた。

学校へ走り出しかけて、止まる。

制服のスカートでは走りにくい。

それでも早足で正門へ向かった。

校門をくぐると、校舎の窓から子どもたちの声が聞こえた。

玄関前で来校者名簿に名前を書く。

「四年二組です」

受付の職員が名札を差し出した。

「教室は二階、東側です」

「ありがとうございます」

上履きは持ってきていない。

来客用のスリッパへ履き替える。

一時三十六分。

廊下を急ぐと、スリッパが何度も脱げそうになった。

階段を上がる。

胸の奥で心臓が大きく動いている。

二階の廊下には、教室の後ろからあふれた保護者が並んでいた。

四年一組。

その先が四年二組。

教室の前方から、子どもの声が聞こえる。

「わたしのお父さんの仕事は――」

発表はすでに始まっていた。

真紀は腕時計を見た。

一時三十九分。

教室の後ろへ近づく。

開いた扉のそばに、陽菜の担任が立っていた。

真紀に気づき、小さく会釈する。

真紀も頭を下げた。

教室の中では、一人の男の子が前に立ち、大きな画用紙を見せていた。

席に座る子どもたちの後頭部が並んでいる。

陽菜は三列目の窓側にいた。

こちらを見ていない。

真紀は教室の一番後ろへ入り、保護者の間に立った。

隣の母親が、制服姿の真紀をちらりと見る。

真紀は帽子を持っていないことを、もう一度確かめた。

車内の匂いが制服に残っていた。

シートの布。

消毒液。

芳香剤。

雨に濡れた傘。

何人もの客が一日を持ち込む、営業車の匂い。

チャイムが鳴った。

午後一時四十分。

担任が教室の前へ立つ。

「それでは、次の発表です。神崎さん、お願いします」

陽菜が椅子から立った。

机の横に置いていた画用紙を持ち、前へ出る。

真紀は息を整えた。

陽菜は黒板の前に立ち、画用紙を広げた。

上のほうに、大きな字で題名が書かれている。

――町を走るお母さん。

その下には、青い屋根灯をつけたタクシーの絵が描かれていた。

車の横には、制服姿の女が立っている。

実物よりずいぶん若く、髪も長い。

陽菜は教室を見渡した。

「わたしのお母さんは、タクシーの運転手です」

声は少し震えていた。

「朝から夜まで、町のいろいろな場所を走ります。駅や病院や買い物や、知らない家にも行きます」

陽菜は画用紙の端を握り直した。

「お母さんは、道をたくさん知っています。でも、わからないときはナビも使います」

教室の中で小さな笑いが起きた。

真紀も笑いそうになった。

陽菜が一瞬、口を尖らせる。

真紀が以前言ったことを、そのまま書き直したらしい。

「タクシーには、毎日いろいろな人が乗ります。急いでいる人や、病院へ行く人や、買い物へ行く人や、話をしたい人です」

陽菜は一度、画用紙へ目を落とした。

「お母さんは、運転をしながら、お客さんの話を聞きます」

真紀は教室の後ろで立ったまま、陽菜を見ていた。

「うれしい話も、困った話も聞きます。でも、お客さんが話したことは、家ではあまり話しません。仕事のことだからです」

陽菜は次の行を読む前に、少し間を置いた。

「わたしは、お母さんの仕事は、人を乗せる仕事だと思っていました。でも調べてみたら、人の行きたいところまで連れていく仕事でした」

担任が静かにうなずいた。

「同じように見えるけど、少し違います」

陽菜は画用紙から顔を上げた。

「乗せるだけなら、車を動かせばできます。でも、行きたいところまで連れていくには、話を聞かないといけません」

真紀は朝からのことを思い出した。

駅。

病院。

住宅街。

立花のネックレス。

白い封筒に入った保険証。

コートの内ポケットにあった診察券。

ゆっくり歩いた病院の廊下。

「お母さんは、家では仕事のときみたいに、ゆっくり話を聞けないこともあります」

教室の後ろで、何人かの保護者が真紀のほうを見た。

真紀は動かなかった。

「でも、前にわたしが話したいと言ったとき、椅子に座って聞いてくれました」

陽菜の声は、さっきよりはっきりしていた。

「だから、わたしも、お母さんが仕事から帰ったら、すぐに話しかけるだけじゃなくて、ちょっと待とうと思います」

真紀は眉を寄せた。

そんなことを思わせていたのかと考えた。

けれど、陽菜は苦しそうな顔をしていなかった。

「お母さんは、町を走っています」

陽菜は最後の部分を読んだ。

「町の中には、いろいろな人がいます。お母さんは毎日、その人たちを乗せて、行きたいところまで連れていきます」

そして一度、息を吸った。

「わたしは、お母さんの仕事は、話を聞きながら、人を送る仕事だと思います」

陽菜は画用紙を下ろした。

「これで発表を終わります」

教室から拍手が起きた。

真紀も手をたたいた。

陽菜が頭を下げる。

顔を上げ、席へ戻ろうとしたとき、ようやく教室の後ろを見た。

真紀と目が合った。

陽菜は立ち止まった。

ほんの一瞬だけ、驚いた顔をする。

それから笑った。

大きく笑うのではなく、口元だけを少し緩めた。

真紀はうなずいた。

帽子は取ってきたよ、と言う代わりに。

間に合ったよ、と言う代わりに。

陽菜も小さくうなずき、自分の席へ戻った。

次の児童が前へ出る。

真紀は教室の後ろに立ったまま、その発表を聞いた。

制服には、まだ営業車の匂いが残っていた。

授業が終わると、教室の中が急に騒がしくなった。

子どもたちが立ち上がり、保護者のところへ駆け寄る。

陽菜はすぐには来なかった。

発表に使った画用紙を丸め、机の中へ入れようとしている。

真紀は教室の外へ出た。

廊下の窓から校庭を見る。

雨上がりの地面に、薄い水たまりが残っていた。

「お母さん」

後ろから陽菜の声がした。

振り返ると、画用紙を抱えた陽菜が立っていた。

「来たね」

「来たよ」

「遅かったけど」

「一分前」

「ギリギリじゃん」

「間に合えば同じ」

「最初の人の発表、聞いてないでしょ」

「陽菜のは全部聞いた」

陽菜は真紀の制服を見た。

「そのままで来たんだ」

「着替える時間なかったから」

「帽子は?」

「車」

「ちゃんと取ったんだ」

「言われたからね」

陽菜は近づき、真紀の袖に鼻を寄せた。

「何してるの」

「タクシーの匂いする」

「するでしょう」

「ちょっとする」

「毎日乗ってるから」

「家では、あんまり気づかなかった」

「家に帰る頃には薄くなってるのかもね」

陽菜は画用紙を抱え直した。

「発表、どうだった?」

「よかったよ」

「どこが?」

「全部」

「それ、ちゃんと聞いてない人が言うやつ」

「ナビも使います、のところは余計だった」

「お母さんが言ったんじゃん」

「まさか書くとは思わなかった」

「本当のことでしょ」

「本当です」

陽菜は笑った。

廊下の向こうで、担任が保護者に声をかけている。

真紀は腕時計を見た。

「お母さん、もう戻らないと」

「仕事?」

「うん」

「授業参観って、まだ続くよ」

「今日は発表だけって聞いてたから」

「誰に?」

「先生に。前に電話したとき」

「電話したの?」

「勤務の時間を聞かれたから」

陽菜は少し驚いた顔をした。

「じゃあ、前から来るつもりだったんだ」

「そのつもりでした」

「でも、来られないかもしれないって言った」

「言ったね」

「どっちなの」

「来るつもりで働いてた。でも、仕事がどうなるかはわからなかった」

「今日も何かあった?」

真紀は答えようとして、やめた。

立花が保険証を忘れたこと。

診察券が内ポケットに入っていたこと。

病院の廊下を一緒に歩いたこと。

それを説明すれば、陽菜はきっと「じゃあ仕方ない」と言う。

「少しね」

「大変だった?」

「いつもどおり」

陽菜はそれ以上聞かなかった。

真紀も説明しなかった。

「これ、立花さんから」

真紀は思い出し、洋菓子の箱を車に置いたままだと気づいた。

「あ」

「なに?」

「車に忘れた」

「何を?」

「陽菜へのお菓子」

「誰から?」

「お客様」

「取りに行こう」

「今度ね」

「今日がいい」

「車まで遠いよ」

「お母さん、どうせ戻るんでしょ」

「そうだけど」

「じゃあ一緒に行く」

「授業は?」

「もう終わった」

陽菜は画用紙を持ったまま歩き出した。

「ランドセルは?」

「教室」

「先に取ってきなさい」

「待ってて」

「走らない」

「お母さんが言う?」

陽菜は廊下を走りかけ、担任と目が合って歩き直した。

真紀は壁際に立って待った。

教室から、陽菜がランドセルを背負って出てくる。

「帰っていいって」

「先生に聞いたの?」

「うん」

二人は階段を下りた。

来客用のスリッパを返し、靴へ履き替える。

正門を出ると、陽菜が真紀より少し前を歩いた。

「車、どこ?」

「臨時駐車場」

「遠い?」

「五分くらい」

「走ったら?」

「走りません」

「遅れるよ」

「違反するなって言われてるから」

「歩くのは違反じゃないよ」

「転んだら困る」

「誰が言ったの」

「今日のお客様」

「その人、お菓子くれた人?」

「そう」

「どんな人?」

「立花さん」

「前もクッキーくれた?」

「うん」

「お母さんのこと、好きなんだね」

「どうして」

「いつもお母さんにくれるから」

「陽菜に、だよ」

「お母さんが運転手じゃなかったら、わたしにくれないでしょ」

「それはそうだけど」

「じゃあ、お母さんにくれてるのと同じ」

真紀は返事をしなかった。

陽菜は砂利道の先に停まったタクシーを見つけた。

「あれ?」

「そう」

「乗っていい?」

「今は休憩中だから、いいよ」

車へ着くと、真紀は助手席から洋菓子の箱を取った。

「はい」

「ありがとう」

「立花さんに言っておく」

「次に乗ったとき?」

「うん」

「お母さんが?」

「誰が言うの」

「わたしも会ってみたい」

「どうして」

「お礼言いたいから」

「会えるかどうかわからないよ」

「じゃあ、お母さんが言って」

「わかりました」

陽菜は箱をランドセルへ入れた。

少し考えてから、画用紙を真紀へ差し出す。

「これ、持って帰って」

「いいの?」

「家に貼って」

「冷蔵庫?」

「大きすぎる」

「じゃあ、壁」

「目立つところ」

「恥ずかしいんじゃなかったの」

「家ならいい」

真紀は画用紙を受け取った。

青い屋根灯のタクシー。

長い髪の、若い真紀。

下の隅には、発表では読まなかったらしい一文が書かれていた。

――わたしも、お母さんの話を聞ける人になりたいです。

真紀はその文字を見た。

「これ、読んでないね」

陽菜はランドセルの肩紐を握った。

「時間が足りなかったから」

「本当に?」

「本当」

「そう」

「読んでほしかった?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ、読まなくてよかった」

「どうして」

「お母さん、泣いたかもしれないから」

「泣かないよ」

「今、ちょっと変な顔してる」

「風が目に入った」

「風、ないけど」

真紀は画用紙を丸めた。

「家に貼っておきます」

「目立つところね」

「はい」

陽菜は校門のほうへ戻りかけた。

「陽菜」

「なに?」

「今日、もう一個話すことある?」

陽菜は振り返った。

少し考える。

「ある」

「帰ったら聞く」

「仕事、何時まで?」

「七時くらい」

「遅い」

「起きてるでしょう」

「たぶん」

「メモに書いておいて」

「また忘れるから?」

「忘れないため」

「お母さんが書いて」

陽菜はランドセルから鉛筆を取り出し、真紀へ渡した。

真紀は丸めた画用紙をボンネットの上へ広げた。

裏側の白い部分に書く。

――陽菜の話を聞く。

日付と、午後七時三十分。

「時間まで書くの?」

「予定だから」

「遅れたら?」

「わかった時点で連絡します」

「こないだと同じだね」

「何が?」

「なんでもない」

陽菜は鉛筆を受け取り、画用紙をもう一度丸めた。

「じゃあね」

「気をつけて帰って」

「お母さんもね」

陽菜は学校へ戻る保護者たちの間を抜け、校門のほうへ歩いていった。

一度だけ振り返る。

真紀が手を振ると、陽菜も小さく振り返した。

その姿が校門の中へ消えるまで、真紀は見送った。

それから運転席へ戻る。

帽子をかぶる。

ミラーで位置を直す。

業務用端末の休憩終了を押した。

午後二時十一分。

すぐに無線が入る。

『五一七号車、応答願います』

「五一七号車です」

森下だった。

『終わったか』

「はい」

『間に合った?』

「一分前です」

『ならよかった』

「立花さんの帰りは」

『別の車を向かわせた。診察券、ポケットにあったらしいな』

「電話がありました」

『こっちにもあった』

「何て言ってました?」

『神崎を間に合わせろって』

真紀は帽子のつばを少し上げた。

「もう終わったのに」

『今度から、授業参観の日は朝から休め、とも言われた』

「立花さんが?」

『長いこと乗ってる客の言うことは、聞いたほうがいいかもな』

「森下さんが休ませてくれるなら」

『それは勤務表を見てからだ』

「結局そうなるんですね」

『そうなる。駅東口、二名様。行けるか』

真紀は空車表示を出した。

「五一七号車、了解」

臨時駐車場を出る。

正門の前を通ると、二階の窓に子どもたちの姿が見えた。

どれが陽菜かはわからなかった。

真紀は速度を落とさず、そのまま学校の前を通り過ぎた。

助手席には、陽菜の画用紙を置いていた。

丸めた紙が車の振動で少しずつ動き、信号で停まるたび、真紀の腕に触れた。

忘れないようにと、何度も確かめるように。

ep.02 End


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