『神崎真紀 乗務日誌』ep.05「花火のない夏」花火はなくても、夏休みはなくならない。
八月四日。
平和交通本社の配車室は、朝から電話が鳴り続けていた。
「お電話ありがとうございます。平和交通本社配車室、森下です。……はい。本日は午後から中心部で交通規制がありますので、場所によっては手前での降車になります」
受話器を置く。
ほとんど間を置かず、また電話が鳴った。
真紀は点呼を終え、車両の鍵と日報を受け取った。
「神崎さん」
「はい」
「今日、早上がりだったな」
「夕方まででお願いします」
「明日、有休か」
「はい」
森下は勤務表を見た。
「六日は公休。連休じゃないか」
「二日だけですけどね」
「十分だよ」
また電話が鳴る。
「お電話ありがとうございます。平和交通本社配車室、森下です」
真紀は配車室を出た。
車庫には黒い営業車が何列も並んでいた。
朝から暑い。
五一七号車の周囲を一周する。
タイヤ。
ランプ。
車体。
後部座席。
足もと。
異常なし。
運転席へ座り、エンジンをかける。
会社配車の業務用端末。
大手配車アプリ用のタブレット。
労務管理の端末。
その横には私用のスマートフォン。
最近の運転席は、ずいぶん画面が増えた。
業務用端末に一斉メッセージが表示された。
《本日は祭り開催に伴い、市内中心部で交通規制が実施されます。歩行者、自転車に十分注意し、安全運転をお願いします》
真紀は画面を閉じた。
午前八時六分。
まだ祭りらしいものは何も見えない。
空車表示を出し、営業所を出た。
*
午後三時を過ぎると、中心部の道路が変わった。
カラーコーンが並び、交差点には警備員が立っている。
いつも通る道の先には、車両通行止めの標識が出ていた。
真紀は一本手前を右へ曲がった。
後部座席には、小学生くらいの男の子と母親が乗っている。
「この先、今日は入れないんですよね」
「はい。次の角で降りてもらうのが一番近いです。そこからなら五分くらいです」
「じゃあ、そこでお願いします」
男の子は窓の外を見ていた。
「人、多いね」
「まだ増えるよ」
車を停める。
「こちらで大丈夫です」
「ありがとうございます」
母親が料金を払い、二人は降りた。
男の子が振り返る。
「運転手さんも祭り行く?」
「私は仕事」
「そっか」
母親に手を引かれ、人の流れへ消えていった。
後部ドアが閉まる。
すぐに会社の端末が鳴った。
『五一七号車、応答願います』
「五一七号車です」
『駅西口。二名様。いける?』
「今、降車したところです」
『じゃあお願い。車が足りん』
「了解しました」
目的地を確認したところで、隣のタブレットも鳴った。
大手配車アプリだった。
真紀は画面を見て、そのまま閉じた。
最近はアプリを使う客が増えた。
運転手にも、そちらを好む者は多い。
真紀は嫌いというほどではなかったが、あまり積極的には取らない。
平和交通へ電話をくれる客が待っているなら、そちらを先に乗せたい。
それだけだった。
駅へ向かう途中、無線が入る。
『五一七号車』
「はい」
『次もいけそう?』
「まだ次のお客様にも着いてませんよ」
『わかってる。聞いただけ』
「降ろしてからお願いします」
『今日はみんなアプリばっかり取るから、こっち全然車がおらん』
「森下さん、怒ってます?」
『怒ってない』
「声が怒ってます」
『忙しいだけだ』
真紀は少し笑った。
「駅西口、あと三分です」
『頼む』
*
駅西口で待っていたのは、浴衣姿の若い男女だった。
「中心部までお願いします」
「交通規制がありますので、近くまでしか入れませんけど大丈夫ですか」
「はい。歩きます」
車を出す。
女の帯は薄い水色だった。
後部座席では二人が楽しそうに話している。
真紀は規制区域を避けながら車を走らせた。
明日は八月五日。
陽菜が小さい頃から、毎年休みにしている日だった。
今年も有休はそのまま残してある。
*
午後五時四十分。
会社配車の客を住宅街で降ろした。
「ありがとうございました」
後部ドアが閉まる。
大手アプリのタブレットが鳴った。
少し遅れて会社の端末も鳴る。
真紀は時計を見た。
祭りが終わる頃には、また客が動く。
もう少し走れば仕事はある。
真紀は大手アプリを受付停止にした。
無線が入る。
『五一七号車』
「はい」
『神崎さん、もう上がる?』
森下だった。
「はい。これで戻ります」
『今からまだ鳴るぞ』
「知ってます」
少し間があった。
『そうだったな。明日休みか』
「はい」
『じゃあ戻ってこい。気をつけて』
「了解しました」
真紀は営業所へ向かった。
まだ空は明るかった。
*
「ただいま」
玄関を開けると、陽菜がリビングから顔を出した。
「え、もう帰ってきたの?」
「帰ってきちゃ悪い?」
「だって今日、出番でしょ」
「今日は早上がり」
「明日の朝までじゃないの?」
「明日は有休」
陽菜が少し考える。
「六日も休みだよね」
「公休」
「じゃあ連休じゃん」
「二日だけね」
陽菜の顔が明るくなった。
「お母さんの夏休みじゃん」
「あなたは毎日夏休みでしょう」
「それとは違う」
真紀は冷蔵庫を開けた。
「晩ごはん、何がいい?」
「そうめん」
「また?」
「夏だから」
「便利な理由だね」
麦茶を取り出す。
陽菜がソファから言った。
「明日、花火だったのにね」
「うん」
今年の花火大会は中止になった。
隣県で起きた大きな地震を受け、関係機関の体制確保と被災者支援を優先するためだった。
陽菜も理由はわかっている。
「仕方ないのはわかってるけど、残念」
「うん」
真紀はそれ以上言わなかった。
*
翌朝。
真紀が目を覚ましたのは八時を過ぎてからだった。
出番の日なら、とっくに車庫にいる時間だ。
ドアが開く。
「お母さん」
「なに」
「起きてる?」
「今起きた」
「八時半だよ」
「知ってる」
「仕事は?」
「休み」
「あ、そっか」
ドアが閉まる。
少しして、また開いた。
「お母さん」
「今度はなに」
「朝ごはん」
「自分でパン焼いて」
「夏休みなのに?」
「夏休みだから」
「意味わかんない」
真紀は笑った。
午前中は、何もしなかった。
洗濯機を二回回した。
陽菜は宿題を広げたまま、途中から動画を見ていた。
昼を過ぎても、特別な予定はない。
午後三時頃、陽菜が鉛筆を置いた。
「お母さん」
「なに?」
「今日、風街行きたい」
真紀は洗濯物を畳む手を止めた。
「風街?」
「マスターの料理」
「この前食べたでしょう」
「電子レンジで温めたやつ」
「九十七点だったね」
「残り三点は風街で」
「覚えてたんだ」
「もちろん」
真紀はスマートフォンを手に取った。
圭介へメッセージを送る。
すぐに返事が来た。
《審査員、来店歓迎》
続けてもう一通。
《今日は大量に余りそうだから助かる》
真紀は画面を陽菜に見せた。
「余りそうだって」
「じゃあ行こう」
「まだ返事してないけど」
「行くって返して」
《六時頃、二人で行く》
すぐに返事が来た。
《百点取る準備しとく》
陽菜が画面を見る。
「自信あるね」
「昔からああいう人」
*
午後六時。
風街の扉を開けると、カウンターの奥から玲子が顔を出した。
「あ、玲子さん」
「真紀ちゃん、いらっしゃい」
「今日は夜もいるんですね」
厨房から圭介の声がした。
「祭り客を見越して増員」
玲子が言う。
「見越しただけだったけどね」
「言うなよ」
奥のテーブルには梨花と祐志が座っていた。
二人とも夕食の途中だった。
「陽菜ちゃん」
梨花が手を振る。
「久しぶり」
「こっち座る?」
陽菜は真紀を見る。
「行っておいで」
「うん」
圭介が厨房から顔を出した。
「神崎」
「なに」
「助かった」
真紀は店内を見回した。
客はカウンターに一人だけだった。
「暇なんだ」
「笑うな」
玲子が冷蔵庫を開ける。
「今日は忙しくなると思って、仕込みすぎたの」
「昨日も、昔ほど夜は動かなかったよ」
「やっぱり?」
「祭りは人が多かったけどね」
圭介が肩をすくめた。
「まあ、食材が消えるわけじゃない」
玲子が言う。
「明日、圭介が全部食べるから」
「俺?」
「仕込んだ人」
「横暴だな」
真紀は笑った。
*
「審査員」
圭介が皿を置いた。
「はい」
陽菜が姿勢を正す。
「できたてだ。今日は電子レンジのせいにはできないぞ」
「最初から採点します」
「九十七点からじゃないの?」
「違います」
「厳しいな」
陽菜が一口食べる。
圭介が腕を組んだ。
「どうだ」
少し考える。
「百点」
圭介が小さく拳を握った。
「よし」
「でもデザートは別です」
「聞いてないぞ」
梨花が笑った。
「お父さん、また採点されてる」
祐志が自分の皿を見ながら言った。
「これ、僕今日三回目」
「言うな」
「お昼も食べた」
「試作」
「夕方も食べた」
「味見」
「同じじゃん」
「違う」
店の中に笑い声が広がった。
*
食事が進むうち、二つのテーブルはいつの間にか一つになった。
玲子もエプロンを外して座っている。
陽菜が壁際の写真立てを手に取った。
「これ、マスター?」
若い圭介と玲子が並んでいた。
「髪長い」
「そこかよ」
玲子が写真を覗き込む。
「大学の頃ね」
「二人とも東京?」
「そうよ」
「同じ大学だったんですか?」
「うん」
圭介が水を飲む。
陽菜が聞いた。
「そこで付き合ったの?」
圭介の手が止まった。
「いきなりそこ?」
玲子が笑う。
「最初は全然よ」
「俺は気になってたけどな」
「嘘」
「本当」
「私のこと怖いって言ってたでしょう」
「写真に文句ばっかり言うからだよ」
「だって格好つけすぎてたから」
陽菜が写真を見る。
「それで結婚したんだ」
圭介が立ち上がった。
「そこは長い話」
「逃げた」
玲子が言う。
「デザート作るんだよ」
「作るんだ」
真紀が言った。
「うるさい」
圭介は厨房へ戻った。
*
八時を少し過ぎた。
陽菜が時計を見た。
「あ」
真紀も時計を見る。
毎年なら、そろそろ最初の一発が上がる頃だった。
陽菜が窓の外を見る。
暗い空があるだけだった。
「今頃だったね」
「うん」
それだけ言って、二人ともテーブルへ目を戻した。
圭介が大きな皿を持ってきた。
「はい」
「なにこれ」
「仕込みすぎたやつ」
「多くない?」
「だから助かったって言っただろ」
玲子も立ち上がった。
「もう全部出しちゃおうか」
「全部?」
「明日また食べるの嫌だもの」
「俺は?」
「圭介は食べてもいいよ」
そこから皿が増えた。
サラダ。
鶏肉。
パスタ。
小さなピザ。
冷やした果物。
「ホームパーティーみたい」
陽菜が言った。
「ここ店だけどな」
「今日はいいじゃん」
梨花が言う。
「そうそう」
祐志も続いた。
圭介は諦めたように、もう一皿持ってきた。
陽菜が梨花と笑っている。
祐志が最後の一切れに手を伸ばして、陽菜と同時に止まった。
「じゃんけんね」
「半分にしろよ」
圭介が言う。
「それじゃ面白くない」
祐志が答えた。
玲子が真紀の隣に座った。
「陽菜ちゃん、大きくなったね」
「毎日見てるとわからないけどね」
「梨花も同じ」
二人で子どもたちを見る。
店の外は静かだった。
店の中では、笑い声が続いていた。
*
店を出たのは十時近かった。
「ごちそうさまでした」
真紀が言う。
「また来い」
圭介が答える。
陽菜が振り返った。
「マスター」
「なんだ」
「デザート、九十九点」
「下がったじゃん」
「一個足りなかった」
「何が」
陽菜は少し考えた。
「それは来年」
圭介も少し笑った。
「じゃあ来年な」
真紀と陽菜は歩き始めた。
夜風は昼間より少しだけ涼しかった。
しばらくして、陽菜が言った。
「お母さん」
「ん?」
「明日、何見る?」
「ニノのドラマ」
陽菜が少し考える。
「お母さん、あのドラマちょっと難しくない?」
「そんなことないです!」
「だって、いつも途中で寝てるじゃん」
「寝てません」
「寝てるよ」
「目をつぶってるだけです」
「それを寝てるって言うんです」
真紀は笑った。
「じゃあ陽菜は何が観たいの?」
「映画でもいいよ」
「何の映画?」
「ディズニープラスで『アナ雪』!」
「真夏なんですけど」
「だからいいんじゃん。涼しそうで」
「じゃあ、お母さんはネトフリで『ガス人間』」
「なにそれ。今度は小栗?」
「そう」
「でも、なんか臭そう」
「……それは私も思った」
陽菜が笑った。
「じゃあ両方観ようよ」
「そんな暇はありません」
「明日も休みだからいいじゃん」
真紀は少し笑った。
「そうだったね」
二人は、明日観るものを相談しながら歩いた。
End

