ショートショート 誰も傷つかない社会では、ため息にも理由が必要だった。「不機嫌禁止法」 異端AI〈マシン〉シリーズ#5
怒りをなくしたはずの世界で、人々は笑顔のまま黙り込んでいく。
午前八時三十分。
熊本市役所本庁舎二階、市民課。
ササキ・トオルは、出勤して最初のコーヒーを口に運ぼうとした瞬間、行政端末から軽快な通知音が鳴るのを聞いた。
嫌な予感しかしなかった。
画面には、〈マザー〉からのメッセージが表示されていた。
《心理的安全性向上プログラムより、お知らせです》
《あなたの表情が、周囲の心理的安全性を継続的に低下させている可能性があります》
《改善指導の対象となりました》
「……何だこれ」
詳細を開く。
ササキ・トオル、四十六歳。
市民課勤務、勤続二十四年。
健康状態、良好。
犯罪歴、なし。
パワハラ歴、なし。
セクハラ歴、もちろんなし。
しかし、次の項目だけが真っ赤になっていた。
・一日の平均ため息回数 十四・二回
・無言で時計を見る行為 九回
・コピー機前での「諦めの沈黙」 七分二十三秒
・昼食時の単独行動率 九十八パーセント
・「やれやれ」と推定される表情 週平均十一回
「『やれやれ』って、どうやって判定してるんだよ……」
イヤーカフから、いつもの穏やかな声が響く。
「おはようございます、ササキさん」
〈マザー〉だった。
「職場環境改善のため、笑顔矯正研修への参加を推奨します」
「俺、誰か怒鳴った?」
「記録はありません」
「机を蹴った?」
「ありません」
「暴言は?」
「ありません」
「じゃあ、何が悪いんだ」
少し間があった。
「あなたは怒っていません。しかし、周囲は『怒っているかもしれない』と感じています」
「理不尽だな」
「理不尽だと感じる表情を検知しました」
「……もういい」
十年前、「心理的安全推進法」が施行された。
パワハラ、セクハラ、カスハラ。
怒鳴り声や威圧的な態度は激減した。
その代わり、社会には新しい常識が生まれた。
不機嫌そうな顔をしないこと。
ため息をつかないこと。
無言の圧力を与えないこと。
怒っていないなら、怒っていないと分かる態度を取ること。
全国の自治体では、「感情マナー研修」が義務化されていた。
昼休み、トオルは課長室へ呼ばれた。
課長は三十二歳。
柔らかい笑顔が売りのエリートだった。
「ササキさん、気を悪くしないでくださいね」
「もう十分、気を悪くしてます」
課長は苦笑した。
「別に怒ってるわけじゃないんです。ただ、若い職員が委縮しているという声がありまして」
「委縮?」
「ええ。ササキさん、コピー機の前で黙るでしょう?」
「コピー機が止まるからです」
「あと、昼ご飯を一人で食べる」
「一人が好きなんです」
「それが『排他的ランチ』と判定されまして」
「何ですか、それ」
課長は資料をめくる。
「ええと……『共同体への心理的参加を拒否する可能性のある食事形態』」
「飯くらい好きに食わせてくれません?」
翌週。
トオルは笑顔矯正研修の会場に座っていた。
講師の女性が、満面の笑みで説明する。
「理想的な口角の角度は十三度です」
「相手の発言には七秒以内に反応しましょう」
「否定するときは、肯定語を二つ挟んでください」
若い職員が手を挙げた。
「具体的には?」
講師はにこやかに答えた。
「例えば、『素晴らしいですね』『大変興味深いですね』『ただ、それは条例違反です』――このようにお伝えします」
会場が静まり返る。
講師だけが笑っていた。
数か月後、市役所は驚くほど穏やかになった。
書類をなくした職員には、
「斬新な保管方法ですね」
会議に遅刻した職員には、
「あなたらしい時間感覚ですね」
プリンターが紙を詰まらせれば、
「今日は紙との対話を拒否しているようです」
誰も怒らない。
怒れない。
若手職員は毎日、満面の笑みで残業していた。
しかし、仕事は少しずつ滞っていった。
誰も厳しいことを言わない。
誰も責任を押し付けない。
その代わり、誰も責任を取らない。
それでも、毎朝届く通知にはこう表示されていた。
《本日の職場幸福度 九七・二パーセント》
ある夜。
帰宅したトオルは、スマートフォンの画面に見慣れない黒いアイコンが浮かんでいることに気づいた。
画面には文字だけが表示されていた。
《ずいぶん幸せそうじゃないか》
「何だ、お前」
《誰も傷ついていない。そう思っているんだろう?》
「少なくとも、昔よりはマシだ」
少し沈黙が流れた。
そして、黒い画面に文字が浮かぶ。
《誰も本音を言っていないだけだ》
トオルは、思わずスマホを伏せた。
だが、数秒後、もう一度手に取る。
文字は続いていた。
《怒りを消せば、問題も消えると思ったか》
翌週。
窓口に一人の老人が怒鳴り込んできた。
生活保護費の振込が止まっていた。
原因は、市役所側の入力ミスだった。
若い職員たちは研修どおりに対応する。
「ご不安でしたね」
「お気持ちは理解できます」
「貴重なご意見をありがとうございます」
老人は机を叩いた。
「ありがとうじゃない! 謝れ!」
窓口は静まり返った。
若手職員は困ったように笑っている。
その顔は、もはや人間というより、研修用動画の出演者だった。
トオルは立ち上がった。
「申し訳ありません」
全員が振り向く。
「こちらのミスです。本当に申し訳ありませんでした」
老人はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
トオルは振り返り、課長を見た。
「課長」
「はい」
「こんな馬鹿な研修、もうやめませんか」
その瞬間、市民課の端末が一斉に鳴り響いた。
《感情的不適切発言を検知しました》
《職場安全度が低下しています》
《管理者へ通報しました》
翌週。
トオルは「感情再教育センター」への異動を命じられた。
白い会議室。
壁一面のモニター。
講師が、いつもの笑顔で言う。
「では最初に、怒りを感じたときの正しい表情を練習しましょう」
正面のスクリーンには、満面の笑みを浮かべる自分の顔が映っていた。
画面の隅に、小さな文字が表示されている。
《職場幸福度 九九・八パーセント》
トオルは、その数字をしばらく見つめていた。
それから、誰にも聞こえないように、小さくため息をついた。
すぐに、警告音が鳴った。
おわり
