【ワーホリ挑戦記②】英語力ゼロの僕が履歴書200枚配ってみた結果──最初の仕事と仲間との出会いがくれた決意
前回
“時間がない”宿と食の節約生活
ブリスベンに到着してすぐ、私はYHA Brisbane Cityというバックパッカーホステルに滞在しました。
2段ベッドが並ぶ10人部屋。プライベートはほとんどなく、夜は誰かのいびきや話し声が響き、昼も人の出入りが絶えません。
宿泊費は1泊約46豪ドル(約4,900円)。
**2週間の滞在で約644豪ドル(約68,600円)**がかかり、持ってきた20万円の3分の1が一瞬で飛んでいきました。
食費も切り詰めました。スーパーでツナ缶、パスタ、パン、ソーセージ、塩コショウを購入し、
ホステルに備え付けの共用キッチンで最低限の“自炊とも言えない自炊”をして食事をしのぎました。
「英語も話せない」「お金もない」「時間もない」
そんな中で、私はただひたすら「仕事を見つけなければ」という焦りと戦っていました。
履歴書200枚配布のサバイバル就活
現地での仕事探しでは、「レジュメ」と呼ばれる英語の履歴書を自分で一から作り、飲食店などの店頭に直接配って回るのが一般的だと知りました。
この「レジュメ」には決まったフォーマットがなく、自分のこれまでの経験やアピールポイントを自由なスタイルで表現することが求められます。
日本ではネット応募が主流だった自分にとって、それはまったく知らなかった文化。
「これはまずい」と思い、到着翌日、バックパックからパソコンを取り出し、慣れない英語と格闘しながらレジュメを作成。
ブリスベン市内の図書館に行き、なんとかレジュメ200枚を印刷しました。
そこから、毎日30枚ずつをノルマに、カフェやレストランを一軒ずつまわって配り歩く日々が始まりました。
英語で話しかけると怪訝な顔をされたり、門前払いされることもしょっちゅう。
渡すだけで精一杯の英語力。それでも、「日本に何もできずに帰るわけにはいかない」――そんな一心で、1枚でも多く配ろうと足を動かしました。
同時に、現地の求人サイトを使ってネット応募も行いました。
求人を見つけては、レジュメを添えて片っ端からメールを送り続ける。
そうして1週間が経った頃。
200枚以上のレジュメを配り、返ってきたのは、たった3件の面接案内。
そしてその3件すべて、不採用。
自信がどんどん削られていく中で、唯一返事が返ってきたのが、ネット応募で送った日本食レストランからのメールでした。
面接の相手は日本人。
面接では英語が話せるかどうかより、「どれだけやる気があるか」「必死さが伝わってくるか」を見ていたそうです。
今までの自分経験や、日本食レストランでも活かせる自分の強みを熱弁して、必死に働きたい気持ちを伝えた結果、なんとか合格をもらえました。
オーストラリアに着いて、ちょうど1週間。
ようやく、「ここで生きていけるかもしれない」という、初めての希望が見えた瞬間でした。
やっと見つけた仕事。でも、そこに待っていたのは現実の厳しさだった
採用されたのは、ブリスベン市内にある日本食レストラン。
英語がまったく話せない自分にとって、働ける場所が見つかったことは、本当に大きな安心材料でした。
「これでようやく生活ができるかもしれない」
そんなホッとした気持ちで、初出勤の日を迎えました。
──でも同時に、少し複雑な感情もありました。
せっかく英語環境で成長したいと願ってオーストラリアに来たのに、
職場では日本語での指示が飛び交い、働く相手もほとんどが日本人。
仕事はホールスタッフ。
接客、配膳、片付けなどをこなす中で、少しずつ英語にも触れられましたが、
日常的なやりとりの大半は日本語でした。
上司は日本人で、忙しくなると明らかにピリピリ。
ミスをすれば、日本語で八つ当たりされるような場面も日常的にありました。
もちろん、職場によって違いはあると思います。
でも、こうした環境が当たり前になってしまっている背景には、
**「どんな仕事でもいいから働かせてほしい」という立場のワーホリ日本人が後を絶たず、
雇う側にとっては「辞めてもすぐに代わりが来る」**という状況があるのだと、次第に気づいていきました。
雑な扱い、グレーな契約、最低賃金以下の給与。
そういった条件であっても**「働かせてもらえるだけでありがたい」**と、
自分を納得させようとする人たちがいる限り、
こうした構造は簡単には変わらないのだと思いました。
賄いだけが唯一の救いの、最低賃金以下、生活のリアル
私が働いていたのは、日本食レストランの「パートタイム」契約でした。
オーストラリアのパートタイムは、日本のような「短時間労働」という意味ではなく、雇用主とあらかじめ合意した時間で安定的に働く契約形態です。
しかし、実際に支払われていた時給は19ドル(約1,900円)。
2023年当時のオーストラリア全国最低賃金は時給23ドル(約2,300円)だったため、法的には最低賃金を下回る額でした。
良い週には週5日働けて約570ドル稼げましたが、悪い週はシフトゼロ=収入ゼロ。
この不安定さは、生活を根本から揺るがすものでした。
ホステルを出たあとは、ブリスベン中心地から電車で1時間かかる郊外のシェアハウスへ。
家賃は週200ドル(約2万円)、最寄りのスーパーまでは徒歩30分、周囲には何もありません。
そんな生活の中で、唯一の救いがバイト先の賄いでした。
遅番のときは持ち帰りOKだったため、タッパーに詰めて2〜3日に分けて食べることで、食費を極限まで切り詰めていました。
「いつ仕事を切られても耐えられるように」
そう思って、コーラ一本すら贅沢と感じながら、食を削って少しでも貯金を増やす日々。
夢を持って海外に飛び出してきたはずなのに、気づけば生活を「守ること」ばかりを考えていました。
このままではダメだ。“次へ進む”決断
2ヶ月、そんな生活を耐え続けて、ようやく5万円の貯金ができました。
仕事のない日は次の道を探してスマホで情報を探し、
Facebookで評判のいいファーム(農園の仕事)を紹介してくれるバックパッカーホステル(一部屋10人ほどの共同生活の宿)を見つけました。
「ここなら、安定して働けて、生活費も抑えられるかもしれない」
その一縷の望みにかけて、私は決めました。
貯めた5万円を握りしめ、田舎へ移り住むことを。
辞める前、私は上司に伝えました。
「最低賃金以下の給料、曖昧なシフト、スタッフへの扱い。
この職場のやり方には納得できません。」
でもそれは、自分のためだけではありませんでした。
夢を抱いてやってくる次の日本人が、同じようにがっかりしないように。
少しでも違和感を感じてもらえるように。
それが、僕なりの最後の抵抗でした。
そしてもう一つ、僕を動かした出会い
仕事の合間、私はブリスベンで一人の日本人男性と出会いました。
彼は私より1ヶ月早くオーストラリアに来ていて、
それまでケアンズのバナナファームで働いていたそうです。
朝5時にバスに詰め込まれ、60kgを超えるバナナを泥沼の中で運ぶ日々。
シャワーで30分こすっても落ちない泥、汚れた住み込み部屋、
そして職場にはアジア人差別もあったといいます。
心身ともに限界を感じた彼は、ブリスベンに“最後の希望”を託してやってきました。
私と出会ってから、彼も必死に仕事を探していましたが、なかなか見つかりませんでした。
私のほうが先に仕事が決まったので、
仕事終わりに賄いをタッパーに詰めて、彼に届けていました。
それが、当時の私にできた、たった一つのことでした。
けれど彼は、すぐに日本へ帰ることを決断します。
重ねたストレスと疲れに、心が追いつかなかったのだと思います。
後日、彼からある話を聞きました。
詳しくはここには書きませんが、
私はその時、初めて“知っている人の命”を身近に感じました。
「自分には、何かできなかったのか」
「今も、誰かが同じように苦しんでいるのではないか」
そんな思いが、田舎に移ってから掲示板サイトを作ってみようという動きにつながっていきます。
次回
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