小指を見つめる
聖書研究家は三年間で七人を殺した。両親とベンツの持ち主、弁護士、弟の同級生三人だ。ペースは早かったが残忍な殺害方法ではなかったため犯罪者としてのインパクトには欠ける。彼を有名にしたのは動機だ。
「全ては仮なんですよね。私は尾道秋という人間に宿っていて、この身体で仕事して、しゃべったり喧嘩したりしますが、私が尾道秋ではなく、別の誰かに宿っていた可能世界もあるはずです。私がこの肉体に住んでいるだけで、本当の私と尾道秋をつなげているのはただの偶然です。わかってもらいたいんだけど、本当の私を見つけたら永遠の生命を得られるんです。というのも、私は周囲の環境と何の関係もないからです。外見だけを見て私を判断する人は、本当の私を見ていない。肉体とは関係ないのが本当の私なのだから、たとえ肉体が滅んでも本当の私は生き続けることになる。つまり、永遠の生命を得るためには、本当の私を見つけなければならないってことです。私は私を見つけなければならないのにそれを盗む人がいる。だから私は、本当の私を盗んだやつらを殺しました」
彼は取調官に似たような話を繰り返した。弁護士は彼の言葉を記者会見で披露し、心神喪失を主張した。七人のミステリ作家と百五十二人の心理学者が彼の言葉を引用した。ワイドショーは四カ月近く彼の個人情報をたれ流した。決壊した川のように。
聖書研究家は一九八二年七月二十八日に、広島県南部の小さな町の教会に生まれた。家庭は裕福ではなかった。五人兄弟の長男で、そこそこ明るい少年時代を過ごした。成人してからはアメリカの媒体に聖書研究についての文章を発表、原稿料で糊口をしのいだ。歴史ある学会もあったが、多くはクリスチャン・サイエンスや極右キリスト教団などで、銃を持つ権利を声高に訴える団体のサイトなどにも発表した。珍しいのはミステリ専門誌に掲載された作品だ。偶然のない世界はキリスト教でなければ生れなかったとする、黄金時代のミステリ論。第二次大戦後、偶然が存在するようになった世界で、それでも悲劇だけは偶然以上の力が働くのだと提示したロス・マクドナルド論。後年刊行された『延長コード完全版』にはそれらのエッセイが彼の手による翻訳で収録された。
彼の人生に陰りが生じるのは二十五歳のときだ。十歳下の弟がビルの十五階から飛び降り、ベンツの天井に激突した。即死だった。聖書研究家は弟の死を確認するより先にベンツの持ち主に捕まった。警官がよそ見した隙をついて、持ち主は彼に手を伸ばすとすさまじい力で植えこみのそばにある車まで引きずった。警官が駆けつけるまで、ベンツがいくらするかを延々と喚いた。天井はへこみ、割れた窓から車内へと大量の血が伝っていた。警官の一人が持ち主を羽交い絞めにして遠ざけ、もう一人の警官が彼に言った。絶対に二人で会わず、弁護士を通すように。わかりましたか。カードゲームのルールでも説明するような口調だった。彼は声を出そうとしたが、乾いた舌がもつれた。震えながら二度うなずいた。それから弟と対面した。高級車のサスペンションが衝撃を吸収し破損状態はそれほどひどくなかった。顔面は陥没していたが、顔の見分けはついた。翌日、両親と弁護士事務所に行った。老いた弁護士は支払いを避ける方法はあると言った。遺産も負債も、相続拒否できるという。父と母は喜ばなかった。ベンツの持ち主に申し訳ないと俯いた。彼の頭はしびれた。ベンツを買う金などどこにもないというのに。そのとき聖書研究家は思った。みんなが本当の私を盗んでいる。弟が死んだのに何も感じないのはそのせいだ。
投獄されて十二年目の夏、聖書研究家は独房で歌い出した。その声に鳥たちが集まるのを目撃した新人刑務官は慌てて言葉を書き留めた。途中からだったため冒頭部はない。歌は何日も続いた。新人は録音を文字に起こすと、就寝前に読み返した。それは歌ではなく小説の朗読だった。一ヶ月後、新人は聖書研究家の許可を取ると契約書を交わし、実家の印刷所に原稿を送った。『延長コードは誰のもの?』という作品集には、「群」「私」「延長コードは誰のもの」が収録された。表題作には聖書研究家を思わせる主人公が登場する。彼と弟が朔太郎の「死なない蛸」について会話を交わし、その後、弟はいなくなってしまう。兄は弟が自分の身体を食ってしまったのかもしれないと考える。文芸のフリーマーケットで売られたそれは編集者の目にとまり、逮捕前のエッセイを加えた完全版として出版された。本は話題性も手伝ってよく売れた。重版が決定した日、聖書研究家は己の右手小指を食べた。新人が見舞いに行くと彼は包帯を巻かれた手を眺めていた。新人に気づくと目を細め、イメージしていたんだよとつぶやいた。蛸のように自分を食べられるか。指や腕はいける。肩もなんとかなるかもしれない。しかし、どんなに想像しても口は食べられなかった。だから精神を食べることしたんだと晴れやかに笑う。心は肉体や環境に影響される。そんなものはいらない。小指を食べてイメージできるようになったんだ。心をどうやったらすり潰せるか、呑みこんで消化するか。翌日彼は死んだ。朝の点呼時には冷たくなっていた。
現在、彼のいた独房は封印されている。何かの気配がすると、誰もかれもが怯えた目で訴えた。大量殺人犯も、サイコパスも大声を出した。泣いた。暴れた。それで結局封印された。非現実的な処置だったが、そのほうが効率的だったのだ。皆が目を背けて通るが、新人だけはのぞきこむ。毎日。一日も欠かすことなく。暗い床には何かがわだかまっている。歌声が消えてしまう間際。目覚める直前に忘れた夢。残照。それらに似た何かが。
独房を通過すると、新人は己の小指を見つめる。もちろん毎日。一日も欠かさずに。
