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【紹介記事】「私が忘れていたエモーショナルな私」を思い出させたくれた企画【お礼記事】

その人の手紙は「私が忘れていた私」を私に気付かせてくれた。

 先日、砂糖の塊さん(以下塊さん)の企画に応募・参加致しました。「10名の方の記事を読んで、各個人に合わせてラブレターを書く」という企画の募集をXでされていました。しかし、「ユニークだな」と思いながらも余りお付き合いがないので手を上げるかどうか迷っていたのですが、少し悩んだ末おずおずと手を上げました。するとその迷っていたタイムラグがいけなかったのでしょう、私がどうやら11人目だったらしく「あらら……」と思っていたのですが、塊さんはなんと快諾してくれました。お優しい方です。かくして、特別枠11番目としてエントリーされたわけですが、1人増えたことで塊さんの仕事を増やしてしまいました……。大変申し訳ありません。

 その際、塊さんに読んでいただく記事はこちらで決めてよいとのことだったのですが、さて、どうしようかなと思い、指定した記事はこちらでした。

 私は「普段の作文・小論文指導業務での気付きを記事にする」というコンセプトで、アカウントを運営しています。ですから、私の記事は解説記事が多いです。私の記事を読んで私に「ラブレター」を書いてくれるのでしたら、私の人柄がよく現れているものがいいと考えました。ですから「純然たる解説記事」よりも私の考えや姿勢がよく現れた比較的個性的なものがいいかな、ということで、上の記事になりました。またビュー数も多い記事なので多く人に読まれている実績もあります。自己紹介記事を除くと「名刺代わりになる記事」なのではないか、と思いました。

 後日、エレガントで丁重な「ラブレター」を頂戴致しました。自分の文章を読んでそのアンサーをいただける自体嬉しいことですが、そこに書かれた言葉は簡潔ながらとても深い言葉でした。私がいただいたレターは上掲の塊さんの企画記事で是非確認していただきたいのですが、私の文章の背後にある「私の本質」を看破したような言葉でした。自分から言うのは、大変くすぐったい気持ちになりますが、「私の論理の向こうには『愛』がある」と塊さんは表現してくれました。そして、このとき、私は忘れていた遠い昔の私を思い出したのです。

そうだ!私はそもそも「パトスの人」だったんだ!

 私は、「論理的な文章をどのように書くか」のような記事ばかり書いていますから、「ロゴス(論理)の人」だとお思い方が多いかもしれません。しかし、私はそもそも「パトス(感情)の人」でした。「でした」というよりもそうだったことをこの手紙を受け取るまでついぞ忘れていました。「論理的な私」はこうした今の仕事に就いてから得た後天的なペルソナ(仮面)のようなものです。

 昔から感情豊かな子だったと自認しています。中学受験のときは模試で出題された課題文の小説に感動するあまり試験会場で大泣きし、試験官から注意を受けたことがあります。高校のときはほとばしる激情が任せるまま書いた詩を文芸部誌に掲載し続けました。大学に入って付き合った当時の彼女のリストカットの痕を見つけて彼女と二人で夜中大泣きしたこともあります。学習塾に勤務すると、成績が低迷する生徒たちを何とか志望校に合格させたいと、会社に無断で休日出勤(今の会社では許されないでしょうが)をして自主的な補習を敢行しました。このように、私は、論理的整合性や効率性などとはほど遠い、どちらかというと感情から行動するタイプの人、いい言い方をすれば「人情で動く人」です。ですから、そのために若い頃は人にだまされるなどを損や失敗をすることも多かったと記憶しています。

 「論理」は、私が出版社で仕事するための、また予備校で生徒に小論文を教えるための手段に過ぎなかったはずです。第一、がちがちに論理的なドイツ観念主義に憧れて大学の哲学科に入ったものの十分に理解が及ばず、哲学専攻ではなく美学・芸術学専攻(※美学:純粋に論理が扱えない人の、感性や感覚を対象にして芸術などを考える哲学の一分野)を選んだことからして、「そもそもロジカルな思考が得意とは言えなかった」はずなのです。

 塊さんの手紙を見たとき、封印していた「パトスな私」がよみがえった気がしました。「論理的に考えることについての記事」すらも、それは透徹した読解ができる人が読めば「情動的でエモーショナルな動機で書かれたことがわかる記事」だとわかると、とても新鮮でありながら懐かしい感覚に襲われました。事実、私は、この記事をはじめ全ての私の記事を読んだ全受験生が私の記事だけで100%理解して欲しいと思って書いています。同業者の方には「そんなバカな」と言われそうですが、これを読んで理解したら、少なからずこのテーマのことに関しては、塾も予備校もいらないと思ってもらえるように本気で書いています。塊さんが読み取って表現した「愛」というものがあるのだとすれば、そういう私の文字化されていない「想い」なんだと思います。顔も知らない、会ったこともないPC画面の向こう側の受験生に「この想いよ届け」という気持ちで書いていますから。まあ、だから私の記事はいつも文字数がすごいことになっているんですけどね(笑)。

 驚くべきは塊さんの読解力と表現力です。私は、国語や小論文の授業のときに、よく生徒に「『行間を読め』とよく言われるが行間には一文字も書いていない。だから何も書いていない行間を読もうとするんじゃなくて書かれている文章をまずは正確に読め」ということを言っていました。しかし、これはあくまで受験での話です。受験から離れた日常生活で通用する、真の「活きた読解力」を身につけている人は「適切に行間を読める」のです。きっと、塊さんは、私の記事(文章)の内容だけではなく、そのもう一つ奥にある、私がその記事を書いた動機や感情・書いているときの情動を行間から読み取ったのだと思います。塊さんの書いた他の方の記事を読んでいても、そう感じました。これは、率直に言ってすごいです。

 また、いただいた「ラブレター」を通して、私はこうも考えました。この私の忘れていた「パトスな私」こそが私の文章の本当の人間的魅力ではないのかと。言葉の働きの一つに情報伝達があります。しかし、私の記事がただ「文章の書き方」や「受験情報」を伝えるものであったとしたら、その情報の正確さと多様さは、私よりベテランの文章指導者や受験情報を提供する機関や受験教育評論家、受験教育ジャーナリスト、果てはAIに及ばないでしょう。私が書く記事のユニーク(独自性)さは私の人間性によって生まれるはずだし、私の記事を読みたいと思う人(どのくらいいるかわかりませんが)はそうした私のユニークさに惹かれるはずです。だとしたら、今後、私はもっと「パトスな私」が出るような文章作成を心がけた方がいいのかもしれません。

 塊さんの記事によって、私の忘れていた私が再発見できたようです。また、重要な気付きが得られました。今回の企画に参加できたことを、塊さんには改めて感謝申し上げます。

追伸 記事をもっと早く書く予定でしたが、仕事が立て込んでいてこの時期になってしました。すみません(笑)。


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〆野 友介 「記事が参考になった!」と思われる方がいましたら、サポートしていただけると幸いです。いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!