見出し画像

『作詞作曲とソングライティング、は全く別物、という事実と誇大妄想をめぐる話』

 ”作詞作曲”と、“ソングライティング”というのは全く違うものである。
 そう聞いて「え?なんで」と不思議に思う人、「まあそれは当然でしょう」とあたりまえに思う人、「作詞と作曲をすることがソングをライティングすることなんだから同じでしょ?何言ってんの?」と軽く憤慨する人、など果たしてどれくらいの割合なんだろうか。しかし松本隆氏が比較的最近のインタビューでも「洋楽のポップスは先に言いたいことがあってそれにメロディがつけられるが、日本の曲は逆であることが多い」というような話をし、これにわざわざ文字数を割いて記事にしているあたり、作詞作曲とソングライティングは全然違う、という説は今更語る必要すらない自明自白な普遍的事実、というわけでは決してなさそうだ。まだそこまで語られきってないようである。


 
 そういうわけで、唐突だが、ていうか、文章を書くのに唐突も何もないが、実は日本でいう”作詞作曲”と、ソングライティングというのは全く違うものなのだ。この考察を本稿では展開してみたい。
 何を急に、誰も訊いちゃいねえわそんな話、と思われるかもしれないが、前からそんなようなことを考えてまとまった文章にしたかったにも拘らず、想像するだにアタマも時間もかかりそうな割に誰にも有り難がられそうにないし、ともすれば誤解もされそうだし、反感も増えそうだし、書いても書かなくても特に得られるものもなく、書き始めたら書き始めたでややこしく面倒そうなので避けていた。しかしいい加減これについて言語化し文章化しないと、もやもやが晴れずに仕方がなかったのである。 


 して、 もうこの時点で、なんか面倒そうな話が展開されそうで途中で読む気が失せる読者も予想されるので、その前にまずちょっとアメリカのバンドWilcoについての話をさせてもらいたい。好きな人は多いはずでしょWilco。

 
 今ではもう日本中でも知名度と人気があり、その音楽的なレベルの高さは誰の目にも明らかなバンドだが、日本では4作目アルバムくらいまではあんまり目を向けられなかった中、2005,6年くらいか?急に日本で認知され始めた時期がある。それは現代音楽畑の打楽器奏者だと思われていたグレン・コッチェ、そしてこれまたフリージャズの住人と思われていたネルス・クラインが合流した、現在の編成に至る大変化が起こった直後と被る。日本の音楽ライターも主に上記の二人の存在をとっかかりにした批評などを書くようになり、なんぞなんぞとリスナーも増え、バンドの評価も高まり、そろそろ来日も期待できそうな気運も高まると同時に”アメリカーナ”といった特殊なタームも普及して、個人的にもそれはそれで嬉しい、となった。
 しかしその割に、ジェフ・トウィーディのソングライティングについての真っ当な批評が、どうも足りていないように思えたのも事実である。カットアップなのか夢日記なのか抽象的な言葉遊びをしたかと思えば、はっきりと情景が目に浮かんでくるような叙情的な詞もある。手練れ揃いのWilcoのブレない体幹、中心にある引力は、どう考えてもジェフのユニークなソングライティングのアイデアや姿勢なのであって、先のグレンもネルスも、ジェフの面白い曲作りがあってこそ、それぞれ演奏力や実験精神や音楽理解力を発揮しWilcoの音楽に貢献できるのである。その肝心な曲の根幹や発端の部分にしっかり手を入れている批評が、目立ちがちな新メンバーのスーパー・プレイヤーぶりへの注目に比べて、どうも少なかったように思う。それは批評家だけでなく、ミュージシャン界隈の中での注目のしかたも同様だった。

 ちなみに”ミーハー”の定義とは、華やかな表面と周縁と周辺にばかり目が行ってしまい、ことの本質をみすみす見逃していることに気づかない浅薄な認知のままに、はしゃぐ己の姿を恥も外聞もなくご開帳することである。

 00年代のレディオヘッド人気も似ていて、ちょっと特殊能力っぽいメンバーが集まる戦隊モノ萌え的なところがあったように思う。いくらジョニー・グリーンウッドの非ロック的な音楽家ぶりや感性やサウンドアプローチが素晴らしかろうが、美しくエモーショナルに演奏される「Fake Plastic Trees」のセカンドヴァースの、豊胸手術にまつわる苦笑するほかないしょうもない親父ジョーク部分などについても相応に言及されないと、バンドの本質には触れられない。
 トム・ヨークは、アメリカから端を発する(遡れば“アメリカ”ではないが)ソングライティングの流れとは元々関係なかったっぽいことに本人も当初あまり自覚がなかったが、知ってか知らずかイギリス伝統のストーリーテリングや皮肉とともにアメリカっぽいソングライティングを時には実践したり、エモさを保ったまま客体化しちゃったりできる優れた作家だったので、民族的ルーツを奪われている日本のリスナーと親和性が高かったことも納得できる。でも、なんだかそのエモさと、ジョニー・グリーンウッドの特殊能力者っぽさや、あるいはダブなど非ロックにも比較的早く接近したバンド全体のインテリっぽさなどが当時の日本での、ライト層の中での人気を支えていたのではないだろうか。
流石にそれは穿ち過ぎ、先入観と偏見が過ぎるだろうか?  
 
 ちなみにスノビズムとは、知性や情報の蓄えやセンスの洗練などを自負しながらも、これをカサに着て他者を見下すことで自己をナルシシズム的に充足させてるに過ぎない低俗さとそれに無自覚なままでいられる大した根性のことである。

 
 その後のトム・ヨークの、意識的に伝統的ソングライティングとその”ポスト”とを模索しながら激しく行き来する”ポスト・ソングライティング”とも言うべき謙虚な作家性について、まだ十分に語られてないんじゃないか。僕は『Moon Shaped Pool』が最高傑作だと思ってる派で『Ok Computer』『Kid A』はそういう評価軸では比べられないくらいすごいと思うが、バンドの評価はさておき、今の彼に至るトムの作家性は“ソングライティング”の文脈からももうちょい語られていいのでは、と思う。ある程度は語られているのかもしれないが、足りない。リスナーにその需要がないのだろうか? しかし、それじゃ歌の何を聞いてるんだろう。
 

 

 とにかく、WilcoやRadioheadに限らないが、なんか変な受容のまま、芯食ってない批評も多く、なんだか気に入らないな、と思うことが昔は特に多かった。というか、違和感があった。当時僕はあらゆるものを信用していなかった、という自意識の歴史はあれど、気に入らないなりにあれこれ考えていたのである。
 すると、どうやら主にこの違和感が、”ソングライティング”と”作詞作曲”を不用意に同一視してしまってきた日本の歴史とそれに無自覚っぽい音楽シーン、に由来している、ということがだんだん理解できるようになったのだが、それはまあまあ後のことである。



 
 
  実は作詞作曲とソングライティングは、似て非なるものである。これを論じることは、ましてや音楽を自身でやる身にとって、自己批評の罠や誤解の可能性を孕んだ大変にリスキーな議題だが、それを顧みず、私は世界のためにもこの壮大なテーマに挑もうと思う。なぜならそれは私に課された使命だから。
 
 ちなみに誇大妄想とは、現実が具体的には要請していないにも拘らず、ごく個人的な課題や仮定や設問をさも世界が直面している最重要課題かのように扱い、時に独善的態度になることすら厭わず歪んだ認知に振り回され周囲をも振り回すものである。



 

 まず、アメリカでソングライティングと呼ばれるようになったものは主にケルト由来のブルーグラスなど所謂カントリー・ミュージックと奴隷貿易によるアフリカ由来のブルースとさらに元々アメリカ大陸に暮らしていたネイティブ・アメリカンズの伝統音楽が混ざるなかで噂話や事件や伝承などを音楽に乗せてストーリーリングする方法をあれこれ拡張するうちに混ざったり混ざらなかったりしながら産業化エンタメ化多様化した、みたいな話はキリがないので端折るが、つまりソングライティングというのは歌詞と音楽を合わせて歌唱曲を作ること全般のことを指すとは限らないもので、むしろアメリカで拡張され歌い継がれ伝承曲などを基にいろんな歌曲を試み続けるという芸術様式を案外限定的に指すものであるところは、ボブ・ディランなどが今に至るまで実践し研究しているのであって、それがイギリスに伝来しイギリス的なユーモアやあるいは誤解や盗用などが加わっても大きな視点からすればソングライティング伝統の延長にあたるものも多い中、例えばスミスの頃のマーとモリッシーの曲がそれの範疇か?と言われると個人的にはちょっと首をかしげちゃう、というくらいには厳密に定義できないものではある。が、やはり日本の”作詞・作曲”と上記の本来の意味でのソングライティングとでは、決定的な違いがあることは、おそらくまあまあの事実なのである。

 そもそも英語での”ソングライティング”というのは音と言葉が連動しており、言葉の中にはメロディやリズムがあり、メロディやリズムの中にも言葉が埋まってる、というようなもので、両者を切り離せないことが特徴というか、必然だ。英語は日本語以上に単語それぞれのイントネーション・抑揚の厳密性が強く、言葉の判別においてこれが重要で、したがって単語それ自体に即したメロディやリズムがある、これが無視され、言葉にそぐわないイントネーションになってしまうメロディとリズムを充ててしまうと、まるで意味が伝わらない、意味を成さない、ということがまま起こる。もちろん歌を作る過程ではモゴモゴの仮歌が先にできる、みたいなこともあるが、英語の歌詞を前提にすると、自ずとメロディや符割が“見えてくる“。英語のイントネーションで生まれたメロディやリズムには、英語の言葉が何かしら埋蔵されている、とでも言うべきか。言葉が何かしらの音楽を引き連れてくることを前提に、それを掘り起こしたり促したりしてどうにか“歌”にする、のである。それが面白いかどうかはソングライターの技量によるもので、名手でも失敗することはあるだろうし、素人が急に名曲を掘り起こすこともあるだろう。いずれにせよ英語的イントネーションで生まれたメロディやリズムは何かしら英語ならではの歌を構成するはずで、英語くらいしか扱えないソングライターが、例えばよく知らないタガログ語などで掘り起こそうとはまず思わないはずである。
 
 全ての言語には、それぞれの言葉に倣ったメロディやリズムや抑揚がある。しかし”洋楽”の真似をすることが洗練の証、みたいなことを長らくやってきた従来の日本の歌謡曲やポップスから派生したある時期からのJ-POPには、どうやら”洋楽”ぽい、つまり”仮装”英語のメロディやサウンドで構成された“オケ”ができてから歌詞を充てる、みたいな作りのものが多かった。フォークシンガーたちや例えばユーミン、中島みゆきなど、それとは違う例外も多々あることは念の為に言っておくが、それにしても、ソングライティングという様式をさほど理解しないまま、ソングライティングよって書かれた海外の歌曲をモデルに、メロディやコード進行やトラックをまず作ってから後に別で歌詞を書く、元曲の歌詞のテーマも何も関係なく、という、英語式ソングライティングの意味も伝統も必然性も漂白した楽曲制作を多く行いながら、その自覚もさほど無かった。

 洋楽の真似をしようとしている音の中から、本来は“表拍”しかないひらがなベースの日本語の歌詞を掘り起こすなんて相当無理がある。その無理を“不”承知でなんとかやろうとしてきた歴史がある。しかも洋楽っぽいサウンドとは、その地方の景色や風土が多分に反映されているものであり、音やメロディと同様、言葉も風土や風景に密接に関係があるにも拘らずだ。
 逆に考えれば、日本語の詩にメロディやリズムを充てる場合にも、英語歌曲にありそうな大陸的な旋律やサウンドを施すのもまた無理がある。自然とそうなる理が作者の中に育まれているのなら別だが、そもそも日本語が引き連れてくる風景というものがある。同じものを指す単語でも、りんご、とAppleでは言語が違うが故に、引き連れてくる背景や内容がかなり違うのである。
 歌謡曲やニュー・ミュージックはそのあたりの矛盾の渦中にいながらも、商売の中、オキシデンタリズム混じりにうやむやにし続けてきたように思う。サビだけ英語にしたり、途中で脈絡なく変な英語を入れ込んで”ハイカラでイケてるでしょ”とやってきて、中には興味深いもの、痛快なものもあったが、平成あたりをピークにそれはそれはひどいものが多かった。平成にも昭和にも名曲がたくさんあることはもちろん知っているが、それらが補ってあまりあるほどの、洋楽コンプレックス由来のインチキ英語と洋楽っぽさを狙った歌曲が量産されていた。それはなんと言えばいいのだろう、植民地的な風土の表れなのだろうか。繰り返すが、平成にも昭和にも名曲がたくさんあることは知っている。けれども。

 日本語と英語が混濁するのが現代日本だ、と言うほどにはそもそも日常的に英語なんて使用されてない。和製英語だけだ。もちろんそれで問題ないが、メロディやオケだけを作って、とっかかりもテーマも問題意識も特にないまま歌詞だけ誰か別の者に丸投げする、という無自覚な作り方は、ソングライティングとはなんぞ、日本式の作詞作曲とはなんぞ、というこの辺の自覚と葛藤とチャレンジがなければどこまで行っても”洋楽”のシミュレーション、「それっぽくよく出来たでっちあげ」に過ぎないのである。ソングライティングの歴史にも、日本的作詞作曲なりに名曲を残そうとしてきた歴史にも、何にも貢献しないごっこ遊びの域を出ないものとなるだろう。ましてやそれを”自作の歌”などとのたまい商売にし始めた日には、もはや詐欺に近い。
 資本主義社会では音楽でもなんでも商売になってりゃそれが正しいのだから何言っても僻みだ、みたいな新自由主義的意見もあるだろうが、そういう姿勢の人は永遠に創作などに関わる才能も必要もないので、そのまま消費経済に十分に貢献しながら高い税金など納めてもらってどこかでそれなりに幸せになってほしい。それにこれは、作詞と作曲の両方を一人で全うする作家のほうが偉い、などという次元の話でもないことも一応付け加えておく。

 でも仮にもしこの矛盾や欺瞞を自覚して、”作曲”担当が作詞家とこれを共有した上で表現として提示するのであれば、さらにはその自覚をもきちんと表現するのであれば、それは”創作”というものに何かしらの貢献をするものとなるはずだ。そういう自覚がある作家の方が、個人的にも好ましい。

 例えば、小説って何?と自ら問い続ける文章が小説になるはずだし、アートでも批評でも同様だろう。仮に“作詞作曲”という分業音楽制作が、参照元であるはずの”ソングライティング”の伝統と全く乖離したものであるとしても、これを自覚して作詞作曲って何?と自らに問い続ける真摯さで作られた歌曲は重要なもの、意義あるものとなるはずである。いざその実例とそうでないものを、これ!と検出してはっきり名指しするのは難しいが、やはりそういう意味でのいい曲つまらない曲というのはあるんじゃないか、というのがこれまでの僕の体感である。

 過去、作曲者がその辺りについて考えてみる機会になれば、と思いながら人に作詞で協力したこともあったが、今になって思えばやめておくべきだった。本物って何?とか本物はこうだ!みたいな権威性はどうでもいいが、シミュレーションやごっこでしかないものを作って評価されることにいつまでも呵責も自覚もないままの曲や作曲者に、いくら創意工夫と言葉を尽くして作詞しても甲斐がない。そんなものが評価され売れたたとて、音楽にとって寄与しないどころか、先にも述べたように詐欺とあまり変わらない。むしろ文化を退行させるだけだ。
 

 

 
 などとごちゃごちゃ論じている間にも時代は進んで、最近は洋楽コンプレックスなんかとっくに関係のない音楽がたくさんあるし、若者の洋楽離れ、なんて言われているらしいけど別に問題でもなんでもないとすら思う。意味もリズムも違う英語の歌を西洋コンプレックスで聴くよりはいいし、コンプレックスや憧れなんか無関係のルートで世界中の音楽に触れている、あるいはそうなる過渡期真っ最中ってだけなんじゃないのか。平成ごろまでに比べればよほど文化として健全に見える。バブル後遺症と平成の不健全をなんとか耐えながら過ごしてきた身からすると、それはもう年齢などではなく、今の時代に若いということが少し羨ましい。今には今の地獄があることは承知だし、それは多分に上の世代の所為だとわかっていても、勝手ながら羨んでしまう。

 でもそればかりはどうしようもない。自ら望んだように時代を変えることができなかった業と自覚なりに、勝手に自ら課したテーマにできる限り取り組むことくらいでしか本当の充足はもうない。そして、日本的作詞作曲と英語的ソングライティングの間で、片方に両足突っ込むのでもなく、たとえごくごく個人的な理由であっても、孤立したままで切り開くことのできる広大な歌曲と演奏の未開拓地はないものか、と探索する。そんなもん誰それがすでにやってる!という“スノッブ”(前半に注釈あり)な意見もあるだろうが、違う。それは自身で取り組まなければならないテーマなのである。
 「そうは言っても、例えば”アメリカーナ”的なことがやりたいのだろう?」みたいな “ミーハー”(前半に注釈あり)な視点だけでは理解できないだろう。
 いまさらマスに強く望まれてる訳でもないが、やるべきこと、必要なことをやっている、というよくわからない自負でもってなるべく面白おかしく文章を書いたり曲を作ったり色々試す。誰のためでもなく、しかしまわりまわっていつか、誰か何かのためになることもあることを願って、そう繰り返すのだ。



   さて、先に話題にしたWilcoのジェフ・トウィーディはこれまでにいくつか本を出しているのだが、“まずは一曲を書くため”のアイデアやヒントを面白おかしく簡潔にまとめた『How To Write One Song』という著書がある。歌書きに限らず文筆家でも画家でもコメディアンでも、誰が読んでもそれなりに面白いであろうことが想像される楽しい本だが、それなんかを読む限り、彼も割と自覚的に似たようなことをやっているように思える。だから「俺も同じレベルのことをやってるんだ!」などと言いたい訳ではまるでなく、俺には俺の生い立ちなりにやってるつもりがあり、そういう人はジャンルに拘らず案外大勢いるんじゃないか、くらいの話だ。

 ミーハーにもスノッブにも誇大妄想にも陥りきることなく、できるもんなら詐欺など働かず、まあまあ身の丈なりに真摯にやっていきたいものである。その上で、日本で日本語を扱いながら歌曲や演奏や批評など音楽のようなものに携わるのなら、やはり”作詞作曲”と、”ソングライティング”は全く似て非なるもの、という認識がなければ困難だ、というのがとりあえずの結論である。
 
 
 こればかりは誇大妄想でもなんでもない。この、文化も歴史も思想もアンビバレントな国においては、音楽に関わる者ならばそれが作詞家であれ作曲家であれ、批評家であれ、レコード会社の役員であれ、プロデューサーであれ、エンジニアであれ、ディレクターなら尚更、それなりに自覚しないと何をやってもただのごっこに終始してしまう。それは終始冷静で論理的な思考による、今のところの確信のようなものだ。

 ちなみに創作とは、多分に誇大妄想のような面があるが、その妄想も自分自身をも疑いながら、それでも世界にとって何か意味があるはず、そう思える瞬間を己の中や、あるいは人々との間でいざない働きかけ続けること、だと思う。



  
『作詞作曲とソングライティング、は全く別物、という事実と誇大妄想をめぐる話』 おしまい


いいなと思ったら応援しよう!