『選ばれる人』第十五話(全十六話)
第十五章 花ざかりの幻想
嵐のような世論の乱高下のせいで、かえって椎名には清々しく澄んだ意識が芽生えはじめていた。
その気もないのに背負ってていた重き荷を解いた開放感がまずあった。
数知れない人たちから寄せられた思いの束は、やはり重かったのだ。
世評の下落によって、託される思いの束は目に見えて霧消した。
一度は期待に応えて、高みにまで翔け昇ったことも重要だった。
託された思いをまるで叶えられなかったとすれば、どんな過程があったにせよ、選手として自責の念に囚われたに違いない。
選手として一定の結果を残したあとだからこそ芽生えた、いわば「自由」の意識だった。
宿舎の自室。椎名は開けようと思うことすらなかった窓を開けると、広いベランダに出て大きく伸びをした。
『今の自分には、怖いものがない。こんな気持ちになるのは、振り返っても思い出せないほど久しぶりだ』
当事者ではない(当事者を傷つけることはあっても、当事者から傷つけられることはない)人の感情というものは、どんなときも浮薄で流動的なものなのだと改めて思い知らされた椎名は、大会前よりも少し変わった。
饒舌になった。
うまくコントロールできない主観と客観が刻々と交錯していることは自分でもわかっていたが、幸いそれは疎ましい内省の材料にはならなかった。
椎名の言葉数の多さにメンバーは驚きを隠せなかった。
レギュラーとサブの心の溝を、キャプテンとして埋めようと努めているのだと藤堂は喜んだが、椎名の心境の変化はそういうことではなかった。
椎名は「選ばれた人・選ばれなかった人」という区別ではなく、逃げ場のない戦場で「当事者として翻弄される戦友たち」を、これまでもそうだが、これまで以上に愛おし思ったのである。
椎名は「自分が代表復帰したことでレギュラーを外された」という口にもできない負い目から、あまり話せなかった寺田へも気軽に声をかけた。
緊張する寺田は、後輩として礼儀を守ることだけを考えていた。
その日の天候の話にはじまり、食事や睡眠などの体調管理を尋ね、練習中は熱心に技術的なアドバイスをする椎名の姿を周囲は注視した。
それは先輩が後輩に接する自然な姿で、それ以上のものではなかった。
椎名の言動に深い意味を見出そうとしていた周囲は肩透かしを食うような思いだったが、椎名と寺田の関係に、それ以上のことが必要だったかどうかは誰にもわからなかった。
ベスト4をかけた決勝トーナメント二回戦の前日、部屋の遮光カーテンを閉め忘れた多岐川は、真夏の曙光に瞼を射られて目覚めた。
起き出すにはまだ早すぎる。
カーテンを閉めて眠り直そうと窓辺に近寄ったとき、多岐川はその眼下に椎名の姿を認めた。
椎名は宿舎の敷地内のガーデンエリアをひとりでランニングしていた。
頼もしい代表チームのキャプテンでありながら、なぜか孤独な時をすごしている憂いにも似た佇まいに魅せられるのは不思議なことだ。
孤独な椎名の姿を眺める幸福を惜しみながら、辛抱しきれない多岐川は、急いで寝間着を脱いだ。
貴重であろうひとりの時間を邪魔する無粋を内心で恥じながら、多岐川はあえて快活に振舞った。
「おはようございます!」
背中からかけられた声に、椎名は走りながら振り向いた。
「早いね」
「はい。早朝ランニングは日課にしていますから」
「嘘つけ」
「嘘です。偶然部屋から椎名さんが走っているのを見かけたので。
椎名さんは、毎朝走っているんですか」
「夏場はね。寒い時期は一日置きくらいかな」
「昼間の練習だけではもの足りない感じですか」
「いや、ただの習慣。怪我をしてリハビリをしていたころからの。
あのころは大した練習もできなかったから」
『そうだ、この人は二度の大怪我を克服して蘇った不死鳥だった。
そんな過去を忘れさせるほど現在を輝かせているこの人はすごい。
表舞台から姿を消した陽の当たらない場所で、黙々と走り続けていた椎名さんの姿を見たかった。そのころにこそ寄り添って走りたかった……』
ふたりは、広い舗道の左手に咲き残る白い卯の花と、右手に咲きはじめた赤い百日紅の間を並走した。
走り終えた多岐川と椎名は、芝生に据えられたベンチに腰かけて、首筋を流れる汗を拭いた。
広いガーデンエリアに点在するベンチを飾るように配置された花壇には、色とりどりの夏の花が植えられている。まださほど気温は上がっていないが、すでに空は青く、雲は白い。
見渡す視界のトリミング次第では高原の避暑地にでもいるようだと多岐川は喜び、そのすぐあとに翌日の試合への不安を口にした。
「明日、監督はまたベストメンバーだけを起用すると思いますか?」
「多分、そうだろうね」
「またブーイングとかを受けるんでしょうか」
「あのブーイングは、選手起用に対するものじゃないでしょ」
「何でもいいから、レギュラーにブーイングを浴びせる機会をさがしているんじゃないでしょうか。
サブメンバーとの関係もぎくしゃくしちゃって、代表チームのレギュラーとして戦うことが今はつらいです。
あのブーイング、思い出すだけでぞっとします」
「確かに怖かった……」
「自分は悔しくて泣きそうになりました」
「悔しくて?」
「だって、そうじゃないですか。
開幕戦での熱狂は何だったのっていう豹変ですよ。
監督はじめチームもいろいろ批判されましたが、自分には批判する人たちの善悪の境界が理解できません。
選手起用の不平等はスポーツの世界では当たり前のことです。
今泉さんの不幸については、不平等というよりも、監督の不公正な恣意が働いたのかもしれません。
でも、ここだけの話ですが、今泉さんが海外で活躍を続けていれば何より勝利を優先する監督は、最後は今泉さんを再招集したはずです。
今泉さんの不幸も、結局、善悪とは別問題ではないでしょうか。
自分はいつも正々堂々と戦っています。
裏切り者と呼ばれるような罪を犯した覚えはありません」
胸の内を吐き出した多岐川は、タオルで汗と涙を拭った。
椎名が用意していた飲み物を手渡され、何も用意していなかった多岐川は恐縮しながらそれを飲んだ。冷えた水分が渇きを潤す。
「全部飲んでいいですか?」声を詰まらせながら多岐川が尋ねる。
「どうぞ」椎名は笑った。
「善悪の問題ではないかもね」
椎名も多岐川に同意した。
「じゃあ、どうして裏切り者呼ばわりされるんでしょう?
みんな何を裏切ったと言ってるんでしょうか?」
尋ねる多岐川に、椎名は
「いい気になるなって笑われるから、これも、ここだけの話にしてね」
と前置きをしてからこたえた。
「思い」
「は?」
「みんなが代表チームに託した思い。それは、夢、希望、勇気、友情、愛、絆、平和、奇蹟……エトセトラの思い。
それを背負いきれなかったことが裏切り」
「すべての人の思いを、思い通りにしてあげることなんて不可能です」
「上手いこと言うね。思い通りにしてあげることはできなくても、その思いを背負うことのできる特別な存在であればよかった。
選手の素顔に共感することがあっても、特別な存在が自分たちと同じでは困る。理不尽で不条理な現実に呑み込まれていては駄目なんだ。
花井は子どもたちに対してその逆を危惧していたけど、やっぱり万能ではないまでも代表メンバーは特別な存在であるべきで、よくあるスキャンダルで託した思いを汚すのは許せない……と」
「そんな、ファンタジーの世界じゃないんですから」
「ファンタジーの世界なんだよ。
微妙なバランスを維持できれば、嘘でもいいんだと思う。
幻想を背負ってほしいんだと思う。それができないなら代表チームなんていらないんだと思う」
無理難題を押しつけられたように言葉をなくしてしまった多岐川を見て、椎名はさすがに喋りすぎたと後悔する。
「いや、自分で開き直るためにそう考えただけのことだから……。
誉められるのといっしょで、貶されるのもそう長くは続かないよ」
笑顔で取り繕いながらそれなりに正直な気持ちを伝えたが、多岐川の表情は曇ったままだった。
「選手寿命だってそう長くはありません……」
今度は椎名が言葉に詰まった。
『そのとおりだ。いずれは見捨てられる』
「まあ誰に頼まれたわけでもなく、好きでやっているんだから周りがどうであろうと文句は言えませんけどね」
と多岐川は何とか自分を納得させようとしていたが、その顔を椎名は正視できなかった。
『自分も多岐川も見知らぬ誰かの幻想を背負うために、選手になったのではない。いつの間に、こんなことに……』
多くの人は、順繰りに花をつける卯の花のしおれた花弁には気づかない。ずっと咲いているように見て取れる。
でも、いずれは卯の花の季節も終わる。
卯の花の時季が去れば、百日紅が咲く。向日葵もあれば、撫子も控える。
声高に求めれば、青い薔薇さえ届けられるだろう。たとえ卯の花のことを忘れても、新たに愛でる花が絶えることはない。
多彩な花々を観たがる人たちに、卯の花だけの、またその一輪だけの尊厳を訴えてみてもはじまらない。
多くの花が見事に咲き競い、咲きそろってこその花園なのだ。もちろん、見栄えの悪い雑草を間断なく抜き取ることを公にする必要はない。
そして最大公約数の感興の浮遊にあわせて、季節を問わずその趣向も変化していかなければならないのだ……。
椎名はふと考えた。
『ここに本郷会長がいたら、自分たちにどんな助言をするだろう』
接触する機会はあまりないが、毀誉褒貶の激しい威勢は、否が応でも耳に入っていた。トップアスリートの「成り上がり」もしくは「成れの果て」の典型のような人である。
おそらくは理不尽で不条理な現実を逆手に取る次善策を示すことだろう。
自信に満ちたその言葉には、支配者特有の冷淡な損得勘定による裏づけがあり、従者としても簡潔でわかりやすいだけに、ことさらに汚らわしい逆説が、倒れそうな自分たちの傷口に塗り込められていくだろう。
煩悶の芯を埒外に捨て置いた逆説でふさがれた傷口は、目を背けたくなるような醜い跡を残し、生涯消えることはないのだ。
もとより本郷の助言など想像したところでわかるはずもなかったが、想像するさえ「結局、自分たちを救ってくれないだろう」という諦観だけが確かなものになった。
今泉のことも考えた。
「選ばれる人」の性急かつ無謀な反抗は「選ぶ人たち」の逆鱗に触れた。
その結果、選手としての栄誉ばかりか存在を支えるあらゆるよすがが剥奪され、やがて力尽きて彼の地で果てる。
『よくも悪くも、自分は本郷にも今泉にもなれない……』
それでも椎名は、せめて悪びれることなく、長く生き残りたいと思った。
翌日、数日来の報道規制が功を奏して、ベスト4をかけた一戦での混乱はなかったが、チームは世界ランキング3位で、椎名の天才を讃えたベテランキャプテンが率いる強豪国に完敗する。
藤堂監督は最後まで(逆転を信じて)、控えの選手たちを起用することはなかった。ワールドカップが終わった。
(第十六話につづく)
(第十四話はこちら)https://note.com/sin_sen/n/n28a9c7af4722
