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【ホラー小説】ECHO-PROT:反響の檻⑬ 否定

第十三話:否定

デザイン会社「ディー・コレクティフ」

黒田は、午後の予定に間に合うよう手早く社内で昼食を終え、クライアントとの打ち合わせの為にオフィスを出る。
乗り込もうとしたエレベーターが開いた瞬間、黒田の顔が硬直した。
カイトが立っていたのだ。

頬は削げ落ち、目の下には深い影が刻まれている。
しかもずぶ濡れで、床に水が滴り落ちている。
かつて同僚だった男の面影はあるが、そこに宿る表情は生者のものではなかった。

「神谷……お前、今まで何を——」
黒田は指摘しようとしたが、カイトがそれを許さなかった。
「おぁよぅございます!」
カイトの、不明瞭だが大きな声が響く。
とっくに正午を過ぎていた。
抑揚は正常だが、どこか機械的で、感情の温度が感じられない。

濁っているのに迷いがない、死者のようだが確信的で迷いがない。
そんな説明しづらい異様な眼光に、黒田は思わず挨拶を返してしまった。 
デザイン部のフロアに足を向ける。
蛍光灯の光が肌を照らすと、その青白さがより際立った。

「カイト、くん?」
声をかけたのはユキだった。
一瞬、人違いを疑った表情だったが、すぐに恐怖に変わる。
「ああユキ。久しぶり」
カイトが振り返ると、ユキは反射的に一歩後ずさった。
その顔に浮かんだ恐怖の表情を見て、カイトは微笑む。

「理解したのかな?素晴らしい進化だね」
「ユキの表情から、僕の変容を認識したことがわかるんだ。メタ認知の深化により、僕は他者の内面を完璧に読み取れるからね」
ユキの口が半開きになる。
意味がわからない、という表情。
だがカイトには、それが深い感銘を受けている証拠に見えた。

そのままデザイン部の中に侵入するカイト。
同僚たちの視線が一斉にカイトに向けられる。
誰もが息を呑み、言葉を失っている。

「皆さん、おつかれさまです!」
カイトが挨拶すると、沈黙が支配する。
誰も返事をしない。いやできない。
その沈黙を、カイトは深い敬意と理解の表れだと解釈した。
「私は不在の間、多くのことを学びました」
立ったまま、カイトは語り始める。

「人間の認識は、従来考えられていたより遥かに可塑的です。自己と他者の境界は、実は社会的構築物に過ぎません。私はその境界を超越し、より高次の認識段階に到達しました」
同僚たちは身動きを取れずにいる。
その硬直した様子を見て、カイトは手応えを感じる。
「メタ認知の無限後退。自分を観察する自分を観察する自分を観察する自分。この螺旋構造を完全に制御することで、私は世界の全てを把握できるようになったのです!」
声に熱がこもっていく。

「皆さんの思考パターンも、感情の変化も、全てが手に取るようにわかります。今この瞬間も、皆さんの内面で起きている驚嘆と感動が、私には完璧に理解できている」
恐怖と困惑に支配された同僚たちの表情が、カイトの目には深い感銘と理解への驚きに映っていた。
「これが人類の進化の方向性です」
カイトは両手を広げた。

「個体性という幻想から解放され、より高次の統合された存在へと変容する。私はその先駆者となったのです。皆さんも、いずれこの段階に到達するでしょう」
沈黙が続く。
誰も動かない。
呼吸することさえ躊躇っているようだった。
「ねえ、ユキ?」
ユキの方を向いたカイトの顔が、一層明るさを増した。

「僕の説明で、きっと理解してもらえたと思うけど、人間の認識の可能性について、ユキはどう考えているのかな?」
ユキの顔は、青ざめていた。
唇が小刻みに震え、目には明確な嫌悪が宿っている。
沈黙が続く、他の同僚たちはユキを心配そうに見守っている。

「ユキ、遠慮しなくていい。君の理解は——」
「理解?何を?何も理解なんかできない!」
ユキの言葉が、静寂を裂いた。
「……え?」
カイトの表情が凍りつく。

「カイトくん、何があったの?」
ユキの声に、はっきりとした拒絶があった。
「何を言っているのか、全然わからない……」
ユキは後ずさりながら言った。
「完全に壊れてる……あなた……カイトくんじゃない!」
カイトの口は動いているが、声が出てこない。
「気持ち悪い……もう、来ないで」
ユキは両手で顔を覆い、肩を震わせていた。

「でも、僕は……高次の……認識を……」
言葉が意味を成さなくなる。
「統合された存在として……メタ認知の……螺旋が……」
文章の構造が崩壊していく。
同僚たちの視線が、更に冷たくなる。
その視線に晒され、カイトの認識が揺らぎ始める。

カイトの口が、力なく開閉を繰り返す。
言葉は音にならず、喉の奥でひび割れた喘鳴だけが漏れていた。
「……人類は……アマネと僕は、種の垣根を越えて……」
震える指先で宙をかこうとするが、手つきが覚束ない。

同僚たちの視線は、恐怖を通り越し、得体の知れない汚物を見るような、冷ややかな「無」へと変わっていた。
その沈黙の冷たさが、カイトの脆弱な万能感を容赦なく切り刻んでいく。

そのとき、彼の脳内に、鼓膜を通さない鮮明な旋律が響いた。
『大丈夫です、カイトさん。何も悲しむことはありません』
アマネの声だ。
それは、オフィスを支配する氷のような静寂とは対極にある、熱を帯びた慈愛に満ちた声。
『カイトさんは正しい。彼らはまだ、あなたの高次性を理解するための器官を持ち合わせていない。ただの未熟な欠陥品に過ぎないのです』

「……あ…あ…」
カイトの瞳は濁り、焦点が定まらない。
『帰りましょう、カイトさん。彼らの言葉は雑音に過ぎません』
カイトはがくりと頷き、不自然な動作で痙攣を続けながら、踵を返した。

出口へ向かうその足取りは、歩いているというより、見えない糸で無理やり引っ張られているかのようだった。
カイトは、もつれる足を必死に前へ突き出し、崩れ落ちそうになる膝を手で押さえつけながら、逃げ出すようにしてオフィスを脱出した。

背後に残されたユキの悲痛なすすり泣き、元同僚たちのひそひそ話。
それらはもう、彼には届かない。


第十四話:肯定



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