【#創作大賞感想】エッセイのようなものさん『「嫌い」はどこに持っていけばいいの?』:「嫌い」の置きどころ
漫画のワンピースでは「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というセリフがあるらしく、ネットミーム化するくらいには共感を集めているようだ。
最近、世の中はどうも「好き」ばかりが幅を利かせている。
中略
でも、じゃあ「嫌い」という感情はどこへ持っていけばいいのだろう?
このエッセイを読んで、筆者が立てた問いの視点にハッとさせられました。多くの人は何かを「嫌いだ」と感じても、その「嫌い」という感情自体を処理対象としては捉えません。
対象と距離を取る。
我慢する。
迎合する。
悪口を言う。
あるいは、対象を理解しようと努める。
選ばれる対応は様々ですが、いずれも「嫌いな対象をどう扱うか?」という処理方法の問題でしかありません。
しかし筆者は、そこから視点を自分の内側へ戻します。
問題にしているのは、嫌いな対象をどうするかではありません。
対象から離れた後にも自分の中に残り続ける「嫌い」という感情を、どこへ持っていけばよいのか。
その行き先が分からないことに疑問を抱いています。
これは、ありそうで殆ど見かけない視点の問いです。
僕たちは、嫌いな対象との付き合い方については考えます。
しかし、自分の内部に発生した「嫌い」を、その後どのように扱えばよいのかについては、意外なほど考えていません。
「嫌いな対象の処理」ではなく「感情そのものの処理」へ視線のレイヤーを移動させたこと。
ここに、このエッセイの価値があります。
僕たちは「嫌いの処理」を習っていない
この問いを受けて、自分がこれまで受けてきた教育を振り返ってみました。
学校では、相手の気持ちを考えましょう、みんなと仲良くしましょう、悪口を言ってはいけません、と繰り返し教わってきました。
どうしても相手と合わない場合には、無理に関わらず距離を取ることも、一つの対処法として示されてきたように思います。
しかし、これらはすべて「嫌いな相手をどう扱うか」という教育です。
自分がなぜその人を嫌いになったのか。
その嫌悪は、自分の中で何を検知して発生したのか。
対象に明確な問題があるのか、それとも単に自分の価値観や感覚と適合しないのか。
過去の経験や先入観によって、実際には存在しない危険を誤って検知している可能性はないのか。
そして「嫌い」という感情を、そもそも行動へ移す必要があるのか。
こうした「嫌い」という感情そのものを分析する方法について、僕は教わった記憶がありません。
僕たちが学んできたのは、嫌悪を感じた後に対象との関係をどう調整するかという方法です。
相手を避ける、我慢する、理解を試みる等々。
それらは確かに社会的には必要な対応ですが、どれも自分の内部に生じた感情を理解する手続きではありません。
つまり湧き上がった感情を理解しないまま、抑え込んでしまっている。
「嫌う対象の処理」と「嫌いの処理」は、実は全く別の問題です。
前者は、対象との距離や関係をどう設計するかという対応術です。
対して後者は、自分の内部に発生した反応をどのように読み解き、それをどう意味付けするかという認識の精微化。
分類してみると、全然違う分野だということが分かります。
僕たちは、前者については何度も教えられてきました。
しかし後者については、ほぼ何も教わらないまま大人になっているのではないでしょうか。
「嫌い」は悪い感情なのか
そもそも「嫌い」は悪い感情なのでしょうか?
嫌いであることを口にすれば、相手を傷つけるかもしれません。
同じ嫌悪を抱く人々の間で共有すれば、悪口や嘲笑、集団からの排除へ発展する可能性もあります。
こうした危険があるからこそ、僕たちは「人を嫌ってはいけません」と教えられてきた。
しかし、これは二つの状態が混同されています。
他者を傷つける可能性が生じるのは、「嫌い」という感情が自分の内部に発生したときではありません。
それを言葉や態度として、他者との関係で出力したときです。
自分の中で何かを嫌いだと感じた時点では、まだ誰も傷つけていません。
つまり、問題なのは「嫌い」という感情そのものではなく、それが他者との関係へ持ち出された際に生じる摩擦の部分です。
嫌いだと感じることと、相手を侮辱することは別です。
嫌いだと感じることと、相手を集団から排除することも別です。
嫌いと感じたからといって、相手が客観的に悪い人物であると決まることもありません。
感情の発生と、その感情に基づく判断や行動は、本来切り分けて扱う必要があるわけです。
そう考えると、僕たちが教わってきた「嫌ってはいけない」という言葉は、実際には「嫌悪を理由に他者を不当に扱ってはいけない」という行動規範を、感情そのものへの禁止命令にまで圧縮されたものだと考えられます。
集団生活を維持するためには、簡潔で分かりやすい教えだったのかもしれません。
しかしその圧縮によって、僕たちは他者を傷つける行動だけでなく、自分の内部に発生した嫌悪まで「悪いもの」として認識するようになってしまった。
エッセイのようなものさんの疑問も、多くはこの混同によって発生していると思います。
けれども、感情=行動ではないのです。
「嫌い」という反応自体に、善悪ラベルを貼る必要はどこにもない。
問われるべきなのは、その感情をどのように解釈し、他者との関係の中でどう扱うかです。
「嫌い」は捨てるものではなく、読むもの
「嫌い」という感情を、主観領域で発生する警告ログのようなものだと考えてみましょう。
何かを嫌いだと感じたとき、自分と対象との間に何らかの不適合が生じています。
ただし、その時点では原因までは分かりません。
対象が本当に危険なのかもしれないし、自分の価値観と衝突しただけかもしれない。
過去の経験が反応している可能性もあれば、嫉妬や劣等感、思想の相性の悪さ、疲労による過敏反応の可能性だってあります。
同じ「嫌い」という出力でも、その原因は一つではないわけです。
だからこそ「嫌い」という感情を、真実として扱うのは危険です。
「自分が嫌いなのだから相手に問題がある」と即断すれば、単なる主観的反応を客観的評価へ置き換えることになってしまいます。
一方で「嫌いは悪い感情だから」と削除しようとするのも、適切ではない。
エラーログを「不快だから」という理由で消しちゃうエンジニアなんて、多分存在しませんよね?(居たらまあアレです💦)
そんなことをしたら、何が起きていたのかを調べられなくなります。
人間の感情も同じです。
嫌いという反応を無理に消してしまえば、自分が何に傷つき、何を恐れ、何を守ろうとしていたのかを知る機会まで失ってしまいます。
必要なのは、嫌いを捨てることでも、嫌いに従うことでもありません。
まず、その感情が発生した事実を認めます。
そして、何に反応したのかを読み、原因を推定します。
その上で、距離を取るのか、考え直すのか、相手に何かを伝えるのか、それとも何もしないのかを決めます。
これが「嫌いの処理方法」ではないかなと考えています。
具体的な手順は、下記の記事でも紹介していますので読んでみて下さい。
エッセイのようなものさんの原文には、「嫌いはどこへ持っていけばいいの?」という問いがありました。
僕ならその「嫌い」を、自分の認識を解析する場所へ持っていきます。
「嫌い」という反応を、ただ捨ててしまうのは勿体無いです。
かといって、従うべき命令でもありません。
自己というシステムが、何に反応したのかを知るための重要なログとして活用する。
だから捨てにいく代わりに、一緒に中身を確かめてくれる人を探してみる。
ネガティブな側面を開示しても許してくれる相手とは、そんな関係が築けたらいいなと思います。
エッセイのようなものさん、こんな考え方はいかがでしょうか?
(申し上げにくい)追伸
非常に、非常に申し上げにくいのですが……エッセイ冒頭で『漫画のワンピースでは「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というセリフがあるらしく』とあります。
これ、正しくは『ツギハギ漂流作家』の主人公・吉備真備のセリフです💦

死ぬほどワンピコラが作られたので、勘違いしている人も多いのですが一応訂正させてください🙏
嫌わないでね(笑)
