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『V. MARIA』宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)

    現代の日本映画界において、この10年間でもっとも多種多様なジャンルの音楽をテーマに映画をつくり上げてきた宮崎大祐。その新作『V. MARIA』は、みずからの名が記された遺品のカセットテープを手にしたことをきっかけに、亡き母の秘密を追い求める主人公マリアがヴィジュアル・ロック(以下「V系」)の世界へ足を踏み入れてゆくさまを描いた青春音楽物語だ。
    1980年生まれの宮崎も十代半ばで、90年代に隆盛を極めたV系と出会い夢中になったリスナーのひとりであった。それから30年以上が過ぎた今、いかなる思いをもってV系を映画としてヴィジュアライズしたのか。ロングインタビューを通して浮かび上がらせたい。

    Ⅰ
    ──監督はV系の映画の構想を長年持っておられて、2017年にはその断片を伺った覚えがあります。当時はどのような物語をイメージしていましたか?

    その頃は『PLASTIC』(2023)のV系版を考えていました。

    ──幻のバンドの物語でしょうか。

    幻ではなく、V系に夢中になっている子が、東京や神奈川など関東の都心部からだいぶ離れた静岡あたりに引っ越してきて、同じくV系が好きな女の子と出会う。そんな話を考えていました。

    ──その後も映画化に向けて、みずから動いておられましたね。

    興味を示してもらえそうな方たちに企画を持って行ったものの、芳しい反応は得られなかったですね。自分も正直、現代のV系がどういう状態なのか細かいところまでは把握できてなくて、今も一定の支持があり、海外にはそれなりに広がっているという程度の認識でしたが、映画の制作側のV系全般に関する不勉強からくるアレルギーみたいなものは少し感じました。

    ──本作のオファーを受けたのはいつ頃でしたか?

    2024年の6月半ばでした。その時点では7月から撮影を、という提案でしたが、まだシナリオも出来上がってない状態でそれは無理があるだろうと(笑)。だいぶ待ってもらって、それでもクランクインしたのが11月。普通の映画のスピード感からすると相当速いです。とはいえ、オファーを受けたちょうど1週間ほど前に、地元の駅のホームで「V系の映画を撮りたい」と考えていたので、これは天の啓示だなと(笑)。
    当時は、ほかに進めていた企画が頓挫した時期でもありました。シナリオを誰が担当するのかと訊ねると、演劇の池亀三太さん(共同脚本)が書いているということでした。

    ──インまでは、あらゆる面でタイトなスケジュールだったのではないでしょうか。

    どうしてもやりたいと思う、自分が発起人の企画であれば2、3年かかっても構わないし、仕事でもそれなりに大きな企画の場合ならキャストのスケジュール待ちということもあります。しかし依頼を受けた仕事の企画で実現するのかしないのか不確定なまま、それ一本で何年も待たされるのは40代の自分には時間が惜しく感じてしまう。そういう意味で、6月にオファーを受けてすぐに撮影というスピード感は少し性急すぎるとはいえ、よかったですね。

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    ──その短期間でキャスティングはどのように?

    菊地姫奈さんが主演でマリア役をつとめることは決まっていました。菊地さん以外のキャスティングについては、いろいろ模索しつつ、オーディションをおこなった人から配役していく形になりました。カナタ役の藤重政孝さんは、プロデューサーのひとりが「歌える方だしよいのでは」と薦めてくれて決まりました。

    ──俳優陣との顔合わせはいつ頃だったでしょう。

    10月31日が衣裳合わせを兼ねた顔合わせで、11月5日にはもう後半のビデオのシーンの撮影でした。この速さは同じV系でも「Vシネマ」ですね(笑)。

    ──まさに(笑)。その速さだとリハーサルも過去作とは違っていたでしょうか。

    これまで通りでしたが、今回は動きよりもシナリオの読みを大事にしました。特に若い頃のカナタを演じる佐藤流司さんはどういうお芝居をされるのか想像がつかなかったのが、そこで資質を掴めた気がします。準備段階でシナリオを狙いどおり発声できれば、あとは現場で調整出来ると確信していますが、時間がほとんどないことが想定されるなか、大人数の芝居が多い女性陣とは入念に読みを重ねました。

    ──セリフからシナリオを想像すると、リアルタイムで90年代のV系に触れた世代が楽しめるうえで、ライトでイノセントな要素も多かったと思います。そこをどう画と音で見せるかが、腕の見せどころだったのではないでしょうか。

    シナリオにあったイノセントな要素をところどころに残しながら、大人の観客も見られる映画の演出を目指しました。シナリオの直しはもちろん、セリフの発し方や動きの面で、成熟した大人が登場する映画としてどう見せられるか。そこが自分の勝負どころでしたね。

    Ⅱ
    ──監督のキャリアで初の試みが幾つか見られます。長編作でシネマスコープサイズは本作が初めてです。

    過去と現在をわかりやすく、なおかつ予算を膨らませずに描き分ける方法を考えました。近年の自作だと『#ミトヤマネ』(2023)のUnivisium (アスペクト比2:1)もそうでしたが、スクリーンサイズを変えることにこの数年ハマっていました。昨今のアメリカン・インディーズ映画に多い傾向ですね。
    それを、そうした作品に慣れていない日本の観客に違和感なく見てもらえるように、過去パートと現代パートでサイズをふたつ用意しようと撮影の向山英司さんと相談しました。「現代を16:9、過去を別サイズで」など幾つか意見を出し合った結果、クランクイン直前にメインには手持ちのシネスコがしっくり来るだろうと決まりました。『アリー/スター誕生』(2018/ブラッドリー・クーパー)など、デビッド・O・ラッセルの影響下にある作品を見ていた影響もあります。

    ──向山さんが準備する時間は足りていたでしょうか。

    それが驚くほどスムーズに対応してくださりました。シネスコは過去に短編『Caveman’s Elegy』(2020)でも一度使って、照明を色々仕込めるなどのメリットがある反面、フィックスだと画づくりがなかなか難しいと思っていた。さらに手持ちは初めてなので少し不安を覚えながら現場に入ると、向山さんがすごく巧みに使ってくれました。シネスコとスタンダードの明確な対比が、終盤のあるシーンで融合する構成も重要だと考えていましたね。

    ──ライブシーンの撮影についても教えてください。

    AzavanaはGoProを含めてカメラが3台、終盤は2台と、アート映画のライブシーンの撮影スタイルから大きく逸れられない体制でした。それでも出来るだけ多くのアングルで撮って、見やすく楽しい、一曲丸ごと使っても飽きないようにしたいと思っていました。
    後半のほうのライブシーンでタイザーさんが弾いているレスポール・モデルは、故HEATHさん(X JAPAN)のものです。あのシーンの皆さんの衣装や動きなどはSUGIZOさん(音楽担当/LUNA SEA/X JAPAN)が現場でディレクションしてくださって、「こう演奏するほうが恰好いい」「ここで動きにメリハリをつければミュージシャンのカリスマ性が出るよ」といったステージ上の細かい指示もしていただきました。
    後半のライブシーンは、ぼくはジョニー・キャッシュ、SUGIZOさんはソニック・ユースやスロウダイヴ的なものをイメージされていたので、それぞれのいいとこどりで撮影を進めました。

    ──冒頭、タイトルカットを挟んで映画のトーンが大きく変わります。監督の長編のほとんどが日本家屋で撮られているので慣れているつもりでも、このギャップは大きかった(笑)。

    撮影前に、グレッグ・アラキの映画を何本か見ていたことも影響していますね。カリフォルニアのカラッとしたグランジ風スタイルが、突然湿度の高いアジア映画になるようなイメージです(笑)。
    撮影には神奈川県高座郡の、大和市のふたつ隣の寒川町にあるお家をお借りしました。持ち主の方が自分でつくられた、だいぶ変わった造りです。撮影できる広さで、物語が成り立ち、なおかつ制作費に収まる家となると、そう簡単には見つからなくて。そんななかで実に素晴らしいお家が見つかりました。

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    ──マリアが母・聖子(吉田凛音)の遺品のV系専門誌やグッズなどを見つけ出します。あれは美術部が用意されたものでしょうか。

    皆で持ち寄りつつ、ベースになるものはメルカリに箱ごと出品されているのをプロデューサーが手に入れました。だからリアルですよね(笑)。やっぱりあの重量と物量があってこそ、90年代との30年間の時の隔たりを表せるかなと。

    ──聖子の日記帳の装飾のアイデアは?

    ぼくが大好きだった故hideさん(X JAPAN)の愛機だったモッキンバード(フェルナンデス  MG-X)のサイケデリックペイントをもとに、美術部の方に描いてもらいました。 旧Twitterで反応を見ると「あの柄をノートに描いていた」という人がおられて、やっぱり当時はそうだったんだなと感じました。

    ──あの色彩の好みに関しては『PLASTIC』公開時のインタビューでもお話しいただきましたね。それから90年代のV系のリアリズムといえば、特攻服もそうです。

    当時はライブに行っても着ている人がいましたよね。面白いのは「特攻服なんか着るわけがないだろう」とツッこむ人が旧Twitterに結構いて、たぶん若い世代なんでしょうね。ただ、特攻服をつくるのにもお金がかかる。「どうしようか」とスタッフたちから相談されましたが、「ここは特攻服じゃなければダメでしょう」と。それでデザインもぼくがしました(笑)。

    ──しっかり往年のV系文化の一部を押さえています(笑)。しかし、ベルトルッチの映画のタイトル『革命前夜』(64)を刺繍した特攻服は前例がない筈です。

    現実にはありえないでしょうね(笑)。ベルトルッチを知っているスタッフはあまりいませんでしたが、「よくわからないけど響きがいいよね」と「革命前夜、革命前夜!」と盛り上がっていたのは面白い現象でした。
    LUNA SEAのデビューアルバム(91)の告知広告に「革命」という単語があります。そこにひねりを加えて映画史にかけ合わせると、少し可笑しさも出る。ベルトルッチを好きな自分にとっては「これしかない」と思える四文字です。革命が本当は起きないことを前提にしたロマンって、V系的じゃないですか。

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    Ⅲ
    ──続けて技法や細部について伺えればと思います。随所に使っているモノローグは元のシナリオにあったものでしょうか。

    書き足してもらったりして、最終的には自分で直しました。ラッシュを見たあと、制作陣から「映画だからそれは要らないでしょう」という意見もありましたが、マリアと聖子の声、そして各シーン内の現実の声がクロスして多層的なポリフォニー状になるようにしたかった。
    粗編集を見ているときは、冒頭の階段のモノローグはなくてもいいのかなと思いましたが、音楽が入ってくると印象が変わった。最後のシーンであの声を効かせるためには、最初にモノローグがあったほうがいいと思い直しました。

    ──モノローグには語りを簡潔にする効果もありますね。

    それもありますが、物語自体を自由間接話法的・非直線的な語りにしたいイメージを持っていました。それから音の仕上げでそれぞれのモノローグの定位──声の聞こえる位置──が異なるように処理したので、その点でもそれぞれの声の響きに意味があるんです。
    たとえば、あるシーンでは観客の頭のなかに直接響くように、別のシーンでは客観的な解説のように聞こえるナレーション風に、と声の届き方を全シーンで変えています。

    ──回想も効果的ですが、誰の回想かわからないものが混ざっています。

    芥川(龍之介)の『藪の中』みたいに確かな答えはないけれど、登場人物が見た出来事の記憶や妄想、誰が見たのか判然としないイメージがクロスするポイントで、観客それぞれの幻想や解釈が立ち上がる。その交点Xが聖子という存在です。それは『VIDEOPHOBIA』(2019)にも通じる本作のひとつのテーマになっています。

    ──『#ミトヤマネ』のスクランブル交差点のイメージにも重なりますね。

    そうですね。その曖昧さが気になってしまう人や、ツッこみを入れる人がいることを想定したうえで、幅広い層が自然かつ気軽に楽しめる映画にしたかった。だからアーティスティックな主張は極力引っ込めて、出来るだけ物語をなめして整えました。回想というより、登場人物が「語った」「見ていた」可能性があってもいいのかなとも思いながら。
    とはいえ、聖子を知る人たちがマリアに過去の出来事をベラベラと説明はしないだろうし、あくまでもフレーム外は程よい混沌にしておこうと考えました。

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    ──リアリズムに即した質問ですが、終盤の回想の主はカナタの筈で、そのパートは5分強あります。ラーメンを食べながら大事な記憶を引き出す、もしくは語っているとすれば、それくらいの時間があってもおかしくはないですね。

    トリップしていたのか、あるいは説明していたのか。最初は勢いよく食べているから、そのあいだにおかわりした可能性もある(笑)。あそこは自分でも何度見ても面白いシーン。映画の不思議です。

    ──リアルタイムと時間の圧縮についてのヒントは、筒井武文監督の著作『映画のメティエ 欧米篇』(森話社)にある、『マーニー』(64)のトイレの個室に隠れるワンショットを「リアルなら5分は必要なのをヒッチコックが何秒に圧縮したか」という指摘でした。本作にも同様のショットがあり、前半を切っているとしても、わずか8秒。ヒッチコックのおよそ1/6の短さです。

    シナリオでは、あのショットの手前に色々と書かれていました。「そこを描かないいと成立しない」と議論になったりもしましたが、「時間をかけるところではないし、ちゃんと成立させるので問題ないです」と言ってこの形にしました。ジャンル映画は語りにおいて無駄なリアリズムを省いてサクサク進む。その感じでいいと判断しました。

    ──マリアが放課後、ハナ(真雪)を自宅に招くくだりで、ハナが「藤沢方面から通学している」と語ります。この設定に関して教えてください。

    藤沢は、寒川のある県央の辺りと比べて少しリッチなエリア。だからハナはハイソサエティな自意識を持っている子だと、準備段階やシナリオの読み合わせで伝えていました。藤沢から通学している設定にして、マリアとは少し異なる環境にいることを示すのが狙いでした。

    ──神奈川のリアルですね。マリアがハナを尾行する横移動ショットはどのように撮られましたか?

    可能であればレールを引いて撮りたかったショットです。でも時間もないし、ジンバルでレール的な動きをすることにしました。あそこは人物のフレームイン/アウトとカメラの動きをだいぶ練りました。トリュフォーが『夜霧の恋人たち』(68)で縦の移動でやったコミカルな尾行を、横にしてフレームイン/アウトすると、大笑いじゃなく苦笑いくらいのニュアンスと、シネスコならではの斬新さが出るだろうと思って(笑)。

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    ──微笑ましいシーンです。本作の英語字幕版を見ると、この尾行シーン以外にもマリアが「Excuse me」を何度も口にします。日本語だと「あの……」というセリフは、物語の構成にも関わっていると思います。

    日本語の「あの……」に含まれるニュアンスは多いですが、機能的な英語の場合はずいぶん少ない。それは今回の学びになりました。この映画は突き詰めれば、マリアがいろんな人に何かを尋ね歩く探偵物語です。それなら「Excuse me」が多くてもいいだろうと。
    探偵物語をさらに言い換えるなら、初期ファミコンの『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』みたいな(笑)。謎がひとつ解明されると次に進み、元の場所の認識が少し変わって選択肢が増える。あのイメージです。V系の黎明期は80年代後半で、『オホーツク』のファミコン版は87年発売。はからずも一致しました(笑)。

    ──登場人物のなかで持っている情報がいちばん少ないのがマリア。その点で探偵の物語といえますね。そしてワイプと画面分割も新しい試みです。

    あのシーンをどう演出するかは固めていなかったけど、画面分割だけは多めにしようと最初から思っていました。最近仲よくしてもらっているアメリカの監督、ユージーン・コトリャネンコの多用する画面分割とワイプが面白いなと感じていて。
    それから、普段あまり映画を見ない人でも楽しめることを前提に、そのなかに少し変なところをつくりたかった。たとえば普通なら切り返すところを画面分割してみたり、野暮ったいとされているワイプを、そうならないギリギリのラインで試してみたかったんです。

    ──本作の語りはアメリカ映画のスタイルですよね。それをシンプルな物語と、日本的な景色で展開させます。

    そこは一種のチャレンジでしたね。Too much な要素が散在するシナリオを画にするにあたり、もし撮影中に「これは演出し切れない」となった場合、寄る辺となるストーリーラインだけはなるべくシンプルにしておきたかった。同時に今、アメリカ映画が日本では映画ファン以外の層に顧みられない状況があります。だけど、そういうアメリカ映画的な物語構成を日本の景色で展開したときに、果たしていつもスマホで映画を倍速で鑑賞している一般の人たちに受け入れられるのか? その挑戦もしたかった。「アメリカ映画の物語構造」の現代日本におけるアクチュアリティを見てみたい気持ちもありました。

    ──V系の大きな特色が過剰な派手さ。片や、本作のロケーションは素朴な日本の風景です。監督が毎回直面する問題ですが、今回はこの対比をどう考えられたでしょう。

    自分がV系にハマったのは大和と寒川にもほど近い横浜の果て、神奈川の郊外です。そこは渋谷に通うオシャレさんにも、もしくは暴走族やヤンキーにもなり切れないような人間たちの持つ鬱々とした自意識で埋め尽くされた退屈な場所でした。だからこそ、V系が強烈な非日常として刺さったということはあると思います。
    たまたまですが、今回制作に携わってくださったLUNA SEAのメンバーの出身地も大和市と秦野市。それで最初から主人公の住まいは神奈川のどこか、もしくは似たような環境の埼玉か千葉にしようと考えていました。それより離れると少し遠くなりすぎて、そこに発生するのは田舎の悩みになってしまう。そこまでの距離ではない退屈などこかで、欧米文化とヤンキー文化の影響を受けて咲いた、奇妙で土着的で唯一無二な音楽と遭遇する若者の映画をつくりたいと思っていました。
    その日のうちに都心から帰れる距離感があって、最も撮影しやすかったのが大和市のふたつ隣の寒川町でした。そういう何もない、田舎ですらない町並みをアメリカ映画のスタイルで撮って、映画として成立させることに自分はキャリアを通してずっと取り組んできた。今回はそれを剥き出しにしつつ、全体をよりエンタメ調に仕上げました。
    何もない景色とスタイリッシュさの対比に関してもう少し言えば、ニューヨークのソーホーやアッパー・イーストサイドにスタイリッシュな人たちがいても特に何も感じないと思います。だって恰好いいこと、歌舞いていることが当たり前なので。
    それが高圧電線と中途半端な広がりのある田園風景に、あのルックの hide さんや SUGIZOさんたちが幻視できると、先ほどお話しした非日常への誘いを感じられる。それがぼくにとってのV系の魅力です。見た目はもちろん、音楽性も明らかに過剰でやり過ぎている。ただし、それはこの何もない場所で刹那的に華開いた美学であり祝祭だと思います。

    Ⅳ
    ──伝説のバンギャと呼ばれる響子(サヘル・ローズ)の人物造形は、何か参考となるものがありましたか?

    参考になったもの……、一部は自分自身でしょうね。ぼくはずっとV系のコアなリスナーで居続けた人間ではないですが、ロックやラップなどの尖り気味の音楽を聴いていると公言すると嘲笑されかねない年齢になったし、90年代に超かっこいいと思っていたバンドたち──ニルヴァーナ、R.E.M、ペイヴメントなど──が今や Apple Music ではダッド・ロック(親父たちが好きなロック)みたいなタイトルのリストで一括りにされています。リアルタイムで生々しく感じた衝撃、今でも変わらずいいと思える音楽が、中高年層の痛々しい嗜好とされている。もちろん究極的には人がなんて言おうがどうでもよくて、好きなものを聴けばいいけど、ああ歳を重ねたんだなあとは思いますね。
    それからLUNA SEAやほかのV系バンドのライブに行くと、ずっと現役で今なおライブハウスに通っている、ともすれば自分より歳上の方たちも多かった。響子はそういう人々をイメージしながら、現在の自分が抱いている戸惑いや人生の問題を反映させたキャラクターです。

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    ──マリアと響子が初めて会話するシーンの動きとカット割りはどのように組み立てられたのでしょう。

    今回は本当に時間がなかったので、現場ではまず事前に準備していたブロッキングで動いてもらって、やりづらそうな場合は修正する形でした。関係性の変化によってツーショットからシングルショット、あるいはその逆をハナを含めた三人で繰り返す構想はあったので、それに沿って動いてもらって。
    藤重さんとSUGIZOさんは「監督はカット割りの癖が強い」とおっしゃっていましたが、自分としては位置関係だけで見せる古典映画のつもりなんです(笑)。

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    ──西新宿のレコード店のシーンで、いきなり店長(西村瑞樹)の真正面の寄りになるのはなぜでしょうか。

    映画を通じてマッチショット(映像韻)にしている正面切り返しですね。レコード店以外でも、90年代の聖子が出かけるカナタを見つめるところ、現在のカナタが部屋でマリアの問いに応じるところなども、わかりやすい正面切り返しです。現在に過去の面影が入ってきたり、過去に現在の予兆が入ってくるところはそう撮ろうと考えていました。

    ──限られたスケジュールで、あの店内のシーンは丁寧に撮ってアクション繋ぎもきっちりされています。画面から撮影のペースが読めない(笑)。

    西村さんの芝居が固まるまで少し時間がかかりましたが、そのあとは順調に進んで「じゃあ押さえでこれも」と撮っているうちに、予想外にいろいろ素材が撮れました(笑)。
    正面から店長に寄るのは、シーン頭なので変なことをしてみたいというのもありました。アクション繋ぎでスムーズに進んでも、やはり違和感が生じるポイントはつくっておきたい(笑)。正面の寄りで切り返すと、その人が持つ人間性ではない唯一無二の動物性みたいな何かが顔に現れて、最近はそこに面白さを見出しています。映画は様々なアングルで人間という動物を見ることが出来るので(笑)。

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    ──「カット割りの癖が強い」とは、その辺りを指している気もします。それから多くの人が気になるでしょうが、マリアの祖母・幹恵(藤田朋子)がトマス・ピンチョンの『V.』を読んでいます。

    助監督からも「絶対にそんなの読んでいないでしょう」と言われました。確かにそうだろうけど、あれだけハイカラなおばあちゃんだし、間違って図書館の推薦図書から借りてきたことにしようと(笑)。ピンチョンも謎が謎を呼んで話が広がりますし。

    ──物語にまったく貢献しない小道具なのがいいですね(笑)。

    そうです(笑)。一方で『大和(カリフォルニア)』や『#ミトヤマネ』で使った円やXのフォルムを意識する時間はありました。『大和』と本作は、iPhoneとiPhone mini のような関係かもしれないですね。

    ──そのように過去作からずっと引き継いでおられるのが「父親不在」の家庭です。相対的に母の存在が大きくなって、本作では特にそれを感じます。

    父の不在はもう意識的ですね。父殺しは長編デビュー作『夜が終わる場所』(2011)でやったので、しばらく父は出てこなくていいかなと思っていたら 14 年も経ちました。そろそろ小さな父に帰還してもらいたいですが。
    V系文化もヤンキー文化も仲間にある程度寛容で、何よりも関係主義的で母性的なところがあるし、監督としてすべてを受け入れて見届ける自分の視点も、聖子の視点と同一化しているのかもしれません。

    ──ロケーションに注目すると、カナタが住むアパートもいいですね。

    90 年代前半に引っ越してきたとして、ギリギリ現在まで残っている佇まいのアパートですね。「30 年も住むわけがない」という人もいたけれど、SUGIZOさんのお知り合いのミュージシャンも、同じアパートに住み続けておられると聞きました。

    ──アパートのシーンでは明るくフラットな光がありません。照明部とはどのような相談をされたでしょう。

    ぼくがノワール調のルックが好きなのもありますが、撮影の向山さん、そして照明の柴田雄大さんが暗さを強調したい意向を持っておられた。「こんなに暗くてもいいですか?」と訊かれて、「せっかく映画だから暗くしましょう」と。シーンによってはノイズが乗って、ちょっとフィルムっぽくていい味わいになったと思います。

    ──仰角のアングルは監督からの提案でしたか?

    (部屋にいる)亀の視点を入れたいと思ってぼくから提案しましたが、決めてくれたのは向山さんです。

    ──亀は『大和(カリフォルニア)』にもあった『百年の絶唱』(98/井土紀州)からの影響ですね。ほかに『大和』との共通点として、監視カメラの映像を使っています。厳密には監視カメラ的な、誰の視点かわからない俯瞰ショットと言ったほうがいいかもしれません。

    マリアとハナがライブハウスで一緒にフロアに入っていくところですね。

    ──なぜその視点なのか。それは過去のインタビューをを読んでいただくとして、本作と『大和』を併せて見れば、宮崎大祐という人間がよくわかるかもしれませんね。

    とてもよく理解していただけると思います(笑)。

    Ⅴ
    ──SUGIZO さんは90年代から、ジャンルを越境した活動をしておられました。その部分で監督と似た部分があるように思うのですが、ご一緒されてどう感じたでしょう。

    それは友人にも言われました。SUGIZOさんの活動を今までほとんど追っていない友人が本作を見て色々調べたら、感性が似ていて大きな影響を受けている気がすると。それはそうだろうけど、どこでしょう。
    いろいろなジャンルに興味があってどんどんクロス・オーバーした末に、逆に特殊性が浮き上がってくる感じとかでしょうか。あとはゴスっぽいものや歌舞いたものが好みなのもそうでしょうね。
    本作はV系をテーマにした作品だけど、SUGIZOさんに手がけていただいた音楽はほとんどSF映画ですし、映画としてV系ヒューマンドラマの形を取りながら、実は探偵、そして冒険映画という物語の構造は『インディー・ジョーンズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85/ロバート・ゼメキス)とほとんど同じだったりもする。もし、そういう表面的イメージに留まらない深層の部分でも共通点があるとすれば嬉しいですね。

    ──さらにV系の大きな要素としてゴシックが挙げられます。大づかみにいえば暗黒や退廃で、監督の映画にも『夜が終わる場所』からゴシックの要素があると感じていました。『VIDEOPHOBIA』の世界はゴシックそのものだし、『#ミトヤマネ』のマネージャー・田辺(稲葉友)もダークな雰囲気で、小道具の本はユイスマンスの『さかしま』(訳:澁澤龍彥)だった。本作ではその要素が際立っています。宮崎大祐とゴシックに関してお話しいただけますか?

    自分が本当に好きなものの特性を考えると、映画だとデヴィッド・フィンチャーやフリッツ・ラングが好きですし、どこかに暗い影のさした表現をクールだと感じます。音楽の嗜好もおそらくそうで、ダウナーな陰りがあるもののほうが好きで落ち着きます。黒人音楽でいえば、スタックス・レコードよりもギャングスタラップのほうがピンとくるというような。文学も、ドストエフスキーやエルロイなど、闇を見据え切った末にある仄かな薄明かりが好きなのは昔から変わらないですね。
    それはぼくが、バブルが弾けて社会不安が強かった90年代世紀末に青春時代を過ごした、いわゆるロストジェネレーションだという世代的背景が影響しているかもしれません。
    V系にはXから入りましたが、最初は曲がすごく速いなあという程度のことしかわかりませんでした。本格的に聴いたりコピーしはじめたきっかけは、やはりLUNA SEAです。それからちょうど先日、ぼくが初めて行ったライブである、横浜アリーナのhideさん のライブ映像がYouTubeに全編アップされていて、それを見て 30 数年ぶりの感動を覚えました。いまだに圧倒的にかっこよくて、これが原体験として自分の中心にあるのかもしれないと思った。暗い雰囲気のなかに派手なピンクなど色とりどりの衣装で着飾った人たちが蠢く様子をいま見ると、どこか自分の映画的だとも感じます。
    あとは、たとえば携帯電話の写メやショート動画を撮ると、何だか怖いと言われることが若い頃からしばしばありました。写真であれ映像であれ、切り取る風景がなんだか毎回凶々しいと(笑)。そうした感性が、黒沢清さんや『百年の絶唱』、カラックスなどの映画的記憶と結び付いて現在に至るのかなと思います。そんな自分が撮ったV系映画がハートフルドラマとして受け取られると、これまでにない奇妙な感覚を覚えます(笑)。

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    ──そう仕上がったのは、菊地さんの存在も大きいと思います。菊地さんが持つ俳優の資質を教えてください。

    菊地さんは──映画界でよく使われる抽象的な表現ですが──ただその場に存在できる人です。映画って、やっぱりいるだけで成り立つ役者が好まれますよね。浅野忠信さんや、ある時期の西島秀俊さんがそうでした。菊地さんにはそうした映画俳優の佇まいがあり、聡明で対応力も高いので、こちらの注文に即座に対応してくれました。今までお仕事した方のなかでも屈指の勘のよさを持っていましたね。
    映画は山場でよいショットが撮れないと成立しません。本作の場合は撮影が非常にタイトであるにもかかわらず、山場が数箇所ありました。でも、そのいずれも菊地さんは軽々とクリアしてくれた。特にラストシーンのあの「強度のある」表情は素晴らしかった。
    時間をオーバーしていたのでスタッフには迷惑をかけていたけど、本当によく集中してくれて、ある言葉を囁くと素晴らしいショットをもたらしてくれました。ぼくは別室でモニターを見ながら声を出して応援していました。
    「菊地いけ! 菊地いけ!」と応援団みたいなノリで(笑)。手拍子も打ちながら「そうだそうだ! その感じだ!」と長回しが続いていき、OK テイクが撮れました。改めてこんな稀有な「映画俳優」とお仕事ができてラッキーだと感じましたね。

    ──そして本作を形づくるのが、SUGIZOさんによる楽曲とサウンドトラック。これらに関してはインタビュー後編でお聞かせください。 
                  
                              (2025年4月)
                            取材/文・吉野大地

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    ●『V. MARIA』X(旧Twitter)
    ●『V. MARIA』Instagram
    ●宮崎大祐監督・過去作インタビュー
    『大和(カリフォルニア)』
    『TOURISM』
    『VIDEOPHOBIA』
    『北新宿2055』
    『PLASTIC』前編
    『PLASTIC』後編
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    『#ミトヤマネ』後編
    『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』