経済成長すると少子化が進む理由と、べーシックインカムによる出生率の改善について
日本は少子化が進んでいる。
社会の存続のためには、出生率を維持することが、最も重要と言っても過言ではない。
後の世代が生まれなければ、今の社会の人たちが必死に作り出している様々な良いものも、結局は受け継がれなくなって衰退してしまう。個人の権利や多様性といったような価値観も、それを重視することで社会が維持できなくなるのであれば、いずれは否定される。
少子化というのは非常に重要な問題であり、実際に今も多くの人が問題視して、頭を悩ませている。しかし、であるにもかかわらず、少子化問題が解決に向かう兆しはない。
今回は、少子化問題がなぜ解決に向かわないのかと、べーシックインカムには少子化を解決する可能性があることを述べたいと思う。
経済成長の結果として少子化が起こる
日本は、長らく不況が続いてきたからか、「経済が停滞しているから少子化が進んでいる」という意見を持っている人が多いように思う。
しかし、それは間違いだ。
他の国の事情を見れば、少子化は、基本的には、経済成長することによって起こる問題だ。
日本では、経済が好調だった70年代から少子化が進行し始め、バブルのような好景気の時期にも出生率は低下していた。
バブル崩壊後の長期不況時にも出生率は低下し続けているが、他の先進国と比べれば、出生率の減り方は緩やかだった。

また、すでのアジアの先進国は、日本よりも出生率が低い国が多い。日本はむしろ、経済力のわりには出生率をまだ維持できているほうとも言えるかもしれない。


例えば韓国は、少子化という点においては最も数字の悪い国かもしれないが、経済成長においては、日本と比べて順調だ。

平成以降の日本の経済成長率は、平均して1%ほどで、「平成不況」とか、「失われた30年」と言われることもある。
それに対して韓国は、平均で4%以上も年間のGDPが成長していて、経済成長においては日本よりも調子が良い。一方で、出生率の低さは日本よりも深刻だ。
何が言いたいかというと、「経済成長すれば少子化が解決するわけではない」ということだ。
日本はなまじ経済が停滞しているだけに、「経済成長すれば色んな問題が解決する」とするような意見が影響力を持ちやすい。しかし、少なくとも少子化は、経済成長すれば解決する問題ではなく、むしろ経済成長することによって起こる問題だ。
ここからは、「なぜ経済成長すると少子化が進むのか?」を説明していく。
市場競走が社会にもたらすもの
経済成長する(GDPが増加)することは、基本的に、その社会に貨幣が浸透して、市場におけるやり取りが増えたことを意味する。
ゆえに、経済成長したということは、市場競走が行われる社会になったということだ。
市場競走には良い側面があり、競走に参加できる自由があることで、伝統的な社会の閉鎖性から抜け出して、個人が自分のやりたいことを追求しやすくなる。
市場競争によって、自由とチャンスのある社会がもたらされる。
一方で、努力をすれば優位を得られる社会になるゆえに、言われたことさえやっていればよかったような環境が破壊され、競走に勝つためにリソースを割かなければな不利になる社会になっていく。
自由の代償として、負担が増えやすいのだ。

子供を産み育てるためのリソースは、競走に使えるリソースでもある
経済成長すると少子化が進む理由は、経済成長するほど市場競走に勝たなければならない社会になっていき、そして、その市場競走に勝つために必要なリソースが、子供を産み育てるために使わなければならないリソースと食い合うからだ。
当然だが、人の持っているリソースは有限で、出産や育児をすることで消費するリソースは、自分が競走に勝つために使えたリソースでもある。
競走に勝つことで有利になれる社会であり、各々が競走に勝つためにリソースを使おうとするからこそ、子供を産み育てることにリソースを使うことが「損」になる。

個人に自己利益の追求を許す市場のルールは、実質的に、「出生」を大きくマイナス評価する。
市場競走に有利になろうとする個人の立場からすると、子供を産み育てるのに必要な金や時間は、自分のスキルアップやキャリアアップに使えたリソースでもある。つまり、出産や育児をすることで、プラスになったはずのものがそのままマイナスになり、非常に多くの負担になる。

経済成長(市場競争の影響力増加)によって、「個人が自由に競走に参加できる社会」になったのだが、それゆえに、「競走の上位になれなければ不利になる社会」にもなってしまった。
そして、子供を育てるためには「十分な所得」や「時間に余裕を持ちやすい有利な社会的地位」が必要で、それを得るためにみんなが競走の上位を目指すのだが、そのような競走の上位を得るためのリソースや、競走の上位を維持するためのリソースが、いざ子供を作ろうとするとごっそり失われてしまう……という構造になっている。
ゆえに、子供を作れない人・作ろうと思わない人が増えているのだ。
「十分な所得がないから子供を作れない」はマクロでは解決不可能
少子化問題に対策するため、「なぜ子供を作ろうとしないのか?」と個人に理由を聞くと、「十分な所得を得られないから」という答えが返ってきやすいだろう。
このような「十分な所得がないゆえに子供を作ろうと思えない人が多いという問題」は、景気が良くなったり、これからさらに経済成長すれば解決できるわけではない。
少子化の理由は、ミクロ(個人の立場)では「十分な所得を得られないこと」かもしれないが、マクロ(社会全体)では、「個人が十分な所得(相対的な上位)を得られないと子供を育てられない社会になったこと」だからだ。
貨幣は相対的に機能するものであり、「全員が他人よりも金持ち」になることは原理的に不可能だ。そこに競走が起こっているのなら、誰かが高収入になれば、他の誰かは低収入になる。
「十分な所得がない(相対的な上位ではない)」という問題は、ミクロでは解決できても、マクロでは解決することができない。

マクロにおける少子化の原因は、「個人が競争に勝って相対的な上位にならなければ子供を作ろうと思えない社会になったこと」、あるいは、「かつては子供を産み育てるために使われたリソースが、競争の上位を得るために使われるようになったこと」と考えるべきだろう。
であるならば、出生率を改善していくために必要なのは、「競走」そのものを否定することだ。
出生率を改善しうる政策は「正しさ」に反する
「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」という記事では、テクノロジーの進歩(自動化・効率化による供給力の向上)によって生活が楽になる以上に、相対的な優位を競う競走が激しく行われているので、それによって生活が苦しくなっていることを述べた。
また、上の記事では、自由を肯定するなら競走は避けられず、競走を否定することは個人の自由を制限することを意味するので、「不自由だけど楽」か「自由だけど苦しい」かのトレードオフがあることを指摘した。
過剰な競走が制限される「不自由だけど楽」な社会は、社会の余剰を作り出していくことができるが、競走に参加する個人の自由が制限されるので「正しくない」。
一方の、出生率を改善しうる政策(つまり競走を否定する政策)は、競走に参加する個人の自由を否定するゆえに、「正しさ」に反するものになる。

このように、少子化の解決は「正しさ」に反するゆえに、多くの人が少子化を問題だと思いながらも、それが解決する方向には向かいにくいのだ。
過去に機能していた「競走の過剰」を防ぐ考え方
出生率が高い時代には、「独身は出生させない」「結婚して妻子を養っていないと一人前の男と見なさない」といったような価値観があった。
当時の社会の常識や周囲の圧力は、例えば、
適齢期の男女が結婚するのはほとんど義務のようなもの
女性は基本的に家庭で子育てをするもの
女性が労働市場に出ても、補助的な役割の仕事に留まるべき
妻子を養っている男性が一人前
といったようなものだった。
このような過去の価値観は、当然ながら、現代では否定されている。
ただ、現代的な感覚ではあまりに酷いものと思われるような上記の考え方も、「競争に使うリソースと子育てに使うリソースは食い合う」という点を踏まえれば、一定の合理性があったことは否定できない。
これは、「女性は家庭に入るか補助的な仕事で、市場のメインプレイヤーは既婚者の男性」という形で、入り口の時点で、女性や、独身男性(出生にコストを支払わない者)を排除する形で、競走の過剰を防ぐものとして機能していた。
このようなやり方は決して正しくはないが、これによって自由が制限されていた時代は、「競走が否定される部分」と「競走が行われる部分」のバランスがとれていたし、経済成長しながらある程度は出生率を維持できていた。

ここでは、「女性が市場に参加する自由を否定するような、かつての差別的な社会を再び取り戻そう」という主張をしたいわけではない。
しかし、今の社会は今の社会で、子供が生まれなくて持続可能性がないので、何かしらの形で競走の過剰に対処する必要がある。
では、「現代の先進国がこれから少子化を克服する方法は何か?」だが、ここでは、「べーシックインカム」を提案したい。
「べーシックインカム」も「競走の否定」になる
ここでは、「累進課税+べーシックインカム」というやり方でも、競走の過剰に対処することができると考える。
市場競走の結果は、所得の差や財産の差という形で現れる。国家がその権力によって、金を多く稼いだ者から多くの税金を徴収すれば、それは市場競争が生み出した秩序の否定であり、「競走の否定」として機能する。そして、競走が起こらない分配の仕方である「べーシックインカム」を実行すれば、それによって「競走の否定」が為されるのだ。
上で出した、妻帯者の男性しか市場のプレイヤーと認めないような価値観を、「入口」の時点で競走を否定するものとするなら、「累進課税+べーシックインカム」のようなやり方は、「出口」の時点で競走を否定するものと考えることができる。

累進課税を強めてべーシックインカムを配ると、市場競走に勝つことで得られるリターンが小さくなり、子供を産むことで得られるリターンが大きくなる。
べーシックインカムは、育児をしている世帯を有利にすることができる政策だ。今の市場競走において、子供を作ることは純粋に金と労力の負担になるが、べーシックインカムの場合は乳幼児や子供にも同じように金が配られるから、親の負担は減り、実質的に「子供を育てていること」が評価されるようになる。
これからの先進国が「競走の否定」に舵を切っていくとするなら、伝統的な価値観を復権しようとするよりも、「べーシックインカム」のようなやり方のほうが受け入れられやすいのではないかと思う。
国家の支出先をめぐっては「弱さを競う競走」が行われている
「累進課税+べーシックインカム」が競走の否定になるという先ほどの話に対して、「でも、今も累進課税をとっているよね?」と思った人がいるかもしれない。ただ、今は「配り方」が「べーシックインカム」のような競走を否定する形ではないのだ。
「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」の記事で、「弱さを競う競走」について触れたが、現在は、国家の支出先(社会保障)の枠をめぐって、「いかに自身の弱者性を認められるか」という競走が行われている。
市場から税金を徴収して、それを国民全員に同じように配れば「競走の否定」になる。しかし現在は、国家の支出先をめぐっても、また別の競走(弱さを競う競走)が行われているのだ。

「弱さを競う競走」においても、「出生」はマイナスに評価される。なぜなら、「これから出生率を増やしうる層・支援が充実すればもっと子供を産めるかもしれない層」は、相対的には弱者ではないからだ。
弱者性を認められた者に保障が与えられるルールにおいて、「これから子供を産めるかもしれない層」は有利にならない。弱者性を重視するのであれば、「子供を産めるかもしれないほど恵まれているやつらよりも、もっと困っている弱者がいるだろ」という意見を無視することはできないからだ。

現在は、市場競走において激しく競走が行われ、さらに国家による再分配をめぐっても、福祉の枠を争う「弱者になろうとする競走」が行われている。それゆえに、競走が過剰なままであり、子供を産む余裕のない社会になってしまっているのだ。
集団を強くする(余剰を作り出す)ために「べーシックインカム」が必要
「出生率を増やす」ような、集団全体を強くするための政策は、中間層(相対的な弱者ではない人)に対して援助するようなものになる。
これは、社会福祉とはまた違った発想であり、社会福祉を可能にする土台を作るために行う必要のあることなのだ。
市場競走にしても社会保障にしても、母体となる社会集団に一定の余裕があるからこそ可能になるものであり、そのような余裕を作り出そうとする方法が「べーシックインカム」になる。
べーシックインカムが、どのようにして社会を強くしようとするのかについては、「ベーシックインカムを配らないとこれ以上の豊かさを実現しにくいという話」という記事や、「成長より先に分配と考えなければベーシックインカムは実現しない」という記事で説明しているので、よければ読んでみてほしい。
また、ここで述べてきたような文章をより体系的にまとめたものとして、「べーシックインカムを実現する方法」という文章を公開しているので、時間があればこちらも参考にしてもらいたい(全部無料で読めます)。
「べーシックインカム」は、社会福保障の代わりになるものではないし、弱者ではなく中間層(社会集団全体)にリソースを与えようとする点においては、むしろ社会保障に逆行するものになる。
しかし、社会を長期的に持続可能な形で運営していくためには、どこかで集団を強くする(出生率を改善する)方向に舵を切る必要がある。そして、それを行おうとする上で、「伝統的な価値観の復権による競走の否定」というやり方よりも、「べーシックインカム」のやり方のほうが、まだ実現可能性が見込めるだろう。
まとめ
不況が続いてきた日本では、「経済が停滞しているから少子化が進んでいる」と思われがちだが、他国の事情などを加味するなら、少子化は、むしろ経済成長することによって起こる問題だと言える。
「経済成長することで少子化が起こる」理由は、市場競走が影響力を持つほど、「子供を産み育てることにリソースを使う」よりも、「自分が競走に勝つためにリソースを使う」人が増えるようになるからだ。
「なぜ子供を作ろうとしないのか?」と個人に聞くと、「十分な所得を得られないから」という答えが返ってきやすい。ただ、個人が「十分な所得を得られないこと(相対的な勝者になれないこと)」は、マクロでは解決不可能な問題であり、マクロで考えるならば、「競走に参加しなければ不利になる構造」こそが問題と言える。
出生率の改善のためには「競走」を否定する必要がある。しかし「競走」は、個人の自由を尊重するからこそ起こる。ゆえに、出生率を改善しうる政策(競走を否定する政策)は、「正しさ」に反するものになる。
かつての伝統的な価値観(市場のメインプレイヤーは男性で、女性は家庭で子育て)は、「入口」において競走を否定してきた。それに対して、「累進課税+べーシックインカム」は、「出口」において競走を否定しようとするものになる。
市場競走の結果(所得の差)を「累進課税」で否定して、「べーシックインカム」を配れば、それは「競走の否定」として作用する。
現状でも「累進課税」が行われているが、今は、国家の支出先をめぐっても「競走(弱さを競う競走)」が行われている。そのような競走において、「これから子供を産めるかもしれない層」は相対的な優位(劣位)を得ることができず、支援の対象になりにくい。
市場で競走が行われた上で、徴税後の国家の支出をめぐっても競走が行われているのが現状であり、それゆえに競走が過剰な、子供を産む余裕のない社会になっている。
べーシックインカムは、社会保障の代わりになるものではないが、分配のもとになる余剰を増やそうとする(集団全体を強くしようとする)ための政策として、これからの社会に必要なものになる。
今回は以上になります。
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