年間読書人さんからの反論 (11)/ (最終回)
> スロウ・ボートさん
〈第14号〉を拝読しました。
今回は、私の11回目の「応答」となります。
この〈第14号〉では、いきなりの「終結」宣言だったので、ちょっと驚かされました。
ですがまあ、これは賢い選択だったと評価してます。
なぜなら、スロウ・ボートさんの、私へのこのところご批判は、私への人格攻撃に終始しており、それはまあ仕方ないとしても、ほとんど同じ罵倒の繰り返しになってしまってるからです。
つまり「年間読書人は、こんなに酷いやつだ」という決めつけとしての「結論」を、早々に語ってしまっているのでは、もう論じることが無くなってしまっている。
これでは、続ける意味がありませんからね。
私は、最近の何回かで、くり返し次のように指摘しました。
「結局、スロウ・ボートさんは、私が被害妄想だの、逃げ回ってるだのと、決めつけて罵倒するだけで、そもそもの議論の発端である、千葉雅也の『センスの哲学』の私の評価に対する具体的な批判を、まったく為し得ていない」
そしてそれは、「最終回」と題された今回も、まったく同じで、何も目新しいところが無かった。
私とスロウ・ボートさんのやりとりの初期の頃になされた『センスの哲学』評価について言うと、私の同書へのそれは、スロウ・ボートさんが否定的に評価した拙稿、
・千葉雅也 『センスの哲学』 : 「見る前に跳べ」と言われても…。
のタイトル「 「見る前に跳べ」と言われても…。」に尽きています。
一方、スロウ・ボートさんが、本来のアカウントである「歩く水のようなもの人の形をしたもの」名義で書かれていた『センスの哲学』評とは、
・千葉雅也『センスの哲学』//、アポリアからのエクソダス、//孤独なる魂の痕跡として、揺れ動く偶然性の平面にて、//〈壁〉を巡る無数の断片.
なのですが、私はこれを一読して、
「過剰なレトリックばかりで中身が無く、この論考に説得力を与えているのは、もっぱら、千葉雅也が売れっ子作家であるという事実だけだ」
と、そう評価しました。
つまり、スロウ・ボートさんの『センスの哲学』論を読んで、「なるほど、『センスの哲学』のすごさとは、そういうことだったのか」と納得させられるのではなく、単に、その「人気」にあやかって「すごいものはすごい」と騒いでいるに過ぎない「過剰なレトリックばかりで、中身がない評価だ」と、そう評価したのです。
例えば、それは「ある人気タレントが主演の映画」が公開されたとなると、多くのメディアにおいて、多くの人が、口を揃えて絶賛し、またそれに煽られるようにして、多くの人がこれを絶賛するという事態が、しばしば出来(しゅったい)するのと、同じようなことです。
なぜこうした「現象」が発生するのかと言えば、まず業界関係者としては、できるだけ多くのヒット作が出てくれないことには、業界全体として困るからです。
つまり、映画界だと、映画を見に行く人が減ってしまっては、業界に依存している映画評論家などは「おまんまの食い上げ」になってしまう。だから、自分の思うままに、作品を遠慮なく厳しく評価することがしにくくなってしまう。そうした辛辣な批評によって、映画を見に行く人が減れば、それは回り回って、自分の仕事を減らすことになるからです。
また、そんな忌憚のない批評を書いていれば、多かれ少なかれ利害に関わる映画雑誌などからの執筆依頼も減るでしょう。なにしろ、業界全体を疲弊させかねない記事だと見られるからです。
つまり昨今の、どっちを向いても「提灯持ち記事」ばかりという状況は、「より良い作品を作る」ことよりも、ひとまず「ヒット作を作らなければ、やっていけない」という、資本主義経済における、ある種の宿命的なものであるとも言えるでしょう。
また実際のところ、大衆が「宣伝」に弱いというのは、歴史が繰り返し証明してきた事実であり、それは今でも何ら変わってはいません。
アドルフ・ヒトラーによる「政治的な宣伝」だけが特別なのではなく、いつの時代にも、「流行り物」に対する「それはちょっと違うでしょう」という評価(異論)は、主流にはなれない。
そしてそれは、世界規模での弱肉強食が進んだ「新自由主義経済」下の社会においては尚更で、昔はあり得た「異論」が、今ではなおさら、表に出にくくなっている。
そしてこれは、現在の日本の出版界においても、まったく同じことです。
なぜ、昔からある芥川賞や直木賞だけに止まらず、年々歳々、いろいろな文学賞が作られるのか。一一それを考えたことのある人が、いったいどれだけいるでしょう?
多くの人は、そんなことを考える前に「受賞作」を知りたがることでしょう。そして、それで満足する。
受賞作なら、たぶん面白いだろうと、「消費者」として、そう考えてお終いだからです。
しかし、ここで考えて欲しいのは、文学賞が少なかった時代と、文学賞が数限りなくある現在とでは、「傑作」の数は違うのか? 一一ということです。
私は、傑作の数が、年を追うごとに増えているとは思いません。
たしかに、「面白い」と感じられるものは、時代の変化にともなく「感性や嗜好の変化」で変わっていくものですから、「昔の作品はつまらない。今の作品の方が、総じて面白い」と感じる人が多いというのは事実でしょう。
しかしそれは、所詮「流行の変化」でしかなく、「傑作」が増えたということではない。
だから、今「歴史的傑作」だなどと大いに持て囃されている「受賞作」や「ヒット作」の大半は、10年も待たずに「過去の流行作」として忘れ去られ、顧みられることもなくなるのです。
また、そうでなければ、業界としても困ることになります。「古典的傑作」ばかりが読まれて、「新作」が売れないと、出版業界が先細りするのは見えた話。資本主義経済とは、そういうものだからです。
そのようなわけで、年々歳々いろいろな文学賞が作られ、山のように各種受賞作が生まれて、まるで「歴史的傑作」ででもあるかのように派手に宣伝される。
つまり、常に「新しい(過剰な)夢」を見させておかないと、作家や出版関係者や書店関係者などは「おまんまの食い上げ」になってしまう。
だから中には、「そんなに、毎年毎年、傑作が何百作も生まれるわけないでしょう」と思っている人がいても、そこは口に緘して、新作の絶賛に努める。
いろいろ注文をつけたいところがあっても、あえて「長所を探して、そこを強調するような評価」ばかりを口にする。
そうすれば、書いた作家は喜ぶし、版元もファンも喜ぶ。そして、その「提灯持ち批評」によって本が売れれば、業界全体としてもありがたい。また、それがその業界に属する自分にも返って来る。
そもそも、褒めておけば、その人気作家に重用される蓋然性が高くなるから、そこでも仕事が増える。「文庫解説」などが、まさにそれ。
今どき「よく、私の作品の欠点を鋭く指摘してくれた」なんてことを言う作家なんて皆無だし、そうした辛辣な批評を掲載して、人気作家から「今後は、おたくからは本を出さない」なんてことにでもなれば、出版社としても困るから、そんな批評家は使わなくなるし、そんな批評は掲載されなくなる。
実際、このようにして「文芸評論家」は、ほとんど絶滅させられてしまった。
いまや、客観性が求められる「評論家」ではなく、自分を殺してでも注文に応じた文章を書く「ライター」が、書評の主たる担い手になっています。
何もこうしたことは、出版界だけの話ではありません。
こうした現象として、わかりやすい事例は、テレビ放送業界における「ジャニーズ問題」です。
ジャニー喜多川が少年愛趣味の人であり、単なる趣味だけではなく、実際に少年たちに手をつけていたというのは、もう30数年も前から話題になっていたことです。
ジャニーズ事務所所属のアイドルグループ・フォーリーブスのメンバーであった北公次が、ジャニー喜多川を告発する暴露本『光Genjiへ 元フォ-リ-ブス北公次の禁断の半生』を刊行して、これが単なる「誹謗中傷」でなどないことは、業界内だけではなく、世間周知の事実にもなったからです。

しかし、それにもかかわらず、その後もジャニー喜多川が芸能界に君臨し続けたのは、いったい何故なのか?
それは無論、テレビ業界がジャニーズ事務所所属のタレントに、大きく依存していたからです。
ジャニーズ事務所が売り出すタレントを使っておけば、ひとまず間違いないというブランドと化していたから、あえてそのジャニーズ事務所に弓を引くようなことは「損だ」と、皆が考えた。
実際、それで業界がうまく回っているのに、わざわざ事を荒立てて、自分だけが悪者にされ、爪弾きになどされたくないと、そんな保身に走ったからなんですね。
で、これは今だって基本的には同じであり、他の業界だって同じこと。
つまり、出版界だって同じことです。
たしかに、インターネットが普及する以前に比べれば、「異論」が表に出やすくはなっている。けれども、そうした「異論」が、玉石混交で山ほど出るようになれば、それはそれで「所詮は雑音。考慮に値せず」と決めつけて、無視することが容易にもなる。
だから、「芥川賞受賞作家の賞味期限は、次の受賞者が決まるまでの半年」だなどと、受賞作作家自身が語るレベルの文学賞であっても、やはり多くの人は、大宣伝のなされる、芥川賞や直木賞の受賞作が、何か特別な傑作であるかのような、「幻想」を抱かされてしまう。
そんなに次々、傑作が生まれるわけがないという「冷静な判断」が出来なくなる。
「宣伝」に流されることなく、自分の目で判断することの出来る人がいても、しかしそうした人の声は、大勢の声にかき消されてしまい、まるでその受賞作が、誰もが認める傑作であるかのように思われてしまう。そして、そうした作品を高く評価しないのは、その人に「見る目がない」のか「悪意がある」からだ、などと思われてしまったりもするのです。
人気があった頃の、ヒトラーをこき下ろす人は「悪意ある誹謗中傷者」のレッテルを貼られ、社会から抹殺されたし、業界の大立者として並ぶところのない権勢を誇った頃のジャニー喜多川を批判した者も「悪意ある誹謗中傷者」として、業界から抹殺された。前述の北公次などは、まさにそうです。
彼は、(恨みや金欲しさもあったにしろ)勇気を持って事実を公にしたのですが、業界の甘い汁に与っていた人たちは、ジャニー喜多川の意を汲んで、北公次を「業界ゴロ」に仕立て上げたし、その真相を知っている人も、多くは保身のために口を噤んだ。
だから、業界の裏事情を知らない人から見れば、圧倒的に北公次が「悪者」に見えてしまったのです。
で、繰り返しますが、こうしたことは今でも、どんな業界であれ、多かれ少なかれ、あることなのです。
「ジャニーズ問題」や「中居正広・フジテレビ問題」で、みんなが反省したから、もうそんなことは無くなった、などということはあり得ません。今でも、業界的に「不都合な真実」は、相変わらず隠蔽され続けています。
例えば、「森友学園問題」に関して、記録文書の改竄をさせられたために自殺した、近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんの問題でも、すでに改竄を命じたと(総論としては)認めている財務省であっても、個々の財務省OBや政治家に関わる資料は、いまだ開示しようとはしない。これが現実なのです。
つまり、「不都合な真実」は、今でも隠されたままであり、「反省して、みんな正直になりました」というようなことではない。
いまだに、どんな業界であれ、「体制順応者」が大半であり「正直者」は例外で、今でも「正直者」は「空気が読めない変人」として冷飯を食わされている。
そして、そうした「業界利益のための情報操作」を経た偏向情報を通してしか、私たちは「業界の評価」とやらを知ることができないのです。
だからこそ「流行に乗っているような人」の言うことは、話半分に聞いておかなければならない。
なにしろ、「提灯持ち情報」の量は圧倒的ですから、普通の人は、その「情報量」に流されて、冷静で客観的な判断が出来なくなってしまう。
また、だからこそ、小利口に良心を売り渡した人たちは、「主流に媚び」て、利益を得ようとする。その方が、楽に決まっているからです。
○ ○ ○
で、このように見ていれば、私の、
「千葉雅也の『センスの哲学』は、スロウ・ボートさんがそのレビューで、レトリックの限りを尽くして絶賛しているほどのものではない」
とか、
「『センスの哲学』が、思想書の古典として残ることはないだろう」
とかいった「覚めた評価」も、特別に辛辣でもなければ、あり得ないようなことを言っているわけではないというのをご理解いただけるでしょう。
長い間、読書の趣味を持っていれば、大変な人気作品やベストセラーがあっけなく消えていくという現実など、掃いて捨てるほど見ることになるのです。
たしかに私は、『センスの哲学』が、ここまで「売れる」とは思いませんでした。その点では、私の推測は外れました。
しかし、私が外したのは、『センスの哲学』の「中身」に対する評価ではなく、「流行商品」としての価値だと思います。
だから、その流行が過ぎれば、つまり、新しい「流行品」としてのスターが生まれてくれば、千葉雅也も『センスの哲学』も、おのずと押し出されて、忘れ去られていくはずです。
それこそ、一時代を画した思想家である吉本隆明の本ですら、昔のように売れるわけではないし、吉本隆明に言及する人も、めっきり減りました。
だから、今の千葉雅也やその著作の人気などは、吉本隆明などのそれとは比べるべくもないのだから、おのずと短命な「流行商品」でしかないと見るのは、ごく常識的な判断ではないでしょうか。
思想・哲学書ではなく、小説作品に限って言っても、スロウ・ボートさんが絶賛する、千葉雅也の小説が、そこまで素晴らしいものだとは、私には思えません。
私は読んでいないから、確たることは言えないけれど、しかし千葉雅也の小説が、スロウ・ボートさんの言うほどすごいものなら、芥川賞を逸したとしても、もっと熱心に評価し続ける批評家なり読者がいるはずだと、私は経験則的にそう考えています。
つまり、たぶん、すでにして「所詮はその程度のもの」であり、スロウ・ボートさんの評価は、流行に便乗した「過大評価」でしかないというのが、私の評価なのです。
○ ○ ○
したがって、スロウ・ボートさんが、千葉雅也擁護、あるいは『センスの哲学』擁護ということをろくすっぽせずに、もっぱら、私の人格攻撃をしたのは、それなりに理由のあることです。
というのも、千葉雅也の人気も、その著作の人気も、ほぼ間違いなく、今がピークでしょうから、それをいくら流行に乗って絶賛したところで、10年と待たず流行が過ぎてしまえば、その絶賛に説得力が無くなるというのは、目に見えたことだからです。
だから、スロウ・ボートさんは、前記の『センスの哲学』レビューに寄せた、次のようなな「レトリックのみの過大評価」を繰り返すことができなくなっている。
『結果として、『センスの哲学』は〈人間の始まりにして終わりの場所〉へ向かう旅人たちへ向けた旅の準備の教本/手引書となる。『センスの哲学』を読み終えた者たちの中の幾人かが、きっと旅立ちの準備を始めることだろう。
『センスの哲学』が世界を踏破するための地図と羅針盤を用意してくれた。』
・千葉雅也『センスの哲学』//、アポリアからのエクソダス、//孤独なる魂の痕跡として、揺れ動く偶然性の平面にて、//〈壁〉を巡る無数の断片.
このレビューを読んでもらえば、スロウ・ボートさんの「批評」の本質とは、所詮「過剰なレトリック」だけだというのが、おのずと、わかってもらえると思います。
スロウ・ボートさんが上の部分で言っているのは、「『センスの哲学』は、生き方のヒントを与えてくれるかも知れません」と、ただそれだけのことなのです。それが、
〈人間の始まりにして終わりの場所〉へ向かう旅人たちへ向けた旅の準備の教本/手引書となる。
という表現に変貌する。
これを「過剰なレトリック」と呼ばずして、他にそんなものが存在し得るでしょうか?
このレビューは、千葉雅也が華々しくスターになった当時に読めば、その「流行現象としてのオーラ」によって、レビューの中身自体は「意味不明」でも、とにかく「そんなにすごい作品なのか」と思わされてしまう人が多いでしょうし、事実多かったでしょう。
一一大衆とは所詮、その程度のものなのです。
例えば、開催前にあれだけ批判された「東京オリンピック2020」だって、開催されてしまえば、国民の多くが、金メダルの獲得ラッシュに日々熱狂しました。
その背後で継続中だったコロナ禍により、多くの人命が失われていることを薄々承知していながらも、そこからは目を逸らして、流行における熱狂に身を投じてしまう。
オリンピック閉幕後に報じられるようになった「オリンピック汚職」についても、開催前から知られていた事実なのに、その事を忘れてオリンピックに踊らされていた人たちは、そうした自分のことを、決して反省したりはしませんでした。
だから、現在開催中の「関西大阪万博」も、あれだけ事前に批判されており、オリンピックと同様、中止にせよという意見が多かったにもかかわらず、現在は、万博の「提灯持ち報道」ばかりがなされ、それに釣られて盛り上がっている人も少なくない。
「関西大阪万博」開催前に、あれほど批判していたマスコミでさえ、今は「良いところ探し」に終始する「提灯持ち報道」しかしない。
テレビのコメンテーターは、誰一人として「私は行きません」とか「あんなもんに興味はない」などとは言わない。
どうしてかと言えば、開催が決定された以上、多少なりとも成功してもらわないと、失敗すれば、多かれ少なかれ、自分たちにも被害が及ぶからです。
例えば、一方的仕掛けた侵略戦争であっても、戦争が始まってしまえば、負けるわけには行かないからと、自国を支持するという人が大半で、「間違った侵略戦争なんだから、こっちが負けて、国民もその応分の責めを受けるしかない」などと言う人は、滅多にいないのと同じことです。
でも、果たしてどっちの言い分が、客観的に見て、正しいのでしょうか?
ともあれ、そんな事情だから、マスコミは、「万博」に関しても、今は心にもない「提灯持ち報道」に徹している、という側面が確実にあるのです。
ですが、多くの人はそこまでは読めず、報道にまんまと踊らされて、つまり騙されて、行く予定ではなかったはずの万博へ、足を運ぶ人も出てくる。
また、足を運んだからには、「やっぱりつまらなかった。自分は体良く騙された」とは認めたくないから、「意外に面白かった」などと言い始める。
一一しかし、「意外に面白かった」というのは、むしろ当然のことでしかない。
なにしろ、莫大な税金を投じて開催された「万博」なのですから、それが「何一つ見るべきものがない」なんてことはあり得ません。
問題はあくまでも、それだけの巨費を投じてまで開催する価値のあるものだったのか否かということであり、例えば、「能登半島地震」の復興作業に優先してまで、建設資材や人材を調達すべきイベントだったのか、という問題なのです。
だから、万博の「大屋根リング」に登って喜んでるような人は、確実に能登半島地震のことを忘れているのだから、間違っても自分が、震災被害者に心を寄せる者の一人だなんて、思う資格は無いでしょう。
ところが多くの人は、そういう前提をぜんぶすっ飛ばして「意外に面白かった。開催して良かったんじゃないですか」で済ませてしまう。
しかしながら、これが大衆というもの。
ヒトラーの仕掛けた「ベルリンオリンピック」に熱狂した、かつてのドイツ国民の大多数と、今の日本国民の大多数に、ほとんど違いなどないのです。
そしてこれが、ヒトラーが明言した「大衆は宣伝に弱い」という、不変の真理なのです。私たちは、昔の人と比べて、少しも賢くはなっておらず、同じ誤ちをくり返し続いている。
で、これは、千葉雅也やその著作の人気や評価についても、まったく同じことです。
それは基本的に、資本主義経済下での「流行現象」による、いつもの「過大評価」でしかない。
無論、「オリンピック」や「万博」と同じように、それはそれなりに面白くはあるし、何も見るところがないとは、私も言っていません。
ただ、長いスパンで物事を見る「覚めた目」で評価すれば、それほど大騒ぎするほどのものじゃないと、そう言っているだけ。
つまり、スロウ・ボートさんの、
『結果として、『センスの哲学』は〈人間の始まりにして終わりの場所〉へ向かう旅人たちへ向けた旅の準備の教本/手引書となる。『センスの哲学』を読み終えた者たちの中の幾人かが、きっと旅立ちの準備を始めることだろう。
『センスの哲学』が世界を踏破するための地図と羅針盤を用意してくれた。』
なんていう評価は、それこそ「幸福の科学」の総裁(教祖)であった大川隆法を、釈迦やイエス・キリストを超えた最高神である「エル・カンターレ」であると認めて、大絶賛する信者の評価と、大差のない「過大評価」にすぎないということです。
まあ、私も、大川隆法よりは千葉雅也の方が、ずいぶんマシだし、そもそも害が無いという点で評価はしていますが、しかし、スロウ・ボートさんのように、
『センスの哲学』が世界を踏破するための地図と羅針盤を用意してくれた。
などとは、まったく、毛ほども思いません。
このように公言したスロウ・ボートさんは、今後の人生において、果たして『センスの哲学』を常時携帯し、それで世界をうまく渡っていくというつもりなどあるのでしょうか?
まあ、所詮は「過大評価のレトリック」にすぎないから、そんなことはしないでしょうし、仮に自身の言葉どおりのことをしたとしても、その『地図と羅針盤』は、大した役には立たないでしょう。
なにしろ、スロウ・ボートさんの、今回の、
> 〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan〉
とやらは、千葉雅也の『センスの哲学』を読んだ後の「センス」によって企画されたものであり、同書を『地図と羅針盤』にしてなされたもののはずなのに、実際に書いているのは、毎回、似たような、口汚ない「悪口」でしかないのです。
ですから、この事実ひとつとっても、スロウ・ボートさんの絶賛する『地図と羅針盤』とやらの「効能」も、おのずとお里が知れていると言うほかありません。
実際、今回の比較的短い〈第14回〉に限っても次のような調子で、根拠も何もない「決めつけ」だけ。
年間読書人さんが〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉姿を現し続ける必要性も、「罵倒された」と泣き言を喚き散らして、逃げ回る必要性も、これ(※ スロウ・ボートさんの決めた、今回のやり取りの終結)で無くなり、終わりになります。
年間読書人さんの見解がいつも立体性を欠いた平面的なものである理由は、他者の視点が欠けていることにあります。自己批判は、結局、〈鏡の中の自己との対話〉、あるいは、自作自演の一人芝居にすぎません。「自分で自分にツッコミを入れても、限界がある。」という当たり前。自閉から逃れるためには、他者との対話以外に道筋はありません、しかし、年間読書人さんには恣意的に他者(との対話)を選ぶことしか出来ない。その幼児性と脆弱性
> 「対話/話し合い/議論/論戦」を、〈暴力の応酬〉の場とし〈何方が何方を、力で屈服させ支配する、行為〉であると、年間読書人さんが錯誤してしまう根源/理由のひとつに、「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれている、年間読書人さんの姿」があるのではないだろうか、とわたしは推測しています。
年間読書人さんと「議論(のようなもの)」をスタートさせて、わたしが凄く驚かされたことのひとつが「わたしの、年間読書人さんの見解への批判」を、「わたしによる、年間読書人さんへ痛手/ダメージを与えるための攻撃」として受け止めてしまう強い傾向の存在です。「年間読書人さんの見解は、誤りである、とわたしは思います。」という話が、年間読書人さんの中では「年間読書人さんの〈人格、あるいは、人間性〉は、誤りである、とわたしは思います。」という話にすり替わってしまう。批判が、相手へ痛手/ダメージを与えるための攻撃に、変換されてしまう、という不可解な事態/現象。
自分が批判されて、現に「ダメージ」を受けたからと言って、批判した私が悪いかのように言うのは、いかがなものか。
たしかに私は、これまでに、笠井潔や北村紗衣といった著名言論人を「批判」しただけではなく、多くのネット右翼や「荒らし(行為者)」などとも、数多く「喧嘩」をしてきました。
前者は「批判」で、後者が「喧嘩」なのは、後者の場合は、もともと議論をする気のない相手とのやり取りだから、おのずと「喧嘩」にしかなり得ない、ということです。
で、スロウ・ボートさんは、こうしたことを捉え、「味噌もクソも一緒くた」にして、私か「被害妄想のある喧嘩キチガイ」であるかのように言って「印象操作」をしている。
しかし、ネット右翼や「荒らし」などを私が「相手にする」のは、ほとんどの場合、相手から仕掛けてきたからで、それはスロウ・ボートさんの場合と、まったく同じ。
スロウ・ボートさんが、私に「議論」とやらを仕掛けてこなければ、私はスロウ・ボートさんの存在すら知らず、当然、スロウ・ボートさんを批判することにもならなかったでしょう。
多くの人は、ネット右翼であれ「荒らし」であれ、そうした人たちからの攻撃を受けた場合、「ブロックしてお終い」にする。
だから「喧嘩」にはなりようもないところを、私の場合は応戦反撃するので「喧嘩」になる、という違いだけなのです。
要は、やられっぱなしの「泣き寝入り」を、「懸命な対処だった」と自分に言い聞かせて無理に呑み込むか、私のように、やられたらやり返すことで、一方的な嫌がられを野放しにしないか、の違いだということです。
無論、私のような「応戦」を、すべての人にオススメするわけではありません。
社会学者の倉橋耕平が、ネット右翼などを研究したその著書『歴史修正主義とサブカルチャー』で、次のように書いているとおりで、普通の人には、ネット右翼や「荒らし」の相手など、やりたくても出来ないからです。
『 分析を終えた私の目には、歴史修正主義者(ここでは限定せずにネトウヨ的な存在も含めよう)との「対話」は困難に映る。少なくとも彼らとの間の溝は広がっているように見える。この状況への「処方箋」はあるのだろうか。
考えられる一つの方法は、歴史修正主義者を「ちゃかす」ことである。しかし、これが可能なのはごく一部の人に限られる。なぜなら、彼らを俯瞰してやりこめるためには、彼らの「熱量」に見て取れる非常に膨大な量の言説や揶揄をさばくだけのメディア・リテラシーと正しい知識が必要だからだ。また、彼らのメディア・リテラシーの高さ(内容の正しさの精査というよりも、言説空間のノリや情報機器へのリテラシーの高さ)もネックになる。』(P228)
これは、スロウ・ボートさんも同じことです。
すぐにカッとなるスロウ・ボートさんでは、到底、ネット右翼や「荒らし」の「単なる挑発」に対応することなどできないでしょう。
また、それがわかっているからこそ、スロウ・ボートさんは、そうした相手には無難に関わらない一方で、一応は話になりそうな
私のようなものを標的にして、例の自称、
> 〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan〉
とやらを企てたのでしょう(このネーミングセンスを見よ、です)。
私の見たところでは、スロウ・ボートさんは、ご自身の「三百代言」的なレトリックを持ってすれば、私を「言い負かせる」と、当初はそう思って、この「議論」とやらを仕掛けてきたのでしょう。
『彼らの「熱量」に見て取れる非常に膨大な量の言説』
というものならある。
これで大概の人は、いちいち対応し切れなくなり、ウンザリさせられ、議論からの撤退を余儀なくされるのでしょう。
ですが、私の場合は、スロウ・ボートさんの「無駄なレトリック」まで、いちいち「付き合わない」という、
『膨大な量の言説や揶揄をさばくだけのメディア・リテラシーと正しい知識』
が、ネット右翼や「荒らし」を相手にしてきた長年の経験から、おのずと蓄えられていたのですね。
つまり、スロウ・ボートさんお得意の、「三百代言」的に無内容な言説の「言説量」によって、相手を立ち往生させるという戦法は、私に見切られてしまった。
そのため、調子の狂ったスロウ・ボートさんは、とてもわかりやすく苛立って、あとは、幼稚平凡な「決めつけだけの悪口」に終始するしか、能がなくなってしまったのです。
例えば、私が、スロウ・ボートさんと並行して相手にしている、「匿名」捨てアカウントの、ハンドルネーム「糞リプマン」という人も、スロウ・ボートさんが言うところの、私の攻撃に晒されている人の一人ですが、この人がどんな人かは、その記事を読んでもらえば、すぐにわかるはずです。
つまり、こんな「悪質な荒らし」は、これまでにも方々で似たようなことを繰り返してきたはずですから、単にブロックをして済ませることで、「勝った勝った」という妙な「達成感」を持たせるべきではない。
つまり、このままこれまで通りに「野放しにしておくべきではない」から、徹底的に反撃をくわえて、これまでに経験したことのない嫌な思いをさせてやっている、ということなのです。
で、この「糞リプマン」さんも、自分と同様に、私から「酷評」されているスロウ・ボートさんの存在を、当然知っています。
だから、スロウ・ボートさんの私に対する批判文を「長い」と言いながらも、貴重な仲間の「年間読書人批判文」として読み、それなりに褒めている。一一つまり「同病相憐む」というやつです。
で、スロウ・ボートさんの方も、当然「糞リプマン」さんの存在をすでに承知していますが、さすがにその名を出したりしないのは、「糞リプマン」さんのレベルがあまりにも低いために、それに「共感」を覚えいるなどと、第三者には思われたくはないからです。
だから、「糞リプマン」さんの名前は出さないが、「年間読書人はあちこちで喧嘩している」といった「漠然とした書き方」はしても、その相手が、笠井潔や北村紗衣のような著名人なのか、それ以外の、ネット右翼や「荒らし」なのかといった、具体的な事実には触れようとしない。
そこに触れてしまったから、私に批判されているスロウ・ボートさんは、明らかに前者の著名言論人ではなく、後者の類でしかないのは、明らかだからです。
そんなわけで、スロウ・ボートさんの批判は、その「レトリックだけの絶賛記事」と同様に、中身がありません。
つまり、貶す時だけ「決めつけ」ばかりなのではなく、褒める時だって、所詮は「決めつけ」をレトリックで飾っていただけに過ぎない、ということです。
ただ、「褒める」場合は、たいがいは大した根拠を求められはしませんが、貶す場合には、それなりの根拠が求められる。
そのため、スロウ・ボートさんの場合、対象を貶す場合に、その「無根拠」性があらわになってしまう、ということなのです。
一般的に言っても、褒めるのは簡単だけど、説得力を持って貶すのは難しい。
なぜなら、褒められて「その根拠を示せ」と言う人など、まずいないけれど、貶された場合「その合理的な根拠を示せ」と要求するのは、ごく当たり前のことだからです。
したがって、すくなくとも、評価の根拠を「説得力あるもの(合理的な根拠)」として提示しようとする場合には、貶す場合の方が、数段難しい。
ですから、スロウ・ボートさんを評価するにあたって、「褒める時は、立派なことを書くのに、貶す段になると、途端に下品になるなあ。残念なことだ」といったふうに評価するのは、基本的に間違いです。
人の「内実」や「実力」というものは、そう簡単に変わったりはしません。
だから、褒める場合に「立派そうに見える」というのは、私たちに「好意的な態度は、善である」という「希望的観測としての偏見」があるからでしかありません。
当たり前の話ですが、人は誰でも、悪人を演じるよりも善人を演じたがるものですし、人前だけでの善人ぶりなど、容易かつありふれたものです。
ですが、多くの人は、その「上っ面」に騙されてしまう。
オリンピックや万博を見に出かけた人が、「オリンピックは素晴らしかった」「万博は素晴らしかった」と言うのと、まったく同じことで、自分がわざわざ手間と時間をかけた対象は、それ相応の価値あるものであって欲しいという「願望充足的な観測」によって、人はしばしば「見たいところだけを見る」ということになりがちです。
そして、そのような人は、「善人そうな人」は「善人」だと思いたいし、「褒める人」は「善人」だと思いたい。
そう思いたいから、「みんな、いい人!」と、簡単に、そう見えてしまうだけなのです。
ですから、スロウ・ボートさんの本質は、むしろ「貶す」時にこそハッキリと表れ、隠されていたものが、そこに露呈しているのだと考えるべきでしょう。
また、貶された時、それで感情が劇した時にこそ、その人の「素顔」が露呈する。
つまり、スロウ・ボートさんの本質とは、
年間読書人さんが〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉姿を現し続ける必要性も、「罵倒された」と泣き言を喚き散らして、逃げ回る必要性も、これで無くなり、終わりになります。
と、こうした「言い回し」にこそ、よく表れているのだと、そう考えるべきなのです。
それにしても、今回が〈最終回〉ということで、スロウ・ボートさんは、やたらに「謙虚ぶった」ことを書いています。例えば、
※、「論戦の様子を知りたい」と思われて、noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方におかれましては、大変、申し訳ありません。わたしひとりでは論戦は出来ません、何卒、ご理解下さい。
この「読者」様への、漫画的なまでの「へり下り」ぶりは、どうでしょう。
これなんかは、先に紹介した「糞リプマン」さんが、コメント欄へのコメントでは、私を「おまえ」呼ばわりなのに、第三者に読ませる記事のタイトルでは「年間読書人氏」と表現したのと、同様の狙いによるものと見ていいでしょう。
要は、自分の「紳士」ぶりを「第三者」にアピールしたい、好印象を与えておきたいから、心にもないことを、くそ丁寧に表現しているのです。
まあ、最後に「w」を付けて、本性を露呈してしまうところが、「糞リプマン」さんの演技力(自制心)の限界ではあったのですが。
いくら私が北村紗衣を徹底的に批判してると言っても、さすがに「匿名の荒らし」と同列に扱うことはありません。
それは、私の「北村紗衣への批判論文」と、「糞リプマン」さんへのコメント欄での「嘲笑コメント」が、まったく別種のものであることに明らかでしょう。
つまり私は、相手に合わせてその対応の仕方を変えているのであり、それが出来るのは、倉橋耕平が言うところの「メディアリテラシー」が、私にはあるからなのです。
例えば、家の電話にかかってくる「セールス電話」にまで、知人からの電話と同様に、丁寧に対応する必要はない。
「いえ、うちは足りておりますのでお断りします」などと、わざわざわざ断りの理由など告げずとも、いきなり電話を切れば良いだけ。むしろ、それが出来ない気弱な人が、詐欺師の口車にも乗せられてしまうのです。
で、これはネットでも同じこと。
「荒らし」に来たような人物を、説得しようとか、論破しようとかするのは、まったく愚かなことです。
なぜなら、相手はもともと、こちらの話など聞く気も無ければ、一貫した主張をしようとも思ってはいないからです。だから、そんな相手には、それ相応の対応をすることこそが正しい。
つまり、北村紗衣のような、逃げ隠れのできない著名人には、著名人なりの対応をし、「糞リプマン」さんのような、いつでも消えてなくなれる「匿名の荒らし」には、それ相応の対応をすれば良い。
いくらこき下ろしたところで、匿名の陰にいる実在の当人の「社会的名誉」が、それで傷つくことなどなく、傷つくのは、傷ついて然るべき、当人の気持ちだけだからです。
そんなわけで、スロウ・ボートさんの場合は、北村紗衣と「糞リプマン」さんの中間くらいの対応だと言えるでしょう。
スロウ・ボートさんは、北村紗衣のような著名人ではなく、いくら貶されたところで、実名の当人の名誉が傷つくことはない。
アカウントを捨て、ハンドルネームを捨てれば、それで全部チャラに出来てしまう。
ただし、スロウ・ボートさんの場合は、本来のハンドルネームである「歩く水のような形をしたもの」名義において、それなりにいろいろと書いてきて、それなりに褒めてくれる人もいれば、フォロワーもいるから、そうした「実績」をすべて捨てて、ゼロに戻るということは、心理的にはなかなかしづらい。
それに、名前を捨てたところで、論理的な文章の書けないスロウ・ボートさんは、売り物である、あの「個性的な文体」だけは捨てられないから、すぐに、元「歩く水のような形をしたもの」だとバレてしまうので、名前を変えても誤魔化しにくい。
一一この点が、スロウ・ボートさんと「糞リプマン」さんの、決定的な違いです。
「糞リプマン」さんなんかは、日頃の実名時は、ごく平凡なおじさんにすぎず、そんな表ヅラしか知らない人が、「糞リプマン」としての活躍ぶりを知ったら、きっと「えっ、あの人が、そんなことをしてたんですか⁈」と言って、驚くのではないでしょうか。
「糞リプマン」さんが、私の「note」記事を荒らしに来た際、そのコメント内容から、即座に「荒らし」認定して、
「荒らしのための捨てアカウントではないと言うのなら、これまで使ってきた本来のアカウントを示してご覧なさい。明らかに長年ネットをやってる貴方が、このアカウントが初めてのもので、他にアカウントが無いなんてことは、あり得ないんだから」
と、そう迫ったところ、案の定「糞リプマン」さんは「そんなものは無い。これが私のアカウントだ」と言い張り、それから初めて記事を書き始めたのです。
つまり、「糞リプマン」さんのアカウントは、私の記事にコメントを書き込むために作られた「捨てアカウント」であり、それを指摘されたから、アリバイ作りのために、記事を書き始めた、という順序なんですね。
したがって、「糞リプマン」さんは、本質的に「匿名捨てアカウントの荒らし」だということなのです。
だから、こうした点では、スロウ・ボートさんは、「糞リプマン」さんとまったく同様の「匿名」ということではない。
同じ「匿名」でも、アカウントの重みが違うということです。
しかし、このように書くと「そういうお前だって匿名じゃないか」と書いてくるのが、「糞リプマン」のような「匿名の荒らし」の常套句なんですが、私は「匿名」ではありません。
例えば、ミステリー作家の「綾辻行人」が、本名を出さずに「綾辻行人」という筆名を使っているから、それは「匿名」なのかと言えば、勿論そうではない。
というのも、綾辻行人は綾辻行人の名前で継続的に活動している人からで、「使い捨てのハンドルネーム」などとは、わけが違う。
つまり、いわゆる「固定ハンドル」は、責任の所在を明確にしたものなのだから、責任逃れのための「捨てアカウント・捨てハンドル」などとは、決して同じではなく、実質的には、その名で発言責任を引き受ける「筆名」と同じなのです。
で、それは私も同じ。
私は、竹本健治の小説『ウロボロスの基礎論』(講談社文庫)に「田中幸一」として出演しているくらいだから、作者の竹本健治は無論、共演した綾辻行人や法月綸太郎や笠井潔といった人たちも、私の本名だけではなく、顔も住所も知っている。
同世代の関西のミステリマニアも同様で、私が、ハンドルネーム「アレクセイ」であり、筆名「田中幸一」であることは、周知に事実です。
そもそも私は、「田中幸一」名義で「文庫解説」なども書いていれば、監修者として『薔薇の鉄索 村上芳正画集』(国書刊行会)を刊行してもいる、そんなプチ著名人なんだから、綾辻行人と同様の意味で、「匿名」でも何でもないのですね。
それに、実際「糞リプマン」さんは、私の記事のコメント欄に、嫌がらせ目的で、私の本名である「沖 泰光」を繰り返し書き込んでもいます。一一こんなこと、まともな人間のすることじゃない、というのは明らかでしょう。
まともの人は、知ってても、わざわざそれをネットに書き込んだりはしません。
つまり、そんなことが平気でできるのは、「糞リプマン」さんが、「正真正銘の荒らし」だからに他ならないのです。
ともあれ、人が積極的に公開しているわけではない情報を、わざわざネットに書き込むのは、明らかな嫌がらせであり、プライバシーの侵害以外の何でもない。
しかしながら、だからこそ、そんなことをやる「糞リプマン」さんは、正真正銘の「匿名捨てアカウントの荒らし」でしかないとも、断定し得るのです。
さて、そんなわけで私が、スロウ・ボートさんを、北村紗衣と「糞リプマン」さんの中間に位置づけて対応しているのは、以上のように、故あることなのです。
スロウ・ボートさんは、北村紗衣や私のように、逃げも隠れもできない人間ではなく、その点では「糞リプマン」さんに近い。
しかし「糞リプマン」さんのように、恥も外聞もない「匿名捨てアカウント」でもないから、それ相応に対応している。
いくら言ってることが、中身のない「決めつけ」だけで、その点では「糞リプマン」と大差が無いとしても、それでも逃げ隠れのしにくい立場での発言である点には、配慮しているということです。
そんなわけで、「知的レベル」や「立場」の違いはあれ、その「中身のデタラメさ(空疎さ)」においては、私からすれば、スロウ・ボートさんと「糞リプマン」さんには、大差が無い。
所詮は、「体裁を繕いはしても、中身が無い人」という点では、両者は五十歩百歩でしかないのです。
今回の〈第14号〉は、「最終回」ということもあり、スロウ・ボートさんは、「読者」向けに、ずいぶんと「謙虚ぶった」ことを書いていますが、これもわかりやすく「体裁だけのもの」で、「不祥事政治家の反省の弁」みたいなものでしかない。
つまり「本来の私は、このように謙虚な人間であり、私がここまで口汚く年間読書人さんを貶すのは、それは年間読書人さんがそれほど酷い人だからで、私が口汚い人間だからではないのです」と、所詮はそういう自己弁護のためのものでしかありません。
こちらも具体的に挙げておくと、こんな調子です。
わたしに於いては、「対話/話し合い/議論/論戦」の勝ち負けなど、〈どうでもよいこと〉でしかありません。さらに、何方が何方を圧倒しているとか、も、全く〈どうでもよいこと〉でしかありません。わたしは年間読書人さんと、何かを賭けて勝負しているのではありませんし、そもそも、「勝つために」、年間読書人さんと議論しているのでもありません。わたしの議論の究極的な目的は、わたしの見解の不備や矛盾を相手の方に摘出していただき、わたし自身の見解を、もっと、進化させ、深化させる、というものです。
No.4//年間読書人さんへの〈感謝と御礼〉の件
〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦〉は、全く、行われることなく、終決となりました。何度も繰り返しますが、その点に於いては、わたしは、大変、残念に思っています。年間読書人さんに論戦を行う意思が無いのですから、これは、仕方のないことです。
しかし、そうであるとしても、年間読書人さんが、僅かなものでしかないとしても、ご自身の貴重な大切な時間を使い、わたしの批判にお付き合いしていただき、応答を行っていただいたことについては、深く感謝しています。
しかし、年間読書人さんには、信じ難いことなのかもしれませんが、決して〈年間読書人さんの人間性のすべて〉を否定しているわけではありません。わたしが、〈他人の人間性のすべての否定〉など出来るはずもありません。わたしにも、それが分かる程度の自己認識の正確性は持っています。愚鈍ではない、ということです。わたしは、法こそ犯していませんが、イノセンスではありません。わたしは倫理的に褒められるような人間でもありません。他人の人間性をあげつらうことほど、わたしに不相応なことはありません。
わたしの、年間読書人さんへの〈感謝と御礼〉は、言葉そのものの“真水”として、書かれたものです。他意は何もありません。
ほんとうに、長い間、ありがとうございました。
ハッキリ言わせてもらって、「三文芝居」の「大嘘つき」そのものです。
こんなものを真に受けるのは、これまで長らく、スロウ・ボート(歩く水のような形をしたもの)さんのことを、本気で高く評価してきた人だけでしょう。
また、こんな「臆面もない自己申告」を真に受ける人というのは、間違いなく「詐欺被害者予備軍」です。なにしろ、
「私は、議論の勝ち負けにはこだわらず、自身が無垢な人間でなどないということも自覚している、謙虚な人間です。だから、礼儀は礼儀として、きちんと果たすのです」
などと、問われてもしていないのに、自分からアピールするような人間が、いかに「うさん臭い」かというのは、当たり前の社会人には見え透いた話だからです。
当たり前の人間というのは、
「議論をするなら、当然、自分が正しいと思ってやるのだから、勝って当然だし、負けるわけにはいかない。なぜなら、それでは正義が立たなくなるからだ」
とか、
「もちろん私には、いろいろと欠点はあるだろう。聖人君子だと主張するつもりはない。けれども私は、基本的なところで、善人だし正直者のつもりだ。仮に嘘をつくことがあっても、それはそれ相応の理由があり、例えば、正義のためにつくような場合の嘘だ」
とか、
「議論は議論、礼儀は礼儀なんてことはわかっている。しかし、礼儀以前の問題として、相手の間違いは許せないから、私のもの言いも辛辣になるのだ」
といった具合に「自己正当化」的に考えるでしょう。これが普通の人です。
しかし、それでも少し知恵のある人なら「議論は、勝ち負けではない」とか「誰も聖人君子ではあり得ない」とか「礼儀は礼儀である」といったことは、頭では承知しているので、本音ではそう「感じてなくても」そのように振る舞おうと努力するでしょう。それは、立派な態度です。
しかし、「私は議論の勝ち負けなんかには、こだわらない人間です」と自己申告する人間と、「議論の勝ち負けにこだわる気持ちはあるけれど、そんな感情に囚われないように努力する」と言う人の、いったいどちらが、人として信用できるでしょうか?
「私は、自分が無垢な人間ではないことを、よく承知しています」と自己申告する人と、「自分では正直者のつもりだけど、まあ、自分自身のことだから、人から見ればそうではないかも知れないな」と言う人の、どちらが偽善者で、どちらが正直者でしょうか?
「私は、議論は議論、礼儀は礼儀と、きっぱり分けることのできる人間です」と言う人と、「悔しくても、それが礼儀だから、最低限の礼は尽くす」と言う人と、どちらが正直者でしょう?
スロウ・ボートさんは、「自分は、こういう人間です」と書けば、それを読者が鵜呑みにしてくれると期待しているようですが、そんな読者とは、よほどの「粗忽者」でしかありません。
実際、今回のスロウ・ボートさんによる〈第14回〉は、これまでになく短いものなので、通読していただけると、スロウ・ボートさんの「臆面もない自己申告」という、ツラの皮の厚さがよくわかるはずです。
スロウ・ボートさんは、上のように自身の「謙虚さ」を自己申告した後で(あるいは、その前に)、必ず私をこき下ろしています。
つまり、その「謙虚ぶり」は、所詮「三文芝居」でしかないから、それに徹することができず、最終的には「憎悪」の感情を吐露せずには済ませられないのですね。
「糞リプマン」さんが、文末につい「w」を付けてしまうのと同じことなのです。
だから、「この議論が、気持ちの良いものにならなかったのは、ぜんぶ年間読書人のせいであり、こんなに謙虚な、私のせいではあり得ません」と、そうアピールしなければ気が済まないほど、スロウ・ボートさんは、お芝居に徹しきれない、「感情的な人」だということです。
すでに何度も指摘したことですが、まとめとして書かせていただきますと、
(1)スロウ・ボート(歩く水のような形をしたもの)さんは、たしかに「博捜博識」ではあるけれでも、決して「明晰」ではない。
だから、あのような「過剰なレトリックだけの文章」しか書けない。
(2)しかし、スロウ・ボートさん自身は、本音では、自分の知性に驕っている人だから、自分の知性を認めてくれない人の存在を、決して許せない。
(3)つまり、自分の知性がどれほどのものか反省するといった冷静さはまったく無く、感情に任せてお得意のレトリックを駆使するから、あんな子供めいた罵倒の羅列になってしまう。
平たく言えば、スロウ・ボートさんは「勘違いした子供」である。
一一ということになるでしょう。
ちょうど、先日読んだばかりの、寺田寅彦の随筆集『柿の種』に、次のような文章がありました。
『 ラジオなどで聞くえらい官吏などの講演の口調は一般に妙に親しみのないしかつめらしい切り口上が多くてその内容も一応は立派であるがどうも聴衆の胸にいきなり飛び込んで来るようなものが少ない。
ある会議の席上である長官がある報告をするのを聞いていたとき、ふと前述の講演のタイプを想い出した。
長官はその属僚の調べ上げてこしらえた報告書を自分のものにして報告しなければならない。それで文句はわかってもその内容は実はあんまり身にしみていないらしいので、それでああいう口調と態度とが自然に生まれるのではないかという気がした。
これに反して、文士でも芸術家ないし芸人でも何か一つ腹に覚えのある人の講演には訥弁雄弁の別なしに聞いていて何かしら親しみを感じ、底のほうに何かしら生きて動いているものを感じるから妙なものである。
学者の講演でもやっぱり同じようなことがあるようである。
空腹はなかなか隠せないものらしい。』
(P243〜244・「講演の口調」全文)
スロウ・ボート(歩く水のような形をしたもの)さんの文章とは、ちょうど、上で言うところの、長官の『その属僚の調べ上げてこしらえた報告書』みたいなもの、でしょう。
つまり、あちこちから「権威筋の言葉」を引っ張って、それをごちゃ混ぜにして捏ね上げたもの。
さらに言えば、それを「過剰なレトリック」では飾り立てた、大袈裟なだけの作品。
私がごく最初の頃に指摘したのは、スロウ・ボートさんの文章は「出来損ないの黒死館」であり、スロウ・ボートさんは「通俗的な法水麟太郎」だということでした。
(※ 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』との比較)
また、スロウ・ボートさんが書くような「無駄に難しげな文章」が、なにゆえに生産されるのか、という点についても、寺田寅彦の次の言葉がヒントを与えてくれます。
『 学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。
若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるためもあるらしい。』(P217・全文)
つまり、これまでも何度か指摘してきたことですが、ジャック・デリダなどの優れた「一部例外」を除いて、「無駄に晦渋な文章」を書く人というのは、読書における「初心」を忘れて、ただただ「今の自分には、こんな難しい文章が書けるんだぞ」と、ひけらかしをしたがるだけの人、だということです。
そしてもうひとつは、寺田が『自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の水準を高く見積もり過ぎるため』と書いているとおりで、自分好きなものを「過剰に高く評価」して、それがわかる自分も、ついでに「過剰に高く評価」してしまうものだから、どうしても「これ見よがしに大袈裟な表現」になってしまう、ということです。
つまり、根本的なところで、「謙虚さ」を欠いているから、あんな文章しか書けない。
例えば、スロウ・ボートさんの、
> 〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan〉
とは、次のように「自己形容」されるものです。
わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
私はこれを、「厨二病」文体だと評しましたが、どうでしょうか?
これが、自分のことをよく知っている、「謙虚な人」の文体なのでしょうか?
これも何度も書いていることですが、スロウ・ボートさんほど、
「文は人なり」
という言葉を、わかりやすく代表してくれる人も、そうはいないのではないかと思います。
だから、以上のようなことがあっても、それでも、スロウ・ボートさんに共感できる人というのは、「糞リプマン」と同様、私にボロクソに貶されだ「同病相憐む」病人仲間か、もしくは、似たような趣味を持った人に限られるのではないかと思います。
○ ○ ○
> スロウ・ボートさん
そんなわけで、この一連のやり取りを、そちらで、あらためてまとめて下さるそうですが、私もそのうち独自にまとめてたいと思っています。
なおその際には、スロウ・ボートさんの「回」については、そちらの当該「回」にリンクを張らせていただくことになると思います。
無論、スロウ・ボートさんの分まで、そのまま転載すると、ログが膨大になりすぎるからですし、それでも、スロウ・ボートさんの意見をちゃんと読みたいという人には「リンク先のスロウ・ボートさん自身がアップしているそれをお読みください。それがいちばん確かです」ということです。
ですから、今「スロウ・ボート」名義のアカウントにアップされているログは、そのままのかたちで保存しておいてください。
まとめる際に削除などすると、かえって無用の疑いを招きかねないだけだからです。
ではなぜ、私が独自にまとめるのかと言えば、ログがそのままだとしても、スロウ・ボートさんの場合、長々とした「前説」をつけることで、本文に至るまでに「印象操作」がなされる怖れが、十二分にあるからです。
というのも、私たちのやりとりが何度か交わされた段階で、私の方から「せっかく、こうして議論をしてるのですから、スロウ・ボートさんの本来のアカウントである〝歩く水のような形をしたもの〟の方でも、論争をやってるよと、簡単にでも告知してはいかがですか」と提案した結果、書かれたのが、あの、
わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
だったからです。
これはもう、どう見ても、「客観的な紹介文(リード)」などではなく、「私は凄いことをやってるから注目してくれ」という、あらかじめ自分を持ち上げるための「価値判断」が込められた、過剰にレトリカルな「前振り」としか言いようのないものです。
だから、その「過剰なレトリックによる前説」が得意なスロウ・ボートさんに、「予断を与えない紹介としての枠付け」は、まず不可能だと考えたので、こちらはこちらで「シンプル」にまとめさせていただくことにしたのです。
お互い、それなりに時間を費やしたログなのですから、より多くの人に読んでもらえるようにするのは、喜ばしいことだと思っていますし、同じ「まとめ」てあっても、比較できるというのは、悪いことではないと思います。
では、思いついたことがあれば、またその都度コメントさせていただくとして、今回の議論に関しては、ご提案に従って、これで一旦は幕としたいと思います。
どうも、お疲れ様でした。
年間読書人
(2025年6月29日)
年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
