〈第14号〉、あるいは、〈最終回〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第10回目)〉への応答/反論
まえがき
今回のわたしの反論は、主に、4件の事柄、〈第一〉として、「わたしと年間読書人さんとの千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦の記録〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan〉の終決の時」の件、〈第二〉として、「スルーして、キャンセルした後で、〈あなたの話には、内容も論理も何も無い。〉と主張する、年間読書人さんの批判のやり方について」の件、〈第三〉として「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれている、年間読書人さんの〈自己矛盾/自己分裂〉、あるいは、ルサンチマン」について、の件、〈第四〉として、「(わたしからの)年間読書人さんへの〈感謝と御礼〉」の件です。
※、2024年12月26日から行われている、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉とは、「わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行される〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉」であり、「無数の発生し得る可能性のある想像の事象/レイヤーのひとつの記録」であり、「21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片/部分の、描写の記録」のことであり、幾重にも重奏した音楽のようなもの。
※、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉は、「〈第14号〉、あるいは、〈最終回〉」の今回の記事、及び、反論、をもってして、終決すること、になります。
No.1//「わたしと年間読書人さんとの千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦の記録である〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン.Operation William Blake Leviathan〉の終決の時」の、件
(※※★★★※※)
※、年間読書人さん、及び、noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方へ
(1)〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉は、今回を最後に、終決します。
「わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行される〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉」を第一の目的として、2024年12月26日から、開始された、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉は、今回を、最後として、終決致します。
※、終決の理由は明解です。論戦の相手の方である、年間読書人さんに論戦を行う意思が全く無いからです。論戦はひとりでは行うことは出来ません。従って、これにて、終決することになります。他に選択肢はありません。
年間読書人さんが〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉姿を現し続ける必要性も、「罵倒された」と泣き言を喚き散らして、逃げ回る必要性も、これで無くなり、終わりになります。
※、「論戦の様子を知りたい」と思われて、noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方におかれましては、大変、申し訳ありません。わたしひとりでは論戦は出来ません、何卒、ご理解下さい。
(2)21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片/部分の記録、あるいは「〈SNS〉の時代の〈分断〉を象徴する、風景」の記録
※、結果として、〈千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦〉が全く行われなかったということは、大変残念にわたしは思っています。しかし、では、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉が、「意味のない、無意味なもの、であったのか?と問われれば、違います。そうではない。」とわたしは考えています。
「21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片/部分の、描写の記録」としての、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉は使命を十全に果たし、21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片を正確に精緻に活写して、終決を迎えることが出来たと思います。現在の日本の風景の断片、別の言い方をすれば「〈SNS〉の時代の〈分断〉を象徴する、風景」となります。わたしたちが生きている現在の風景の光と闇(の断片)を切り取った結果が、ここに、存在しています。
荒々しい現実の相貌として刻明に描写された風景は、「〈対話をすることの困難さ〉と〈対話をしないことの容易さ〉」、あるいは、「〈分断することの容易さ〉と〈分断しないことの困難さ〉」であり、〈分断〉がいかにして生まれて行くのか?その仕組み/メカニズムのひとつの具体的な例示でもあります。そして、それは現在の日本の風景の断片である、と同時に時代と場所を超えた〈人間のありようの普遍的なかたち〉であるとわたしは思います。
(3)〈歩く水のような人の形をしたもの〉於ける、終決の告知
※、また、わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、自分で書いた記事を、投稿し掲載しています。
わたしのそのアカウントにて、2025年1月14日に、下記のリンクにあるように、「論戦のスタートの告知」を行いました。今回、終決にあたり、スタートの告知と〈対〉になる、「論戦の終決の告知」の記事を、〈歩く水のような人の形をしたもの〉に於いて、適切な時期に、投稿し公開する予定です。
(※、注:もしかしたら、〈歩く水のような人の形をしたもの〉に「論戦の終決の告知」の記事を掲載した後、読者の方々のために、そして、形式上の形態を整えるために、記事をリンクしたシンプルな記事を、本アカウントの〈スロウ・ボート〉に掲載し、それで「全完了」とするかもしれません。)
(4)(おおげさに言えば)「歴史の改竄に抗い、歴史の検証」に耐え得るものとしての、精密な〈記録/ログ〉を、残す「責務」が、わたしにはある。
※、尚、noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方の中で、もし、「わたしが終決の判断に至った経緯の詳細」をお知りになりたい方がいらっしゃるのであれば、以下のリンクを辿って、わたしの「責務」として、わたしが作成した、〈記録/ログ〉を参照して下さい。
これらの記録/ログはかなり文字数の大きい(数万文字)ものです。一度に全文を読み通すことは、極めて困難な作業となります。しかし、それでも、わたしが詳細な記録/ログを残すことにしたのは、「(ゼロかもしれませんが)誰かの何かの時の、経緯の具体的な詳細を知り、互いの見解を、第三者的な客観的な視点で検証を行いたい、という思い」に応えるためです。さらに、年間読書人さんを含めた「歴史を(自分たちの都合の良いように)改竄し、修正しようとする〈歴史を改竄する者たち〉」から歴史を守護するためです
そのためには、精密な記録/ログが必要となります。実際のリアル・タイムの今のためにではなく、来るべき未来のために、記録/ログは存在していなければならないと思います。〈記録/ログ〉とは現在のためのものではなく、未来のためのものです。〈記録/ログ〉は、存在していることに意味があります。それを残すことが、わたしが最後まで行わなければならない「責務」です。
(※※★★★※※)
※、〈記録/ログ〉は、わたしの記事(1)〜(14)、年間読書人さんからの反論(1)〜(11)から構成されています。下記にリンクした、記事の(A)、(B)は、それらを、「わたしの視点で、わたしの認識で」総括したものです。この2件の記事の中に、わたしの「論戦」に対する結論的な認識が記述されています。「わたしの結論」をお知りになりたい方は、これを、一番最初にご覧いただければ、と思います。
(注:あらためて言うまでもないことですが、繰り返しますが、これらは、わたしの視点に立ったわたしの認識です。視点が異なれば、必然として認識も異なります。)
(A)「いかにして、わたしと、年間読書人さんとの間で、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦は、行われなかったのか?」
(B)「年間読書人さんとは、いかなる、〈存在/人〉なのか?」
No.2//「スルーして、キャンセルした後で、〈あなたの話には、内容も論理も何も無い。〉と主張する、年間読書人さんの批判のやり方」について、の件
「暴力によって相手を服従させ支配する行為、あるいは、暴力によって相手をコントロール/制御し、社会を成り立たせる行為」として「(口)喧嘩/(言い)争い/紛争/対立/闘争」などなど、呼ばれる行為が存在しています。それらの行為が先鋭化して極限の形をとれば、それは〈戦争〉ということになります。おおげさではなく。暴力を行使する者は、個々の人間に限定されたものではありません。国家は(日常的に)暴力を行使しています。みもふたもない容赦のない言い方をすれば、「法による秩序」とは、国家が駆動する暴力装置の〈(強制)力〉によってもたらされる人間の支配です。
しかし、そうした、暴力に依存した行為の、対極的に位置する行為として、「暴力に頼ることなく、人と人が手を取り合うため、あるいは、人と人が(部分的であれ)理解し合うための方法」として「対話/話し合い/議論/論戦」、などなど、具体的な呼び名や呼び方はともかく、「言葉によって相手の見解を批評/批判し合う行為」が存在しています。世界観も人生観も価値観も物事の捉え方も感受性のありようも異なる者たちが、暴力に頼ることなく集団を形成し、社会を営むのであれば、その行為は否応なく必要となります
「対話/話し合い/議論/論戦」は、決して、「(口)喧嘩/(言い)争い/紛争/対立/闘争」ではありません。見掛けは同じように観えたとしてもです。その二つは全く異質な事柄です。その二つを互いの延長線上にあるものとして捉えてしまうと、何もかも、誤ってしまいます。論戦に勝敗は不要です。論戦は、支配のためではなく、自由のためにあり、自由のために行われます
「(口)喧嘩/(言い)争い/紛争/対立/闘争」は、〈暴力の応酬〉であり、「対話/話し合い/議論/論戦」は、〈暴力の応酬〉ではありません。〈暴力の応酬〉の対極に位置するものです。あらためて言うまでもなく、批評/批判は「暴力」ではありません。真逆のものです。批評/批判は暴力の否定です。
「スルーして、キャンセルした後で、〈あなたの話には内容も論理も何も無い。〉と主張する、年間読書人さんの批判のやり方」
喩えれば、テーブルに出された料理を、一瞥し、一口も口にすることなく、すべての料理をテーブルから排除した後で「何てこれは酷い料理なんだ!」
という、年間読書人さんが繰り返し用いている方法の致命的で決定的な誤りは、「対話/話し合い/議論/論戦」を「(口)喧嘩/(言い)争い/紛争/対立/闘争」の延長線上に存在する何かと、誤認してしまい、〈暴力の応酬〉の場へと、擬態させ、変貌させてしまったことにある、とわたしは考えています
※、年間読書人さんのやり方は、対話を行うと偽装し、テーブルの席に座った後で「対話/話し合い/議論/論戦」の破壊を行う行為です。偽装と破壊、二重の意味に於いて、年間読書人さんの行為は〈暴力〉である、と思います。
年間読書人さんの行為は、「相手(の見解)を蔑ろにする」、という意味に於いて、「暴力の行使」以外の何ものでもない、とわたしは考えています。年間読書人さんは「対話/話し合い/議論/論戦」を〈暴力の応酬〉の場とし〈何方が何方を、力で屈服させ支配する、行為〉であると錯誤しています。〈暴力の応酬〉ではない「議論」の経験が(ほとんど)無い年間読書人さんは〈暴力の応酬による快楽〉に依存し、他者を道具として利用しています。
わたしに於いては、「対話/話し合い/議論/論戦」の勝ち負けなど、〈どうでもよいこと〉でしかありません。さらに、何方が何方を圧倒しているとか、も、全く〈どうでもよいこと〉でしかありません。わたしは年間読書人さんと、何かを賭けて勝負しているのではありませんし、そもそも、「勝つために」、年間読書人さんと議論しているのでもありません。わたしの議論の究極的な目的は、わたしの見解の不備や矛盾を相手の方に摘出していただき、わたし自身の見解を、もっと、進化させ、深化させる、というものです。
年間読書人さんの見解がいつも立体性を欠いた平面的なものである理由は、他者の視点が欠けていることにあります。自己批判は、結局、〈鏡の中の自己との対話〉、あるいは、自作自演の一人芝居にすぎません。「自分で自分にツッコミを入れても、限界がある。」という当たり前。自閉から逃れるためには、他者との対話以外に道筋はありません、しかし、年間読書人さんには恣意的に他者(との対話)を選ぶことしか出来ない。その幼児性と脆弱性
「スルーして、キャンセルした後で、〈あなたの話には内容も論理も何も無い。〉と主張する、年間読書人さんの批判のやり方」
誰であれ、年間読書人さんと、自由に「対話」することは、不可能です。
誰であれ、年間読書人さんと「議論」しても、何ひとつ、進化しません。
年間読書人さんは、他者との対話を通して、〈成熟した大人〉にならなければなりません。いつまでも、子供のように、駄々をこねてはいけません。
No.3//「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれている年間読書人さんの〈自己矛盾/自己分裂〉あるいは、ルサンチマン」について、の件
「対話/話し合い/議論/論戦」を、〈暴力の応酬〉の場とし〈何方が何方を、力で屈服させ支配する、行為〉であると、年間読書人さんが錯誤してしまう根源/理由のひとつに、「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれている、年間読書人さんの姿」があるのではないだろうか、とわたしは推測しています。
年間読書人さんと「議論(のようなもの)」をスタートさせて、わたしが凄く驚かされたことのひとつが「わたしの、年間読書人さんの見解への批判」を、「わたしによる、年間読書人さんへ痛手/ダメージを与えるための攻撃」として受け止めてしまう強い傾向の存在です。「年間読書人さんの見解は、誤りである、とわたしは思います。」という話が、年間読書人さんの中では「年間読書人さんの〈人格、あるいは、人間性〉は、誤りである、とわたしは思います。」という話にすり替わってしまう。批判が、相手へ痛手/ダメージを与えるための攻撃に、変換されてしまう、という不可解な事態/現象。
忽ち、「対話/話し合い/議論/論戦」は、〈暴力の応酬〉の場へと擬態し、「(口)喧嘩/(言い)争い/紛争/対立/闘争」の延長線上に存在する何かへと変容してしまいます。「好むと好まざるとにかかわらず」、にです。
※(1)「一体、そこに、何があるのだろうか?」と、長い間、わたしには疑問でしたが、今回、〈最終回の終決の回〉ですので、わたしなりの、仮説/仮定を提示しておきたい、と思います。
それに、それどころか今回のスロウ・ボートさんのご説明によると、スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく、私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だったと、おっしゃる。
つまり、私を「ハメる」つもりだったということです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
>「今回のスロウ・ボートさんのご説明によると」
>「スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく」 >「私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だった」 >「私を「ハメる」つもりだったということです」
わたしの記事に、そんな「わたしの説明」など全く存在していません。またわたしが真摯に議論を行おうとしたことは疑いの無い事実です。引用にある年間読書人さんの認識は、まちがいなく「年間読書人さんは、〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」ということの証左です。
※、年間読書人さんの内面の根底には、こうした、「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれている」という強固な事柄が存在し、それを、根源的な原因として、年間読書人さんの言葉と行動が生み出されている、
と仮定すれば、
年間読書人さんの(わたしに対してだけではなく、他の方々への、粘着的な攻撃的なものを含む)、様々な言葉と行動の生み出される源が明らかになるように、わたしは思います。いわば、年間読書人さんの言葉と行動は〈仕返し/復讐/恨み/ルサンチマン〉に彩られている、ということです。見掛けの上では、〈あれこれのもっともらしい理由〉が並べられていますが、根本にあるのは、「〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれた、見当違いの思い込みでしかない、受けた屈辱の恨み」を晴らすという、復讐精神/ルサンチマンです。
〈怨恨〉から生み出されるものは〈暴力〉しかありません。悪いことは言いません。もう、おやめなさい、そんなこと。断ち切るべきです。何処かで。
「孤高の勇者(ヒーロー)として、巨大な悪と戦う、図」を夢見ていながらその一方で、復讐精神/ルサンチマン/に苛まれ、強者への憎悪を募らせる、年間読書人さんの言葉と行動が、「自己矛盾/自己分裂」に満ちた、〈鏡の中の自己闘争〉になってしまうのは、論理的な必然の結果でしかありません。
No.4//年間読書人さんへの〈感謝と御礼〉の件
〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦〉は、全く、行われることなく、終決となりました。何度も繰り返しますが、その点に於いては、わたしは、大変、残念に思っています。年間読書人さんに論戦を行う意思が無いのですから、これは、仕方のないことです。
しかし、そうであるとしても、年間読書人さんが、僅かなものでしかないとしても、ご自身の貴重な大切な時間を使い、わたしの批判にお付き合いしていただき、応答を行っていただいたことについては、深く感謝しています。
わたしは、「年間読書人さんの、論戦に於ける、わたしに対する振る舞い」には、大いに疑問があり、許されることではない、と思います。また「論争家としてはパチモンでしかなく、批評家としても三流以下でしかない。その批評は、批評として必要不可欠な論理力が致命的に欠落している〈箸にも棒にもかからない〉代物でしかない。批評の形式をした、単なる〈自分語り〉でしかない。」これが、年間読書人さん、及び、その文章に対する、わたしの偽りのない評価です。今更、誤魔化したところで何の意味もありません。
しかし、年間読書人さんには、信じ難いことなのかもしれませんが、決して〈年間読書人さんの人間性のすべて〉を否定しているわけではありません。わたしが、〈他人の人間性のすべての否定〉など出来るはずもありません。わたしにも、それが分かる程度の自己認識の正確性は持っています。愚鈍ではない、ということです。わたしは、法こそ犯していませんが、イノセンスではありません。わたしは倫理的に褒められるような人間でもありません。他人の人間性をあげつらうことほど、わたしに不相応なことはありません。
わたしは、年間読書人さんの「弱き者たちを、強きものたちから守り、救いたい」という純粋な思いはまぎれもなく〈誠〉であると思っています。自己陶酔が、そこにあるとしてもです。世界の中に、弱き者たちが存在しないかのように、見て見ぬ振りをする残忍な者たちに、年間読書人さんは陶酔を怖れることなく、声を上げ続けられています。わたしには出来ないことです。
わたしの、年間読書人さんへの〈感謝と御礼〉は、言葉そのものの“真水”として、書かれたものです。他意は何もありません。
ほんとうに、長い間、ありがとうございました。
No.5/年間読書人さんの反論(第10回目)全文
No.6//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.7//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.8//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
「論戦(のようなもの)(※注:実際には『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」は全く行われてはいません。)のスタートの経緯を、お知りになりたい方は、以下の記事を、ご覧ください。このわたしの記事:〈第5号〉がスタートとなります。
