〈第5号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)〉への応答/反論
No.1//まえがき
(この記事の目的)
(1)これまでの経緯についての説明(概略的な説明と詳細な説明)
(2)〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)〉への
わたしの応答/反論
(この記事の全体的な構造)
目次と重複してしまいますが、この記事の全体の見取り図として提示します
★〈これまでの経緯と論戦の進め方〉
(2)No.2//これまでの経緯の概略
(3)No.3//『センスの哲学』を巡る、年間読書人さんとわたしの「論戦/
論争」の進め方について
★〈年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー〉
(4)No.4//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
★〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)〉
(5)No.5//わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)
(6)No.6//わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)の
内容の、わたしによる分析と論点の整理
★〈わたしの応答/反論の前の、幾つかの前置き的な事柄の説明〉
(7)No.7//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの応答/反
論の前に、幾つかの前置き的な事柄を説明する必要があります。
(8)No.8//年間読書人さんの記事へのわたしの批判の方法について:
4段階で構成されている批判の手順
(9)No.9//文の内容のカテゴリを識別するための〈識別コード〉について
(10)No.10//〈識別コード〉が示す、文の内容の、カテゴリについて
(11)No.11//〈識別コード〉の付与の必要性について
(12)No.12//通常は、批評/批判に於いて、〈識別コード〉の付与は、第
三者に開示されません。
(13)No.13//「文章を批評的に、批判的に読む。」とは、リアル・タイ
ムに〈識別コード〉の付与しながら、読むということです。
(14)No.14//〈識別コード〉は、文の内容の評価の結果を示したもので
はありません。
(15)No.15//文の内容が認識、判断、推測であること、それ自体に良い
も悪いもありません。認識、判断、推測の妥当性は内容によって、
決定される。
(16)No.16//批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈、
見立てです。誰が批評/批判者であっても、それ以外あり得ません。
★〈独我論について〉
(17)No.17//独我論、あるいは、「***という事柄(出来事)が存在
する。(と私は思う)」とすれば、全てが「わたしが思った事柄」
になってしまう、という論理について
(18)No.18//わたしは、独我論の立場に、立っていません。
(19)No.19//独我論を、論理的に否定することは、不可能である、とい
うこと。
(20)No.20//「独我論は、人の頭の中の観念/言葉としては成立するが、
現実の中では成立しない。」とわたしは考えている、ということ。
(21)No.21//質問です。年間読書人さんは〈独我論〉の立場に、立って
いるのでしょうか?
★〈年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの反論〉
(22)No.22//No.5の再録//
わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)
(23)No.23//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの包括
的な反論
(24)No.24//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの個別
的な反論
★〈あとがき〉
(25)No.25//あとがき(1)//本記事を書いている、わたしについて
(26)No.26//あとがき(2)//わたしが、年間読書人さんの『センスの哲
学』の書評の記事への批判を、なぜ、書く事にしたのか? 等につ
いて
(27)No.27//あとがき(3)//年間読書人さんとの『センスの哲学』の評
価を巡る「論争」のスタートに至る、具体的な経緯について
No.2//これまでの経緯の概略
(1)2024年の4月のはじめに、千葉雅也さんの『センスの哲学』が刊行さ
れました。
(2)2024年4月『センスの哲学』について年間読書人さんが、自身のnote
に『センスの哲学』の書評の記事を投稿されました。
(3)その後、2024年12月26日、年間読書人さんの『センスの哲学』の
書評に対して、わたし(スロウ・ボート)が批判の文章を作成し、本
アカウントに、わたしの記事として〈第1号〉〜〈第4号〉を投稿し掲
載しました。
(注:わたし(スロウ・ボート)は、noteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち記事を投稿し掲載しています。〈スロウ・ボート〉はわたしと年間読書人さんとの論戦のために設置された専用のアカウントです。)
また、わたしは昨年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しています。
(4)同時に、わたしから、年間読書人さんに本件について、わたしと、
「論戦を交わしていただけないでしょうか?」とお伝えしました。
(5)その結果、年間読書人さんからその旨を了解していただき、千葉雅也
さんの『センスの哲学』の評価を巡る、年間読書人さんとわたしの間
で、「論戦/論争」が、本アカウントに於いて、スタートすることにな
りました。
(6)2024年12月27日に、わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論
(第1回目)が行われました。わたしが、それを本アカウントの記事と
して作成し投稿し掲載しました。
(7)その年間読書人さんの反論(第1回目)へのわたしの応答/反論が、本
記事によって行われる。
というのが、本記事を含めた、これまでの経緯です。
(注記)
年間読書人さんの『センスの哲学』の書評に対するわたしの批判は、わたし(スロウ・ボート)が勝手に一方的に作成し投稿し掲載したものです。またわたしと「論戦を交わしていただけないでしょうか?」というお願いも、わたしからの一方的なお願いです。それにもかかわらず、年間読書人さんからは、こころよく、受け入れていただきました。
当たり前のことですが、論戦/論争/議論/ディベートはひとりでは行うことが出来ません。自分ひとりがその気になって、一方的に論戦/論争/議論/ディベートを呼びかけ言い募っても、行うことは出来ません。相手の方の存在、相手の方の意志があってのことです。あらためまして、年間読書人さんには、深く感謝致します。ありがとうございます。
尚、これまでの経緯等の詳細につきましては、別途、あとがきの方に記述していますので、詳細をお知りになりたい方は、そちらをご覧下さい。
No.3//『センスの哲学』を巡る、年間読書人さんとわたしの「論戦/論争」の進め方について
この論戦の進め方については、今現在は、まだ漠然としたものしか決まっていません。実際に行ってみなければ、分からないので、年間読書人さんとわたしの間で、「はじめは様子を見ながら、形式にとらわれず進めて行きましょう。」と決めただけです。従って、いつまでに「論戦」が「決着」するのか、といった今後の日程のようなものはありません。論戦を散漫に行うつもりはありませんが、まずは、試みてみましょう、ということです。
また、年間読書人さんも、わたしも、「空いた時間に出来る範囲の中で」、無理のないゆっくりとしたペースで進めて行こうと考えています。わたしとしては「論戦」が「話の噛み合わない、単なる空疎な言葉の応酬」で終わらないように「何かしらの意味のあるもの」に出来れば、いいな、と思っていますので、そうなるように努めたいと思っています。
弛緩した上辺だけを取り繕った言葉の交換ではなく、「遠慮のない、容赦のない、直截的な」論戦/論争を行うつもりです。「論戦」の中身自体は緊張感のある本質的な事柄についての議論にするつもりです。
次回はどうなるのか?と読者の方には、論戦の行方を見守っていただければと思います。ご意見がありましたら、コメントをいただければと思います。
No.4//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
年間読書人さんは『センスの哲学』以外の千葉雅也さんの著作についての書評も書かれています。下記に記事のリンクを設置します。 ぜひ、ご覧ください。
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.5//わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)
年間読書人
2024年12月27日 13:03
> スロウ・ボートさま
まず最初に、貴兄からいただいたご批判の「形式的な問題点」について指摘します。
これは、貴兄のご批判の「本質」に関わる問題だと考えます。
それは、貴兄が、私の原論文について、逐一的に「要約」した上で、その末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点であり、この部分だけでも、私の原文に倍する文章量になっているでしょう。
しかし、私が「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた、この手法は、結局のところ、読者に対する、印象操作の「刷り込み」にしかなっていないと思います。
というのも「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だからです。
「第4回」後半では、貴兄は「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」というふうに「断言」されていますが、それ自体、結局は、
「と私(スロウ・ボート)は思う。」
ということにすぎないのではないでしょうか?
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
したがって以降は、貴兄のご文章については、文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」等と書いていただきたいと要望いたします。
それだけで、貴兄のご批判文は、その説得力を大きく減ずることになると思うからです。
No.6//わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)の内容の、わたしによる、分析と論点の整理
今回の年間読書人さんの反論(第1回目)の中に、複数の事柄がありますので、わたしなりに整理させていただきたいと思います。
(1)わたしの批判の方法の「形式的な問題点」について
まず最初に、貴兄からいただいたご批判の「形式的な問題点」について指摘します。
これは、貴兄のご批判の「本質」に関わる問題だと考えます。
(2)要約文の末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点について
それは、貴兄が、私の原論文について、逐一的に「要約」した上で、その末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点であり、この部分だけでも、私の原文に倍する文章量になっているでしょう。
(3)批判的に強調するためになされた、この手法は読者に対する、印象操作にしかなっていない、ということ、について
しかし、私が「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた、この手法は、結局のところ、読者に対する、印象操作の「刷り込み」にしかなっていないと思います。
(4)「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だから、ということ、について
というのも「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だからです。
(5)「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」と「断言」しているが、結局それは「と私(スロウ・ボート)は思う。」ということにすぎない、ということ、について
「第4回」後半では、貴兄は「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」というふうに「断言」されていますが、それ自体、結局は、
「と私(スロウ・ボート)は思う。」
ということにすぎないのではないでしょうか?
(6)「事実の摘示」には必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない、ということについて
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
(7)私(年間読書人さん)だけが「出来ないことをやっている」とするのは、スロウ・ボートの、自覚不足の錯誤なのではないか、ということ、について
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
(8)私(年間読書人さん)は、スロウ・ボートの文章の文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」と書くことを要望します、ということ、について
したがって以降は、貴兄のご文章については、文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」等と書いていただきたいと要望いたします。
(9)スロウ・ボートの文章の文末に、「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」と書くことで、その批判の説得力が大きく減じる、ということ、について
それだけで、貴兄のご批判文は、その説得力を大きく減ずることになると思うからです。
〈年間読書人さんの反論(第1回目)の論点の整理〉
年間読書人さんの反論(第1回目)の内容は、上記に示したように9個の事柄があります。わたしなりに論点を整理したいと思います。
(1)要約文の末尾の「と私(年間読書人)は思う。」の追記が、読者に対
する印象操作の「刷り込み」であるということ
(2)わたしの批判がわたしの見解、解釈、見立て、でしかないということ
(3)「「事実の摘示」には必ず解釈や理解があってのことで、「事実その
もの」は存在しないし、指摘もできない。」ということ
(4)わたしの文章の末尾に「と私は思う(思った、そう理解した、解釈し
た)」と書くことで、その批判の説得力が大きく減じる、ということ
以上、論点は大きく4個に整理されます。これらの論点に対するわたしの応答/反論を行います。まず、全体的な包括的な応答/反論を行い、その後に、9個の点について、それぞれ個別に応答/反論を行いたいと、わたしは思います
No.7//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの応答/反論の前に、幾つかの、前置き的な事柄を説明する必要があります。
今回の年間読書人さんのご指摘は本質的な事柄です。わたしの応答の前に、幾つかの前置き的な事柄を説明しなければ、ご指摘への応答は難しいとわたしは判断しました。
わたしの反論の前の、前置き的な話は、No.8〜No.21まで、となります。
(1)No.8〜No.16までが、わたしの批判の方法論について
(2)No.17〜No.21までが、独我論について
説明不足により、わたしの話の内容が誤って伝わらないようにするために、文字数は相応なものになっています。しかし、内容は本質的でシンプルなものです。とわたしは思います。
No.8//年間読書人さんの記事へのわたしの批判の方法について:4段階で構成されている批判の手順
今回、わたしが行った年間読書人さんの記事に対する批判の方法について説明します。わたしの記事の『〈第2号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///年間読書人さんの記事を読み解くために記事を、33のセクションに分割し、各セクションの文書を、わたしが要約する。』の中で記述した内容と重複する部分がありますが、より詳細に説明したい、とわたしは思います。
まず、わたしが、どのような手順で批判を行ったのか、その手順を説明します。手順は大きく4段階で構成されています。とわたしは考えています。
〈第1段階〉 (年間読書人さんの記事に対するセクション設定、セクション毎の要約文の作成、要約文への〈識別コード〉の付与、記事の構造の抽出)
(目的):年間読書人さんの記事の内容の把握と解析のための前処理
(1)記事を「意味のひとかたまり」のセクションに分割する。
(2)各セクションの文章の内容をわたしの解釈で要約文を作成する。(3) 要約文の内容を識別するための〈識別コード〉として、要約文の末尾
に「と私(年間読書人さん)は判断する。」「と私(年間読書人さ
ん)は認識する。」「と私(年間読書人さん)は推測する。」という
記述を付与する。
(注:文の内容を識別するための〈識別コード〉については、後ほど、
詳細に説明します。)
(4)記事の構造を抽出し、把握し、明示する。
〈第2段階〉 (年間読書人さんの〈前半〉と〈後半〉の概要の要約文の作成)
(目的):年間読書人さんの記事の内容の全体像の把握と解析
(1)記事の各セクションの要約文を記事の構造に従って統合し、記事の大
きな構造である〈前半〉と〈後半〉に対する、新たな概要の要約文を
作成する。
(2)作成された概要の要約をベースにして、記事のポイントを整理する。
〈第3段階〉 (論点の設定、批判を行う)
(目的):論点を明確にして、批判を行う。
(1)記事の概要の要約文をもとにして、論点を設定する。 (2)概要に対する各論点に対して、わたしの見解を示し批判を行う。(3)各セクションの要約文をもと、各セクション毎の論点を設定する。(4)各セクッションに対する論点に、わたしの見解を示し、批判を行う。
〈第4段階〉 (批判の内容の整理、批判の対象である年間読書人さんの記事への考察)
(目的):批判の内容を整理、批判の対象への考察
(1)批判の内容の整理
(2)批判の対象への考察
批判の対象がどのようなメカニズムで発生したのか、等の分析
No.9//文の内容のカテゴリを識別するための、〈識別コード〉について
批判の手順の中の〈第1段階〉での要約文の作成に於いて、今回、わたしは各要約文の末尾に〈識別コード〉として、「と私(年間読書人さん)は判断する。」「と私(年間読書人さん)は認識する。」「と私(年間読書人さん)は推測する。」という記述を付与しています。(とわたしは考えています。)
ここで、わたしが言っている〈識別コード〉とは、文の内容が表現している事柄(出来事)のカテゴリを示したものです。言わば、〈識別コード〉とは、「文の内容のカテゴリを識別するための付箋(のようなもの)」です。とわたしは考えています。
言葉で記述される文の内容にはいろいろなものあります。内容をカテゴリ分けして、色分けして、分かりやすくするために、「文の内容のカテゴリを識別するための付箋(のようなもの)」として〈識別コード〉を各要約文に付与しました。〈識別コード〉が文の内容のカテゴリを示すタグとなります。とわたしは考えています。
No.10//〈識別コード〉が示す、文の内容の、カテゴリについて
文の内容のカテゴリにはいろいろな形態がありますが、今回、わたしは次のようなカテゴリを設定しました。但し、これはあくまでもひとつのカテゴリの設定でしかありません。視点が異なれば、大きく異なったカテゴリ構成になります。また、カテゴリは必ずしも排他的ではありません。ひとつの事柄(出来事)が複数のカテゴリに及ぶ場合もあります。重要なことは、文の内容を批評/批判する方法が適切に選択されるための、適切なカテゴリの設定です。とわたしは考えています。
(1)年間読書人さんの頭の内部の事柄(出来事)を表現した、 内容
1)年間読書人さんの思考
(A)年間読書人さんの認識
(B)年間読書人さんの判断
(C)年間読書人さんの推測
等々
(2)年間読書人さん以外の人(***さん)の頭の内部の事柄 (出来事)を表現した内容
1)***さんの思考
(A)***さんの認識
(B)***さんの判断
(C)***さんの推測
等々
(3)多くの人々(複数の人々)が共有している、多くの人々(複数の人々)の頭の内部の事柄(出来事)を表現した内容
1)多くの人々(複数の人々)が共有している多くの人々(複数の人々)の
思考
(A)複数の人々の認識
(B) 複数の人々の判断
(C)複数の人々の推測
等々
(4)人間の頭の外部の事柄(出来事)を表現した内容
(注:一般的にはこうしたものを「事実」と呼んでいますが、必ずしも全て
が「事実」と言い切れるのかは不明です。例えば、「UFO」は人間の頭の
外部の事柄(出来事)を表現した内容かもしれませんが、それを「事実」
と呼んでいいのかは、定かではありません。検証の結果次第です。とわた
しは考えています。)
1)物理的、自然的な現象
(A)自然科学的な事象(物質の事象、物体の運動、など)
(B)気象(雨、雲、雪、風、台風、地震、天体の運動、など)
(C)動植物の営み(桜の開花など)
等々
2)歴史的、社会的な現象
(A)戦争、革命など
(B)社会的な流行など
(C)事故、事件など
等々
3)情報的な現象
(A)芸術的な活動など(映画、小説、音楽など)
等々
No.11//〈識別コード〉の付与の必要性について
「なぜ、文に、そうした〈識別コード〉の付与が必要なのか?」と言えば、文の内容のカテゴリによって、批判の方法が異なるからです。適切な批判のための適切な方法を選ぶためには、文の内容のカテゴリの把握が必要であり、そのために、〈識別コード〉の付与が必要不可欠となります。とわたしは考えています。
具体的な事例を示しながら、説明しましょう。
例えば、
「2023年に千葉雅也さんの小説『エレクトリック』は第169回芥川龍之介賞候補になった。」という文
この文の内容は、多くの人々(複数の人々)の頭の内部で共有されている、多くの人々(複数の人々)の頭の内部の事柄(出来事)であり、同時に、人間の頭の外部に存在している歴史的、社会的な事柄(出来事)です。とわたしは考えています。
〈識別コード〉としては「と多くの人々(複数の人々)が認識する。」であり、「と歴史的な社会的な事柄(出来事)として記録される。」が付与されます。つまり、〈識別コード〉を付与すれば、次のような表記になります。(とわたしは考えています。)
「「2023年に千葉雅也さんの小説『エレクトリック』は第169回芥川龍之介賞候補になった。」と多くの人々(複数の人々)が認識し、歴史的な社会的な事柄(出来事)として記録される。」(とわたしは考えています。)
一方で、「2023年に千葉雅也の小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった理由は、千葉雅也が異業種有名人であり、その話題性でしかない。」という文
この文の内容は、年間読書人さんの頭の内部の事柄(出来事)であり、年間読書人さんの推測です。とわたしは考えています。
〈識別コード〉としては「と年間読書人さんが推測する。」が付与されます。つまり、〈識別コード〉を付与すれば、次のような表記になります。(とわたしは考えています。)
「「2023年に千葉雅也の小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった理由は、千葉雅也が異業種有名人であり、その話題性でしかない。」と年間読書人さんが推測する。」(とわたしは考えています。)
二つの文の内容のカテゴリとは異なったものとなります。そして、二つの文に対する批評/批判の方法も異なります。とわたしは考えています。
「2023年に千葉雅也さんの小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった。」という文の内容の批評/批判の方法は識別コードに従って、外部の記録との照合によって検証がなされます。内容としては単純なものなので、直ぐに判定の結果を得ることが出来ます。結果としては、真です。「2023年に千葉雅也さんの小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった。」という文の内容は正しいものです。とわたしは考えています。
では、〈識別コード〉の「と年間読書人さんが推測する。」が付与された「2023年に千葉雅也の小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった理由は、千葉雅也が異業種有名人であり、その話題性でしかない」という文の内容の批評/批判の方法は、どのようなものが選定され、批評/批判はどのように行われるのか?(とわたしは考えています。)
推測の妥当性の評価の方法は、推測の根拠の信頼性、推測の過程の検証などとなります。推測の根拠の由来、論理性、推測の論理展開の整合性/論理性などが評価されます。当然、評価は人が行いますので、評価そのものも検証の対象になります。他者の推測の妥当性の評価は内省的に行われます。そうした総合的な評価の結果、文の内容の批評/批判が行われます。とわたしは考えています。
わたしの「2023年に千葉雅也の小説『エレクトリック』が第169回芥川龍之介賞候補になった理由は、千葉雅也が異業種有名人であり、その話題性でしかない。」という文の内容の批評/批判は既に、本アカウントに公開されているわたしの記事の『〈第4号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判(本論):///[セクション:後半の]への批判』の中で示されています。わたしの評価は「その可能性はある。しかし、「間違いなく」と言い切れるかと言えば、そうではない。あくまでも可能性でしかない。」というものです。とわたしは考えています。
二つの事例で示されたように文の内容のカテゴリによって、批評/批判の方法は異なります。とわたしは考えています。
正確な〈識別コード〉の付与によって、正確な批評/批判が行われます。〈識別コード〉の付与を誤ると、適切な方法が用いられず正確な批評/批判が行われなくなります。〈識別コード〉の付与は、批評/批判の基盤を支える重要な項目であり、欠かすことのできないものです。とわたしは考えています。
No.12//通常は、批評/批判に於いて、〈識別コード〉の付与は、第三者に開示されません。
今回、わたしは、本アカウントに公開されているわたしの記事の〈第2号〉に於いて、セクションに分割することと、セクションの要約文を作成すること、そして、各要約文に〈識別コード〉の付与をすることなどの一部始終を開示しました。とわたしは考えます。
しかし、これらは本来、批評/批判者サイドの内部の批評/批判の過程(プロセス)であり、通常は第三者に分かるような形で、開示されることはありません。実際の批評/批判に於いて、具体的なテキストとして作成される場合もありますが、メモ的なものであったり、あるいは、批評/批判者の頭の中にしか存在しない場合など、様々な場合があります。とわたしは考えます。
今回、わたしが一連の〈識別コード〉の付与を含めた、批評/批判者サイドの内部の批評/批判の過程(プロセス)の全てを、あえて、テキストとして作成し、開示したのは、わたしの批評/批判の方法論を明示した方が、よりよく、批判の内容を読者に理解していただけるのではないか、とわたしが考えて、結果、そうしたものです。
繰り返します。
通常は、セクションに分割することと、セクションの要約文を作成すること、そして、各要約文に〈識別コード〉の付与をすることなどは、第三者に分かるような形で、開示されることはありません。とわたしは思います。
つまり、〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するために行うものであって、読者に知らせるものではありません。当然、それは読者を或る一定の印象へ誘導するための、印象操作の「刷り込み」の意図で行われるものではありません。とわたしは考えます。
No.13//「文章を批評的に、批判的に読む。」とは、リアル・タイムに〈識別コード〉の付与しながら、読むということです。
「文章を批評的に、批判的に読む。」とは、リアル・タイムに〈識別コード〉の付与しながら、読むということです。それが批評/批判のはじまりの起点だからです。とわたしは考えます。
誰もが、文章を批評/批判することが出来るわけではないように、誰もが、「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来るわけではありません。「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来ない読者とは、意識的に、あるいは、無意識的に、リアル・タイムに〈識別コード〉の付与することが出来ない読者です。つまり、文の内容の妥当性、論理性を適切に評価することが出来ない読者です。そうした読者に向けては、〈識別コード〉の付与の顕在化は必要なことかもしれません。とわたしは思います。
しかし、「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来る読者に於いては、〈識別コード〉の付与の顕在化されたテキストは、いわば、無数の色分け用の付箋/タグが、ぺたぺたといたる所に貼られた付箋/タグだらけの、煩わしいテキストでしかありません。「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来る読者に於いて、〈識別コード〉の付与の顕在化/非顕在化は、全く無意味な無駄な抵抗と言えるでしょう。とわたしは考えます。
No.14//〈識別コード〉は、文の内容の評価の結果を示したものではありません。
厳密に言えば、〈識別コード〉の付与自体が、文の内容の評価の前段階的な評価であり評価の一部分を成しますが、一義的には、文の内容の評価は、〈識別コード〉の付与の後で行われます。従って、〈識別コード〉は、文の内容の評価の結果を示したものではありません。とわたしは考えます。
No.15//文の内容が認識、判断、推測である、こと、それ自体に良いも悪いもありません。 認識、判断、推測の妥当性は内容によって、 決定される。
文の内容のカテゴリである〈識別コード〉が認識、判断、推測であったとしても、認識、判断、推測それ自体に良いも悪いもありません。問題となるのはその内容です。〈識別コード〉で文の内容の評価の結果が決まるものではありません。文の内容の評価は〈識別コード〉の付与の後に行われます。認識、判断、推測の妥当性は内容によって決定される。とわたしは考えます。
No.16//批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈、見立てです。誰が、批評/批判者であっても、それ以外、あり得ません。
批評/批判者による批評/批判の対象は、人間の見解、理解、解釈、見立てや、それ以外のもので構成された複合体です。わたしの言い方をすれば、様々な〈識別コード〉が付与される事柄(出来事)で構成された複合体です。とわたしは考えます。
しかし、批評/批判という行為によって成される、批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈、見立てです。誰が批評/批判者であっても、それ以外、あり得ません。とわたしは考えます。
批評/批判者の見解、理解、解釈、見立ての評価は、その内容によって判断されます。批評/批判が見解、理解、解釈、見立てであるから、それを理由にして、それらは信頼できるものではない、誤りである、ということではありません。あくまでも、内容によってその妥当性は判断されます。とわたしは考えます。
No.17//独我論、あるいは、「***という事柄(出来事)が存在する。(と私は思う)」とすれば、全てが「わたしが思った事柄」になってしまうという論理、について
〈独我論(どくがろん)〉という考え、立場、世界観、があります。(独在論、唯我論とも呼ばれます。)一般的には「自我とその意識だけが実在し、他のものは自我の意識の中に存在する何かにすぎないとする立場」と言われています。とわたしは考えます。
〈独我論〉の立場に立てば、世界の中の事柄(出来事)の全てが、自我の中の現象となります。つまり、「***という事柄(出来事)が存在する。(と私は思う。)」とすれば、「***という事柄(出来事)」の***の部分が如何なるものであったとしても、全てが「わたしが思った事柄(出来事)」になってしまう、という論理です。とわたしは考えます。
「雨が降ったという事柄(出来事)」も「今年は2025年であるという事柄(出来事)」も「私は明日、映画を観に行こうと思っているという事柄(出来事)」も何もかもが「***という事柄(出来事)が存在する。(と私は思う。)」となり、論理としては全てが「わたしが思った事柄(出来事)」になってしまいます。とわたしは考えます。
〈独我論〉の立場に立てば、文の内容のカテゴリを示す〈識別コード〉は全て「とわたしは思う。」という単一なものとなってしまいます。認識、判断推測などの区分はありますが、いずれにしても〈識別コード〉は全て、「***さんの頭の内部の事柄(出来事)を表現した内容」となってしまいます。言い方を変えれば、〈独我論〉の立場に立てば〈識別コード〉の付与はほとんど意味を失います。とわたしは考えます。
〈独我論〉に於いては、他者は存在しません。自我とその意識だけが実在し、他のものは自我の意識の中に存在する何かにすぎない、という話です。従って、〈独我論〉に於いては、他者、及び、他者の表現を対象とする批評/批判という行為も存在することが出来ません。とわたしは考えます。
No.18//わたしは、独我論の立場に、立っていません。
あらためていうまでもありませんが、わたしは〈独我論〉の立場に、立っていません。つまり、「自我とその意識だけが実在し、他のものは自我の意識の中に存在する何かにすぎない」と考えていません。また、世界の中の事柄(出来事)の全てを「わたしが思った事柄(出来事)」に統合することが可能である、とも考えていません。
No.19//独我論を、論理的に否定することは、不可能である、ということ。
「自我とその意識だけが実在し、他のものは自我の意識の中に存在する何かにすぎないとする立場」である〈独我論〉を、〈独我論〉以外の立場の者が論理的に否定することは不可能です。〈独我論〉の立場の者に於いては、〈独我論〉以外の立場の者そのものが、〈独我論〉の立場の者の自我の意識の中に存在する何かにすぎないからです。鏡の中の自己が、鏡の外の自己を、否定することは不可能であるということです。とわたしは考えます。
No.20//「独我論は、人の頭の中の観念/言葉としては成立するが、現実の中では成立しない。」とわたしは考えている、ということ。
しかし、〈独我論〉は人の頭の中の観念/言葉としては成立しますが、現実の中では成立しません。その論理は単なる観念/言葉の遊戯でしかありません。現実は観念/言葉だけで構成されているわけではないからです。とわたしは考えます。
全てを「わたしが思った事柄」に統合することは、人の頭の中の観念としては可能ですが、現実の中では不可能です。観念/言葉を現実と取り違え、現実の中で実行し、観念/言葉の中に自閉してしまうと、それは妄想となってしまいます。とわたしは考えます。
但し、繰り返しになりますが、〈独我論〉の立場に立つ者に向けてこのことを論理的に語ることは出来ません。〈独我論〉は或る種の妄想のひとつである、とわたしは考えていますが、論理としてそれを証明することは不可能です。とわたしは考えます。
No.21//質問です。年間読書人さんは、 〈独我論〉の立場に立っているのでしょうか?
確認させて下さい。凄く、重要なことです。
年間読書人さんは〈独我論〉の立場に、立っているのでしょうか?
年間読書人さんは〈独我論〉の立場に立って、その上で、批評/批判を展開されようとしているのでしょうか? 年間読書人さんの立場を、明確に教えていただけないでしょうか?
年間読書人さんに於ける、〈独我論〉に対する考えを教えて下さい。
No.22//No.5の再録// わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第1回目)
年間読書人
2024年12月27日 13:03
> スロウ・ボートさま
まず最初に、貴兄からいただいたご批判の「形式的な問題点」について指摘します。
これは、貴兄のご批判の「本質」に関わる問題だと考えます。
それは、貴兄が、私の原論文について、逐一的に「要約」した上で、その末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点であり、この部分だけでも、私の原文に倍する文章量になっているでしょう。
しかし、私が「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた、この手法は、結局のところ、読者に対する、印象操作の「刷り込み」にしかなっていないと思います。
というのも「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だからです。
「第4回」後半では、貴兄は「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」というふうに「断言」されていますが、それ自体、結局は、
「と私(スロウ・ボート)は思う。」
ということにすぎないのではないでしょうか?
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
したがって以降は、貴兄のご文章については、文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」等と書いていただきたいと要望いたします。
それだけで、貴兄のご批判文は、その説得力を大きく減ずることになると思うからです。
No.23//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの包括的な反論
わたしは、今回、批判を行う方法の一環として、年間読書人さんの記事について、逐一的に要約し、要約文の末尾に「と私(年間読書人さん)は認識、判断、推測する。」と追記しました。追記は、わたしが批判を適切な方法で行うために、批判の対象である文の内容のカテゴリを正確に把握する目的のために、〈識別コード〉の付与として、行われたものです。〈識別コード〉の付与は、批評/批判の基盤を支える重要な項目であり、欠かすことのできないものです。とわたしは考えます。
〈識別コード〉の付与は、読者向けに示されたものではなく、また、年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている。」と、批判的に強調するためになされた、ものでもありません。とわたしは考えます。
つまり、〈識別コード〉の付与は、読者に対する印象操作の「刷り込み」ではありません。とわたしは考えます。
本来、〈識別コード〉の付与は第三者に分かる形で開示されるものではありません。今回、わたしの批判の全ての過程を明示することで、批判の結果をよりよく、読者に理解していただけるのではないかと判断し、あえて、開示することにしました。とわたしは考えます。
しかし、結果的に、年間読書人さんが〈識別コード〉の付与を、印象操作の「刷り込み」と読み取ったことは、わたしの説明不足に由来すると考えています。〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうしたことにはならなかったのではないかと、わたしは考えています。
***
批評/批判という行為によって成される、批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈見立てです。誰が批評/批判者であっても、それ以外、あり得ません。とわたしは考えます。
批評/批判者の見解、理解、解釈、見立ての評価は、その内容によって判断されます。批評/批判が見解、理解、解釈、見立てであるから、それを理由にして、それらは信頼できるものではない、誤りである、ということではありません。あくまでも、内容によってその妥当性は判断されます。とわたしは考えます。
***
>「「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」
ここで年間読書人さんが言われていることが、わたしにはよく理解できません。年間読書人さんがここで言われている「事実」という言葉を意味が、わたしには、よく理解できません。>「「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」、これは、どういう意味なのでしょうか?
従って、この部分に関して、わたしには反論することが出来ません。
年間読書人さん、もう少し、詳しく教えていただけないでしょうか?
***
〈識別コード〉が顕在化されても、されなくとも、「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来る読者の於いては、文章は意識的に、あるいは、無意識的にリアル・タイムに〈識別コード〉は付与されながら読まれます。とわたしは考えます。
批評/批判の説得性は、その内容によって変化するものです。〈識別コード〉によって、変化することはありません。とわたしは考えます。
従って、〈識別コード〉である「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」をわたしの批判文の末尾に書いても、わたしの「批判文は、その説得力を大きく減ずることになる。」ことはない、とわたしは考えています。
No.24//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの個別的な反論
年間読書人さんの反論(第1回目)にある9個の事柄について、個別に反論を行いたいと思います。
(注:「No.23//年間読書人さんの反論(第1回目)に対する、わたしの包括的な反論」の内容と重複していますが、より詳しく反論しています。とわたしは考えています。)
(1)わたしの批判の方法の「形式的な問題点」について
まず最初に、貴兄からいただいたご批判の「形式的な問題点」について指摘します。
これは、貴兄のご批判の「本質」に関わる問題だと考えます。
(わたしの反論)
わたしが今回用いた批判の方法には一長一短があります。万能ではありません。方法というものはそうしたもです。とわたしは考えています。
わたしの方法は、批判の対象となる文章に書かれてある内容を漏らすことなく全てすくい取ることが可能であり、さらに、読み誤ることを最小限に抑えることが可能であるという利点があります。しかし、一方で、相応の手間がかかりますし、わたしの批判の文章が大きなものとなってしまうという副作用があります。とわたしは考えています。
従って、方法にある問題点を問題点として認識して、副作用をいかに抑えるのか、それに注力すれば、いいのではないか、とわたしは考えています。
今回、わたしはわたしの批判の方法の副作用を抑える工夫として、批判の文章を4個の記事に分割し、〈第1号〉から〈第4号〉として、公開しました。
副作用を抑える一定の効果があった、とわたしは考えています。
(2)要約文の末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点について
それは、貴兄が、私の原論文について、逐一的に「要約」した上で、その末尾に「と私(年間読書人)は思う。」とつけ足したものを、読者向けに示している点であり、この部分だけでも、私の原文に倍する文章量になっているでしょう。
(わたしの反論)
要約文の末尾の「と私(年間読書人さん)は思う。」は批評/批判者が批評/批判を正確に実行するための〈識別コード〉です。従って、それは「読者向けに示している」ものではありません。とわたしは考えます。
本来、〈識別コード〉は第三者に分かる形で開示されるものではありません。今回、わたしは批評/批判の全ての過程(プロセス)と方法論を明示することで、批評/批判の結果を、読者に、よりよく、理解していただけるのではないかと思い、あえて、開示しました。とわたしは考えます。
(3)批判的に強調するためになされた、この手法は読者に対する、印象操作にしかなっていない、ということ、について
しかし、私が「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた、この手法は、結局のところ、読者に対する、印象操作の「刷り込み」にしかなっていないと思います。
(わたしの反論)
〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのものです。「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません。また、繰り返しになりますが、読者に対して示されたものでもありません。とわたしは考えます。
従って、それは、読者に対する、印象操作の「刷り込み」の意図で行われたものではありません。とわたしは考えます。
しかし、結果的に年間読書人さんが、そのようなものと理解されてしまったのは、わたしの説明不足に由来する、とわたしは考えています。わたしの批判〈第2号〉に於いて、〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうした理解にはならなかったと、わたしは考えています。
(4)「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だから、ということ、について
というのも「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だからです。
(わたしの反論)
批評/批判者による批評/批判の対象は、人間の見解、理解、解釈、見立て、及び、それ以外のもので構成された複合体です。わたしの言い方をすれば、様々な〈識別コード〉が付与される事柄(出来事)で構成された複合体です。とわたしは考えます。
しかし、批評/批判者の批評/批判という行為によって成される批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈見立てです。わたしに限らず、年間読書人さんに限らず、誰が、批評/批判者であっても、そうです。それ以外、あり得ません。とわたしは考えます。
>「というのも「と私(年間読書人)は思う。」というのは、当たり前な話だからです。」
そうした意味に於いて、批評/批判そのものは、「と私(年間読書人)は思う。」事柄です。そのことに異論はありません。わたしもそう思います。
但し、批評/批判という行為の対象は、必ずしも誰かの見解、理解、解釈、見立て、だけ、ではありません。そこには、誰かの見解、理解、解釈、見立てではない、誰かの頭の外部の事柄(出来事)であったり、あるいは、歴史的な社会的な事柄(出来事)等も存在しています。批評/批判という行為の対象はそうした様々な事象も含んでいます。批評/批判者は、様々な事象に対して様々な形で応じて、(場合によっては、根拠にして)批評/批判を行います。とわたしは考えます。
従って、批評/批判を記述した文章の中には、「と私(批評/批判者)は思う。」と表現しない、表現することが出来ない、文も存在します。つまり、批評/批判文に於いて、「と私(批評/批判者)は思う。」というのは、決して当たり前のことではありません。とわたしは考えます。
(5)「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」と「断言」しているが、結局それは「と私(スロウ・ボート)は思う。」ということにすぎない、ということ、について
「第4回」後半では、貴兄は「こうして年間読書人は、事実ではないことを書いているから、その主張は間違っている。」というふうに「断言」されていますが、それ自体、結局は、
「と私(スロウ・ボート)は思う。」
ということにすぎないのではないでしょうか?
(わたしの反論)
わたしの批評/批判が、「「と私(スロウ・ボート)は思う。」ということにすぎないのではないでしょうか?」と言われれば、その通りです。しかし、そのことに良いも悪いもありません。批評/批判とは誰に於いても、本質的にそうしたものでしかあり得ません。とわたしは考えます。
批評/批判者の見解、理解、解釈、見立ての評価は、その内容によって判断されます。批評/批判が見解、理解、解釈、見立てであるから、それを理由にして、それらは信頼できるものではない、誤りである、ということではありません。あくまでも、内容によって判断されます。とわたしは考えます。
また、「断言」自体に良いも悪いもありません。問題となるのは、断言の内容です。とわたしは考えます。
(6)「事実の摘示」には必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない、ということについて
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
(わたしの反論)
ここで年間読書人さんが言われている「事実」という言葉を意味が、わたしには、よく理解できません。
>「「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのこと」とは、どういう意味なのでしょうか?
例えば、「今年は2025年である。」とか、「2025年の元日の東京は晴れだった。」といった事柄(出来事)、に「と私は思う。」が必要不可欠でしょうか?これらは、「と私は思う。」、あるいは、「と私は思わない。」といった「私の」解釈や理解とは関係ない事柄(出来事)のように、わたしには思えるのですが。
>「「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」
繰り返します。ここで年間読書人さんが言われている「事実」という言葉を意味が、わたしには、よく理解できません。
ここで年間読書人さんがここで言われている「事実」について、詳しく教えていただけないでしょうか?
***
独我論の立場に立てば、確かに>「「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」のかもしれません。〈独我論〉では、「自我とその意識だけが実在し、他のものは自我の意識の中に存在する何かにすぎないとする立場」ですから、そうなります。とわたしは考えます。
しかし、独我論の立場に立たなければ、解釈や理解が不要な「事実の摘示」が可能な場合もあります。さらに、「事実そのもの」も存在する場合があり、指摘することも可能な場合もある。となります。とわたしは考えます。
(注記)
わたしがここで言っている「事実」とは、「***さんの頭の内部の事柄(出来事)」つまり、「***さんの自我の意識の内部の事柄(出来事)」ではなく、「***さんの頭の外部の事柄(出来事)」つまり、「***さんの自我の意識の外部の事柄(出来事)」のことを指します。そうした意味での「事実」は「事実そのもの」も存在し、指摘することも可能である。とわたしは考えます。
繰り返します。年間読書人さんは、もしかして、独我論の立場に立っているのでしょうか?
(7)私(年間読書人さん)だけが「出来ないことをやっている」とするのは、スロウ・ボートの、自覚不足の錯誤なのではないか、ということ、について
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
(わたしの反論)
「年間読書人さんだけが「出来ないことをやっている」」と、わたしが言っているとのことですが、わたしはわたしの批判の中で、そのような指摘をしたことはない、とわたしは考えています。
わたしの批判のどの部分で、そのようなことをわたしが言っているのか、具体的な論点を明示して、ご指摘していただけないでしょうか?
わたしは「わたしの批判が、わたしの見解、解釈、理解、見立て、思い、考えである。」ということは十分に承知しています。そして、その上で年間読書人さんの記事を批判しています。とわたしは考えています。
「わたしの自覚不足」と年間読書人さんはご指摘されていますが、わたしが何をどのように自覚していないのか、具体的に詳細に明示して下さい。さらに、「わたしの錯誤」と年間読書人さんはご指摘されていますが、わたしが何をどのように錯誤しているのか、具体的に詳細に明示して下さい。
年間読書人さんのご指摘があまりにも漠然として、わたしにはわたしの批判のどの部分についてのご指摘か分かりません。従って、わたしは反論することが出来ません。
もう少し、詳しく具体的に教えていただけないでしょうか?
(8)私(年間読書人さん)は、スロウ・ボートの文章の文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」と書くことを要望します、ということ、について
したがって以降は、貴兄のご文章については、文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」等と書いていただきたいと要望いたします。
(わたしの反論)
了解致しました。
本記事から、可能な限り、そうした表記を行いたい、とわたしは思います。
(9)スロウ・ボートの文章の文末に、「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」と書くことで、その批判の説得力が大きく減じる、ということ、について
それだけで、貴兄のご批判文は、その説得力を大きく減ずることになると思うからです。
(わたしの反論)
繰り返しになりますが、要約文の末尾への「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」のわたしによる追記は、読者への印象操作の「刷り込み」ではありません。それは〈識別コード〉です。とわたしは考えます。
〈識別コード〉が顕在化されても、されなくとも、「文章を批評的に、批判的に読む。」ことが出来る読者の於いては、文章は意識的に、あるいは、無意識的に、リアル・タイムに〈識別コード〉が付与されながら読まれます。とわたしは考えます。
そして、批評/批判の説得性は、その内容のよって変化するものです。〈識別コード〉によって、変化することはありません。とわたしは考えます。
従って、〈識別コード〉である「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」をわたしの批判の末尾に書いても、わたしの「批判文は、その説得力を大きく減ずることになる」ことはない、とわたしは考えています。
No.25//あとがき(1)// 本記事を書いている、わたしについて
わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこで記事を投稿しています。
わたしは昨年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しました。
また、『センスの哲学』には直接的には関係ありませんが、年間読書人さんが記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で言及されている千葉雅也さんの小説群の中のひとつである『エレクトリック』について、一昨年(2023/2/11)に、読書感想文をnoteの記事として投稿しています。
No.26//あとがき(2)// わたしが、年間読書人さんの『センスの哲学』の書評の記事への批判を、なぜ、書く事にしたのか? 等について
わたしが、年間読書人さんの『センスの哲学』の書評の記事への批判を、なぜ、書く事にしたのか? 等については、下記の「〈第1号〉(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのかその経緯など」の記事に詳細に書かれています。ご覧下さい。
No.27//あとがき(3)// 年間読書人さんとの『センスの哲学』の評価を巡る「論争」のスタートに至る、具体的な経緯について
年間読書人さんとの『センスの哲学』の評価を巡る「論争」に至る、具体的な経緯については、下記の年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」のコメント欄でのわたしと年間読書人さんのコメントのをご覧下さい。
