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〈第3号〉                        年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判(本論):///      [セクション:前半の]への批判

No.1//まえがき

(この記事の目的)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)の[セクション:前半]に対する批判を行うことが、この記事の目的です。

(「年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」に対するわたしの批判」を書いている、わたしについて)

わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこで記事を投稿しています。

わたしは今年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しました。

また、『センスの哲学』には直接的には関係ありませんが、年間読書人さんが記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で言及されている千葉雅也さんの小説群の中のひとつの『エレクトリック』について、読書感想文をnoteの記事として投稿しています。

尚、これまでの経緯の詳細については、下記の「〈第1号〉年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのかその経緯など」の記事をご覧下さい。

(この記事の全体的な構造)

目次と重複してしまいますが、この記事の全体の見取り図として提示します

(2)No.2//『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について(3)No.3//千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について
(4)No.4//再録//年間読書人さんの記事の前半の構造の概略
(5)No.5//年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判(6)No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判の
   まとめ
(7)No.7―1〜14//年間読書人さんの記事の[セクション:1〜14]の全文の
   引用、要約、及び、各セクションに対する個別的な批判
(8)No.8//あとがき


No.2//『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について

批判を行う前に、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述したいと思います。

年間読書人さんの記事の冒頭で、年間読書人さんは「『センスの哲学』は売れない本となってしまうだろう。」という予測を行っています。そして、その予測の理由を挙げています。

わたしの年間読書人さんの記事に対する批判はその事柄と深く関係しますので、客観的な事実として、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述し、この本が世の中でどのように受け入れられているのか、その現実を明確にしたいと思います。

『センスの哲学』の発行部数は、11月に於いて、「6万5000部(紙の書籍+電子書籍)を突破」しているようです。また、12月の中旬の時点で、10度目の重版にもなっているようです。今年の4月に刊行され、8か月あまりでこの部数は、ベストセラーと言えるほどではありませんが、定価1760円の哲学の本としては「大ヒット」と言っていいのではないでしょうか。

実際に自分で金銭を支払って購入し、この本を最初から最後まで読んだ人の人数は、定かではありません。また、2023年2月時点で電子版を含めて発行部数が13万部を超えてベストセラーとなった『現代思想入門』(2022/3/16刊行、新書、定価990円)ほどには売れてはいないのかもしれません。それでも2024年12現在に於いて「売れた本」であることは事実だと思います。(因みに、売り上げ金額で換算すると、『センスの哲学』の6.5万冊は『現代思想入門』の11.6万冊に相当します。)

年間読書人さんの予想に反して『センスの哲学』は売れているのが現実です

わたしが行う批判はそうした現実の事実との整合性を保ったものです。但し、現実が年間読書人さんの予想に反したものであることを理由にして、年間読書人さんの記事を後出しジャンケン的に全面的に批判しているのではありません。それは部分でしかない、とあらかじめお断りしておきます。

尚、「6万5000部」という数字は、文藝春秋社の『本の話 ~読者と作家を結ぶリボンのようなウェブ〜 文春オンライン』(https://books.bunshun.jp/)の、読書オンライン「鳥羽和久が千葉雅也『センスの哲学』を読む」の記事(2024.11.19)(https://books.bunshun.jp/articles/-/9488)の中に記述されているものです。下記にリンクを設定しておきます。

No.3//千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について

わたしの批判を行う上で、その前提として、千葉雅也さんがこれまでに行ってきた表現の概略を示しておきたいと思います。千葉雅也さんは毎日のようにX(Twitter)で言葉を発信されています。(X(Twitter)のフォロワー数は2024年12月現在、9万を超えているようです。)そして、著述家として本を書かれています。わたしは千葉雅也さんの単独の著作は、小説三部作を含めて、全て読んでいます。ざっとですが、今年(2024)の4月に『センスの哲学』を刊行するまでの、千葉雅也さんのこれまでに行ってきた著作の履歴を辿ってみましょう。(尚、千葉雅也さんには対談等の共著もありますが、ここでは省略します。)

千葉雅也さんの現時点での単独の著作は以下の通りです。

(1)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
   (2013)
(2)『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)
(3)『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)
(4)『意味がない無意味』(2018)
(5)『アメリカ紀行』(2019)
(6)『現代思想入門』(2022)
(7)『センスの哲学』(2024)

長編小説三部作は以下の通りです。

(1)『デッドライン 』(2019)
(2)『オーバーヒート』(2021)
(3)『エレクトリック』(2023)

千葉雅也さんは、自身の博士論文である最初の著作『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)が注目を集め、その後、『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)、『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)などが刊行され、多くの読者を得ました。

その後、最初の長編小説『デッドライン』が2019年に刊行され、2021年に二作目の長編小説『オーバーヒート』、2023年に三作目の長編小説『エレクトリック』が刊行されました。千葉雅也さんは小説家として、既に三つの長編小説を発表され、それらの小説は一定数の読者を獲得しています。

そして、現在に至っている、という流れです。

『現代思想入門』(2022/3/16刊行)は「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」本かもしれません。2023年2月時点で電子版を含めて13万部を超えて、ベストセラーとなった『現代思想入門』のインパクトが強く、千葉雅也さんを「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる人」と認識している人も大勢いると思います。その認識自体は誤りではありません。千葉雅也さんには確かに現代思想(哲学)の解説者という側面があります。

しかし、『現代思想入門』以外の本は現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる本ではありません。また、千葉雅也さんのX(Twitter)も、必ずしも現代思想(哲学)について分かりやすく説明してくれるものではありません。『意味がない無意味』(2018)は批評集でもあり哲学書でもあります。この本で千葉雅也さんは自分の哲学を語っていますが、その文体は硬質で、語り口は平明なものではありません。『意味がない無意味』は決して現代思想(哲学)を分かりやすく説明する本ではありません。また、『アメリカ紀行』はタイトルを含めて見掛け上はエッセイの体裁をしていながらも、〈散文の思考〉と〈思考の散文〉が交錯し、千葉雅也さんの言葉の物質性が奏でられている音楽のような本です。

千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」ではありますが、「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれるだけの人でしかない。」という認識は明らかに誤りです。千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」であり、「現代思想(哲学)の複雑な内容を複雑なまま複雑に語る人」であり、「不思議な魅力溢れる小説を書く小説家」です。

著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は既に確立されたブランド・〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。

(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)

尚、わたしの記事の〈第1号〉と重複しますが、わたしがnoteに千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』についての感想文を投稿していますので、下記にリンクを設置しておきます。これを読んでいただければ、わたしがこの小説をどのように捉えているのか、そして、『エレクトリック』の魅力がどのようなものなのか、分かっていただけるのかもしれません。単なるひとりの読者の感想でしかありませんが。

No.4//再録//               年間読書人さんの記事の前半、その構造の概略

(注)以下は〈第2号〉の再録です。

年間読書人さんの記事の前半は、以下のような構造で成り立っています。

〈前半〉に於いて、千葉雅也が何者であり、どのような理由で『センスの哲学』が書かれ刊行されたのか、年間読書人さんの見解が語られ、『センスの哲学』は売れない本だろうという年間読書人さんの予測が提示されます。

〈前半〉は[セクション:A]から[セクション:E]の5部構成です。

[セクション:前半] [セクション:A〜E]/ [セクション:1〜14]

(1)[セクション:A][セクション:1〜2]
(2)[セクション:B]
[セクション:3〜7]
(3)[セクション:C]:[セクション:8〜9]
(4)[セクション:D]:[セクション:10〜13]
(5)[セクション:E]:[セクション:14]

No.5―1〜7//、//、年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判

[セクション:前半の概要] (注:〈第2号〉の再録)

千葉雅也が売れっ子である理由は現代思想の大哲学者の解説屋だからである。そして、千葉雅也には自由になりたいという強い願望が存在している。そのために『センスの哲学』を書き刊行し、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化するという行為を行った。そうした行為を千葉雅也が決断した背景には、これまでの現代思想の大哲学者の解説屋としての実績が千葉雅也の自己認識を誤らせ、今この時期に世の中の人々の多くが自分の哲学の本を評価してくれるだろうという錯覚が存在している。そうした背景の中で、千葉雅也の『センスの哲学』が刊行された。

しかし、世の中の人々の多くが求めていることは、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである。世の中の人々の多くは現代思想の大哲学者というブランドに魅せられているのであって、千葉雅也というブランドに興味があるわけではない。従って、自分自身をブランド化した千葉雅也の哲学の本である『センスの哲学』は、売れない本になると私(年間読書人さん)は予想する。

(注:ここで記述されている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」であり、尚且つ、「高級な価値あるもの」という意味です。)

No.5―1//[セクション:前半]の概要に対する批判(その1)

※「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかない。」という認識について

***

千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかない、という認識は誤りです。千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。一般読者向けの哲学の入門書を書き刊行するのも、そうした側面の表れです。

しかし、それは千葉雅也さんの側面でしかありません。千葉雅也さん、及び、その表現が現代思想の大哲学者の解説者の枠を超えたものであることは、『センスの哲学』以前の著作を読めば、明白です。千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかないという年間読書人さんの認識は、千葉雅也さんの表現の一部分しか知らないことに起因する誤解です。

(注)
この記事で年間読書人さんは千葉雅也さんのことを「解説・者」ではなく「解説・屋」という侮蔑的な表現を用いて呼んでいます。年間読書人さんの千葉雅也さんに対する強い敵意が表れている表現だとわたしは思います。年間読書人さんの記事を終わりまで読むと、その敵意の理由が分かりますが、フラットな気持ちで年間読書人さんの記事を読みはじめると、剥き出しの敵意に少々辟易させられてしまいます。

No.5―2//[セクション:前半]の概要に対する批判(その2)

※千葉雅也さん、及び、その表現が注目されている(売れっ子である)理由について

***

千葉雅也さん、及び、その表現が注目されている(売れっ子である)理由は、千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者だからではありません。その認識は誤りです。

『現代思想入門』がベストセラーとなり、現代思想の大哲学者の解説者として千葉雅也さんを評価している人々が大勢いることは承知しています。しかし、[セクション:前半の概要に対する批判(その1)]で書いたように、それは千葉雅也さん表現者としてのひとつの側面を表したものでしかありません。著述家としての千葉雅也さんの履歴を知れば、そのことが理解出来ます

千葉雅也さんは小説家としてこれまでに長編小説三部作を刊行されています。不思議な魅力に溢れた小説です。小説には、現在の世界に生きている人々の何かを揺り動かす力が存在しています。

千葉雅也さん、及び、その表現が注目されている(売れっ子である)理由は、千葉雅也さん、及び、その表現が現在の世界に生きている人々の何かを揺り動かす力を確かに持っているからです。

No.5―3//[セクション:前半]の概要に対する批判(その3)

※千葉雅也さんの著作の読者について

***

千葉雅也さんの著作の読者は、哲学の知識をブランドとして他人に自慢したいと思い、自慢する人々だけではありません。そうした人々も多々いるのかもしれません。しかし、千葉雅也さんの著作の読者は、そうした人々だけ、あるいは、ほとんどの大多数がそうである、という認識は誤りです。

千葉雅也さんの著作の読者の中の一定数の人々は、哲学の知識をブランドとして他人に自慢したいと思い、自慢する人々ではありません。千葉雅也さんの表現によって自分自身の中の何かを揺り動かされている人々です。そうした一定数の人々が千葉雅也さんの新作を待ち望んでいます。

だから『センスの哲学』は売れたのです。

No.5―4//[セクション:前半]の概要に対する批判(その4)

※「千葉雅也さんが自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き刊行した」という推測について

***

千葉雅也さんが自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き刊行したという推測は誤りです。

「No.3//千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について」にわたしが書いたことをここに引用します。

著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は既に確立されたブランド:〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。

(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)

「No.3//千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について」

No.5―5//[セクション:前半]の概要に対する批判(その5)

※「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、『センスの哲学』を書き刊行した。」という認識について

***

千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、『センスの哲学』を書き刊行したという認識は誤りです。

[セクション:前半に対する批判(その1)]で述べたように、千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。

『センスの哲学』の以後に於いても、千葉雅也さんの現代思想の大哲学者の解説者としての側面は存在し有効です。千葉雅也さんは『センスの哲学』を書いて刊行し、現代思想の大哲学者の解説者をやめたわけではありません。

[No.5―6//[セクション:前半]の概要に対する批判(その6)

※「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者であることを「他人の褌で相撲を取るようで、つまらなく窮屈で仕方ない。」と思っていた、そして、自由に表現したいという強い願望を叶えるために『センスの哲学』を書いて刊行した。」という推測について

***

[セクション:前半に対する批判(その1)]の内容と重複します。

千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。

当然、研究者、教育者、それぞれに固有の自由と不自由が存在しています。あらためていうまでもありませんが、当然のことながら、芸術家には芸術家の自由と不自由が存在します。研究者から芸術家へ、あるいは、教育者から芸術家に転身すれば、自由になれるというのは幻想でしかありません。単に自由と不自由の枠組みが変化するだけです。千葉雅也さんはそうした事柄を十分に承知していると思います。

自由に表現したいという強い願望を叶えるために、『センスの哲学』を書いて刊行したという推測は誤りです。『センスの哲学』を書いて刊行したのは、千葉雅也さんの芸術論がそのスタイルでしか表現し得ないものだったからです。

[No.5―7//[セクション:前半]の概要に対する批判(その7)

※「世の中の多くの人々は千葉雅也に、現代思想の大哲学者の優れた解説屋としての役割しか求めていない。だから、自分の哲学を語った『センスの哲学』は、世の中の多くの人々から見向きもされないだろう。つまり、『センスの哲学』は売れない。」という推測について

***

違います。そうではありません。その推測は誤りです。

世の中の人々は千葉雅也さんに、現代思想の大哲学者の優れた解説者としての役割しか求めていない、というわけではありません。千葉雅也さんの哲学を語った『センスの哲学』を読みたいと思う一定数の人々が世の中に存在しています。

その結果、『センスの哲学』は売れた、ということです。

No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判のまとめ

[セクション:前半の概要に対する批判]は以上の(その1)から(その7)までの7項目です。これで年間読書人さんの記事の前半(の概要)に対する、批判は行えたと、わたしは思います。

具体的な批判は既に書いた通りですが、年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判のまとめとして、年間読書人さんの記事の誤りの構造と原因について、考察したいと思います。

年間読書人さんの記事は、年間読書人さんの千葉雅也さんに対する思いと『センスの哲学』に対する思いが書かれたものです。それは年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されています。

そして、その〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉のほぼ全てが誤りです。なぜ、そうした誤った〈認識〉、〈判断〉、〈推測〉がなされたかというと、大きく以下のような2つの原因が考えられます。

(1)事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をする。

千葉雅也さんのこれまでの表現としての著作の全体の内容を把握することなく、また、それらの時系列的な事実を把握することなく、部分的な事実によってのみ、認識、判断、推測を行った結果、それらが誤ったものとなってしまったと思われます。

年間読書人さんはご自身が持つ情報をもとに認識、判断、推測を行ったと思いますが、事実確認が不足していることに気が付かなく、誤った認識、判断、推測を行ったように思います。

(2)部分と全体(全部)を混同し取り違える。

年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉には、しばしば部分と全体(全部)を混同し取り違える、ということが観られます。

例えば、「千葉雅也さんが現代思想(哲学)の解説屋でしかなく、世の中の人々はそうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんしか求めてはいない。」という認識です。

確かに、千葉雅也さん現代思想(哲学)の解説者です。しかし、千葉雅也さん現代思想(哲学)の解説者であることは、千葉雅也さんの部分でしかありません。それは全体(全部)ではありません。また、確かに、世の中の人々はそうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんを求めています。しかし、そうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんを求めているのは、世の中の人々の部分でしかありません。それは世の中の人々の全体(全部)ではありません。

年間読書人さんは部分と全体(全部)の混同し取り違え、部分でしかない事柄を全体(全部)の事柄と捉えてしまい、誤った認識、判断、推測を行ったように思います。

No.7―1〜14/年間読書人さんの記事の[セクション:1〜14]の全文の引用、要約、及び、各セクションに対する個別的な批判

では、これから、具体的に個別的に前半の1〜14のセクションの文章の全文を引用、要約、批判を行ってみましょう。

(注)以下のわたしによる要約文の中で、「私」と記述されているのは「年間読書人さん」のことです。

[セクション:前半]([セクション:A]〜[セクション:E])

[セクション:A]([セクション:1]〜[セクション:2])

[セクション:1]の引用

「「売れっ子」千葉雅也の本としては、売れない本になりそうな臭いがプンプンする。
なぜなら、本書は「哲学」と題しているけれど、いわゆる「学問としての哲学」ではなく、自身の興味があるテーマについて、哲学的知識を援用して「哲学して(考えて)みました」という内容の本であり、言うなれば「哲学的エッセイ」でしかないからだ。
したがって、「哲学」の権威をありがたがりたい「哲学オタク」たちには、少しも「ありがたくない本」なのだ。」

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:1]の要約文

(1)「『センスの哲学』は売れない本の予感がする。」と私は推測する。(2)「予感の理由は『センスの哲学』が哲学的エッセイでしかないから
   だ。」と私は判断する。
(3)「『センスの哲学』は哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクに
   は、ありがたくない本だ。」と私は判断する。

[セクション:1]に対する批判

確かに、『センスの哲学』は哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクには、ありがたくない本なのかもしれません。年間読書人さんの判断は正しいと思います。

しかし、当たり前の話ですが、世の中の人々は哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクばかりではありません。また、これまでの千葉雅也さんの著作の読者も、哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクばかりではありません。世の中には、哲学の権威をありがたがりたい哲学オタク以外の人々も多々います。そして、これまでの千葉雅也さんの著作の読者の中にも、哲学の権威をありがたがりたい哲学オタク以外の人々も多々います。それが現実です。

哲学オタク以外の人々が『センスの哲学』を購入して読むという可能性は十分あります。そして、その結果、『センスの哲学』は売れたということです。世の中の人々は哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクばかりではない、という当たり前の話です。そして、それが現実です。

No.7―2///、 [セクション:2]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:2]の引用

これまで千葉雅也が「売れっ子」であり得たのは、「主流の現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」人だったからであり、端的に言えば、そんなことを期待する読者は、千葉自身の「哲学」なんかには、あまり興味がない。
千葉の「哲学」が面白いというのは、あくまでもそれが「大思想家の哲学を、わかりやすく噛み砕いたもの」と理解されていたからであって、千葉の「オリジナル哲学」なんてものは「いらない」と、そう考えるのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:2]の要約文

(1)「千葉雅也が売れっ子である理由は現代思想(哲学)の優れた解説屋
   だからである。」と私は判断する。
(2)「千葉雅也のオリジナルの哲学には世の中の人は、興味がない。」と
   私は推測する。

[セクション:2]に対する批判

確かに、大思想家の哲学をわかりやすく噛み砕いたものを千葉雅也さんに求めている人々は、千葉のオリジナル哲学なんてものは、いらないと考えるのでしょう。年間読書人さんの判断は正しいと思います。

しかし、これもまた当たり前の話ですが、世の中の人々はそうした人たちばかりではありません。年間読書人さんの判断の誤りは、「世の中の人々はそうした人たちばかりである。」という事実の誤認から生まれたものです。ここにも年間読書人さんの部分と全体の混同と取り違えがあります。

No.7―3///、 [セクション:3]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:B]([セクション:3]〜[セクション:7])

[セクション:3]の引用

しかし、この程度のことは、千葉だって承知しているはずなのだが、ではどうして、今回は自分自身を前面に出してきたのかというと、それは無論、これまでの本が「売れた」から、自分というブランドだけでやれるんじゃないかと、そう考えたからである。
「有名哲学者」の権威を後ろ盾にしなくても、正直に、自分の考えていることをそのまま語るだけでも、それだけでも、もうそろそろ売れるんじゃないか、という見込みを持ったのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:3]の要約文

(1)「[セクション:2]は千葉自身も承知している。」と私は推測する。(2)「『センスの哲学』は有名哲学者の権威を後ろ盾にしなくても、自分
   というブランドだけで売れるのではないかという千葉の見込みで書か
   れた本だ。」と私は推測する。

[セクション:3]に対する批判

年間読書人さんの推測はその前提が誤りですから、導かれる推測も誤りとなってしまいます。

No.7―4///、 [セクション:4]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:4]の引用

そもそもどうして「有名哲学者の解説屋」であることから下りようとしているのかというと、それは無論、他人の褌で相撲を取るようなことは「つまらない」と思っていたし、なにしろ「学者」としては、「オリジナル」から大きく離れて「自由な解釈」をするわけにもいかないので、それは「窮屈で仕方ない」と感じるようになってきた、ということだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:4]の要約文

(1)「千葉が現代思想(哲学)の大/有名哲学者の解説屋をやめて、『セン
   スの哲学』を書いた理由は、他人の褌で相撲を取るようなことは、つ
   まらなく窮屈で仕方ないと思っていたからだ。」と私は推測する。

[セクション:4]に対する批判

年間読書人さんの推測はその前提が誤りですから、導かれる推測も誤りとなってしまいます。

No.7―5///、 [セクション:5]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:5]の引用

で、またもやそもそもの話なのだが、千葉としては、これまでの「大哲学者の解説本」でだって、「学者」としての基本線は守っていたとはいうものの、しかし「わかりやすく噛みくだいて書く」というのは、結局のところ「自分の解釈」を語るということであり、それは取りも直さず「自分の思想」を語るということでもあったからだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:5]の要約文

(1)「千葉は現代思想(哲学)の大/有名哲学者の解説屋として、これまで
   も自分の解釈、つまり、自分の思想を語っていた。」と私は認識する

[セクション:5]に対する批判

このセクションについては、異論はありません。わたしもそう思います。

No.7―6///、 [セクション:6]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:6]の引用

つまり、これまでだって、千葉は「大哲学者の解説本」の中で「自分の思想(世界観・世界理解)」を語ってきたのだし、読者の方も、それを「面白い」「わかりやすい」と歓迎してくれたのだから、そろそろ「大哲学者を扱っている」という「金看板」を下ろして、「自分のブランド」だけで、「自分の腕一本」で勝負しても、これまで支持してくれた読者であれば、喜んで支持してくれるのではないかと、そう考えたのであろう。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:6]の要約文

(1)「これまでも現代思想(哲学)の大/有名哲学者の解説屋として自分の
   思想を語っていた、そして、読者が評価してくれた。だから、大哲学
   者の解説屋をやめて、自分だけの力で本を書いても読者は評価してく
   れるだろう、と千葉は考えた。」と私は推測する。

[セクション:6]に対する批判

千葉雅也さんは、『センスの哲学』でご自身の芸術論をはじめて全面的に一冊の本で書き表した本です。しかし、千葉雅也さんは著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』以前に既に確立しています。

従って、「大哲学者の解説屋をやめて、自分だけの力で本を書いても読者は評価してくるれるだろう、と千葉は考えた。」という年間読書人さんの推測は事実とは異なる誤りです。

No.7―7///、 [セクション:7]の全文の引用、要約、及び、批判引用、及び、要約

[セクション:7]の引用

一一だが、この考えは「甘い」と思う。私の言い方で言えば、「願望充足的な読み」である。「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」というような、思考の流れの結果にすぎないと思う。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:7]の要約文

(1)「[セクション:6]で示された千葉の考えは、「そうであったらいい
   な。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いな
   い」という考えの流れの結果である。」と私は判断する。

[セクション:7]に対する批判

年間読書人さんが推測する千葉雅也さんの考え自体が誤りですから、年間読書人さんのその認識も誤りとなります。

No.7―8///、 [セクション:8]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:C]:[セクション:8〜9]

[セクション:8]の引用

しかしながら、これまで千葉の本をありがたがってきた読者の多くは、「ものの考え方」を学びたい人たちではなく、あくまでも「大哲学者の権威」を、ワッペンを貼りつけるように、お手軽かつ手っ取り早く(ファスト)に「身につけたい」と考えているような人たちだったのだから、そのワッペンの絵柄が、ドゥルーズなどの「外国の著名な哲学者」ではなく「日本人の千葉雅也」であっては、ダメなのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:8]の要約文

(1)「千葉の読者の多くは、大哲学者の権威を手っ取り早く身につけたい
   と考えている人たちだから、大哲学者ではない千葉の哲学の本を求め
   てはいない。」と私は推測する。

[セクション:8]に対する批判

確かに、千葉雅也さんの著作の読者の中の、大哲学者の権威を手っ取り早く身につけたいと考えている人たちに於いては、大哲学者ではない千葉の哲学の本を求めてはいない、と思います。しかし、当然のことながら、千葉雅也さんの著作の読者はそうした人たちばかりではありません。そうではない千葉雅也さんの著作の読者は千葉さんの哲学の本を求めています。

その結果、『センスの哲学』は売れた、ということです。

No.7―9///、[セクション:9]の全文の引用、要約、及び、批判引用、及び、要約

[セクション:9]の引用

肝心なのは、「哲学を会得する」ことではなく、哲学のことを「知っているぞと見せびらかす」ことなのだから、その見せびらかすものは、「一流のブランド品」でなければならない。
いくら、実用的にはそれで十分であり、むしろ「大哲学者の哲学」なんて、そう簡単には使いこなせないのだから、機能の限定された「千葉雅也」の方が、むしろ「機能的で、使い勝手が良い」のだが、「哲学オタク」たちが欲しいのは、自分の能力では使いこなせないほどの「多機能かつ贅沢な高級品」という「分不相応なもの」なのである。
要は、その高度な多機能が使いこなせなくたって、かまわないのだ。大切なのは、見せびらかすための「ブランド」なのだから、それが「千葉雅也」では物足りない。「大ブランドの代用品」にはならないのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:9]の要約文

(1)「哲学オタクが求めているのは、哲学を理解し自分のものにすること
   ではなく、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである」
   と私は認識する。
(2)「従って、大ブランドではない千葉雅也の哲学を、哲学オタクは求め
   てはいない。」と私は推測する。

[セクション:9]に対する批判

確かに、「哲学を理解し自分のものにすることではなく、哲学の知識をブランドとして他人に自慢する哲学オタク」にとっては、そうだとわたしも思います。

しかし、繰り返しますが、世の中の人々はそうした哲学オタクばかりではありません。年間読書人さんの認識、判断、推測の誤りは、世の中の人々がそうした哲学オタクばかりであるという誤認に起因します。ここにも年間読書人さんの部分と全体の混同と取り違えがあります。

No.7―10// [セクション:10]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:D]:[セクション:10〜13]

[セクション:10]の引用

で、これくらいのことは、千葉だって、薄々は感じているはずである。ならば、どうして「大哲学者の金看板」を下ろそうなどとするのかというと、それは「大哲学者の金看板」は、千葉にとっては、もはや世間を渡るための「便利な道具」であるよりも、「重い枷」だと感じられてきたからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:10]の要約文

(1)「[セクション:9]の内容は千葉も理解しているだろう。しかし、それ
   でも大哲学者の解説屋をやめるのは、それが、千葉にとって世間を渡
   るための便利な道具であるよりも、重い枷に感じられてきたからであ
   る。」と私は推測する。

[セクション:10]に対する批判

千葉雅也さんは哲学の研究者です。過去の哲学を研究するのは当然です。研究者として哲学を研究しているのであって、「大哲学者の金看板」を掲げているのではありませんし「世間を渡るための便利な道具」でもありません。

また、そこには研究者としての自由と不自由が存在しています。さらに言えば、芸術家には芸術家としての自由と不自由が存在しています。大哲学者の解説者をやめて芸術家になれば自由になれるというのは幻想です。千葉雅也さんは十分にそうしたことを承知しているとわたしは思います。

No.7―11/ [セクション:11]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:11]の引用

本当は「もっと自由に、自分を表現したい」のだが、「大哲学者の金看板」を掲げている以上は、「学者」として「適当なこと」はできない。
例えば、小説家の筒井康隆が有名哲学者の理論を「不正確に紹介」したとしても、「小説家だから、まあ仕方がないな」と思ってもらえる。間違いを指摘されるにしても、所詮は「門外漢の素人」がやることだから、大きな問題にならない。同様に、私が「適当に」デリダを援用して、それが大いにトンチンカンなものであったとしても、多くの人は「要は、彼はこう言いたいんだな。カッコをつけて、デリダなんか持ち出さなきゃいいのに(笑)」と、それで済むのである。

ところが、ジル・ドゥルーズの「研究者」である千葉としては、そういう「いい加減なこと」はできない。「適当に援用する」などといったことはできないのだ。そんなことをして、他の研究者から、その間違いを指摘されでもしたら、赤っ恥をかくだけでは済まず、「学者」としての信用を傷つけてしまい、自分のブランド価値を下げてしまうからである。
「あいつ、わかったようなこと言っているけど、かなりいい加減だぞ。ドゥルーズの名を借りて、自分の言いたいことを書いているだけみたいだから」となってしまったら、信用をなくした彼の本は売れなくなってしまうし、おのずと、タレントとしての価値も下がるからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:11]の要約文

(1)「千葉は、本当は自由に自分を表現したいと思っている。」私は推測
   する。
(2)「しかし、大哲学者の解説屋を哲学の研究者として行っていては、そ
   れはできない。」と私は認識する。

[セクション:11]に対する批判

確かに、千葉雅也さんは自由に自分を表現したいと思っているのかもしれません。彼が小説家として小説を書いているのはその表れかもしれません。

しかし、哲学者として哲学を語ることと小説家として小説を書くことは、互いに交換不能な事柄だと、わたしは思います。従って、哲学者として哲学を語ることでは行えないことを、小説家として小説を書くことで行っている。そして、それは、同時に、小説家として小説を書くことでは行えないことを、哲学者として哲学を語ることで行っていることを意味している、とわたしは考えています。

千葉雅也さんは自由に自分を表現したいという思いを、哲学者として哲学を語ることと、小説家として小説を書くことの両方で行っています。

「千葉は、本当は自由に自分を表現したいと思っている。しかし、大哲学者の解説屋を哲学の研究者として行っていては、それはできない。」という認識、推測は誤りです。

No.7―12/ [セクション:12]の全文の引用、要約、及び、批判引用、及び、要約

[セクション:12]の引用

したがって、「大哲学者の金看板」を掲げたままで、「自由になる」ことはできない。「身軽になること」はできないから、その「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。
だから「早く、そんな身分になりたいものだ」という気持ちが千葉にはあって、問題は、その時期判断の適否なのだが、私は、今回の千葉の判断を、時期尚早の拙速だったと思う。だから「売れないだろう」と言うのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:12]の要約文

(1)「「大哲学者の解説屋をやめて自由になるには、自分自身がブランド
   になっていなければならない。」と千葉は考えた。」と私は推測する
(2)「千葉は早く自由な身分になりたいために、自分自身をブランド化す
   る方法として今回、『センスの哲学』を刊行した。」と私は推測する
(3)「しかし、千葉の『センスの哲学』の刊行は時期尚早の拙速である」
   と私は判断する。
(4)「『センスの哲学』は売れないだろう。」と私は推測する。

[セクション:12]に対する批判

「No.3//千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について」で言及したように、著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。

千葉雅也さんが「『センスの哲学』の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、時系列的な事実として、誤りです。『センスの哲学』は〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。

No.7―13// [セクション:13]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:13]の引用

では、どうして、千葉はその判断を誤ったのかというと、彼は、人並み以上に「自由」でありたい人なのだ。
「千葉雅也は、学者だから、彼の語ることは、学問的に正確である(でなければならない)」という「縛り」から、早く逃れたいという意識が、他の学者などよりもずっと強く、また「自分ならそれをやれる(かも)」という意識があったからこそ、そんな「希望的観測」に流されて、拙速にも今回は「大哲学者の金看板」を下ろしての、「自分ブランド」での勝負にうって出たのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:13]の要約文

(1)「千葉の『センスの哲学』の刊行という判断の誤りは、彼が強く自由
   を求めていたことに起因する。千葉には学問的な正確性が必要な学者
   の枠から、逃れたいという意識が強くあった。さらに、千葉には自分
   はその枠から逃れることが可能であるという意識もあった。その結
   果、千葉は大哲学者の解説屋をやめて自分のブランドとして『センス
   の哲学』を刊行した。」と私は推測する。

[セクション:13]に対する批判

年間読書人さんが前提としている認識が誤りなので、そこから導き出される推測も誤りでしかありません。

No.7―14// [セクション:14]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:E]:[セクション:14]

[セクション:14]の引用

だが、「それほど世間は甘くないよ」と私は思うのだ。「後ろ盾がいない、裸の千葉雅也になど興味はない」と、つれなく去っていく読者の方が多いと、私はそう見ているのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:14]の要約文

(1)「それほど世間は甘くない。大哲学者の後ろ盾がない裸の千葉雅也に
   は興味がない読者の方が多い。」と私は推測する。

[セクション:14]に対する批判

年間読書人さんが前提としている認識が誤りなので、そこから導き出される推測も誤りでしかありません。

千葉雅也さんの芸術論を読みたいという人々が世の中に一定数存在し、その結果、『センスの哲学』は売れた、というのが現実です。

No.8//あとがき

以上が、「〈第3号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:前半の]への批判」です。

(お願い)

しかし、これはあくまでもわたしの批判であり、解釈です。わたしの中に内在する先入観や偏見によって歪められた誤った批判、解釈が行われている部分もあるのかもしれません。また、わたしなりに確認はしていますが、単純な記述ミスもあるかもしれません。この記事を読まれた方で、そうした点に気付かれた方がいらっしゃいましたら、よろしければ、本記事のコメント欄にコメントしていただけたら、幸いです。よろしくお願い致します。

また、記事の中で他の号からの再録部分があります。その部分に於いて原稿のチェックの過程で細かい若干の記述違いが生じてしまった部分もあるかもしれませんが、文の意味が著しく異なるものではありません。

(今後の展開)

[セクション:後半の]への批判」は、次号の「〈第4号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:後半の]への批判」で行います。

また、年間読書人さんからわたしのこの批判に対して、反論があると思います。わたしなりに可能な範囲で応答したいと考えています。その応答は、このアカウントの記事として掲載するという方法を用いたいと考えています。

以上です。

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