〈第1号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:/// このアカウントについて、あるいは、 どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのか、その経緯など。
No.1//このアカウントについて
このアカウント〈スロウ・ボート〉は、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する批判を行うために、わたしによって設置されたものです。
本来であれば、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」のコメント欄に書き込む内容です。しかし、わたしの書いた批判の文章の文字数が引用部分を含め数万文字であるため、一度に書き込むことが可能な文字数が500文字のコメント欄では、細切れに成り過ぎ、実質的に不可能です。そこで、わたしの批判を記事として提示するために、わたしの年間読書人さんの記事に対する批判を掲載する、専用のアカウントを取得し設置しました。
わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこに自分で書いた記事を投稿し、掲載しています。
年間読書人さんのこの記事への批判を〈歩く水のような人の形をしたもの〉のアカウントで記事として掲載するという方法もあります。しかし、今回の記事は、わたしが行う他の方のnoteの記事への批判です。わたしのnoteに掲載してきたこれまで他の記事とは異質なものとなります。さらに、わたしの批判に対する年間読書人さんからの反論もあると思います。それに対して、わたしは新たな記事を作成して投稿し応答したいと考えています。そうしたことを総合的に勘案した結果、論戦の場として、専用の新しいアカウントを設置し、その場で、わたしの批判を記事として掲載する方法を用いるのが、最もよい方法ではないか、という結論に至りました。
年間読書人さんからは、「唐突で一方的な批判ではないか」とお叱りを受けてしまうのかもしれません。しかし、年間読書人さんの記事に対する批判を行う方法として、これが最も正確で誠実な方法であるというのが、わたしの判断です。
当然のことですが、わたしは年間読書人さんを意図的に困らせようとしているのでも、意図的に傷付けようとしているのでもありません。このアカウントは年間読書人さんとの論戦の場として設置したものです。もちろん、年間読書人さんから論戦の了解をいただいた上で行います。論戦はひとりでは行うことが出来ません。
従って、年間読書人さんが、このアカウントを含め、そうした論戦を望んでおられないのであれば、このアカウントは閉鎖することになるのかもしれません。わたしの批判は年間読書人さんとの論戦のためのものであり、わたしだけの満足のために行うものではないからです。
(注:このアカウントに順次、わたしの批判〈第1号〉〜〈第4号〉の記事の投稿を行う予定です。適切なタイミングで、年間読書人さんのこの記事のコメント欄に、わたしからそのことをお伝えします。)
No.2//どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのか、その経緯など
わたしは今年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しました。
また、『センスの哲学』には直接的には関係ありませんが、年間読書人さんが記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で言及されている千葉雅也さんの小説群の中のひとつの『エレクトリック』について、昨年(2023/2/11)に読書感想文をnoteの記事として投稿しています。
(注:年間読書人さんの記事は千葉雅也さんの小説全般についての記述であり、『エレクトリック』の書影を画像として掲載されていますが、『エレクトリック』そのものについて年間読書人さんは文章を書かれてはいません)
わたしの『センスの哲学』の記事の公開時に、他の方の幾つかのこの本についてのnoteの記事を断片的に読ませていただきました。noteの中で『センスの哲学』について、どのような記事があり、どのようなことが書かれているのだろう?というわたしの素朴な関心からです。その中に年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」もありました。
年間読書人さんの記事を読んで、わたしが思ったことは「根拠の不確かな事柄を起点にした、推論に推論を重ねた結果の酷い誤解であり、悪意ある先入観による敵意に満ちた酷い思い違いだな。」とか「なぜ、それほどまでに、千葉雅也さんとその著作の読み手を激しく侮辱するのだろう?」とか「年間読書人さんは『センスの哲学』以前の千葉雅也さんの表現を、どの程度知った上で、この記事を書いているのだろう?」とか「年間読書人さんは千葉雅也さんの長編小説を一冊でも読んだことがあるのだろうか?」をいった疑問や憤りなど複数の否定的な感想です。
何かと出会って、人が感じること思うこと考えることは、ひとりひとりの顔と声が異なるようにひとりひとり異なることは自然なことだ、とわたしは思っています。結果として、同意できたり、同意できなかったり、様々です。そのことにその都度あれこれと反応することはありません。「うん、まあ、ひとりひとり、人によって見立ては違うから。」で、終わりです。直接的に自分に関係するのであれば、何かしらの対応をしないといけませんが、そうならない限り、わたしは何もしません。
年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」についても同様です。いろいろ思うことはありますが、わたしがその記事に対して何かをしようという気はありませんでした。
しかし、わたしの中で幾つかの事柄が組み合わさり、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」について、わたしが何も行うことなくそのままにしてはいけないのでは、と思うようになりました。年間読書人さんによる「千葉雅也さんと千葉雅也さんの作品の読み手に対する激しい侮辱」としかわたしには思えないその記事に対して、何事もなく通り過ぎるようなことはしない方がいいのではないか、と思うようになりました。
千葉雅也さんの『センスの哲学』の読み手のひとりとして、わたしなりに『センスの哲学』を擁護し、わたしなりに千葉雅也さんと千葉雅也さんの作品と読み手を擁護しなければならない、と思いました。
わたしにそうした擁護を行うだけの力があるかと問われれば、それは無いのかもしれません。わたしの批判は稚拙な欠陥だらけのものかもしれません。しかし、そうであったとして、わたしはわたしのスタイルでそれを行う必要があると思いました。
No.3//幾つかの前置き的な事柄について、 (その1)、わたしは千葉雅也さんのファンでもなければ、信者でもありません。
わたしの批判を展開する前に、わたしと『センスの哲学』についての幾つかの前書き的な事柄について、書いておく必要があると思います。この事柄を書かないと、誤解が生じてしまいそうなので、これらの事柄を書いておきます。(その1)から(その5)まであります。少々、長い前置きとなりましたが、不可欠と思い書きました。
「ファン(fan)とは、ある特定の人物が凄く好きで、その人物を熱烈に支持する人、のことである。」と仮定するのであれば、わたしは千葉雅也さんのファンではありません。理由は、「わたしは、千葉雅也さんが凄く好きで、熱烈に支持しているのではない。」からです。
わたしは幾つかの彼の著作を読んでいます。千葉雅也さんの書かれた言葉/文章によって、わたしは揺り動かされ、いろいろなことを、感じ、思い、考えます。しかし、わたしは千葉雅也さんの書かれた言葉/文章のすべてに、同意、賛同、支持しているわけではありません。例えば、『意味がない無意味』の中の〈身体の行為の無意味性〉について、わたしと千葉雅也さんの見解は大きく異なっています。同意できる部分もあれば、同意できない部分もある、ということです。また、わたしは作品に対して応答しているのであり、千葉雅也さんという人物に対して応答しているのではありません。
わたしは千葉雅也さんの作品の読み手のひとりですが、しかし、ファンではありません。さらに、ファンと同様な意味での「千葉雅也さんを信仰する信者」でもありません。
従って、わたしの年間読書人さんの記事に対する批判は、千葉雅也さんのファン、信者として、「止むに止まれず」、行うということではありません。千葉雅也さんの作品の読み手のひとりとして、異論あり、ということです。
No.4//幾つかの前置き的な事柄について、 (その2)、『センスの哲学』が2024年12月現在、売れていることを逆手にして、後出しジャンケン的に、年間読書人さんの記事に対する批判をわたしは行うのではありません。
年間読書人さんは、記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)の冒頭で、「『センスの哲学』は売れない本になるだろう。」と予想しています。4月の段階なので、まだその結果は誰にも分からない時期での年間読書人さんの予想です。
『センスの哲学』はその予想に反して、11月の時点で発行部数は約6万5000部(紙の書籍+電子書籍)を突破しています。年間読書人さんの予想は誤りだったという結果です。
わたしの批判はその事実と整合性を持っていますが、年間読書人さんの予想が誤りだったことを、逆手に取り後出しジャンケン的に年間読書人さんの記事に対して批判を行うものではありません。それは批判の部分でしかありません。そのことをあらかじめここで明記しておきます。
No.5//幾つかの前置き的な事柄について、 (その3)、『センスの哲学』に対する読み方、見立て、そして、誤読について
『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力である。」という千葉雅也さんの〈芸術・音楽論〉です。
『センスの哲学』は複数の事柄が複雑に組み合わせられた立体を造形しています。無数の相貌を有している本とも言えます。従って、この本の読者の数だけ、この本は顔を変えます。同じひとりの読者に於いてさえ、切り口が違えば異なる顔を現わします。立体性のある本とはそうしたものです。
しかし、そのことは「『センスの哲学』には誤読が存在しない。」という意味ではありません。無数の相貌を有している『センスの哲学』ではありますが、それでも、書かれていないことをあたかも書かれている事柄のように認識することは、誤った認識であり誤読でしかありません。
尚、わたしの『センスの哲学』の読み方、見立てはわたしの『センスの哲学』についてのnoteの記事を読んで下さい。そこに詳細に書かれています。
No.6//幾つかの前置き的な事柄について、 (その4)「年間読書人さんの記事の中で展開されている『センスの哲学』と千葉雅也さんへの批判には、多くの事実の誤認があると、わたしは考えています。」ということについて
年間読書人さんの記事の中で展開されている『センスの哲学』と千葉雅也さんへの批判には多くの事実の誤認があると、わたしは考えています。年間読書人さんが根拠の不明確な判断や認識や推測を行った結果、そうした誤認が生まれたとわたしは考えています。
年間読書人さんは「自分は千葉雅也さんのことを何もかも知っているわけではない。多忙な自分に千葉雅也さんのことの何もかもを知ることなど不可能だ。自分が知っている事柄をもとにして批判したのだ。誤りがあれば、お詫びと訂正するつもりだ。それの何が問題なのだろう。」と考えられているのかもしれません。
しかし、当たり前の話ですが、何かに対する、あるいは、誰かに対する批判は根拠となる裏付けを、批判者なりに、検証し確認した上で行われなければなりません。そうでなければ、批判は「他人を貶め傷付け、社会的評価を下げる侮辱、嫌がらせ、悪口」と成り果ててしまいます。もはや批判ではなく批判者の鬱屈を吐き出すための単なる嫌がらせです。
但し、緊急性を要する事態であり、批判者に十分な裏付けの検証と確認を行う時間的な余裕がなく、それでも批判を公開しなければならない事態というのもあるのかもしれません。例外的な事項としてそうした場合はあると思います。しかし、そうした緊急的な事態は別として、批判者に相応の裏付けの確認を行う時間的な余裕がないのであれば、一旦、批判を保留にして投稿しなければいいだけの話です。仮に「取り敢えず、批判して、後からお詫びと訂正をすれば、事足りる。」と考えているのであれば、その考え方はあまりにも自己中(じこちゅう)な卑怯な誤った考え方です。
誤解を招かないように明確にしておきますが、わたしは年間読書人さんがこの記事で、意図的に根拠の不明確な判断や認識や推測を行い誤認してしまったとは考えていません。また、年間読書人さんは年間読書人さんなりに、事実関係などを確認し、裏付けを取った上で批判されているのだと思います。あくまでも結果として、そうなってしまったと思っています。
No.7//幾つかの前置き的な事柄について、 (その5)、「年間読書人さんの記事で示されている年間読書人さんの認識のほぼ全てが誤りであると、わたしは考えています。誤りの原因となっているとわたしが考える事柄」について
年間読書人さんの記事で示されている年間読書人さんの認識のほぼ全てが誤りであると、わたしは考えています。年間読書人さんの記事の誤りの原因となっているとわたしが考える事柄を、わたしの批判の〈第3号〉と〈第4号〉から抜粋する形で一部、引用したいと思います。
(注:「No.6//幾つかの前置き的な事柄について、(その4)、「年間読書人さんの記事の中で展開されている『センスの哲学』と千葉雅也さんへの批判には、多くの事実の誤認があると、わたしは考えています。」ということについて」と下記の(1)は重複します。)
(1)事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をしてしまう。
(2)部分と全体(全部)を混同し取り違える。
(3)『センスの哲学』の中に書かれていない事柄を、あたかも書かれてい
るかのように誤読し、強引に自分の関心事に結び付ける。そして、そ
の認識をもとに推測を重ねて行く。
(4)年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部
を読んだのか?という疑念を抱かざるを得ない。まえがきの「はじめ
に「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んで
いないのではないか?
(5)客観的な根拠が無い単なる個人的な憶測にもかかわらず、あたかもそ
れが唯一の事実であるかのように表現し、決め付け断定する。
(6)著名人に対する度し難い激しい嫉妬の感情が記事の全体を貫いてい
る。その嫉妬が千葉雅也さんへの強い敵意と侮辱を生み出している。
No.8//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判の今後の展開について
〈第1号〉は以上です。今回は「まえがき」だけです。
以下、第2号〜第4号まで、本アカウントの記事として掲載される文章で、順次、批判を展開して行きます。
〈第2号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判:年間読書人さんの記事を読み解くために、その記事を33のセクションに分割し、その各セクションの文書を要約する。
〈第3号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:前半の]への批判
〈第4号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:後半の]への批判
わたしの批判に対する年間読書人さんの反論があると思います。〈第4号〉以後は、その反論に対して、わたしが応答する記事となる予定です。
以上です。
