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〈第4号〉              年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判(本論):///       [セクション:後半の]への批判

No.1//まえがき

(この記事の目的)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)の[セクション:後半の]に対する批判を行うことが、この記事の目的です。

(「年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」に対するわたしの批判」を書いている、わたしについて)

わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこで記事を投稿しています。

わたしは今年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しました。

また、『センスの哲学』には直接的には関係ありませんが、年間読書人さんが記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で言及されている千葉雅也さんの小説群の中のひとつである『エレクトリック』について、昨年(2023/2/11)に、読書感想文をnoteの記事として投稿しています。

尚、これまでの経緯の詳細については、下記の「〈第1号〉年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのかその経緯など」の記事をご覧下さい。

(この記事の全体的な構造)

目次と重複してしまいますが、この記事の全体の見取り図として提示します

(2)No.2//再録//
  『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について
(3)No.3//再録//
   千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について
(4)No.4//再録//
   年間読書人さんの記事の[セクション:後半]の構造の概略
(5)No.5//年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判(6)No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判の
   まとめ
(7)No.7―15〜33//年間読書人さんの記事の[セクション:15〜33]の全
   文の引用、要約、及び、各セクションに対する個別的な批判
(8)No.8//あとがき


No.2//再録//              『センスの哲学』の2024年12月現在の、発行部数について

(注)以下は〈第3号〉の再録です。

批判を行う前に、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述したいと思います。

年間読書人さんの記事の冒頭で、年間読書人さんは「『センスの哲学』は売れない本となってしまうだろう。」という予測を行っています。そして、その予測の理由を挙げています。

わたしの年間読書人さんの記事に対する批判はその事柄と深く関係しますので、客観的な事実として、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述し、この本が世の中でどのように受け入れられているのか、その現実を明確にしたいと思います。

『センスの哲学』の発行部数は、11月に於いて、「6万5000部(紙の書籍+電子書籍)を突破」しているようです。また、12月の中旬の時点で、10度目の重版にもなっているようです。今年の4月に刊行され、8か月あまりでこの部数は、ベストセラーと言えるほどではありませんが、定価1760円の哲学の本としては「大ヒット」と言っていいのではないでしょうか。

実際に自分で金銭を支払って購入し、この本を最初から最後まで読んだ人の人数は、定かではありません。また、2023年2月時点で電子版を含めて発行部数が13万部を超えてベストセラーとなった『現代思想入門』(2022/3/16刊行、新書、定価990円)ほどには売れてはいないのかもしれません。それでも2024年12現在に於いて「売れた本」であることは事実だと思います。(因みに、売り上げ金額で換算すると、『センスの哲学』の6.5万冊は『現代思想入門』の11.6万冊に相当します。)

年間読書人さんの予想に反して『センスの哲学』は売れているのが現実です

わたしが行う批判はそうした現実の事実との整合性を保ったものです。但し、現実が年間読書人さんの予想に反したものであることを理由にして、年間読書人さんの記事を後出しジャンケン的に全面的に批判しているのではありません。それは部分でしかない、とあらかじめお断りしておきます。

尚、「6万5000部」という数字は、文藝春秋社の『本の話 ~読者と作家を結ぶリボンのようなウェブ〜 文春オンライン』(https://books.bunshun.jp/)の、読書オンライン「鳥羽和久が千葉雅也『センスの哲学』を読む」の記事(2024.11.19)(https://books.bunshun.jp/articles/-/9488)の中に記述されているものです。下記にリンクを設定しておきます。

No.3//再録//               千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について

(注)以下は〈第3号〉の再録です。

わたしの批判を行う上で、その前提として、千葉雅也さんがこれまでに行ってきた表現の概略を示しておきたいと思います。千葉雅也さんは毎日のようにX(Twitter)で言葉を発信されています。(X(Twitter)のフォロワー数は2024年12月現在、9万を超えているようです。)そして、著述家として本を書かれています。わたしは千葉雅也さんの単独の著作は、小説三部作を含めて、全て読んでいます。ざっとですが、今年(2024)の4月に『センスの哲学』を刊行するまでの、千葉雅也さんのこれまでに行ってきた著作の履歴を辿ってみましょう。(尚、千葉雅也さんには対談等の共著もありますが、ここでは省略します。)

千葉雅也さんの現時点での単独の著作は以下の通りです。

(1)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
   (2013)
(2)『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)
(3)『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)
(4)『意味がない無意味』(2018)
(5)『アメリカ紀行』(2019)
(6)『現代思想入門』(2022)
(7)『センスの哲学』(2024)

長編小説三部作は以下の通りです。

(1)『デッドライン 』(2019)
(2)『オーバーヒート』(2021)
(3)『エレクトリック』(2023)

千葉雅也さんは、自身の博士論文である最初の著作『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)が注目を集め、その後、『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)、『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)などが刊行され、多くの読者を得ました。

その後、最初の長編小説『デッドライン』が2019年に刊行され、2021年に二作目の長編小説『オーバーヒート』、2023年に三作目の長編小説『エレクトリック』が刊行されました。千葉雅也さんは小説家として、既に三つの長編小説を発表され、それらの小説は一定数の読者を獲得しています。

そして、現在に至っている、という流れです。

『現代思想入門』(2022/3/16刊行)は「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」本かもしれません。2023年2月時点で電子版を含めて13万部を超えて、ベストセラーとなった『現代思想入門』のインパクトが強く、千葉雅也さんを「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる人」と認識している人も大勢いると思います。その認識自体は誤りではありません。千葉雅也さんには確かに現代思想(哲学)の解説者という側面があります。

しかし、『現代思想入門』以外の本は現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる本ではありません。また、千葉雅也さんのX(Twitter)も、必ずしも現代思想(哲学)について分かりやすく説明してくれるものではありません。『意味がない無意味』(2018)は批評集でもあり哲学書でもあります。この本で千葉雅也さんは自分の哲学を語っていますが、その文体は硬質で、語り口は平明なものではありません。『意味がない無意味』は決して現代思想(哲学)を分かりやすく説明する本ではありません。また、『アメリカ紀行』はタイトルを含めて見掛け上はエッセイの体裁をしていながらも、〈散文の思考〉と〈思考の散文〉が交錯し、千葉雅也さんの言葉の物質性が奏でられている音楽のような本です。

千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」ではありますが、「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれるだけの人でしかない。」という認識は明らかに誤りです。千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」であり、「現代思想(哲学)の複雑な内容を複雑なまま複雑に語る人」であり、「不思議な魅力溢れる小説を書く小説家」です。

著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は、既に確立されたブランド:〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。

(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)

尚、わたしの記事の〈第1号〉と重複しますが、わたしがnoteに千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』についての感想文を投稿していますので、下記にリンクを設置しておきます。これを読んでいただければ、わたしがこの小説をどのように捉えているのか、そして、『エレクトリック』の魅力がどのようなものなのか、分かっていただけるのかもしれません。単なるひとりの読者の感想でしかありませんが。

No.4//再録//               年間読書人さんの記事の[セクション:後半]の構造の概略

(注)以下は〈第2号〉の再録です。

年間読書人さんの記事の後半は、以下のような構造で成り立っています。

〈後半〉に於いて、『センスの哲学』で語られるセンスによって自由になる方法は、世間から承認されなければ自由になることはできないと考えている世の中の多くの人々が求めているものではない、という年間読書人さんの見解が語られ、『センスの哲学』は世間から承認されて自由になった千葉雅也のご高説に過ぎない、という年間読書人さんの認識が提示されます。

〈後半〉は、[セクション:F]から[セクション:Q]の12部構成です。

[セクション:後半] [セクション:F〜Q]/ [セクション:15〜33]

(1)[セクション:F][セクション:15〜17]
(2)[セクション:G]
[セクション:18]
(3)[セクション:H]:[セクション:19]
(4)[セクション:I]:[セクション:20]
(5)[セクション:J]:[セクション:21]
(6)[セクション:K]:[セクション:22〜23]
(7)[セクション:L]:[セクション:24]
(8)[セクション:M]:[セクション:25〜27]
(9)[セクション:N]:[セクション:28]
(10)[セクション:O]:[セクション:29〜31]
(11)[セクション:P]:[セクション:32]
(12)[セクション:Q]:[セクション:33]

No.5―1〜17//、/、年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判

[セクション:後半]の概要(注:〈第2号〉の再録)

『センスの哲学』で語られていることは、自由になる方法であり、幸せになるために、本当の自分らしさが素直に表現できるようになろう、という話の本である。

しかし、世の中の多くの人々は、自由になるには、まず世間(他者)からの承認を得ることが必要であると思っている。つまり、世間(他者)から承認されることが、自由になるための前提条件であり、世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない。と考えている。だから、世の中の多くの人々は、世間(他者)から賞賛を受け承認されたいという欲望を捨ててしまうと、自由になる道を閉ざしてしまうことになる、と考えている。世の中の多くの人々は「世間(他者)から承認されようが承認されまいが、そうしたことと無関係に、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」とは考えてはいない。

『センスの哲学』の中で千葉雅也によって語られる〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。確かに、千葉雅也の考え方は「正しい」と私(年間読書人さん)も思う。私(年間読書人さん)自身、これまでその考えに従って行動してきた。しかし、その考えが「正しい」からと言っても、世の中の多くの人は、そうしたことは望んでいない。

つまり、世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれないと思っている世の中の多くの人々は、はじめからそうした〈良いセンス〉を求めてはいない。

従って、「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という考えを大前提とした『センスの哲学』は、世の中の多くの人々が考えている「世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない。」という考えとは相容れない。つまり、「『センスの哲学』の大前提は間違いである。」と私(年間読書人さん)は考える。

『センスの哲学』は、千葉雅也が世間(他者)から承認を得た著名人であるからこそ言える内容だ。『センスの哲学』の内容は、「世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない。」と考えている、世間(他者)から承認を得ていない一般人には受け入れることはできない。『センスの哲学』は、「著名人がご高説を垂れているだけ。」と皮肉を言うしかない自己欺瞞的な内容の本である。

[セクション:後半]の内容の整理(注:〈第2号〉の再録)

[セクション:後半]の内容の整理するために、内容を7個の箇条書きにしてみました。

(1)年間読書人さんご自身は、「世間(他者)からの承認を得ることを求
   めないことで、人は自由になることができる。」という考え方は正し
   いと考え、実際に自分はそのように行ってきたと思っている。(と、
   私(年間読書人さん)は認識する。)

(2)世の中の多くの人々は世間(他者)からの承認がなければ、自由には
   なれない、と考えている。(と、私(年間読書人さん)は認識す
   る。)

(3)千葉雅也とは、「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」
   のひとりである。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

(4)千葉雅也自身は「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」
   のひとりであることを自覚している。(と、私(年間読書人さん)は
   認識する。)

(5)千葉雅也の小説の評価は、「世間(他者)からの承認を得て、自由に
   なった者」の特権的な立場から得られたものでしかない。純粋に小説
   そのものが評価された結果ではない。(と、私(年間読書人さん)は
   認識する。)

※千葉雅也さんの小説が文芸誌に掲載され、芥川賞の候補となったのは、千葉雅也さんが異業種有名人であり話題性があったからであると、年間読書人さんは「間違いなく」、「があったからに他ならない」、「というのは、わかりきった話なのである。」という表現を用いて決め付けるように強く断定しています。千葉雅也さんの小説の対する評価と処遇は、千葉雅也さんが世間(他者)からの承認があったからこそ得られたものであるというのが、年間読書人さんの認識です。([セクション:20]より)

(6)千葉雅也は『センスの哲学』の中で、「世間(他者)からの承認を得
   ることを求めないことで、人は自由になることができる。」と語って
   いる。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

(7)『センスの哲学』は「世間(他者)からの承認を得て、自由になった
   者」のひとりである千葉雅也の特権的な立場を千葉雅也自身が自覚し
   ていながら、棚上げした、自己矛盾を誤魔化し隠蔽した自己欺瞞的な
   内容の本である。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

[セクション:後半]の結論(注:〈第2号〉の再録)

つまり、年間読書人さんの認識の中では、『センスの哲学』は次のような本として結論付けられています。

千葉雅也とは、自分自身が「世間(他者)からの承認を得て、自由にはなった者」であり、その特権的立場を利用していながら、そのことを棚上げして、自分の著作である『センスの哲学』の中では、〈良いセンス〉とは世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものであり、それが自由へとつながる。と相反し矛盾する自己矛盾を平然と語っている者である。千葉雅也の『センスの哲学』は自己欺瞞的な内容の本である。

No.5―1//[セクション:後半]の概要に対する批判(その1)

※〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉について

***

年間読書人さんは記事の後半に於いて、終始一貫して、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を〈センス〉と関係付けて論じています。年間読書人さんの記事の後半のメイン・テーマは、「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉と〈センス〉と〈自由〉の関係」と言っても過言ではないでしょう。

わたしは『センスの哲学』は必ずしも「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉と〈センス〉と〈自由〉の関係」について論じた本ではないと思っていますが、年間読書人さんはそのような本として読み取り解釈したということです。その点についてのわたしの見解は後ほど述べます。

[セクション:前半]の概要に対する批判をはじめるにあたり、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉についてのわたしの見解を明確に示しておきたいと思います。わたしの批判を正確に伝えるために、それが必要を思いました。

〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉についての、 わたしの見解

人の集まりを形成する社会的動物である人間に於いて、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は必要不可欠なものとして存在しています。その欲望があるからこそ、人間は社会をかたち作ることができます。その欲望がなければ、社会は存在しません。進化の過程で、必ずしも生物的に頑強ではないホモ・サピエンスが今日まで生き延びることが出来たのは、人間に社会性が備わっているからです。単独ではなく、集まりによって困難を乗り越える方法としての社会性。人間の生存戦略としての社会性。人間の社会性を支えるものが、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉です。それがなければ人の世界は、ばらばらに分解してしまうでしょう。

しかし、それは、「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉が適度である。」ことを前提にしています。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉はひとりひとりの人間、そして、社会を破壊するものとして作用します。

過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人間の自我を肥大させます。他者を自我の部分とすることで、欲望を満足させるためにです。さらに、巨大化した自我を維持するために、次々と他者を自我の幻想/ファンタジーの強化の道具として利用することになります。つまり、他者を自我の餌にすることになります。それが他者への暴力であることは言うまでもありません。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は、自我を肥大させ暴力を生み出すことになります。

SNSというテクノロジーは、集まりによって困難を乗り越える方法としての社会性のための有効なツールです。一方で、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を刺激し、過度なものへと変貌させてしまう危うさも同時に孕んでいます。SNSが〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を加速し、加速された〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉がSNSへの依存を加速します。連鎖的に加速されるSNSへの依存と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉の暴走的巨大化。SNSに強く依存した人々が、他者を肥大した自我の餌にしようと、ネット空間を跋扈してしまうことになります。

繰り返します。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は社会的動物である人間に於いて、程度の差こそあれ、誰でも大なり小なり持っている欲望です。「そんな欲望など自分にはない。」という人は単に嘘つきか無知なだけです。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉自体に悪いも良いもありません。他人から「いいね」と言われたいために、あれこれと工夫すること、全然、悪いことではありません。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人間の自然な欲望のひとつです。

適度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は、社会のために、そして、人間のひとりひとりのために、必要不可欠です。しかし、過度な巨大化した〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人も社会も壊してしまいます。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉が、暴力を生み出し、世界を破壊します。わたしたちは人間はそのことを知り、うまくその欲望と付き合う他ありません。

以上が、わたしの〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉についての基本的な見解です。

No.5―2//[セクション:後半]の概要に対する批判(その2)

※「千葉雅也さんは『センスの哲学』の中で、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉と〈センス〉と〈自由〉を関係付けて語ってはいない。」ということについて

***

No.5―1//[セクション:後半]の概要に対する批判(その1)で、わたしは年間読書人さんは記事の後半のメイン・テーマは、「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉と〈センス〉と〈自由〉の関係」である。と述べました。

しかし、この部分が、年間読書人さんの記事の後半に於ける、最大の決定的な誤読である、とわたしは考えています。

つまり、千葉雅也さんは「『センスの哲学』の中で〈センス〉と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を関係付けて語ってはいない。」ということです。さらに、千葉雅也さんは「『センスの哲学』の中で〈自由〉と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を関係付けて語ってはいない。」ということです。

年間読書人さんの見解、あるいは、解釈ではそうなっていますが、それは年間読書人さんの『センスの哲学』の誤読である、とわたしは考えています。

年間読書人さんの記事の後半は、「千葉雅也さんは『センスの哲学』の中で〈センス〉と〈自由〉と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を関係付けて語っている。」という認識を起点として、推測が重ねられ展開されています。しかし、起点が誤りです。結果、年間読書人さんの記事の後半は全てが誤った内容となってしまいます。

繰り返します。千葉雅也さんは、『センスの哲学』の中で〈センス〉と〈自由〉と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を関係付けて語ってはいません。それを、「『センスの哲学』の中で〈センス〉と〈自由〉と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を関係付けて語っている。」とすることは『センスの哲学』の対する見解、解釈、読み方、見立ての読者による相違といった事柄を超えた事態です。

もはや、それは、「『センスの哲学』の中に書かれていない事柄を、あたかも書かれているかのように誤読し、強引に自分の関心事に結び付ける。そして、その認識をもとに推測を重ねて行く。」としか、わたしには表現のしようのない事態だと考えています。

No.5―3//[セクション:後半]の概要に対する批判(その3)

※「第1章「センスとは何か」は『センスの哲学』の発端でしかない。」ということについて

***

『センスの哲学』の第1章「センスとは何か」は、第2章の「リズムとして捉える」以降への橋渡し的な事柄が書かれた章です。第2章の「リズムとして捉える」以降への飛躍の踏み台として、千葉雅也さんは次のような言葉で言い表しています。

★「上手い/下手から、ヘタウマへ」
★「センスとは、上手よりもヘタウマである。」
★「芸術でもヘタウマ、生活でもヘタウマ。まずそのイメージから始め   る。」
★「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。」

『センスの哲学』の中で書かれている〈センス〉とは「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として捉えられています。『センスの哲学』はそうした〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

〈センス〉とは「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」という千葉雅也さんの考えを読者に提示する前段階の準備のために、ヘタウマ、再現志向から降りることによるセンスへの覚醒、といった事柄等が、第1章の「センスとは何か」には書かれています。

従って、『センスの哲学』の第1章「センスとは何か」は千葉雅也さんの芸術論の発端でしかありません。この部分をあたかも最終章/結論のように読んでしまうと、『センスの哲学』を誤読することになってしまいます。

No.5―4//[セクション:後半]の概要に対する批判(その4)

※「モデルの再現志向から降りる。」ということについて、あるいは、本物、パチモン(偽物、贋作)、ヘタウマ、について

***

『センスの哲学』の中で、「モデルの再現から降りること」を千葉雅也さんは提案していますが、提案は「センスとは、芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力である。」とした『センスの哲学』の〈芸術・音楽論〉の思考へと読者を導くためのものです。

年間読書人さんは「モデルの再現から降りる。」という千葉雅也さんの提案の意味を「権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ。」という意味に解釈していますが、それは年間読書人さんが、ご自分の関心事とセンスを結びつけるために行った解釈だ、とわたしは考えます。

年間読書人さんはここで重大な誤読をしています。

千葉雅也さんは表現、あるいは、描写を「モデルの再現から降りること」で、表現/描写の可能性が拡張され、「センスの目覚め」が呼び寄せられると言っているのです。モデルの再現志向から降りることで、写真的な写実の認識の枠組みを一旦解体し、世界を「意味の手前」として捉え直す。そこから、「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力である。」という『センスの哲学』のテーゼが示されることになります。年間読書人さんの記事を読む限り、年間読書人さんは、全く、『センスの哲学』のテーゼを理解していない、としかわたしには思えません。

『センスの哲学』は再現志向の否定でも、ヘタウマ礼賛でもなければ、パチモン(偽物)の否定でもありません。〈芸術・音楽論〉の思考の本です。

No.5―5//[セクション:後半]の概要に対する批判(その5)

※『センスの哲学』はセンスの話で終わらない。本の帯の言葉を引用すれば「本書は最終的に、センスの良し悪しの「向こう側」にまで広がっていくことになります。いったんセンスが良くなる方向から、センスなどどうでもよくなるアンチセンスの方へ。」ということについて

***

『センスの哲学』は「センスとアンチセンスの複合体として人間の陰影を考えることになる。」(『センスの哲学』はじめに「センスという言葉」P26より引用)。

『センスの哲学』はセンスの話で終了しません。千葉雅也さんが『センスの哲学』で語りたかった事柄は「センスとアンチセンスの複合体として人間の陰影」についてです。

「いったんセンスが良くなる方向から、センスなどどうでもよくなるアンチセンスの方へ。」と読者を導く『センスの哲学』。本の最初の部分しか、年間読書人さんは読んでいない、としかわたしには思えません。

『センスの哲学』の読み方はひとりひとり様々です。見解も解釈もいろいろでしょう。しかし、『センスの哲学』を「センスの良い生き方をするためのセンスを身につける方法」と読んだ年間読書人さんは、「この本を最初から最後までの全部を読んでいない人である。」とわたしは判断するしかありません。『センスの哲学』の全部を本当に読めば、そんな話にはなりません。

No.5―6//[セクション:後半]の概要に対する批判(その6)

※「「世の中の多くの人々は、世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない。」と考えている。」という認識について

***

(注:この認識は『センスの哲学』の中で論じられているとは、わたしは考えていません。しかし、年間読書人さんの記事の後半に於いて、重要な認識として扱われています。従って、この認識についてわたしの考えを明確にする必要があり、以下に記述します。)

「その人の持っている意志によって、自分自身の存在のありようを決定することが出来る。」という事柄を、「その人が自由である。」という意味であると仮定すれば、人が自由であるために必要なことが明らかになります。それは、人間の意志です。人が自由であるためには意志が必要不可欠です。

しかし、当たり前の話ですが、その人の意志だけで、自分自身の存在のありようの全てを決定することが出来るわけではありません。決定出来ることと出来ないことが複雑に絡み合っています。

世間(他者)との関係性の中で形成される人の存在のありようは、人の意志だけではなく、世間(他者)との関係性が必要となります。例えば、人が誰か(他者)と何かを一緒にしたいと思っても、その誰か(他者)がそれを求め(承認、了解)なければ、行うことは出来ません。当たり前すぎる話ですが、ひとりで出来ることもあれば、ひとりだけでは出来ない他者、世間が必要なこともあります。それぞれの事柄の複合が現実のありようです。

そうした意味に於いて、人の持っている意志だけではなく、世間(他者)からの承認がなければ、「自分自身の存在のありようを自分自身が決定すること(=自由であること)」が出来ない状況は、現実の中で多く存在します。多くというより、ほとんどが、そうなのかもしれません。つまり、「世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない。」という状況の犇めく現実の中にわたしたちは生きています。

しかし、それでも、わたしたちの行為の全てが、世間(他者)からの承認を要するものではない、ということは明白です。

「世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない。」のではなく、「世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない場合もあれば、世間(他者)からの承認がなくとも、自由になれる場合もある。」という当たり前すぎる当たり前のシンプルな話に最終的には行き着くことになります。

No.5―7//[セクション:後半]の概要に対する批判(その7)

※「世の中の多くの人々は「世間(他者)から承認されようがされまいが、そうしたことと無関係に、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」とは考えてはいない。」という認識について

***

(注:この認識は『センスの哲学』の中で論じられているとは、わたしは考えていません。しかし、年間読書人さんの記事の後半に於いて、重要な認識として扱われています。従って、この認識についてわたしの考えを明確にする必要があり、以下に記述します。)

世の中には、「世間(他者)から承認されようがされまいが、そうしたことと無関係に、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」とは考えてはいない人たちが多々存在しています。しかし、その一方で、世の中には、「世間(他者)から承認されようがされまいが、そうしたことと無関係に、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」とは考えている人たちも多々存在しています。

さらに、現実の中では、世間(他者)からの承認がなければ行うことの出来ない事柄も多くありつつ、世間(他者)からの承認の有無に関係なく、自由に行うことが出来る事柄も多くあります。

世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない場合もあれば、世間(他者)からの承認がなくとも、自由になれる場合もある。世間(他者)からの承認の必要な部分と必要ではない部分、その双方が混在する。それが現実のありようです。

No.5―8//[セクション:後半]の概要に対する批判(その8)

※「『センスの哲学』の中で語られる〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という認識について

***

『センスの哲学』の中で、千葉雅也さんは〈センス〉を世間(他者)からの承認の有無の関係性の中で捉えてはいません。また、「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」ということも『センスの哲学』の中で、千葉雅也さんは語っていません。

『センスの哲学』の第1章「センスとは何か」に於いて、千葉雅也さんは「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。」と述べていますが、「モデルの再現から降りることは、世間(他者)から承認されることを求めないことである。」という意味ではありません。それは「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取る。」ための準備として語られています。

『センスの哲学』の中で、〈センス〉は、「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として、捉えられています。『センスの哲学』は〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。繰り返します。千葉雅也さんは、世間(他者)からの承認の有無という事象と関係付けて〈センス〉を語ってはいません。

年間読書人さんが『センスの哲学』のどの部分を読んで、そのような認識をされているのか、わたしには理解できません。『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんは自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けているとしか、わたしには思えません。

従って、その認識は年間読書人さんの誤読によるものです。

No.5―9//[セクション:後半]の概要に対する批判(その9)

※「世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれないと思っている世の中の多くの人々は、はじめからそうした〈良いセンス〉を求めてはいない。」という認識について

***

No.5―7//[セクション:後半]の概要に対する批判(その7)と同様です。

No.5―10//[セクション:後半]の概要に対する批判(その10)

※「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という考えを大前提とした『センスの哲学』は、世の中の多くの人々が考えている世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない、という考えとは相容れない。」という認識について

***

No.5―7//[セクション:後半]の概要に対する批判(その7)と同様です。

『センスの哲学』は、「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という考えを大前提とした本でありません。

それは年間読書人さんの誤読であり、その認識は誤りです。

従って、『センスの哲学』の中で書かれていない事柄をあたかも書かれている事柄のように、年間読書人さんが誤読してしまい、認識を誤り、その誤った認識から導かれた誤った結論です。

No.5―11//[セクション:後半]の概要に対する批判(その11)

※「『センスの哲学』の中の「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という考えは、千葉雅也が世間(他者)から承認を得た著名人であるからこそ言える内容だ。」という認識について

***

No.5―7//[セクション:後半]の概要に対する批判(その7)と同様です。

さらに、『センスの哲学』には千葉雅也さんが世間(他者)から承認を得た著名人であるから、はじめて書くことが出来たという事柄は書かれていません。

従って、『センスの哲学』の中で書かれていない事柄をあたかも書かれている事柄のように、年間読書人さんが誤読してしまい、認識を誤り、その誤った認識から導かれた誤った結論です。

No.5―12//[セクション:後半]の概要に対する批判(その12)

※「『センスの哲学』の内容は、世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない、と考えている、世間(他者)から承認を得ていない一般人には受け入れることはできない。」という認識について

***

No.5―9//[セクション:後半]の概要に対する批判(その9)と同様です。

従って、『センスの哲学』の中で書かれていない事柄をあたかも書かれている事柄のように、年間読書人さんが誤読してしまい、認識を誤り、その誤った認識から導かれた誤った結論です。

No.5―13//[セクション:後半]の概要に対する批判(その13)

※「『センスの哲学』は、「著名人がご高説を垂れているだけ。」と皮肉を言うしかない内容の本である。」という認識について

***

『センスの哲学』の中で書かれていない事柄をあたかも書かれている事柄のように、年間読書人さんが誤読してしまい、認識を誤り、その誤った認識から導かれた誤った結論です。

従って、「『センスの哲学』は、「著名人がご高説を垂れているだけ。」と皮肉を言うしかない内容の本である。」という認識は、的外れの誤った認識でしかありません。

No.5―14//[セクション:後半]の概要に対する批判(その14)

※「千葉雅也とは、「世間(他者)からの承認を得なければ、自由になれなかった者であり、その承認によって、自由になった者」のひとりである。」という認識について

***

千葉雅也さんには、著述家としての実績という世間(他者)からの承認を得ることで、はじめて可能となった事柄も多々あると思います。

しかし、その自由は千葉雅也さんに於ける自由の全てではありません。世間(他者)からの承認を得ることとは関係のない、自由と不自由が千葉雅也さんには存在しています。著述家としての実績という世間(他者)からの承認によって獲得した自由は、千葉雅也さんの自由の一部でしかありません。

それは千葉雅也さんに限った話ではありません。誰に於いても、世間(他者)からの承認とは無関係の自由と不自由が存在しています。

従って、千葉雅也さんは「千葉雅也とは、「世間(他者)からの承認を得なければ、自由になれなかった者であり、その承認によって、自由になった者」のひとりである。」という認識は誤りです。

No.5―15//[セクション:後半]の概要に対する批判(その15)

※「千葉雅也自身は「世間(他者)からの承認を得なければ、自由になれなかった者であり、その承認によって、自由になった者」のひとりである。」ことを自覚している。」という認識について

***

No.5―13//[セクション:後半]の概要に対する批判(その13)と同様です。

従って、その認識は誤りです。

No.5―16//[セクション:後半]の概要に対する批判(その16)

※「千葉雅也の小説の評価は、「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」である著名人の特権的な立場から得られたものでしかない。純粋に小説そのものが評価された結果ではない。」という認識について

***

千葉雅也さんの小説が文芸誌に掲載され芥川賞の候補になった理由を、年間読書人さんは異業種有名人の話題性でしかないと断定されています。

当然、年間読書人さんは千葉雅也さんの小説を読まれた上で、そのように断定されたのだと思います。(仮に、読んでいないとすれば、論外です。)

文芸誌も賞も出版という商いの側面があります。その商いという側面によって、千葉雅也さんの小説が無名の人と同じ扱いをされていないという部分はあるのかもしれません。しかし、その商いの側面が千葉雅也さんの小説の扱いにどのように作用したのかは不明です。わたしは文芸誌の編集者でも芥川賞の審査員でもその関係者でもありませんから、わたしには事の真偽を判断することはできません。

しかし、年間読書人さんの断定は客観的な根拠によるものではありません。単なる年間読書人さんの個人的な憶測に過ぎない、とわたしは思います。年間読書人さんは千葉雅也さん、千葉雅也さんの書かれた小説、千葉雅也さんの小説を掲載した文芸誌、芥川賞、それぞれを侮辱しています。客観的な根拠の無い個人的な憶測を、あたかも事実であるかのように決め付け断定することは、行ってはいけないことだとわたしは思います。

わたしは千葉雅也さんの小説三部作の全てを読んでいます。この件について、わたしの見解/見立ては次のようなものです。

千葉雅也さんが著名人であることで、小説を読んでみようかという契機になったことは十分考えられます。そのことをもってして、「無名の人とは扱いが違う。」と言われれば確かにそうだと思います。しかし、それは契機にしか過ぎません。千葉雅也さんの小説は読み手の好き嫌いによって評価が大きく分かれてしまう小説かもしれません。好き嫌いは別として、小説は透明な浮遊感が漂う不思議な魅力溢れるものです。そして、それがあるからこそ、評価されたとわたしは思っています。つまり、千葉雅也さんの小説の評価は純粋に小説の力によるものであり、正当なものである。とわたしは考えています。

わたしに出来ることは、ひとりの小説の読者として、小説の感想を述べることだけです。ひとりの読者の単なる読書感想でしかありませんが。

尚、小説が何かの賞を受賞することや候補になるといったことは、わたしに於いて〈どうでもよいこと〉でしかありません。なぜなら、結局、他人の評価でしかないからです。わたしが小説を読んで、わたし自身が、感じたこと思ったこと考えたこと、それがすべてです。

No.5―17//[セクション:後半]の概要に対する批判(その17)

※「千葉雅也は『センスの哲学』の中で、「世間(他者)からの承認を得ることを求めないことで、人は自由になることができる。」と語っている。」という認識について

***

『センスの哲学』の中で、千葉雅也さんは〈自由〉を世間(他者)からの承認の有無の関係性の中で捉えてはいません。また、「世間(他者)からの承認を得ることを求めないことで、人は自由になることができる。」ということも『センスの哲学』の中で、千葉雅也さんは語っていません。

『センスの哲学』の中で、〈センス〉は、「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として、捉えられています。『センスの哲学』はそうした〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

年間読書人さんが『センスの哲学』のどの部分を読んで、そのような認識をされているのか、わたしには理解できません。『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんは自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けているとしか、わたしには思えません。

従って、『センスの哲学』の中で書かれていない事柄をあたかも書かれている事柄のように、年間読書人さんが誤読してしまい、認識を誤り、その誤った認識から導かれた誤った認識です。

No.5―18//[セクション:後半]の概要に対する批判(その18)

※「『センスの哲学』は「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」のひとりである千葉雅也の著名人としての特権的な立場を千葉雅也自身が自覚していながら、そのことを棚上げした、自己矛盾を誤魔化し隠蔽した自己欺瞞的な内容の本である。」という認識について

***

No.5―12//[セクション:後半]の概要に対する批判(その12)と同様です。

従って、『センスの哲学』は、千葉雅也自身が著名人としての特権的な立場を自覚していながら、そのことを棚上げして書いた、自己矛盾を誤魔化し隠蔽した自己欺瞞的な内容の本ではありません。その認識は的外れの誤った認識でしかありません。

No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判のまとめ

[セクション:後半の概要に対する批判]は以上の(その1)から(その18)までの18項目です。これで年間読書人さんの記事の後半(の概要)に対する批判は行えたと、わたしは思います。

年間読書人さんの記事の後半の内容は、わたしには「本当に年間読書人さんは『センスの哲学』の最初から最後までを読んだのだろうか?」という疑問が付き纏う不可解なものでした。そのため、見解や解釈が異なる点を相違点として抽出し、論点として批判を組み立てるのが困難でした。可能な限り年間読書人さんの記事に接近し、批判を試みたつもりです。批判の正確性を追求し、様々に角度を変えて洩れなく批判を行った結果、重複している箇所が多々ある話の内容が前後した重層的なものとなってしまいました。

具体的な批判は既に書いた通りですが、年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判のまとめとして、年間読書人さんの記事の誤りの構造と原因について考察したいと思います。

年間読書人さんの記事は、年間読書人さんの千葉雅也さんに対する思いと『センスの哲学』に対する思いが書かれたものです。それは年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されています。

そして、その〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉のほぼ全てが誤りです。なぜ、そうした誤った〈認識〉、〈判断〉、〈推測〉がなされたかというと、大きく以下のような4つの理由が考えられます。

(1)『センスの哲学』の中に書かれていない事柄を、あたかも  書かれているかのように誤読し、自分の関心事に結び付ける。そして、その認識をもとに推測を重ねて行く。

例えば、年間読書人さんは『センスの哲学』の中での〈センス〉を、世間(他者)からの承認の有無という事象と関係付けられたものとして捉え、その認識をもとに千葉雅也さんと『センスの哲学』に対する批判を繰り広げています。

しかし、『センスの哲学』の中で、〈センス〉は「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として捉えられ、〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。世間(他者)からの承認の有無という事象と関係付けて〈センス〉は語られていません。

年間読書人さんが『センスの哲学』のどの部分を読んで、そのように認識されたのか不明ですが、わたしには本の中に書かれていない事柄を、あたかも書かれているかのように誤読し、自分の関心事に結び付けている、としか思えません。

そもそも『センスの哲学』には書かれていない事柄を起点にして、年間読書人さんの〈認識〉、〈判断〉、〈推測〉が行われているので、そこから導き出される話は必然的に的外れの誤りでしかありません。

(2)年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのか?という疑念を抱かざるを得ない。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうか?

(1)   の「『センスの哲学』の中に書かれていない事柄を、あたかも書かれているかのように誤読し、自分の関心事に結び付ける。そして、その認識をもとに推測を重ねて行く。」という事柄と関連していますが、年間読書人さんの記事を読んでいて、終始わたしに付き纏う奇妙な違和感があります。

それは、年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのだろうか?という疑念。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうかという疑い。その疑いを極めて強くわたしは感じます。

『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」であると捉えた〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。そして、最後にはセンスの向こう側の「センスとアンチセンスの複合体として人間の陰影」にまで話が及ぶことになります。『センスの哲学』はセンスについての話では終わりません。センスの向こう側、アンチセンスについてまで話は及びます。

そうしたことに、年間読書人さんの記事は一切触れていません。年間読書人さんは本当に『センスの哲学』を最初から最後まで全部を読んだ上で、この記事を書いたのだろうか? という疑問をわたしは強く抱いています。

年間読書人さんは記事の中で「『センスの哲学』を最初から最後まで読んだ。」とも「『センスの哲学』を部分的に読んだ。」とも記述していません。しかし、年間読書人さんは記事の終わりに於いて、「この本を本書に書かれているのは、ある程度「社会的な承認」を得た著者であるからこそ口にできることであり、さほどの才能のない一般人からすれば、「お気楽なご高説」に過ぎないだろう。」と断じています。

仮に、年間読書人さんが『センスの哲学』を部分的にしか読んでいないのに、断定したとしたら、論外という他ありません。

(3)客観的な根拠が無い単なる個人的な憶測にもかかわらず、あたかもそれが事実であるかのように、決め付け断定する。

千葉雅也さんの小説の扱いを巡って、年間読書人さんは客観的な根拠が無い単なる個人的な憶測にもかかわらず、あたかもそれが事実であるかのように、決め付け断定しています。

そこには著名人のひとりである千葉雅也さんに対する強い敵意と憎悪があります。強い敵意と憎悪が客観的な根拠が無いにもかかわらず、あたかもそれが事実であるかのように、決め付け断定した表現を生み出したと思います。

(4)年間読書人さんの著名人に対する度し難い激しい嫉妬の感情が、年間読書人さんの記事の全体を貫いている。

千葉雅也さんの小説の扱いを巡って年間読書人さんが記事に書かれた事柄には、著名人のひとりである千葉雅也さんに対する強い敵意と憎悪が表されています。

年間読書人さんの強い敵意と憎悪は、著名人が著名人としての特権的な立場を利用して「美味しい思い」をしているという激しい嫉妬から生み出されたものだ、とわたしは考えています。年間読書人さんの内奥では、著名人への苛烈な嫉妬が渦巻き、著名人と作品への攻撃が何度も繰り返されます。嫉妬が何かしらの事柄によって鎮まるまで、それは終わることはないでしょう。

著名人に対する激しい嫉妬の感情が年間読書人さんの記事の全体を貫いています。

No.7―15〜33//年間読書人さんの記事の[セクション:15〜33]の全文の引用、要約、及び、各セクションに対する個別的な批判

では、これから、具体的に個別的に前半の15〜33のセクションの文章の全文を引用、要約、批判を行ってみましょう。

(注)以下のわたしによる要約文の中で、「私」と記述されているのは「年間読書人さん」のことです。

[セクション:E] [セクション:15〜17]

[セクション:15]の引用

千葉雅也が本書で書いているのは、「センスの良い生き方をするためのセンスを身につける方法」といったようなものだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:15]の要約文

(1)「『センスの哲学』はセンスの良い生き方をするためのセンスを身に
   つける方法について書かれた本である。」と私は判断する。

[セクション:15]に対する批判

『センスの哲学』は生き方について書かれている本ではありますが、それは必ずしも「センスの良い生き方」ではありません。『センスの哲学』はセンスの向こう側へと読者を誘います。

『センスの哲学』の第1章から第6章までと、付録の「芸術と生活をつなぐワーク」はそうです。しかし、第7章から最終章の第8章はそうではありません。本の帯の言葉を引用すれば「本書は最終的に、センスの良し悪しの「向こう側」にまで広がっていくことになります。いったんセンスが良くなる方向から、センスなどどうでもよくなるアンチセンスの方へ。」

『センスの哲学』を「センスの良い生き方をするためのセンスを身につける方法」と読んだ人は、この本を最後まで読んでいない人です。

No.7―16// [セクション:16]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:16]の引用

では、ここで言われている「センス」とは何かというと、大雑把に言えば「物の本質を、直観的に捉える能力」ということになるだろう。
言い換えれば、そうした「センス」を身につけるためには、いちいち「見かけ(見せかけ)」に捉われていたのではいけないのだ。それでは、いつまで経っても、「見かけ(見せかけ)」に振り回されてしまい、物の「本質」を直観することなんかできないからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:16]の要約文

(1)「『センスの哲学』の中で書かれている「センス」とは「物の本質を
   直観的に捉える能力」である。」と私は判断する。

[セクション:16]に対する批判

『センスの哲学』の中で書かれている「センス」とは、「物の本質を直観的に捉える能力」ではありません。それは単に辞書的な意味です。

千葉雅也さんはそこを起点にして、思考を進め、「センスとは、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれを、いろんな要素のデコボコ=リズムとして楽しむことである。」(『センスの哲学』の中の前半のまとめのP134から引用)つまり、『センスの哲学』の中で書かれている「センス」とは「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として、捉えられています。『センスの哲学』はそうした〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

「『センスの哲学』の中で書かれているセンスとは、「物の本質を直観的に捉える能力」である。」という話は『センスの哲学』の第1章で書かれたことです。

年間読書人さんは本当にこの本を最初から最後まで読んだのだろうかと、わたしは疑問を感じざるを得ません。

No.7―17// [セクション:17]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:17]の引用

だから、本書で語られる「センスを身につける方法」とは、言うなれば「自由になる方法」なのである。
人を縛るあらゆるものから、ひとつひとつ自分を解放していくならば、本当の自分らしさが素直に表現できるようになるし、その方が、その人にとっても幸せなはずだから、「そうなろうよ」という話。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:17]の要約文

(1)「『センスの哲学』の中で書かれている「センスを身につける方法」
   とは自由になる方法である。」と私は認識する。
(2)「『センスの哲学』は、幸せになるために、人を縛るあらゆるものか
   ら、ひとつひとつ自分を解放して、本当の自分らしさが素直に表現で
   きるようになろうという話の本である。」と私は認識する。

[セクション:17]に対する批判

『センスの哲学』を最後まで読み終わった後、わたしたちの前に広がる風景のありようは、少し、あるいは、大きく変化します。そのことを『センスの哲学』によって、自由を得たと感じる人も多々いると思います。そうした意味に於いて、『センスの哲学』は「自由になる方法」を読者に与える本なのかもしれません。

しかし、「『センスの哲学』は、幸せになるために、人を縛るあらゆるものから、ひとつひとつ自分を解放していくならば、本当の自分らしさが素直に表現できるようになろうという話の本である。」という認識は誤りです。

『センスの哲学』は「自由になる方法」が書かれていても「幸せになるための方法」が書かれている本ではありません。芸術が必ずしも人を幸せにするものではないことは明白です。千葉雅也さんはそのことを十分に知っています。

No.7―18/ [セクション:18]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:F] [セクション:18]

[セクション:18]の引用

これは、千葉が、もともとは「美術」創作に進もうとしていた人で、本来は、厳密さが求められる「学者」向きの人間ではないと、自分のことをそう考えているからだ。
また、近年その意識が強まってきたからこそ、芥川賞候補にもなったように「小説」を書いたり、「音楽」をやったり、もともとやっていた「美術」創作なども再開したのである。
そして、こっちこそが「自分本来の姿であり、だから楽しい」と思っているから、できるかぎり「学者」的な縛りから解放されようとして、今回ついに「大哲学者の金看板」を下ろしてみたのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:18]の要約文

(1)「千葉自身が自分は学者向きではなく、芸術家が自分本来の姿である
   と思っている。」と私は推測する。
(2)「『センスの哲学』には千葉の学者としての不自由から自由になり、
   自分本来の姿である芸術家として活動したいという思いが表現されて
   いる。」と私は推測している。

[セクション:18]に対する批判

千葉雅也さんは哲学者であり、芸術家(小説家)でもあります。哲学者の領域と芸術家の領域の両方が彼の場所です。千葉雅也さんは哲学者をやめて芸術家(小説家)になりたいと考えているわけではありません。

『センスの哲学』は哲学者であり芸術家(小説家)でも千葉雅也さんによって書かれた芸術論です。

No.7―19// [セクション:19]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:H]:[セクション:19]

[セクション:19]の引用

しかしながら、こんなことが気安くできるのは、千葉がある程度は「自己実現」した人だからに他ならない。
つまり、「売れっ子」になったから、権威の後ろ盾がなくても「一人でやっていけそう」だと感じたのであり、それで、自身を解き放つ決断ができたのだ。
言い換えれば、そうした「自信」をいまだ持っていない人にむかって「自由になろうよ。楽しくなるよ。その方法を教えてあげる」と言っても、大半は振り向いてくれないだろう、という話なのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:19]の要約文

(1)「千葉が自分の哲学を書いた『センスの哲学』を刊行することができ
   たのは、千葉が世間(他者)から承認を受けた売れっ子であり自己実
   現した人だからである。千葉は権威の後ろ盾がなくても自分ひとりで
   表現が可能と思い、自身を解き放つ決断ができたからだ。」と私は判
   断する。
(2)「まだ自己実現していない人に向かって「自由になろうよ。楽しくな
   るよ。その方法を教えてあげる」と言っても相手にはされない。」と
   私は推測する。

[セクション:19]に対する批判

千葉雅也さんには、著述家としての実績という世間(他者)からの承認を得たことで可能となった事柄も多々あると思います。千葉雅也さんが新しい著作である『センスの哲学』を刊行することが出来たのも、そうした著述家としての実績があってのことだと、わたしも思います。

しかし、それは本という商品を作る機会を得たということでしかありません。『センスの哲学』の内容そのものの産出は、著述家としての実績という世間(他者)からの承認が保証するものではありません。『センスの哲学』が著述家・千葉雅也の実力によって書かれたという事実は覆ることはありません。

そして、『センスの哲学』は、「そうした「自信」をいまだ持っていない人にむかって「自由になろうよ。楽しくなるよ。その方法を教えてあげる」と言う本ではありません。

『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」であるとした、〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

No.7―20// [セクション:20]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:I]:[セクション:20]

[セクション:20]の引用

例えば、千葉雅也の「小説」が、芥川賞の候補作になったのは、間違いなく、千葉が「売れっ子」の「作家」の一人だと、出版関係者からも認知されていたからだ。
そもそも、彼の小説が文芸誌に掲載されたのは、彼が「異業種有名人」だったからで、その意味では、芸人である又吉直樹と同じような「話題性」があったからに他ならない。千葉が無名の小説家志望者だったら、彼の作品が文芸誌に載ることもなければ、芥川賞の候補になることもなかったというのは、わかりきった話なのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:20]の要約文

(1)「千葉の小説が芥川賞の候補作になった理由は、彼が売れっ子作家で
   あると出版関係者から認知されていたからだ。」と私は推測する。
(2)「千葉の小説が文芸誌に掲載されたのは、彼が異業種有名人であり、
   話題性があったからである。」と私は推測する。
(3)「仮に、千葉が無名の人であれば、彼の作品が文芸誌に載ることも、
   芥川賞の候補になることもなかった。」と私は推測する。

[セクション:20]に対する批判

[セクション:後半の概要に対する批判(その15)]と同じです。

No.7―21// [セクション:21]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:J]:[セクション:21]

[セクション:21]の引用

つまり、著名人である千葉雅也なら、本業の「哲学研究」ではなくても、それなりに注目もされ、評価もしてもらえるから、その点で、その「趣味」に満足することもできるし、「本業」のような「重さ」もないから、「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきたい」という気持ちも、それは理解はできる。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:21]の要約文

(1)「千葉雅也は著名人だから、本業の哲学研究以外でも、それなりに評
   価もしてもらえる。」と私は推測する。
(2)「千葉は本業の哲学研究以外の小説などを趣味として満足することが
   できる。「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきた
   い。」という気持ちが千葉にはある。」と私は推測する。
(3)「千葉のそうした気持ちは私(年間読書人さん)にも理解できる。」
   と私は認識する。

[セクション:21]に対する批判

著名人の作品は、作者が著名人であるということで、作品が無条件で評価されるわけではありません。その認識は誤りです。著名人であることがきっかけでその作品を手に取ることはあるのかもしれませんが、結局は作品の力が作品の評価を決めます。

千葉雅也さんは哲学者であり、芸術家(小説家)でもあります。哲学者の領域と芸術家の領域の両方が彼の場所です。千葉雅也さんは哲学者をやめて芸術家(小説家)になりたいと考えているわけではありません。

No.7―22// [セクション:22]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:K]:[セクション:22〜23]

[セクション:22]の引用

しかし、そういう「特権的立場」の保証されていない一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
一一で、そんな人たちに対して、「ウケなくても良いじゃない。イイねなんか気にしてたら、窮屈なだけだよ」と言っても、それは無理な話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:22]の要約文

(1)「しかし、そうした著名人の特権的立場を持っていない一般人たちに
   「世間(他者)から評価されたいという欲望から自由になって、自分
   らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理な話である。」と私
   は認識する。
(2)「世の中のほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽って
   でも「ウケ」を狙ってしまう。」と私は認識する。

[セクション:22]に対する批判

千葉雅也さんは、一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言ってはいません。『センスの哲学』はそうした本ではありません。

『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんは自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けているとしか、わたしには思えません。

また、世の中には「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙うような行為は愚かなことである、と思っている人たちも多々存在しています。世の中は自分を偽ってでも「ウケ」を狙うような人たちばかりではありません。

さらに、「ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。」という認識は、社会的な動物である人間の誰でも大なり小なり持っている欲望です。欲望自体は、全然、悪いことではありません。暴力が生み出されるのは、それが適度なものから過度なものなってしまった場合です。

No.7―23// [セクション:23]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:23]の引用

そうした一般人もまた、千葉と同様に「まず世間からの承認を得たのちに、自由にやりたい」のである。
つまり「世間の承認」という「縛り」は、自ら望む「前提条件」であって、それを諦めることで得られるような「良いセンス」なんて、初手から求めてはいないのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:23]の要約文

(1)「ほとんどの一般人は、千葉と同様に「まず世間(他者)からの承認
   を得た後で、自由にやりたい」のである。」と私は推測する。
(2)「ほとんどの一般人は、世間(他者)から承認されることが、自由に
   なるための前提条件である、と考えている。」と私は推測する。
(3)「ほとんどの一般人は、世間(他者)から承認されることを諦めるこ
   とで得られる、良いセンスというものを、はじめから求めてはいな
   い。」と私は推測する。

[セクション:23]に対する批判

千葉雅也さんは「まず世間からの承認を得たのちに、自由にやりたい」とは考えていません。千葉雅也さんはご自身の表現/思考を公開したら、結果として、評価されたということです。繰り返します。千葉雅也さんは「まず世間からの承認を得よう」として、ご自身の表現/思考を公開したのではありません。それは自身の表現/思考の表明であり、世間(他者)からの承認を求めた行為ではありません。

また、「世間の承認」という「縛り」を自ら望む「前提条件」としていない人々も世の中には多々存在しています。

「一般人もまた、「世間の承認」という「縛り」は、自ら望む「前提条件」であって、それを諦めることで得られるような「良いセンス」なんて、初手から求めてはいないのだ。」という認識は単なる世の中(現実)の一部分のありようを切り取った見解に過ぎません。

No.7―24// [セクション:24]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:L]:[セクション:24]

『 上手い/下手から、ヘタウマへ

 「上手い絵」とは何か。対象をそっくりに描くことが、基本的な意味での「上手い」だと思います。多くの人がそういうふうに「上手い」を捉えている。写真に撮ったように描く、あるいはアニメキャラを、コピーしたようにそのまま描ける。
 ところがその一方で、多くの人は、写真のようなものだけが「上手い」だとは思っていません。大変人気があるモネやゴッホの絵は、風景や物をリアルに描こうとはしているけれど、写真のようではなく、個性的な味があります。モネの絵は散らばったタッチでできており、物の形がはっきりしない場合も多い。ゴッホが描く形態には、すぐゴッホだとわかる個性的な歪みがありますが、そこにはエネルギーが満ち満ちているように見えます。
 いずれにせよ写真的正確さからはズレていて、そのズレが味であり、そのズレがユーモラスだと、いわゆる「ヘタウマ」になります。その代表はピカソでしょう(ピカソには写実的な絵を描いていた時期もありますが)。さらに「ヘタウマ」を強めていくと、素人がうろ覚えで描いた間違ったアニメキャラがSNSで話題になったりすることもあります。
 重要なのは、この「ヘタウマ」なんですね。
 しかし、写真的な再現性が「上手い」という価値観は、世間ではとても強いわけです。何かモデルをよく写している、というわけです。本物そっくりで、つい触ろうと手を伸ばしてしまう「だまし絵」のようなものですね。
 さてその場合、「下手」とはどういうことか。下手とは、モデルを再現しようとして不十分にしかできないことだ、ということになります。その場合、再現が主であり、そこからのズレに個性が出るといえば出るのだが、そのズレは再現に対して否定的なミスとしてしか存在していない状態になります。つまり本当ならそっくりに描きたいのだが、そっくりに描けないという形でしか個性が存在していない。これが「下手」だということになります。この「下手」と「ヘタウマ」は異なります。
 僕なりに定義してみます。「ヘタウマ」とは、再現がメインではなく、自分自身の線の運動が先にある場合です。しかし再現性がないわけではない。線の運動がメインであり、そこに再現性も含まれる形になっている場合です。つまり、モデルを目指してできないのではなく、自由な運動のなかで何かを捉えるときに、その個性はヘタウマだと言われるのだと思います。
 そうだとすると、これは極論ですが、すべて芸術と呼ばれるものはヘタウマの方に入る、と言っても過言ではないでしょう。モネでもゴッホでも、言ってみればすべてヘタウマなわけです。

  センスが無自覚な部屋

 ここで、部屋のインテリア、家具選びについて考えてみます。芸術から生活に移ります。「センスが無自覚な部屋」というものがあるとすれば、それは、下手な絵に対応するものです。先ほどの考え方を応用しましょう。
 「センスが無自覚な部屋」とは、理想的なモデルを設定していて、「そういう部屋になったらいいなあ」という再現がメインであり、だがそれが上手くできなくて、無自覚なズレが起き、つまり下手になってしまっている。さらに言えば、そのズレが、その人の存在感をゴロッと無自覚に表している。
 たとえば、ヨーロッパ風の高級感のある部屋を目指していて、古そうな感じの装飾があり、アンティーク風なんだけれど本物のアンティークではないテーブルとか、シャンデリアっぽい照明とか、中途半端なアイテムを集めてそれっぽくしようとすると、かえって本物ではないことが目立ってしまう。そのときに、妙に感じられるのは、高級感を目指しているというより、そこに染み出してしまっている生活感ではないかと思います。』(P37〜40)

『センスの哲学』千葉雅也/第1章「センスとは何か」/P37〜P40

[セクション:24]の引用

千葉は、「センスのあるなし」について、次のようにわかりやすい例を紹介している。

(※上記、『センスの哲学』千葉雅也/第1章「センスとは何か」/P37〜P40引用)

つまり、「センスが悪い」とは「理想のモデル」に近づこうとして「中途半端に真似るに止まったパチモン(偽物)」というようなもののことである。

これは私がよく馬鹿にしている「コピペレビュー」とか「内容要約屋による知ったかぶりレビュー」的なものだと言えるだろう。
こういうものを書く人というのは、自分は「一人前のレビューを書いている」とか「要約した思想家(作家)と同様のことを、自分は考え得ているからこそ、こうして書けている」と、そんなつもりなのだが、そんなものは所詮「下手な模写」に過ぎないので、その方面に暗い一般人には通用しても、専門家や「読める人」には通用しない。
そこには、「テストの模範解答」のような要約の巧みさはあっても、その人でなければ書けないものというが無いから、所詮は劣化コピーでしかなく、その意味で「つまらない文章」だということになる。
そして、そうした事実への「無自覚さ」が、ここで言う「センスが悪さ」なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:24]の要約文

(1)「『センスの哲学』で語られる「センスが悪い」とは、「理想のモデ
   ル」に近づこうとするパチモン(偽物)のことである。」と私は認識
   する。
(2)「これは、私(年間読書人さん)が馬鹿にしている、コピペレビュー
   などの、その人でなければ書けないものというのが無い文章のような
   ものである。そうした事実への無自覚さが、センスが悪さなのだ。」
   と私は認識する。

[セクション:24]に対する批判

引用の部分には複数の事柄が書かれています。

以下、千葉雅也さんの言葉を断片的に引用して、箇条書きにしてみましょう。

(1)「ヘタウマ」とは、線の運動がメインであり、そこに再現性も含まれ
   る形になっている場合である。つまり、モデルを目指してできないの
   ではなく、自由な運動のなかで何かを捉えるときに、その個性はヘタ
   ウマとなる。
(2)すべて芸術と呼ばれるものはヘタウマの方に入る、と言っても過言で
   はないでしょう。モネでもゴッホでも、言ってみればすべてヘタウマ
   なわけです。
(3)「センスが無自覚な部屋」とは、理想的なモデルを設定していて、
   「そういう部屋になったらいいなあ」という再現がメインであり、だ
   がそれが上手くできなくて、無自覚なズレが起き、つまり下手になっ
   てしまっている部屋である。
(4)その無自覚なズレが、その人の存在感をゴロッと無自覚に表してい
   る。

引用には複数の事柄が書かれているので、年間読書人さんが引用のどの事柄について言及しているのか定かではありません。従って、わたしの批判は保留とします。

No.7―25// [セクション:25]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:M]:[セクション:25〜27]

[セクション:25]の引用

だからこそ千葉は、「そっくりそのままになれるほどの才能もないのに、それを目指したって、それは見苦しいだけのパチモン(偽物=下手な模写)にしかならないのだから、そんなことはさっさと諦め、そうした権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ」と、大筋そのようなことを言っているのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:25]の要約文

(1)「千葉は、「パチモン(偽物)にしかならないのだから、そうした権
   威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ。」と
   言っている。」と私は認識する。

[セクション:25]に対する批判

千葉雅也さんは『センスの哲学』の中で、「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。」と書いてはいますが、「権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ。」という話はしていないようにわたしは思います。

『センスの哲学』の中の「モデルの再現」は必ずしも「権威の縛り」を意味しているわけではありません。「モデルの再現から降りること」を千葉雅也さんは提案していますが、提案は「センスとは、芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力である。」とした〈芸術・音楽論〉の思考へと読者を導くためのものです。

「モデルの再現から降りること」を「権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ」という意味に解釈したことは、年間読書人さんが、ご自分の関心事とセンスを結びつけるために行った解釈だ、とわたしは考えます。年間読書人さんはここで重大な誤読をしています。

No.7―26// [セクション:26]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:26]の引用

「自信満々な模写」は、かえって、その無自覚ぶりが「イタい」けれど、「その人らしさが自然に出ているもの」なら、少々デッサンが狂っていようと、それも「味わい」の内になる、という、これはそういう話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:26]の要約文

(1)「その人らしさが自然に出ているものなら、デッサンが狂っていて
   も、それも味わいになるという話を、千葉は『センスの哲学』で語っ
   ている。」と私は認識する。

[セクション:26]に対する批判

「芸術はヘタウマである。」とすれば、そうなりますが、少し意味合いが異なっているようにも感じます。

No.7―27// [セクション:27]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:27]の引用

ただ、「自分らしさ」と言っても、みんながみんな「表現するに値する自分らしさ」をあらかじめ持っているわけではないのだから、では、既成の「型(権威)」にとらわれずに、「本質的な美質」を身につけるのはどうしたら良いのか? 一一それを書いたのが、本書だと言えるだろう。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:27]の要約文

(1)「『センスの哲学』は、既成の型(権威)にとらわれずに、本質的な
   美質を身につけるには、どうしたら良いのか?という問いへの答えが
   書かれた本である」と私は認識する。

[セクション:27]に対する批判

『センスの哲学』の中で書かれている〈センス〉とは「芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」として捉えられています。『センスの哲学』はそうした〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

「既成の「型(権威)」にとらわれずに、「本質的な美質」を身につけるのはどうしたら良いのか? 一一それを書いたのが、本書だと言えるだろう。」という認識は誤りです。「本質的な美質」など『センスの哲学』では求めていません。『センスの哲学』はそうした本ではありません。

『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんは自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けているとしか、わたしには思えません。

No.7―28// [セクション:28]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:N]:[セクション:28]

[セクション:28]の引用

そして、勘の良い人ならすでに気づいているだろうが、要は、これは、千葉自身が進みたい方向を正当化するための「議論」なのだ。そうなってしまっている。「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と、そういうことである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:28]の要約文

(1)「『センスの哲学』は、千葉自身が進みたい方向を正当化するための
   議論だ。」と私は判断する。
(2)「『センスの哲学』で語られる千葉の考えは、「大哲学者の解説屋な
   んかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽し
   いし、見苦しくもないよ」という千葉自身が進みたい方向を正当化す
   るための議論である。」と私は認識する。

[セクション:28]に対する批判

「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と千葉雅也さんは考えていません。その認識は誤りです。

『センスの哲学』は千葉自身が進みたい方向を正当化するための「議論」ではありません。

また、「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と千葉雅也さんは考えていません。その認識は誤りです。

『センスの哲学』はそうした本ではありません。『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんは自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けているとしか、わたしには思えません。

誤った認識を起点にして、推測を重ねた結果、導かれる認識は必然的に誤った認識でしかありません。

No.7―29//[セクション:29]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:O]:[セクション:29〜31]

[セクション:29]の引用

たしかに、この考え方は「正しい」とは思うし、私自身、その方向でやってきた人間でもある。一一けれども、それが「正しい」からと言っても、多くの人は、たぶんそんなことは望まないはずだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:29]の要約文

(1)「確かに、この考え方は正しいとは思う。」と私は判断する。
(2)「私自身(年間読書人さん)、その方向でやってきた人間である。」
   と私は認識する。
(3)「それが正しくても、世の中の多くの人は、そんなことは望まな
   い。」と私は推測する。

[セクション:29]に対する批判

『センスの哲学』に書かれていない事柄をあたかも書かれているかのように、年間読書人さんが自分の関心事に『センスの哲学』を強引に結び付けた認識を起点にして、認識と推測を重ねています。その結果、導かれる認識は必然的に誤った認識でしかありません。

No.7―30// [セクション:30]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:30]の引用

多くの人は「そっくりな絵が描けるようになりたい」とか「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような、「自分自身(の個性)」とは縁もゆかりもないような「他者の欲望」を内面化して、およそそれを疑い得なくなっているのだから、「それはひとまず置いといて、まず自由になった方が、あなたが生かせるのだ」と言ったところで無駄なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:30]の要約文

(1)「世の中の多くの人は世間(他者)から賞賛を受け承認されたいとい
   う欲望がある。従って、そうした人に向けて「自分の欲望を一旦置い
   て、自由になった方が、あなたが生かせる。」と言っても無駄だ。」
   と私は認識する。

[セクション:30]に対する批判

その認識は世の中の部分を切り取り捉えた認識でしかありません。

世の中は「「そっくりな絵が描けるようになりたい」とか「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような、「自分自身(の個性)」とは縁もゆかりもないような「他者の欲望」を内面化して、およそそれを疑い得なくなっている人たち」」ばかりではありません。そうではない人たちも世の中には多々存在しています。

その認識は単なる世の中(現実)の一部分のありようを切り取った見解に過ぎません。

No.7―31// [セクション:31]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:31]の引用

「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような「大切な夢」を捨ててまで、「自分らしく楽しくやれれば、それでいい」などとは、ほとんどの人は思わないのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:31]の要約文

(1)「世の中の多くの人は世間(他者)から賞賛を受け承認されたいとい
   う欲望を捨てて、「自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」と
   は思わない。」と私は認識する。

[セクション:31]に対する批判

その認識は世の中の部分を切り取り捉えた認識でしかありません。

「自分らしく楽しくやれれば、それでいい」と考えている人たちが世の中には多々存在しています。

「「自分らしく楽しくやれれば、それでいい」などとは、ほとんどの人は思わないのである。」という認識は単なる世の中(現実)の一部分のありようを切り取った見解に過ぎません。

No.7―32// [セクション:32]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:P]:[セクション:32]

[セクション:32]の引用

したがって、本書においては、そうした「大前提」が間違っているので、その先の「センスを身につける具体的な方法」という「本論」は、読み物的に、参考にはなるだろうけれど、ほとんど実用には供しないものだと思う。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:32]の要約文

(1)「「世間(他者)から賞賛を受け承認されたいという欲望を捨て、自
   分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」という考えを、世の中の
   多くの人々は持ってはいない。従って、その考えを大前提とした『セ
   ンスの哲学』は、間違っている。『センスの哲学』は参考にはなるか
   もしれないが、実用的な本ではない。」と私は判断する。

[セクション:32]に対する批判

違います。そうではありません。

『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」であるとした、〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。

『センスの哲学』は「他者から賞賛を受けたいという欲望を捨て、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」という考えを前提にした本ではありません。また『センスの哲学』の本論は「センスを身につける具体的な方法」でもありません。

年間読書人さんの誤読が招いた誤った認識です。

No.7―33// [セクション:33]の全文の引用、要約、及び、批判

[セクション:Q]:[セクション:33]

[セクション:33]の引用

本書に書かれているのは、ある程度「社会的な承認」を得た著者であるからこそ口にできることであり、さほどの才能のない一般人からすれば、「お気楽なご高説」に過ぎないだろう。

「大丈夫だから、見る前に跳べ!」と言われても、「やっぱり、見ちゃうよね」という話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:33]の要約文

(1)「『センスの哲学』で語られていることは、世間(他者)/社会から承
   認を得た著名人である千葉雅也であるからこそ言える内容でしかな
   い。世間(他者)/社会から承認を得ていない一般人からすれば、『セ
   ンスの哲学』で語られていることは「著名人がご高説を垂れてい
   る。」だけと皮肉を言うしかない内容である。」と私は判断する。

[セクション:33]に対する批判

違います。そうではありません。

『センスの哲学』に書かれていることは「本書に書かれているのは、ある程度「社会的な承認」を得た著者であるからこそ口にできること」ではありません。また「お気楽なご高説」でもありません。

年間読書人さんの『センスの哲学』の誤読が招いた誤った認識です。

No.8//あとがき

以上が、「〈第4号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:後半の]への批判」です。

(お願い)

しかし、これはあくまでもわたしの批判であり、解釈です。わたしの中に内在する先入観や偏見によって歪められた誤った批判、解釈が行われている部分もあるのかもしれません。また、わたしなりに確認はしていますが、単純な記述ミスもあるかもしれません。この記事を読まれた方で、そうした点に気付かれた方がいらっしゃいましたら、よろしければ、本記事のコメント欄にコメントしていただけたら、幸いです。よろしくお願い致します。

※章のタイトルに於いて、「後半」と記述すべき箇所が「前半」と誤記されている部分が数か所ありましたので、訂正致しました。(2025/2/16)

また、記事の中で他の号からの再録部分があります。その部分に於いて原稿のチェックの過程で細かい若干の記述違いが生じてしまった部分もあるかもしれませんが、文の意味が異なるものではありません。

(今後の展開)

年間読書人さんからわたしのこの批判に対して、反論があると思います。
わたしなりに可能な範囲で応答したいと考えています。応答は、このアカウントの記事として掲載するという方法を用いたいと考えています。

以上です。

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