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〈第2号〉              年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///          年間読書人さんの記事を読み解くために記事を、33のセクションに分割し、各セクションの文書を、わたしが要約する。

No.1//まえがき

(この記事の目的)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に何がどのように書かれているのか、その内容を詳細に把握するこことが、この記事の目的です。

(「年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」に対するわたしの批判」を書いている、わたしについて)

わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこで記事を投稿しています。

わたしは今年(2024年)の10月のはじめ、noteで千葉雅也さんの『センスの哲学』についての記事を公開しました。

また、『センスの哲学』には直接的には関係ありませんが、年間読書人さんが記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で言及されている千葉雅也さんの小説群の中のひとつの『エレクトリック』について、昨年(2023/2/11)に読書感想文をnoteの記事として投稿しています。

尚、これまでの経緯の詳細については、下記の「〈第1号〉年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのかその経緯など」の記事をご覧下さい。

(この記事の全体的な構造)

目次と重複してしまいますが、記事の全体の見取り図として提示します。

(2)No.2//年間読書人さんの記事を読み解くために、その記事を33のセク
   ションに分割することについて
(3)No.3//年間読書人さんの記事の各セクションの文章を読み解くために
   わたしによる文章の内容の要約を行う、その方法について
(4)No.4//年間読書人さんの記事の構造の概略
(5)No.5//年間読書人さんの記事の[セクション:前半]の内容について
(6)No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半]の内容について(7)No.7―1〜33//年間読書人さんの記事の[セクション:1〜33]の全文の 
   引用、及び、要約
(8)No.8//あとがき


No.2//年間読書人さんの記事を読み解くために、その記事を33のセクションに分割することについて

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」への批判を行う前に、わたしなりに年間読書人さんの記事を詳細に読み解き、その文章の要約を行い、内容を把握したいと思います。

年間読書人さんの記事は全文字数が約8000文字ですが、年間読書人さんの記事には章やナンバーなどの記載がありません。そこで、わたしの方で便宜的にセクションを設定し、記事を部分に分割して各セクションにナンバーを付与し、記事の把握を行いたいと思います。

セクションは合計33です。セクションは基本的には年間読書人さんの記事の中に存在する「一行の空白」を目安にして設定しています。全てのセクションがそうではありませんが、出来るだけ意味のひとかたまりになるようにセクションを設定しました。ひとつのセクションの文字数は約200文字前後ですが、大小があります。セクションの設定は、わたしが年間読書人さんの記事を読み解くために、ひとつの方法として、便宜的に行ったものです。従って、これ以外のセクションの設定もあり得ます。

No.3//年間読書人さんの記事の各セクションの文章を読み解くために、わたしによって文章の内容の要約を行う、その方法について

年間読書人さんの記事の内容は、実際に存在する事実も僅かに記述されていますが、ほぼ全て、年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されています。

従って、わたしが作成した要約文の末尾は「・・・と、私(年間読書人さん)は認識する。」「・・・と、私(年間読書人さん)は判断する。」と「・・・と、私(年間読書人さん)は推測する。」となります。

年間読書人さんのこの記事は、年間読書人さんの千葉雅也さんに対する考えと『センスの哲学』に対する考えが書かれたものですので、年間読書人さんの記事が年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されていることは、当然のことと言えます。

尚、ここで用いている〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉の言葉に意味は、下記にあるような一般的な辞書的な意味です。特別な意味は基本的には付与していません。

〇認識:或る事柄について、見分け、判断し、知ることこと。
〇判断:或る事柄について、考えをまとめて、定めること。
〇推測:或る事柄について、他の事柄をもとにして、判断すること。

推測も判断のひとつですが、推測を「他の事柄をもとにして、推し量ること」として、「考えをまとめて、定めること」である判断と区分しました。また、認識も判断のひとつですが、「見分け、知ることこと」である判断として区分しました。意味的には重なる部分がありますので、厳密な区分ではありません。あくまでも年間読書人さんの記事を読み解くためのものです。

No.4//年間読書人さんの記事の構造の概略

各セクションの具体的な内容との要約を提示する前に、年間読書人さんの記事の構造の概略を提示したいと思います。年間読書人さんの記事は、以下のような構造で成り立っています。

大きく〈前半〉と〈後半〉の二部構成です。

〈前半〉と〈後半〉の境界線として年間読書人さんは「〇〇〇」という記号を記載されています。

〈前半〉に於いて、千葉雅也が何者であり、どのような理由で『センスの哲学』が書かれ刊行されたのか、年間読書人さんの見解が語られ、『センスの哲学』は売れない本だろうという年間読書人さんの予測が提示されます。

〈後半〉に於いて、『センスの哲学』で語られるセンスによって自由になる方法は、世間(他者)から承認されなければ自由になることはできないと考えている世の中の多くの人々が求めているものではない、という年間読書人さんの見解が語られ、『センスの哲学』は世間(他者)から承認されて自由になった千葉雅也の自己欺瞞的なご高説に過ぎないという年間読書人さんの認識が提示されます。

〈前半〉は[セクション:A]から[セクション:E]の5部構成です。

[セクション:前半] [セクション:A〜E]/ [セクション:1〜14]

(1)[セクション:A][セクション:1〜2]
(2)[セクション:B]
[セクション:3〜7]
(3)[セクション:C]:[セクション:8〜9]
(4)[セクション:D]:[セクション:10〜13]
(5)[セクション:E]:[セクション:14]

〈後半〉は、[セクション:F]から[セクション:Q]の12部構成です。

[セクション:後半] [セクション:F〜Q]/ [セクション:15〜33]

(1)[セクション:F][セクション:15〜17]
(2)[セクション:G]
[セクション:18]
(3)[セクション:H]:[セクション:19]
(4)[セクション:I]:[セクション:20]
(5)[セクション:J]:[セクション:21]
(6)[セクション:K]:[セクション:22〜23]
(7)[セクション:L]:[セクション:24]
(8)[セクション:M]:[セクション:25〜27]
(9)[セクション:N]:[セクション:28]
(10)[セクション:O]:[セクション:29〜31]
(11)[セクション:P]:[セクション:32]
(12)[セクション:Q]:[セクション:33]

但し、内容が部分的に重複し、前後している箇所もあり、必ずしも論理的に整然と構成されているわけではないようです。セクションをAからQまで小分類していますが、意味的に厳密な分類ではありません。

No.5//年間読書人さんの記事の[セクション:前半]の内容について

[セクション:前半]の概要(注:わたしによる要約です。)

千葉雅也が売れっ子である理由は現代思想の大哲学者の解説屋だからである。そして、千葉雅也には自由になりたいという強い願望が存在している。そのために『センスの哲学』を書き刊行し、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化するという行為を行った。そうした行為を千葉雅也が決断した背景には、これまでの現代思想の大哲学者の解説屋としての実績が千葉雅也の自己認識を誤らせ、今この時期に世の中の人々の多くが自分の哲学の本を評価してくれるだろうという錯覚が存在している。そうした背景の中で、千葉雅也の『センスの哲学』は刊行された。

しかし、世の中の人々の多くが求めていることは、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである。世の中の人々の多くは現代思想の大哲学者というブランドに魅せられているのであって、千葉雅也というブランドに興味があるわけではない。従って、自分自身をブランド化した千葉雅也の哲学の本である『センスの哲学』は、売れない本になると私(年間読書人さん)は予想する。

(注:ここで記述されている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」であり、尚且つ、「高級な価値あるもの」という意味です。)

[セクション:前半]の内容について

冒頭に、「『センスの哲学』は売れない本になると、私(年間読書人さん)は予想する。」という年間読書人さんの推測が語られ、その後に、その推測の根拠となる事柄が書かれています。

年間読書人さんがその推測の根拠としている事柄を以下に箇条書きしてみます。但し、根拠としている事柄自体が年間読書人さんの推測でもあります。

(1)千葉雅也が売れっ子である理由は、現代思想の大哲学者の優れた解
   説屋だからであり、他には理由はない。(と、私(年間読書人さ
   ん)は認識する。)
(2)世の中の人々の多くは現代思想の大哲学者というブランドに魅せら
   れているのであり、解説屋の千葉雅也というブランドに興味がある
   わけではない。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

世の中の多くの人々は千葉雅也に、現代思想の大哲学者の優れた解説屋としての役割しか求めていない。だから、自分の哲学を語った『センスの哲学』は、世の中の多くの人々から見向きもされないだろう。つまり、『センスの哲学』は売れない。

というのが、年間読書人さんの考えです。

そして、そうした事柄を千葉雅也自身も半ば理解していたにもかかわらず、なぜ、現代思想の大哲学者の優れた解説屋をやめて、自分自身のブランドとして、自分の哲学を語った『センスの哲学』を刊行してしまったのか?その理由/背景を年間読書人さんが推測しています。

その年間読書人さんの推測を以下に箇条書きしてみましょう。

(1)千葉雅也は、「他人の褌で相撲を取るようなことは、つまらなく窮屈
   で仕方ない。」と思っていた。(と、私(年間読書人さん)は推測す
   る。)
(2)千葉雅也は、「これまでも解説屋としてだが、それなりに自分の思想
   を語っていた本が評価さていたので、自分だけの力で本を書いても、
   読者は評価してくれるだろう。」と思った。(と、私(年間読書人さ
   ん)は推測する。)
(3)千葉雅也には、学問的な正確性が必要な学者の枠から、逃れ、自由に
   表現したいという強い願望があり、さらに、自分はその枠から逃れる
   ことが可能であるという意識もあった。(と、私(年間読書人さん)
   は推測する。)

これまでの現代思想の大哲学者の解説屋としての実績が、自由になりたいという強い願望がある千葉雅也の自己認識を誤らせ、世の中の人々の多くが自分の哲学の本を評価してくれるだろうと錯覚してしまった。そして、千葉雅也は『センスの哲学』を刊行してしまった。

というのが、年間読書人さんの考えです。

[セクション:前半]の内容のポイントは、以下の3点です。

(1)『センスの哲学』の世の中での受け入れのありよう。
(2)千葉雅也は何者であるのかということ。
(3)千葉雅也が『センスの哲学』を書き刊行した理由、その背景。

以上が[セクション:前半]の内容の概要です。

No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半]の内容について

[セクション:後半]の概要(注:わたしによる要約です。)

『センスの哲学』で語られていることは、自由になる方法であり、幸せになるために、本当の自分らしさが素直に表現できるようになろう、という話の本である。

しかし、世の中の多くの人々は、自由になるには、まず世間(他者)からの承認を得ることが必要であると思っている。つまり、世間(他者)から承認されることが、自由になるための前提条件であり、世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれない。と考えている。だから、世の中の多くの人々は、世間(他者)から賞賛を受け承認されたいという欲望を捨ててしまうと、自由になる道を閉ざしてしまうことになる、と考えている。世の中の多くの人々は「世間(他者)から承認されようが承認されまいが、そうしたことと無関係に、自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」とは考えてはいない。

『センスの哲学』の中で千葉雅也によって語られる〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。確かに、千葉雅也の考え方は「正しい」と私(年間読書人さん)も思う。私(年間読書人さん)自身、これまでその考えに従って行動してきた。しかし、その考えが「正しい」からと言っても、世の中の多くの人は、そうしたことは望んでいない。

つまり、世間(他者)からの承認がなければ、自由にはなれないと思っている世の中の多くの人々は、はじめからそうした〈良いセンス〉を求めてはいない。

従って、「〈良いセンス〉とは、世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものである。」という考えを大前提とした『センスの哲学』は、世の中の多くの人々が考えている「世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない。」という考えとは相容れない。つまり、「『センスの哲学』の大前提は間違いである。」と私(年間読書人さん)は考える。

『センスの哲学』は、千葉雅也が世間(他者)から承認を得た著名人であるからこそ言える内容だ。『センスの哲学』の内容は、「世間(他者)からの承認がなければ自由にはなれない。」と考えている、世間(他者)から承認を得ていない一般人には受け入れることはできない。『センスの哲学』は、「著名人がご高説を垂れているだけ。」と皮肉を言うしかない自己欺瞞的な内容の本である。

[セクション:後半]の内容の整理

[セクション:後半]の内容の整理するために、内容を7個の箇条書きにしてみました。

(1)年間読書人さんご自身は、「世間(他者)からの承認を得ることを求
   めないことで、人は自由になることができる。」という考え方は正し
   いと考え、実際に自分はそのように行ってきたと思っている。(と、
   私(年間読書人さん)は認識する。)

(2)世の中の多くの人々は世間(他者)からの承認がなければ、自由には
   なれない、と考えている。(と、私(年間読書人さん)は認識す
   る。)

(3)千葉雅也とは、「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」
   のひとりである。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

(4)千葉雅也自身は「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」
   のひとりであることを自覚している。(と、私(年間読書人さん)は
   認識する。)

(5)千葉雅也の小説の評価は、「世間(他者)からの承認を得て、自由に
   なった者」の特権的な立場から得られたものでしかない。純粋に小説
   そのものが評価された結果ではない。(と、私(年間読書人さん)は
   認識する。)

※千葉雅也さんの小説が文芸誌に掲載され、芥川賞の候補となったのは、千葉雅也さんが異業種有名人であり話題性があったからであると、年間読書人さんは「間違いなく」、「があったからに他ならない」、「というのは、わかりきった話なのである。」という表現を用いて決め付けるように強く断定しています。千葉雅也さんの小説の対する評価と処遇は、千葉雅也さんが世間(他者)からの承認があったからこそ得られたものであるというのが、年間読書人さんの認識です。([セクション:20]より)

(6)千葉雅也は『センスの哲学』の中で、「世間(他者)からの承認を得
   ることを求めないことで、人は自由になることができる。」と語って
   いる。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

(7)『センスの哲学』は「世間(他者)からの承認を得て、自由になった
   者」のひとりである千葉雅也の特権的な立場を千葉雅也自身が自覚し
   ていながら、棚上げした、自己矛盾を誤魔化し隠蔽した自己欺瞞的な
   内容の本である。(と、私(年間読書人さん)は認識する。)

[セクション:後半]の結論

つまり、年間読書人さんの認識の中では、『センスの哲学』は次のような本として結論付けられています。

千葉雅也とは、自分自身が「世間(他者)からの承認を得て、自由になった者」であり、その特権的立場を利用していながら、そのことを棚上げして、自分の著作である『センスの哲学』の中では、〈良いセンス〉とは世間(他者)から承認されることを求めないことで得られるものであり、それが自由へとつながる。と相反し矛盾する自己矛盾を平然と語っている者である。 千葉雅也の『センスの哲学』は自己欺瞞的な内容の本である。

No.7―1///、[セクション:1]の全文の引用、及び、要約

では、これから、具体的に33個のセクションの文章の全文を引用しつつ、わたしの要約を行ってみましょう。

(注)以下のわたしによる要約文の中で、「私」と記述されているのは「年間読書人さん」のことです。

〈前半〉

[セクション:前半]([セクション:A]〜[セクション:E])

[セクション:A]([セクション:1]〜[セクション:2])

[セクション:1]の引用

「「売れっ子」千葉雅也の本としては、売れない本になりそうな臭いがプンプンする。
なぜなら、本書は「哲学」と題しているけれど、いわゆる「学問としての哲学」ではなく、自身の興味があるテーマについて、哲学的知識を援用して「哲学して(考えて)みました」という内容の本であり、言うなれば「哲学的エッセイ」でしかないからだ。
したがって、「哲学」の権威をありがたがりたい「哲学オタク」たちには、少しも「ありがたくない本」なのだ。」

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:1]の要約文

(1)「『センスの哲学』は売れない本の予感がする。」と私は推測する。(2)「予感の理由は『センスの哲学』が哲学的エッセイでしかないから
   だ。」と私は判断する。
(3)「『センスの哲学』は哲学の権威をありがたがりたい哲学オタクに
   は、ありがたくない本だ。」と私は判断する。

No.7―2///、 [セクション:2]の全文の引用、及び、要約

[セクション:2]の引用

これまで千葉雅也が「売れっ子」であり得たのは、「主流の現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」人だったからであり、端的に言えば、そんなことを期待する読者は、千葉自身の「哲学」なんかには、あまり興味がない。
千葉の「哲学」が面白いというのは、あくまでもそれが「大思想家の哲学を、わかりやすく噛み砕いたもの」と理解されていたからであって、千葉の「オリジナル哲学」なんてものは「いらない」と、そう考えるのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:2]の要約文

(1)「千葉雅也が売れっ子である理由は現代思想(哲学)の優れた解説屋
   だからである。」と私は判断する。
(2)「千葉雅也のオリジナルの哲学には世の中の人は、興味がない。」と
   私は推測する。

No.7―3///、 [セクション:3]の全文の引用、及び、要約

[セクション:B]([セクション:3]〜[セクション:7])

[セクション:3]の引用

しかし、この程度のことは、千葉だって承知しているはずなのだが、ではどうして、今回は自分自身を前面に出してきたのかというと、それは無論、これまでの本が「売れた」から、自分というブランドだけでやれるんじゃないかと、そう考えたからである。
「有名哲学者」の権威を後ろ盾にしなくても、正直に、自分の考えていることをそのまま語るだけでも、それだけでも、もうそろそろ売れるんじゃないか、という見込みを持ったのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:3]の要約文

(1)「[セクション:2]は千葉自身も承知している。」と私は推測する。(2)「『センスの哲学』は有名哲学者の権威を後ろ盾にしなくても、自分
   というブランドだけで売れるのではないか、という千葉の見込みで書
   かれた本だ。」と私は推測する。

No.7―4///、 [セクション:4]の全文の引用、及び、要約

[セクション:4]の引用

そもそもどうして「有名哲学者の解説屋」であることから下りようとしているのかというと、それは無論、他人の褌で相撲を取るようなことは「つまらない」と思っていたし、なにしろ「学者」としては、「オリジナル」から大きく離れて「自由な解釈」をするわけにもいかないので、それは「窮屈で仕方ない」と感じるようになってきた、ということだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:4]の要約文

(1)「千葉が現代思想(哲学)の大/有名哲学者の解説屋をやめて、『セン
   スの哲学』を書いた理由は、他人の褌で相撲を取るようなことは、
   つまらなく窮屈で仕方ないと思っていたからだ。」と私は推測する。

No.7―5///、 [セクション:5]の全文の引用、及び、要約

[セクション:5]の引用

で、またもやそもそもの話なのだが、千葉としては、これまでの「大哲学者の解説本」でだって、「学者」としての基本線は守っていたとはいうものの、しかし「わかりやすく噛みくだいて書く」というのは、結局のところ「自分の解釈」を語るということであり、それは取りも直さず「自分の思想」を語るということでもあったからだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:5]の要約文

(1)「千葉は現代思想(哲学)の大/有名哲学者の解説屋として、これまで
   も自分の解釈、つまり、自分の思想を語っていた。」と私は認識す
   る。

No.7―6///、 [セクション:6]の全文の引用、及び、要約

[セクション:6]の引用

つまり、これまでだって、千葉は「大哲学者の解説本」の中で「自分の思想(世界観・世界理解)」を語ってきたのだし、読者の方も、それを「面白い」「わかりやすい」と歓迎してくれたのだから、そろそろ「大哲学者を扱っている」という「金看板」を下ろして、「自分のブランド」だけで、「自分の腕一本」で勝負しても、これまで支持してくれた読者であれば、喜んで支持してくれるのではないかと、そう考えたのであろう。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:6]の要約文

(1)「これまでも現代思想(哲学)の大哲学者の解説屋として自分の思想
   を語っていた、そして、読者が評価してくれた。だから、大哲学者の
   解説屋をやめて、自分だけの力で本を書いても読者は評価してくれる
   だろう、と千葉は考えた。」と私は推測する。

No.7―7///、 [セクション:7]の全文の引用、及び、要約

[セクション:7]の引用

一一だが、この考えは「甘い」と思う。私の言い方で言えば、「願望充足的な読み」である。「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」というような、思考の流れの結果にすぎないと思う。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:7]の要約文

(1)「[セクション:6]で示された千葉の考えは、「そうであったらいい
   な。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いな
   い」という考えの流れの結果である。」と私は判断する。

No.7―8///、[セクション:8]の全文の引用、及び、要約

[セクション:C]:[セクション:8〜9]

[セクション:8]の引用

しかしながら、これまで千葉の本をありがたがってきた読者の多くは、「ものの考え方」を学びたい人たちではなく、あくまでも「大哲学者の権威」を、ワッペンを貼りつけるように、お手軽かつ手っ取り早く(ファスト)に「身につけたい」と考えているような人たちだったのだから、そのワッペンの絵柄が、ドゥルーズなどの「外国の著名な哲学者」ではなく「日本人の千葉雅也」であっては、ダメなのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:8]の要約文

(1)「千葉の読者の多くは、大哲学者の権威を手っ取り早く身につけたい
   と考えている人たちだから、大哲学者ではない千葉の哲学の本を求め
   てはいない。」と私は推測する。

No.7―9///、 [セクション:9]の全文の引用、及び、要約

[セクション:9]の引用

肝心なのは、「哲学を会得する」ことではなく、哲学のことを「知っているぞと見せびらかす」ことなのだから、その見せびらかすものは、「一流のブランド品」でなければならない。
いくら、実用的にはそれで十分であり、むしろ「大哲学者の哲学」なんて、そう簡単には使いこなせないのだから、機能の限定された「千葉雅也」の方が、むしろ「機能的で、使い勝手が良い」のだが、「哲学オタク」たちが欲しいのは、自分の能力では使いこなせないほどの「多機能かつ贅沢な高級品」という「分不相応なもの」なのである。
要は、その高度な多機能が使いこなせなくたって、かまわないのだ。大切なのは、見せびらかすための「ブランド」なのだから、それが「千葉雅也」では物足りない。「大ブランドの代用品」にはならないのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:9]の要約文

(1)「哲学オタクが求めているのは、哲学を理解し自分のものにすること
   ではなく、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである」
   と私は認識する。
(2)「従って、大ブランドではない千葉雅也の哲学を、哲学オタクは求め
   てはいない。」と私は推測する。

No.7―10// [セクション:10]の全文の引用、及び、要約

[セクション:D]:[セクション:10〜13]

[セクション:10]の引用

で、これくらいのことは、千葉だって、薄々は感じているはずである。ならば、どうして「大哲学者の金看板」を下ろそうなどとするのかというと、それは「大哲学者の金看板」は、千葉にとっては、もはや世間を渡るための「便利な道具」であるよりも、「重い枷」だと感じられてきたからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:10]の要約文

(1)「[セクション:9]の内容は千葉も理解しているだろう。しかし、それ
   でも大哲学者の解説屋をやめるのは、それが、千葉にとって世間を渡
   るための便利な道具であるよりも、重い枷に感じられてきたからであ
   る。」と私は推測する。

No.7―11// [セクション:11]の全文の引用、及び、要約

[セクション:11]の引用

本当は「もっと自由に、自分を表現したい」のだが、「大哲学者の金看板」を掲げている以上は、「学者」として「適当なこと」はできない。
例えば、小説家の筒井康隆が有名哲学者の理論を「不正確に紹介」したとしても、「小説家だから、まあ仕方がないな」と思ってもらえる。間違いを指摘されるにしても、所詮は「門外漢の素人」がやることだから、大きな問題にならない。同様に、私が「適当に」デリダを援用して、それが大いにトンチンカンなものであったとしても、多くの人は「要は、彼はこう言いたいんだな。カッコをつけて、デリダなんか持ち出さなきゃいいのに(笑)」と、それで済むのである。

ところが、ジル・ドゥルーズの「研究者」である千葉としては、そういう「いい加減なこと」はできない。「適当に援用する」などといったことはできないのだ。そんなことをして、他の研究者から、その間違いを指摘されでもしたら、赤っ恥をかくだけでは済まず、「学者」としての信用を傷つけてしまい、自分のブランド価値を下げてしまうからである。
「あいつ、わかったようなこと言っているけど、かなりいい加減だぞ。ドゥルーズの名を借りて、自分の言いたいことを書いているだけみたいだから」となってしまったら、信用をなくした彼の本は売れなくなってしまうし、おのずと、タレントとしての価値も下がるからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:11]の要約文

(1)「千葉は、本当は自由に自分を表現したいと思っている。」私は推測
   する。
(2)「しかし、大哲学者の解説屋を哲学の研究者として行っていては、そ
   れはできない。」と私は認識する。

No.7―12// [セクション:12]の全文の引用、及び、要約

[セクション:12]の引用

したがって、「大哲学者の金看板」を掲げたままで、「自由になる」ことはできない。「身軽になること」はできないから、その「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。
だから「早く、そんな身分になりたいものだ」という気持ちが千葉にはあって、問題は、その時期判断の適否なのだが、私は、今回の千葉の判断を、時期尚早の拙速だったと思う。だから「売れないだろう」と言うのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:12]の要約文

(1)「「大哲学者の解説屋をやめて自由になるには、自分自身がブランド
   になっていなければならない。」と千葉は考えた。」と私は推測する
(2)「千葉は早く自由な身分になりたいために、自分自身をブランド化す
   る方法として今回『センスの哲学』を刊行した。」と私は推測する。(3)「しかし、千葉の『センスの哲学』の刊行は時期尚早の拙速である」 
   と私は判断する。
(4)「『センスの哲学』は売れないだろう。」と私は推測する。

No.7―13// [セクション:13]の全文の引用、及び、要約

[セクション:13]の引用

では、どうして、千葉はその判断を誤ったのかというと、彼は、人並み以上に「自由」でありたい人なのだ。
「千葉雅也は、学者だから、彼の語ることは、学問的に正確である(でなければならない)」という「縛り」から、早く逃れたいという意識が、他の学者などよりもずっと強く、また「自分ならそれをやれる(かも)」という意識があったからこそ、そんな「希望的観測」に流されて、拙速にも今回は「大哲学者の金看板」を下ろしての、「自分ブランド」での勝負にうって出たのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:13]の要約文

(1)「千葉の『センスの哲学』の刊行という判断の誤りは、彼が強く自由
   を求めていたことに起因する。千葉には学問的な正確性が必要な学者
   の枠から、逃れたいという意識が強くあった。さらに、千葉には自分
   はその枠から逃れることが可能であるという意識もあった。その結
   果、拙速にも、千葉は大哲学者の解説屋をやめて自分のブランドとし
   て『センスの哲学』を刊行した。」と私は推測する。

No.7―14// [セクション:14]の全文の引用、及び、要約

[セクション:E]:[セクション:14]

[セクション:14]の引用

だが、「それほど世間は甘くないよ」と私は思うのだ。
「後ろ盾がいない、裸の千葉雅也になど興味はない」と、つれなく去っていく読者の方が多いと、私はそう見ているのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:14]の要約文

(1)「それほど世間は甘くない。大哲学者の後ろ盾がない裸の千葉雅也に
   は興味がない読者の方が多い。」と私は推測する。

〇〇〇

〈後半〉

No.7―15// [セクション:15]の全文の引用、及び、要約

[セクション:後半]([セクション:E]〜[セクション:Q])

[セクション:E] [セクション:15〜17]

[セクション:15]の引用

千葉雅也が本書で書いているのは、「センスの良い生き方をするためのセンスを身につける方法」といったようなものだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:15]の要約文

(1)「『センスの哲学』はセンスの良い生き方をするためのセンスを身に
   つける方法について書かれた本である。」と私は判断する。

No.7―16// [セクション:16]の全文の引用、及び、要約

では、ここで言われている「センス」とは何かというと、大雑把に言えば「物の本質を、直観的に捉える能力」ということになるだろう。
言い換えれば、そうした「センス」を身につけるためには、いちいち「見かけ(見せかけ)」に捉われていたのではいけないのだ。それでは、いつまで経っても、「見かけ(見せかけ)」に振り回されてしまい、物の「本質」を直観することなんかできないからである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:16]の要約文

(1)「『センスの哲学』の中で書かれている「センス」とは「物の本質を
   直観的に捉える能力」である。」と私は判断する。

No.7―17//[セクション:17]の全文の引用、及び、要約

[セクション:17]の引用

だから、本書で語られる「センスを身につける方法」とは、言うなれば「自由になる方法」なのである。
人を縛るあらゆるものから、ひとつひとつ自分を解放していくならば、本当の自分らしさが素直に表現できるようになるし、その方が、その人にとっても幸せなはずだから、「そうなろうよ」という話。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:17]の要約文

(1)「『センスの哲学』の中で書かれている「センスを身につける方法」
   とは自由になる方法である。」と私は認識する。
(2)「『センスの哲学』は、幸せになるために、人を縛るあらゆるものか
   ら、ひとつひとつ自分を解放して、本当の自分らしさが素直に表現で
   きるようになろうという話の本である。」と私は認識する。

No.7―18// [セクション:18]の全文の引用、及び、要約

[セクション:F] [セクション:18]

[セクション:18]の引用

これは、千葉が、もともとは「美術」創作に進もうとしていた人で、本来は、厳密さが求められる「学者」向きの人間ではないと、自分のことをそう考えているからだ。
また、近年その意識が強まってきたからこそ、芥川賞候補にもなったように「小説」を書いたり、「音楽」をやったり、もともとやっていた「美術」創作なども再開したのである。
そして、こっちこそが「自分本来の姿であり、だから楽しい」と思っているから、できるかぎり「学者」的な縛りから解放されようとして、今回ついに「大哲学者の金看板」を下ろしてみたのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:18]の要約文

(1)「千葉自身が自分は学者向きではなく、芸術家が自分本来の姿である
   と思っている。」と私は推測する。
(2)「『センスの哲学』には千葉の学者としての不自由から自由になり、
   自分本来の姿である芸術家として活動したいという思いが表現されて
   いる。」と私は推測している。

No.7―19// [セクション:19]の全文の引用、及び、要約

[セクション:H]:[セクション:19]

[セクション:19]の引用

しかしながら、こんなことが気安くできるのは、千葉がある程度は「自己実現」した人だからに他ならない。
つまり、「売れっ子」になったから、権威の後ろ盾がなくても「一人でやっていけそう」だと感じたのであり、それで、自身を解き放つ決断ができたのだ。
言い換えれば、そうした「自信」をいまだ持っていない人にむかって「自由になろうよ。楽しくなるよ。その方法を教えてあげる」と言っても、大半は振り向いてくれないだろう、という話なのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:19]の要約文

(1)「千葉が自分の哲学を書いた『センスの哲学』を刊行することができ
   たのは、千葉が世間(他者)から承認を受けた売れっ子であり自己実
   現した人だからである。千葉は権威の後ろ盾がなくても自分ひとりで
   表現が可能と思い、自身を解き放つ決断ができたからだ。」と私は判
   断する。
(2)「まだ自己実現していない人に向かって「自由になろうよ。楽しくな
   るよ。その方法を教えてあげる」と言っても相手にはされない。」と
   私は推測する。

No.7―20//[セクション:20]の全文の引用、及び、要約

[セクション:I]:[セクション:20]

[セクション:20]の引用

例えば、千葉雅也の「小説」が、芥川賞の候補作になったのは、間違いなく、千葉が「売れっ子」の「作家」の一人だと、出版関係者からも認知されていたからだ。
そもそも、彼の小説が文芸誌に掲載されたのは、彼が「異業種有名人」だったからで、その意味では、芸人である又吉直樹と同じような「話題性」があったからに他ならない。千葉が無名の小説家志望者だったら、彼の作品が文芸誌に載ることもなければ、芥川賞の候補になることもなかったというのは、わかりきった話なのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:20]の要約文

(1)「千葉の小説が芥川賞の候補作になった理由は、彼が売れっ子作家で
   あると出版関係者から認知されていたからだ。」と私は推測する。
(2)「千葉の小説が文芸誌に掲載されたのは、彼が異業種有名人であり、
   話題性があったからである。」と私は推測する。
(3)「仮に、千葉が無名の人であれば、彼の作品が文芸誌に載ることも、
   芥川賞の候補になることもなかった。」と私は推測する。

No.7―21// [セクション:21]の全文の引用、及び、要約

[セクション:J]:[セクション:21]

[セクション:21]の引用

つまり、著名人である千葉雅也なら、本業の「哲学研究」ではなくても、それなりに注目もされ、評価もしてもらえるから、その点で、その「趣味」に満足することもできるし、「本業」のような「重さ」もないから、「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきたい」という気持ちも、それは理解はできる。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:21]の要約文

(1)「千葉雅也は著名人だから、本業の哲学研究以外でも、それなりに評
   価もしてもらえる。」と私は推測する。
(2)「千葉は本業の哲学研究以外の小説などを趣味として満足することが
   できる。「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきたい」
   という気持ちが千葉にはある。」と私は推測する。
(3)「千葉のそうした気持ちは私(年間読書人さん)にも理解できる。」
   と私は認識する。

No.7―22// [セクション:22]の全文の引用、及び、要約

[セクション:K]:[セクション:22〜23]

[セクション:22]の引用

しかし、そういう「特権的立場」の保証されていない一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
一一で、そんな人たちに対して、「ウケなくても良いじゃない。イイねなんか気にしてたら、窮屈なだけだよ」と言っても、それは無理な話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:22]の要約文

(1)「しかし、そうした著名人の特権的立場を持っていない一般人たちに
   「世間(他者)から評価されたいという欲望から自由になって、自分
   らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理な話である。」と私
   は認識する。
(2)「世の中のほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽って
   でも「ウケ」を狙ってしまう。」と私は認識する。

No.7―23// [セクション:23]の全文の引用、及び、要約

[セクション:23]の引用

そうした一般人もまた、千葉と同様に「まず世間からの承認を得たのちに、自由にやりたい」のである。
つまり「世間の承認」という「縛り」は、自ら望む「前提条件」であって、それを諦めることで得られるような「良いセンス」なんて、初手から求めてはいないのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:23]の要約文

(1)「ほとんどの一般人は、千葉と同様に「まず世間(他者)からの承認
   を得た後で、自由にやりたい」のである。」と私は推測する。
(2)「ほとんどの一般人は、世間(他者)から承認されることが、自由に
   なるための前提条件である、と考えている。」と私は推測する。
(3)「ほとんどの一般人は、世間(他者)から承認されることを諦めるこ
   とで得られる、良いセンスというものを、はじめから求めてはいな
   い。」と私は推測する。

No.7―24// [セクション:24]の全文の引用、及び、要約

[セクション:L]:[セクション:24]

『 上手い/下手から、ヘタウマへ

「上手い絵」とは何か。対象をそっくりに描くことが、基本的な意味での「上手い」だと思います。多くの人がそういうふうに「上手い」を捉えている。写真に撮ったように描く、あるいはアニメキャラを、コピーしたようにそのまま描ける。
 ところがその一方で、多くの人は、写真のようなものだけが「上手い」だとは思っていません。大変人気があるモネやゴッホの絵は、風景や物をリアルに描こうとはしているけれど、写真のようではなく、個性的な味があります。モネの絵は散らばったタッチでできており、物の形がはっきりしない場合も多い。ゴッホが描く形態には、すぐゴッホだとわかる個性的な歪みがありますが、そこにはエネルギーが満ち満ちているように見えます。
 いずれにせよ写真的正確さからはズレていて、そのズレが味であり、そのズレがユーモラスだと、いわゆる「ヘタウマ」になります。その代表はピカソでしょう(ピカソには写実的な絵を描いていた時期もありますが)。さらに「ヘタウマ」を強めていくと、素人がうろ覚えで描いた間違ったアニメキャラがSNSで話題になったりすることもあります。
 重要なのは、この「ヘタウマ」なんですね。
 しかし、写真的な再現性が「上手い」という価値観は、世間ではとても強いわけです。何かモデルをよく写している、というわけです。本物そっくりで、つい触ろうと手を伸ばしてしまう「だまし絵」のようなものですね。
 さてその場合、「下手」とはどういうことか。下手とは、モデルを再現しようとして不十分にしかできないことだ、ということになります。その場合、再現が主であり、そこからのズレに個性が出るといえば出るのだが、そのズレは再現に対して否定的なミスとしてしか存在していない状態になります。つまり本当ならそっくりに描きたいのだが、そっくりに描けないという形でしか個性が存在していない。これが「下手」だということになります。この「下手」と「ヘタウマ」は異なります。
 僕なりに定義してみます。「ヘタウマ」とは、再現がメインではなく、自分自身の線の運動が先にある場合です。しかし再現性がないわけではない。線の運動がメインであり、そこに再現性も含まれる形になっている場合です。つまり、モデルを目指してできないのではなく、自由な運動のなかで何かを捉えるときに、その個性はヘタウマだと言われるのだと思います。
 そうだとすると、これは極論ですが、すべて芸術と呼ばれるものはヘタウマの方に入る、と言っても過言ではないでしょう。モネでもゴッホでも、言ってみればすべてヘタウマなわけです。

  センスが無自覚な部屋

 ここで、部屋のインテリア、家具選びについて考えてみます。芸術から生活に移ります。「センスが無自覚な部屋」というものがあるとすれば、それは、下手な絵に対応するものです。
先ほどの考え方を応用しましょう。
 「センスが無自覚な部屋」とは、理想的なモデルを設定していて、「そういう部屋になったらいいなあ」という再現がメインであり、だがそれが上手くできなくて、無自覚なズレが起き、つまり下手になってしまっている。さらに言えば、そのズレが、その人の存在感をゴロッと無自覚に表している。
 たとえば、ヨーロッパ風の高級感のある部屋を目指していて、古そうな感じの装飾があり、アンティーク風なんだけれど本物のアンティークではないテーブルとか、シャンデリアっぽい照明とか、中途半端なアイテムを集めてそれっぽくしようとすると、かえって本物ではないことが目立ってしまう。そのときに、妙に感じられるのは、高級感を目指しているというより、そこに染み出してしまっている生活感ではないかと思います。』(P37〜40)

『センスの哲学』千葉雅也/第1章「センスとは何か」/P37〜P40

[セクション:24]の引用

千葉は、「センスのあるなし」について、次のようにわかりやすい例を紹介している。

※上記、『センスの哲学』千葉雅也/第1章センスとは何か/P37〜P40の引用

つまり、「センスが悪い」とは「理想のモデル」に近づこうとして「中途半端に真似るに止まったパチモン(偽物)」というようなもののことである。

これは私がよく馬鹿にしている「コピペレビュー」とか「内容要約屋による知ったかぶりレビュー」的なものだと言えるだろう。
こういうものを書く人というのは、自分は「一人前のレビューを書いている」とか「要約した思想家(作家)と同様のことを、自分は考え得ているからこそ、こうして書けている」と、そんなつもりなのだが、そんなものは所詮「下手な模写」に過ぎないので、その方面に暗い一般人には通用しても、専門家や「読める人」には通用しない。
そこには、「テストの模範解答」のような要約の巧みさはあっても、その人でなければ書けないものというが無いから、所詮は劣化コピーでしかなく、その意味で「つまらない文章」だということになる。
そして、そうした事実への「無自覚さ」が、ここで言う「センスが悪さ」なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:24]の要約文

(1)「『センスの哲学』で語られる「センスが悪い」とは、「理想のモデ
   ル」に近づこうとするパチモン(偽物)のことである。」と私は認識
   する。
(2)「これは、私(年間読書人さん)が馬鹿にしている、コピペレビュー
   などの、その人でなければ書けないものというのが無い文章のような
   ものである。そうした事実への無自覚さが、センスが悪さなのだ。」
   と私は認識する。

No.7―25// [セクション:25]の全文の引用、及び、要約

[セクション:M]:[セクション:25〜27]

[セクション:25]の引用

だからこそ千葉は、「そっくりそのままになれるほどの才能もないのに、それを目指したって、それは見苦しいだけのパチモン(偽物=下手な模写)にしかならないのだから、そんなことはさっさと諦め、そうした権威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ」と、大筋そのようなことを言っているのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:25]の要約文

(1)「千葉は、「パチモン(偽物)にしかならないのだから、そうした権
   威の縛りから自由になって、もっと自分らしさを目指すべきだ。」と
   言っている。」と私は認識する。

No.7―26// [セクション:26]の全文の引用、及び、要約

[セクション:26]の引用

「自信満々な模写」は、かえって、その無自覚ぶりが「イタい」けれど、「その人らしさが自然に出ているもの」なら、少々デッサンが狂っていようと、それも「味わい」の内になる、という、これはそういう話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:26]の要約文

(1)「その人らしさが自然に出ているものなら、デッサンが狂っていて
   も、それも味わいになるという話を、千葉は『センスの哲学』で語っ
   ている。」と私は認識する。

No.7―27// [セクション:27]の全文の引用、及び、要約

[セクション:27]の引用

ただ、「自分らしさ」と言っても、みんながみんな「表現するに値する自分らしさ」をあらかじめ持っているわけではないのだから、では、既成の「型(権威)」にとらわれずに、「本質的な美質」を身につけるのはどうしたら良いのか? 一一それを書いたのが、本書だと言えるだろう。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:27]の要約文

(1)「『センスの哲学』は、既成の型(権威)にとらわれずに、本質的な
   美質を身につけるには、どうしたら良いのか?という問いへの答えが
   書かれた本である」と私は認識する。

No.7―28//[セクション:28]の全文の引用、及び、要約

[セクション:N]:[セクション:28]

[セクション:28]の引用

そして、勘の良い人ならすでに気づいているだろうが、要は、これは、千葉自身が進みたい方向を正当化するための「議論」なのだ。そうなってしまっている。
「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と、そういうことである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:28]の要約文

(1)「『センスの哲学』は、千葉自身が進みたい方向を正当化するための
    議論である。」と私は判断する。
(2)「『センスの哲学』で語られる千葉の考えは、「大哲学者の解説屋な
   んかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽
   しいし、見苦しくもないよ」という千葉自身が進みたい方向を正当化
   するための議論である。」と私は認識する。

No.7―29// [セクション:29]の全文の引用、及び、要約

[セクション:O]:[セクション:29〜31]

[セクション:29]の引用

たしかに、この考え方は「正しい」とは思うし、私自身、その方向でやってきた人間でもある。一一けれども、それが「正しい」からと言っても、多くの人は、たぶんそんなことは望まないはずだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:29]の要約文

(1)「確かに、この考え方は正しいとは思う。」と私は判断する。
(2)「私自身(年間読書人さん)、その方向でやってきた人間である。」
   と私は認識する。
(3)「それが正しくても、世の中の多くの人は、そんなことは望まな
   い。」と私は推測する。

No.7―30// [セクション:30]の全文の引用、及び、要約

[セクション:30]の引用

多くの人は「そっくりな絵が描けるようになりたい」とか「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような、「自分自身(の個性)」とは縁もゆかりもないような「他者の欲望」を内面化して、およそそれを疑い得なくなっているのだから、「それはひとまず置いといて、まず自由になった方が、あなたが生かせるのだ」と言ったところで無駄なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:30]の要約文

(1)「世の中の多くの人は世間(他者)から賞賛を受け承認されたいとい
   う欲望がある。従って、そうした人に向けて「自分の欲望を一旦置い
   て、自由になった方が、あなたが生かせる。」と言っても無駄だ。」
   と私は認識する。

No.7―31// [セクション:31]の全文の引用、及び、要約

[セクション:31]の引用

「人が尊敬するような大哲学を語れるようになりたい」とか「芥川賞をとれるような小説を書きたい」とかいったような「大切な夢」を捨ててまで、「自分らしく楽しくやれれば、それでいい」などとは、ほとんどの人は思わないのである。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:31]の要約文

(1)「世の中の多くの人は世間(他者)から賞賛を受け承認されたいとい
   う欲望を捨てて、「自分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」と
   は思わない。」と私は認識する。

No.7―32// [セクション:32]の全文の引用、及び、要約

[セクション:P]:[セクション:32]

[セクション:32]の引用

したがって、本書においては、そうした「大前提」が間違っているので、その先の「センスを身につける具体的な方法」という「本論」は、読み物的に、参考にはなるだろうけれど、ほとんど実用には供しないものだと思う。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:32]の要約文

(1)「「世間(他者)から賞賛を受け承認されたいという欲望を捨て、自
   分らしく、楽しくやれれば、それでいい。」という考えを、世の中の
   多くの人々は持ってはいない。従って、その考えを大前提とした『セ
   ンスの哲学』は、間違っている。『センスの哲学』は参考にはなるか
   もしれないが、実用的な本ではない。」と私は判断する。

No.7―33//[セクション:33]の全文の引用、及び、要約

[セクション:Q]:[セクション:33]

[セクション:33]の引用

本書に書かれているのは、ある程度「社会的な承認」を得た著者であるからこそ口にできることであり、さほどの才能のない一般人からすれば、「お気楽なご高説」に過ぎないだろう。

「大丈夫だから、見る前に跳べ!」と言われても、「やっぱり、見ちゃうよね」という話なのだ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

[セクション:33]の要約文

(1)「『センスの哲学』で語られていることは、世間(他者)/社会から承
   認を得た著名人である千葉雅也であるからこそ言える内容でしかな
   い。世間(他者)/社会から承認を得ていない一般人からすれば、『セ
   ンスの哲学』で語られていることは「著名人がご高説を垂れてい
   る。」だけと皮肉を言うしかない内容である。」と私は判断する。

No.8//あとがき

以上が、わたしなりに把握した年間読書人さんの記事の内容です。細部の微妙な意味合いまでは、わたしには捕まえることができませんでしたが、年間読書人さんの記事で示された論理としては、それなりに把握することができたのではないかと思います。

(お願い)

しかし、これはあくまでもわたしの解釈です。わたしの中に内在する先入観や偏見によって歪められた誤った解釈が行われている部分もあるのかもしれません。また、わたしなりに確認はしていますが、単純な記述ミスもあるかと思います。この記事を読まれた方で、そうした点に気付かれた方がいらっしゃいましたら、よろしければ、本記事のコメント欄にコメントしていただけたら、幸いです。よろしくお願い致します。

(今後の展開)

さて、次回から、この結果をもとにして、年間読書人さんの記事に対する批判を行うことにします。

〈第3号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:前半の]への批判

〈第4号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対する、わたしの批判(本論):[セクション:後半の]への批判

〈第4号〉以後は、わたしの批判に対する年間読書人さんの反論にわたしが応答する記事となる予定です。

以上です。

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