〈第13号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第9回目)〉への応答/反論
まえがき
今回のわたしの反論は、主に、5件の事柄、 〈第一〉として、「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」の件、〈第二〉として、「わたしの、年間読書人さんへの〈疑問と失望と怒り〉、あるいは、年間読書人さんは、わたしを〈偽り、騙し〉続けている。」の件、〈第三〉として、「年間読書人さんは、〈他人の気持ち〉が、解らないということ、あるいは、〈文学/芸術〉を理解する基本的な能力が、欠落している。」についての件、〈第四〉として、「論戦に於いて、わたしと年間読書人さんは、対等のポジションである、及び、わたしは、年間読書人さんの顔色を伺い、媚びを売る、つもりはない。」という件、〈第五〉として、「まちがいなく、年間読書人さんは、〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」という、件です。
※、よほど、前回のわたしの反論が応えたのでしょう。現実を突きつけられ大ショックを受けて茫然とされ、いつにもまして、反論と言えるような論理の欠けた、泣き言ばかりの、空疎な内容の、年間読書人さんの返信でした。
「誹謗」とか「罵倒」とか「悪口」とか、の泣き言を相手にするつもりは、わたしにはありません。反論を行うためには、反論の論理を組み立てる必要があります。しかし、論理力の貧弱な年間読書人さんは、プライド/面子を保ったまま、それを、誤魔化すために、一番お手軽な方法として、「罵倒された」と、泣き言を言って、逃げることしか出来ません。都合の悪いことは、キャンセルするという、いつもの、使い慣れている、卑劣な常套手段です。
※、さらに、
それに、それどころか今回のスロウ・ボートさんのご説明によると、スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく、私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だったと、おっしゃる。
つまり、私を「ハメる」つもりだったということです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
>「今回のスロウ・ボートさんのご説明によると、スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく・・・私を「ハメる」つもりだった」と、意味不明な支離滅裂な、奇怪なことを、平然と口にされています。
「年間読書人さんは、まちがいなく、〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」、とわたしは判断せざるを得ません。「もしかしら・・・なのかもしれない」のではありません。「まちがいなく」、です。
※、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉とは、「わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行される〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉」であり、「無数の発生し得る可能性のある想像の事象/レイヤーのひとつの記録」であり、「21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片/部分の、描写の記録」でもあります。
今現在、「無数の発生し得る可能性のある、あらかじめ、わたしによって、想像されていた、複数の事象/レイヤーのひとつの記録/ログ」として、「21世紀(2024/2025)の日本の風景の断片/部分の描写の記録/ログ」として、
わたしは、現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残すためにです。
が、実行されている最中、です。
〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿は、わたしがあらかじめ想像した、無数の発生し得る状況/事象の中の、「最悪のケース」のひとつです。しかし、いかなるものであれ、〈Operation William Blake Leviathan/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/〉の実行者の「責務」として、事の成り行きと顛末を、記録し、公開し、ログとして、残さなければなりません。
(※※★★★※※)
※noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方へ
従って、残念ながら、〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦〉は、実際には、行われていません。「論戦を期待し、論戦の様子を知りたい」と思い、この記事にアクセスされた方々には、大変、申し訳ありません。
この記事の内容は、「わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行される〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉」ではありません。以下に書かれてあるのは、「いかにして、〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦〉は行われなかったのか?その成り行きと顛末」を、「無数の発生し得る可能性のある、あらかじめ想像されていた、複数の事象/レイヤーのひとつの記録」として、ログのかたちで、残したものです。
No.1//「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」の、件
(※※★★★※※)
※年間読書人さん、及び、noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方へ
年間読書人さんは〈論点ずらし〉を延々と行い、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から、〈逃げ回るという行為〉を継続しています。
「年間読書人さんが、わたしと、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦を行う意思が、全く、無い。」ことは十分過ぎるくらい明らかである、とわたしは考えています。
※、わたしとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦が、年間読書人さんには、それほど、〈怖い〉ということなのでしょう。
しかし、わたしは、一方的に強引に、年間読書人さんに論戦を仕掛けたわけではありません。相応の礼節をもってして、わたしの考えを伝え、年間読書人さんに論戦を申し込み、年間読書人さんの「了解」をいただいた上で、この論戦(実際には、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」は実行されていません。)をスタートさせました。
今回、この〈No.1のパート〉では、「論戦」のスター時のわたしと年間読書人さんとのコメントのやり取りなどを紹介しながら、「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」ということを明確にしたい、と思います。
さらに、「わたしと年間読書人さんとの間で、議論の進め方について、具体的な詳細な話し合いが行われ、その結果、双方の合意に基づいて、議論が進行されている。」ことも、明確にしたい、と思います。
(1)アカウント:〈スロウ・ボート〉の成り立ち
***以下、わたしの記事:第1号の冒頭より再録***
わたしはnoteに於いて〈歩く水のような人の形をしたもの〉という名前のアカウントを持ち、そこに自分で書いた記事を投稿し、掲載しています。
年間読書人さんのこの記事への批判を〈歩く水のような人の形をしたもの〉のアカウントで記事として掲載するという方法もあります。しかし、今回の記事は、わたしが行う他の方のnoteの記事への批判です。わたしのnoteに掲載してきたこれまで他の記事とは異質なものとなります。さらに、わたしの批判に対する年間読書人さんからの反論もあると思います。それに対して、わたしは新たな記事を作成して投稿し応答したいと考えています。そうしたことを総合的に勘案した結果、論戦の場として、専用の新しいアカウントを設置し、その場で、わたしの批判を記事として掲載する方法を用いるのが、最もよい方法ではないか、という結論に至りました。
***以上、わたしの記事:第1号の冒頭より再録***
上記にリンクした第1号の記事に、わたしが、なぜ、年間読書人さんと、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」を行おうと考えたのか、その経緯が詳細に具体的に書かれています。
この記事だけを読んでも、「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」ことは、誰にでも理解していただける、のではないか、とわたしは考えています。
(2)新しいアカウント:〈スロウ・ボート〉の開設と同時に、公開された、「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューに対する、わたしの批判」
※、さらに、
下記に紹介しますが、わたしはアカウント:〈スロウ・ボート〉の開設と、同時に、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューに対する、わたしの批判を記事として、公開しています。
わたしの記事は、わたしの批評/思考を表現するために作り出された、わたしの文体/スタイルで書かれた、文字数が数万の長文です。当然のことですが、良くも悪くも、誰でもが簡単に読み通せるものではありません。しかし、誰であれ、議論/論戦の発端として、自身の文体/スタイルで、自分の批評を提示するしか方法はありません。後は、議論する者たちが、議論の中で、相互にテーマ/論点の抽出、練り直し、整理、を適宜行って行くことになります。
繰り返します。誰であれ、議論/論戦の発端として、誰かが、自身の文体/スタイルで、自分の批評を提示するしか方法はありません。どのような内容の議論であろうと、議論は、そこからしか、スタートすることは出来ません。
わたしは、わたしの文体/スタイルを他人に押し付けるつもりはありません。「わたしの文章の中で、他人に、読むこと、意味を理解することが難しい部分」があるのであれば、わたしはわたしなりに解説するつもりです。
しかし、そうした具体的な質問さえ、年間読書人さんからは、これまでに、何ひとつとして、一度も、ありません。
そして、わたしの記事:〈第11号〉に於いては、わたしの記事:〈第3号〉の「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(前半)への批判の、解題的なヴァージョンを、新たに作成し提示しています。その中で、わたしは、年間読書人さんのレビューの前半部分に於ける、テーマ/論点の再・整理と集約、各論点に対する検証も行っています。
しかし、年間読書人さんは、これらの論点についても、ほとんど、スルーされた挙句の果て、
※、年間読書人さんからの反論(9)(2025/5/5)に於いて、
そもそも、スロウ・ボートさんとの、このやりとりは、千葉雅也の『センスの哲学』に対する私の読解が間違っているというスロウ・ボートさんの批判的指摘から始まり、その点について「議論しましょう」と提案なさるので、私は「いいですよ。ご意見をお聞きください」と受けたのですが、結局のところ、スロウ・ボートさんの『センスの哲学』擁護論というか、私の読解の問題点批判というのは、いまだにハッキリしないままです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人さんは(上記の引用にあるように)未だに、「寝ぼけたこと」としか思えないことを、平然と書かれています。簡単に言い換えれば、「私は(年間読書人さん)は、あなた(スロウ・ボート)が書いた、私の読解の問題点批判を読む気はない。」にもかかわらず、それを隠して、>「私(年間読書人さん)の読解の問題点批判というのは、いまだにハッキリしないままです。」と、あたかも、「論点が明確ではないから、議論が出来ない」かのように、「あなた(スロウ・ボート)が、やるべきこと(論点の明確化)をやっていないから、議論が出来ない」かのように、悪びれる様子もなく、仰る。
※、年間読書人さんに「わたしの批判(が書かれた文章の意味)を読み取る、意思が、全く、無い」ことは明らかです。誰であれ、「読む意思の無い者」に、いかなる文章を提示したところで、無意味なことでしかありません
※、わたしは、年間読書人さんに論戦を申し込み、「了解」をいただいた上で、論戦を行っています。年間読書人さんには、〈人としての、誠実さ〉が欠落している、と言わざるを得ない、とわたしは思っています。
***以下、新しいアカウント:〈スロウ・ボート〉の開設と、同時に、公開された、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューに対する、わたしの批判の記事のリンク集***
1)「年間読書人さんの記事を読み解くために記事を、33のセクションに分割し、各セクションの文書を、わたしが要約する。」
2)年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(前半)への批判
※、尚、上記にリンクした、第3号(2024/12/26)の「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(前半)への批判」の解題的なヴァージョンとして、新たに書かれた記事(第11号:2025年4月5日)が以下のものです
3)年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(後半)への批判
(3)「わたしが、年間読書人さんへ、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦の申し込み」を行った際のnoteのコメント欄でのやり取りの記録/ログ
(※注:下記のコメントの画像は、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』 : 「見る前に跳べ」と言われても…。」のコメント欄に於けるコメントです。詳細をご覧になりたい方は、コメント欄をご覧下さい。)
以下に引用された、わたしと年間読書人さんとのコメントのやり取りを読んでいただけると、年間読書人さんが、わたしがアカウント:〈スロウ・ボート〉を開設した時点で公開した記事の第1号から第4号まで、とわたしの書いた『センスの哲学』の読書感想文であるnoteの記事を「一読」された上で、「論戦」がスタートしたことが、正確に示されています。(※尚、「一読」という言葉は、年間読書人さんのコメント(2024/12/27/12:23)から引用したものです。わたしの言葉ではありません。)
あくまでも「論戦」は、わたしがアカウント:〈スロウ・ボート〉を開設した時点で公開した記事を起点として、わたしと年間読書人さんの「了解」のもとで、スタートし、実施されています。
〈No.1〉 :2024年12月26日 21:36 ★:わたしの最初の年間読書人さんへのコンタクト、及び、わたしからの年間読書人さんへの論戦の申し込み

〈No.2〉 :2024年12月26日 21:50
★:わたしの最初のコンタクトと論戦の申し込みに対する、年間読書人さんからの、わたしへの最初の返信

〈No.3〉 :2024年12月26日 22:19
★:わたしの返信

〈No.4〉 :2024年12月27日 12:23〜12:24、12:40 ★:年間読書人さんからの4件の返信
※この返信の中で、年間読書人さんは、「時間の許す限り応答しようと考えました。」と、わたしの「論戦」の申し込みを、「了解しました」旨の返信をわたしに対してされています。




〈No.5〉 :2024年12月27日 21:16〜21:17〜21:19 ★:わたしの3件の返信



〈No.6〉 :2024年12月27日 21:30
★:年間読書人さんからの返信

〈No.7〉 :2024年12月27日 21:48 ★:わたしの返信
※、以上までのコメントのやり取りによって、暫定的なものでありながも、当面の「論戦」の仕方などが、わたしと年間読書人さんの間で協議され、互いに「合意」に至った、とわたしは認識しています。

〈No.8〉 :2024年12月27日 21:52 ★:年間読書人さんからの返信

〈No.9〉 :2024年12月27日 21:23、2025年1月12日 21:38 ★:年間読書人さんからの最初の反論(1)が行われた後の、わたしの返信、及び、年間読書人さんからの反論(1)に対する、わたしの応答の記事の第5号、の公開を伝える返信
※、少し、上記のコメントと時間が前後しますが、2024年12月27日の夜に年間読書人さんからの最初の反論(1)が行われ、わたしがその反論に対する応答を、第5号の記事として公開しました。これが「論戦」の実質的なスタートとなります。


※年間読書人さんからの、はじめての、反論(1)と、それに応答した、わたしの記事:〈第5号〉が、下記のものとなります。
以後の「論戦」の内容は、基本的には「公開されている各記事」を、順番にご覧になっていただければ、分かると思います。
※、そして、現在に至っています。
(4)しかし、「現実に、実際には、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」は、わたしと年間読書人さんとの間で行われていません。」という、件
但し、繰り返しますが、現実に、実際には、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」は、わたしと年間読書人さんとの間で行われていません。
「なぜ、年間読書人さんが、一旦、「了解」した論戦を頑なに避けているのか?」、本当の理由はわたしにはよく分かっていません。単純に「わたしから〈忌憚のない批判〉を受けて、反駁することが出来ず、気分が悪いから」という幼稚な子供のように駄々をこねている、だけなのかもしれません。あるいは、「論戦が怖い」のかもしれませんし、何かしらの「高尚な理由」があるのかもしれません。何れにしても、確定的な理由は、まだ、わたしには分かってはいません。
わたしは何度も『センスの哲学』の議論へと、話を切り替えようとしましたが、年間読書人さんによって延々と姑息な〈論点ずらし〉が行われ、「議論がキャンセル」されてしまいました。年間読書人さんは自分の書いた批評を他人から批判されても、自分の都合に合わせて、議論をキャンセルする人である、ということが明らかになっています。そんな人が「議論をしよう」と他人に呼び掛けても、(ほとんど)誰も相手にすることはないでしょう。
※、現時点で分かっていることは、(確定的な理由は、まだわたしには不明ですが)、「年間読書人さんが、わたしと、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦を行う意思が、全く、無い。」ということです。
(4)補足として、「論戦の進め方に於いて、「これではアンフェアである。」という年間読書人さんに訴えに応じて、変更された進め方が、今現在に於いても、実施されていない、あるいは、年間読書人さんの〈偽り/フェイク〉の疑い」の、件
議論がスタートした当初、年間読書人さんはご自身の反論を、noteのコメント欄を使用して書かれていました。コメントは文字数制限が500文字ですので、長文を書く場合、小分けして、書き込まなければなりません。
年間読書人さんがそうした不便さに対して「議論の非対象性」を指摘され、「自分の方にはハンディがある。これではフェアな議論は出来ない。」と、反論(3)に於いて、訴えられました。
わたしはその指摘に対応するために、わたしから、議論の進め方について、年間読書人さんに幾つかの提案を行いました。
話し合いの結果、「年間読書人さんが、反論をメールに書き、指定のメールアドレスに投稿する。」という方法が合意されました。
そのことが、わたしの記事:〈第8号〉の冒頭に記載され、「noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方」へと、周知されました。これは、今年(2025年)の2月22日のことです。
※下記の再録が、その周知の記述です。
***以上、わたしの記事:第8号(2025/2/22)の冒頭より再録***
はじめに// 今回を含めた、今後の議論の進め方について
★年間読書人さんとわたしの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る議論を、ご覧になられている、読者の皆様方へのお知らせ
前回のわたしの記事:〈第7号〉、及び、〈第7号〉への年間読書人さんの応答(第4回目)に於いて、今後の議論の進め方について、話し合いが行われました。結論として、今後は下記のような進め方で議論を継続することが決まりました。この方法によって「議論の非対称性」が解消されることになると、年間読書人さんとわたしは考えています。
年間読書人さんが、反論をメールに書き、指定のメールアドレスに投稿する。反論のメールを受信したわたしが、その内容を、これまでと同様に、「年間読書人さんの反論」の形にして本アカウントの記事として転載する。そして、わたしがそれに対して、本アカウントの記事で応答/反論する。
***以上、わたしの記事:第8号(2025/2/22)の冒頭より再録***
※、しかし、今年(2025年)の2月22日に公表された「年間読書人さんが、反論をメールに書き、指定のメールアドレスに投稿する。」という方法は、合意から2ヶ月以上経過した、今現在(2025年5月5日に公開の反論(9))でも、年間読書人さんに於いて、実施されていません。
今も尚、年間読書人さんは、ご自身の反論を、コメント欄に「20個近くの細切れにされたコメント」を連続的に投稿する形で、書かれています。現在、わたしが「その20個近くの細切れにされたコメント」をコピペして、接合して、noteの記事として公開している、という状態です。
年間読書人さんが、「反論を、500文字制限のあるコメントとして、細切れにして、投稿するのは、凄く手間がかかり、面倒で負担である。」「自分の方にはハンディがある。これではフェアな議論は出来ない。」と訴えられ、「議論の非対象性」を指摘されたことを受けて方法が変更された、にもかかわらず、です。
※、つまり、年間読書人さんの「反論を、500文字制限のあるコメントとして、細切れにして、投稿するのは、凄く手間がかかり面倒で負担である。」とか「自分の方にはハンディがある。これではフェアな議論は出来ない。」とか「議論の非対象性」とかの話は、今となっては、「偽り/フェイク」であった可能性が十分にあるのではないか、ということです。
「なぜ、そうしたことを、年間読書人さんが行っているのか?」、理由はわたしにはよく分かりません。単なる「嫌がらせ」のつもりなのかもしれませんが、あまりにも、子供じみていて、幼稚で、呆れるほかありません。
※、「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」、さらに、「わたしと年間読書人さんとの間で、議論の進め方について、具体的な詳細な話し合いが行われ、その結果に基づいて、議論が進行されている。」とわたしは認識し、年間読書人さんに相応の礼節をもってして、丁寧に対応している、と考えています。
※、しかし、年間読書人さんの、わたしに対する、振る舞いは、「不誠実そのもの」である、とわたしは考えています。
No.2//「わたしの、年間読書人さんへの〈疑問と失望と怒り〉、あるいは、年間読書人さんはわたしを〈偽り、騙し〉続けている。」の、件
(1)「わたしは、これまでに、年間読書人さんの反論に対して、個々に於いて、かなり丁寧に応答している。」という、件
わたしは、「わたしの見解/認識が、唯一の絶対的に正しい事柄である。」、とは考えていません。当然のことです。わたしの見解/認識は「わたしに於いては」と限定されたものです。但し、そこには、それなりの論理性が存在しています。もちろん、わたしによって組み立てられた論理性に、誤りがあることも、十分あり得ます。
だから、他者によるわたしの見解への批判に対しては、わたしなりに慎重に耳を傾けます。耳を閉ざすようなことはしないように、注意しています。そして、それは、「他者によるわたしの見解への批判」の文体/スタイルの「好き嫌い」を、一度、横へ置いておく、ことを意味しています。わたしにもわたしの〈好み〉があります。そうであるとしても、〈好み〉で他者の批判にフィルターをかけ選別することは、他者の批判を聴かないことと同じであり愚かの極みでしかありません。〈好み〉を理由にしてはいけません。
年間読書人さんの文章は、わたしに於いては、極めて、「読みにくい文章」です。その文章は、部分部分の意味は明解なのですが、複数の部分が全体として構成されると、忽ち、全体としての意味が茫漠として来ます。「細部の意味は鮮明なのに、全体としては、意味が不明である。」のが、年間読書人さんの文章の特徴です。つまり、全体を貫く論理を形成する論理力が欠落した文章です。結局、どのような角度から評価したとしても、わたしに於いては「年間読書人さんの文章は、何が言いたいのかよく分からない、論理性の欠けた、意味不明な支離滅裂な文章である。」ということになります。
でも、それは、それとして、年間読書人さんが必死になって一生懸命に書かれている言葉を等閑にするつもりはありません。書かれている言葉を、書かれているものとして、わたしなりに、意味を読み取ることを怠らないようにしています。〈好み〉を理由にして、拒絶することはありません。
※、しかし、的外れな、見当違いな、批判に対しては、躊躇することなく、断固として反論します。年間読書人さんの、わたしに対する批判のほとんど全てが、「的外れな、見当違いなもの」でしかありません。わたしはそのほとんど全てを、誤りである、として、精密に構築されたわたしの論理によって反撃し、ことごとく退けています。年間読書人さんの反論は、全て、為す術もなく、退けられてしまった、といったところでしょう。
***以下、年間読書人さんの、わたしの批判への反論と、わたしからの、年間読書人さんへの再・反論の記事のリンク集***
(※注:内容的には、部分的にオーバーラップしていますが、基本的には、反論と再・反論は、対になっています。)
1)わたしによる、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの要約文
の表現形式について
2)わたしによる、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの要約文
の表現形式について、などなど、(その2)
3)「年間読書人さんは〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれているのかもし
れない。」、及び、「年間読書人さんは自己矛盾/自己分裂している。」
という、わたしの認識について、(その1)
4)「年間読書人さんは〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれているのかもし
れない。」、「年間読書人さんは自己矛盾/自己分裂している。」とい
う、わたしの認識について、(その2)、及び、「わたしのnoteに於け
る「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」」の件、
(その1)、など
5)「わたしのnoteに於ける「「世の権威」に対して、媚びないで批判する
という実践」」の件、(その2)、及び、「わたしと北村紗衣さんの関
係性」(その1)について、など
6)「わたしと北村紗衣さんの関係性」(その2)、及び、わたしの記事:
第3号の「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(前半)へ
の批判」の解題的なヴァージョン
(2)年間読書人さんの話が、いつまでも、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から遊離していることへの、わたしの疑問
年間読書人さんの話が、いつまでも、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から遊離していることに、わたしは疑問に思いながらも、個々の批判に対して、わたしなりにかなり丁寧に応答してきました。
年間読書人さんの批判は、ほとんど、いつも、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューへのわたしの批判とは、直接的な関係がなく、矛先は「わたしそのもの」や「わたしの(年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューへのわたしの批判とは関係がない)見解」へ向けられたものばかりです。
※、「これは、一体、どういうことなのだろうか?」「いつになったら、『センスの哲学』を巡る論戦」が、始められるのだろうか?」と、わたしは疑問を抱かざるを得ませんでした。
(3)わたしの、幾つかの疑問の最中での、年間読書人さんによる、「わたしと北村紗衣さんの関係性」への、粘着的な言及
わたしは、そうした不可解さと疑問を抱えながらも、年間読書人さんの反論に丁寧に応えていました。その最中に、年間読書人さんからの反論(6)に於いて、「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及がなされました。
年間読書人さんによる、「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及は、「一言二言、少しだけ、簡単に」といったレベルではなく「極めて、執拗に粘着的に、確信的に」行われています。
例えば、スロウ・ボートさんは、私が批判している北村紗衣の、ネット連載エッセイ、
・【素面のダブリン市民】第11回 ショーン・オケイシー『銀杯』に出てくる「フットボール」とは?(北村紗衣)
https://note.com/kankanbou_e/n/n285db6b2726b
に、「別名義」の方で「スキ」を押しておられますが、これは「偶然」なのでしょうか?
スロウ・ボートさんは、私と議論をする前から、北村紗衣を知っていて、そのネットエッセイまでチェックし、わざわざそれに「スキ」を押すほど高く評価していたと、そうおっしゃるのでしょうか?
それとも、私の記事を見て、北村紗衣に興味を持ち、それで北村紗衣のネット記事まで読んで、さらに「スキ」まで押したのでしょうか?
普通に考えれば、後者だと思いますが、しかしそこまで私の書くもの、そして私の批判対象までチェックしている人なのなら、わざわざリンクを張って通知がいくようにしたもの方を、まともに読まないというのは、いかにもアンバランスであり、無理のある話なのではないでしょうか。
それとも、関係のあるものでも、読みたくないものは読まない(見たくないものは見ない=故意に無視する)、ということだったのでしょうか?
まあ、これも「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ない」と言い張ることはできるでしょう。
しかし、そんな無理な「自己申告」を、誰が信じるんでしょうね?
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人さんの「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及は、完全に、根拠の欠落した「あまりにも、酷い、言い掛かり」でしかありません。
>「まあ、これも「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ない」と言い張ることはできるでしょう。しかし、そんな無理な「自己申告」を、誰が信じるんでしょうね?」
控え目な言い方をしたとしても、年間読書人さんの話は、「根拠のない虚偽の情報を流布する」ことでしかありません。(その言及が完全な誤解であることは、以下の、わたしの記事:〈第10号〉で証明されています。)
さらに、わたしがそれは誤解であると指摘した後の、年間読書人さんのわたしへの「謝罪」が、自分の社会的な体裁を整えるだけの、形式的な「謝罪」でしかなく、あれこれの見苦しい言い訳には、心底、辟易させられました。
わたしの立場に立てば、誰であっても「憤る」のは当然のことであり、それは、人として、自然な感情/気持ちである、わたしは思います。わたしの「憤り」は何ら恥ずべきものではありません。人として、正当な感情の表れです
そして、なぜ、年間読書人さんの「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及が、全く関係の無い、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」の場で、行われなければならないのだろうか? という疑問。
※、わたしの年間読書人さんとのやり取りの中で生まれた、様々な疑問が、行き着く先に、わたしはひとつの認識/結論に辿り着きました。
(4)「年間読書人さんの「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及に至り、「年間読書人さんが、〈論点ずらし〉を行っていて、わたしと「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」を行う意思が、全く、無い。」ことが判明した。」という、件
※、年間読書人さんからの反論(6)に於ける「わたしと北村紗衣さんの関係性」への言及に至り「年間読書人さんは、延々と〈論点ずらし〉を行っていて、わたしと「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」を行う意思が、全く、無い。」ことが、わたしの認識に於いて、判明しました。
つまり、これまでの、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から遊離している年間読書人さんの反論の数々は、表向き、『センスの哲学』を巡る論戦の前哨戦的な議論の装いをした、論戦から逃げるための、〈論点ずらし〉でしかなかったということです。
そのことが、より、鮮明に表されているのが、年間読書人さんからの反論(8)です。年間読書人さんからの反論(7)の中で、「「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の論点を整理し、明らかにして下さい。」と、あたかも、論戦に向き合うかのようなオーダーを、わたしに要求していますが、それは単なる「偽り/フェイクのポーズ」でしかありませんでした。
わたしは、結果として、「偽り/フェイクのポーズ」でしかなかった、年間読書人さんからのわたしへのオーダーの言葉を、そのまま信じて、応じ、わたしの記事:〈第11号〉として、わたしの記事:第3号の「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの(前半)への批判」の解題的なヴァージョンを新たに作成し提示しました。
しかし、年間読書人さんは、年間読書人さんからの反論(8)に於いて、年間読書人さんからのオーダーに応えたわたしの記事を、ほとんどスルーし、最新の年間読書人さんからの反論(9)(2025/5/5)に於いて、>「私の読解の問題点批判というのは、いまだにハッキリしないままです。」と今も尚平然と書かれています。
何度も、同じことを、繰り返します。
※、「年間読書人さんに、『センスの哲学』のレビューへのわたしの批判(が書かれた文章の意味)を読み取る意思が、全く、無い。」ことは明らかです。
当然の帰結として、
※、「年間読書人さんが、わたしと、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦を行う意思が、全く、無い。」ことは十分過ぎるくらい明らかである
(5)年間読書人さんへの、わたしの、〈疑問と失望と怒り〉
わたしは、わたしなりに、慎重に年間読書人さんと公開往復書簡的なやり取りをスタートさせました。その後、幾つかの疑問が、わたしに生じ、疑問を抱きながらも、やり取りを継続して来ました。しかし、「年間読書人さんには、そもそも、わたしと論戦を行う意思など、全く、無い。」ことに、わたしは気が付くことになります。
わたしは、相応の礼節をもってして、論戦を申し込み、了解を得、論戦の進め方についても、十分な協議を行った上で、進めてきたつもりです。
しかし、それらは、年間読書人さんに於いては、内実の欠けた単なる「偽り/フェイクのポーズ」でしかなかった、ということです。
「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」そうした、わたしに於いて、
※、わたしの、年間読書人さんへの〈疑問〉は、〈失望〉へと変わり、やがて、それは、強い〈怒り〉となりました。
※、年間読書人さんは「とんだ、嘘つきの食わせ者であり、能書きをズラズラと並べるのが達者なだけの、偽物/パチモン」だった、ということです。
(6)わたしを偽り騙している、年間読書人さんへの、〈怒り〉
※、年間読書人さんには、「『センスの哲学』のレビューへのわたしの批判(が書かれた文章の意味)を読み取る意思が、全く、無い。」、及び「わたしと、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦を行う意思が、全く、無い。」、にもかかわらず、あたかも、そうした意思があるかのように見せ掛けるために、もっともらしい「偽り/フェイクのポーズ」をとり、わたしを「偽り、騙して」いるということです。
※、年間読書人さんの、わたしへの巧妙で卑劣な「欺き」に対して、わたしは強く「怒り」を抱いています。これもまた、わたしの立場に立てば、誰であっても「怒る」のは当然のことであり、それは、人として、自然な感情/気持ちである、わたしは思います。わたしの「怒り」は何ら恥ずべきものではありません。人として、正当な感情の表れである、とわたしは思います。
その「怒り」は、「わたしが、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、年間読書人さんと、真摯に行おうとしているのは、疑いのない事実である。」ことから生まれ出ているものです。わたしは、わたしの真摯な行為のために、わたしの貴重な時間を使っています。年間読書人さんへの「怒り」の強さは、わたしの論戦に対する真摯さの裏返しでもあります。
誰だって、真摯に向き合っている事柄について、人から、偽り騙されれば、強く「怒る」のは当然のことです。そうした意味に於いて、わたしは、今、〈感情的である〉ことは事実です。しかし、それは、人として、極、自然な真っ当な、ありようです。年間読書人さんから侮辱される理由はありません
No.3//「年間読書人さんは、〈他人の気持ち〉が、解らないということ、あるいは、〈文学/芸術〉を理解する基本的な能力が、欠落している。」について、の件
(1)「年間読書人さんは〈他人の気持ち〉が解らない。」ということ、の件
年間読書人さんは、ご自分が、わたしに対して、何を行っているのか、全くご理解されていない。また、わたしが、なぜ、「憤り」、「怒っている」のかも、全く、ご理解されていない。「わたしが、今〈感情的である〉こと」の理由を、全く、ご理解されていない。想像さえ、することが出来ない。
※、ようするに、「年間読書人さんは〈他人の気持ち/感情〉が解らない。」ということです。
※、信じ難いことですが、年間読書人さんは、全く、〈他人の気持ち/感情〉が解らない、さらに〈他人の気持ち/感情〉を解ろうという気持ちさえ、無い
(2)「〈文学/芸術〉を、人間の〈こころ/気持ち/感情のありよう〉を追求するものである、とするならば、年間読書人さんには〈文学/芸術〉を理解する能力が欠落している。」という、件
〈文学/芸術〉を、人間の〈こころ/気持ち/感情のありよう〉を追求するものである、とすれば、〈他人の気持ち/感情〉が解らない者が、〈文学/芸術〉を理解することなど不可能です。論理的な帰結として、そうなります。
世の中には、そうした、〈他人の気持ち/感情〉が解らない者たち、が多々います。特別に珍しいことではありません。さらに、そうした者たちに限って自分が、〈他人の気持ち/感情〉が解らない、ということに、気が付いていません。真逆に、あたかも、深く〈他人の気持ち/感情〉が解ると錯覚している者さえいます。年間読書人さんはその典型とも言えます。
時折り、年間読書人さんは、ご自身の記事の中で、そうした〈他人の気持ち/感情〉が解らない者たちに対して、「〈文学/芸術〉が解らない。」と非難されています。非難は、そっくり、そのまま、自己への嫌悪の表れ、です。年間読書人さんは、他人の中に、自己の醜悪な部分が存在していることを発見し、慄き、激しく反応してしまいます。鏡の中の醜い自分の姿を観たように
だから、年間読書人さんの〈文学/芸術〉の批評は、どれもステレオタイプの底の浅い薄っぺらいものでしかないのです。熱を帯びるのは、いつも〈自分語り〉の部分でしかありません。年間読書人さんの批評は、批評の形式をした〈自分語り〉でしかありません。もちろん、〈他人の気持ち/感情〉が解らない年間読書人さんが、そのことを知ることなど出来るはずもありません。何より大事なのは、自分のこと/自分の気持ち/自分の感情なのですから。
No.4//「論戦に於いて、わたしと年間読書人さんは、対等のポジションである、及び、 わたしは、年間読書人さんの顔色を伺い、媚びを売る、つもりはない。」という、件
(1)「論戦に於いて、わたしと年間読書人さんは、対等のポジションである。」という、件
何度も、同じことを繰り返しますが、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」は、わたしから年間読書人さんに申し込み、年間読書人さんの「了解」をいただいた上で、スタートしたものです。また、具体的な論戦の進め方についても、わたしと年間読書人さんとの間で、話し合いを行い、双方の合意に基づいた方法によって、実施されています。
確かに、わたしの方から、年間読書人さんに論戦を申し込みました。しかし一旦、論戦がスタートすれば、互いに、相手の見解を批判/批評し合うことになります。批判/批評し合う者として、「何方かが、何かしらの形で、優越的なポジションに位置し、そのことを以てして、相手に何かを指図すること」は、論戦をフェアなものにするためには、行ってはいけない、禁止されるべき事柄である、とわたしは認識しています。論戦そのものに於いて、「何方が、論戦を申し込んだ側であるのか」ということは、もはや、関係ない、とわたしは考えています。
よって、わたしは、「論戦に於いて、わたしと年間読書人さんは、対等のポジションである。」とし、それを侵害する事柄を受け入れることを拒否しています。そうしなければ、論戦がアンフェアになってしまうからです。
論戦の於いて、当然のことである、とわたしは考えます。
(2)「わたしは、年間読書人さんの顔色を伺い、媚びを売る、つもりはない。」という、件
わたしは、年間読書人さんに対して、相応の礼節をもってして、様々なことに応じています。自分で言うことではありませんが、「かなり丁寧に対応している」と、わたしは思っています。
しかし、だからといって、わたしは、「年間読書人さんの顔色を伺い、媚びを売る。」つもりは一切ありません。年間読書人さんのご機嫌をとるために言葉を選ぶつもりもありません。結果として、「辛辣で、挑発的な物言い」になったとしても、です。
なぜなら、論戦を行う相手に対して、「顔色を伺い、媚びを売る。」とは、「相手に現実を見失わせ、相手を欺くこと」、だからです。わたしは論戦をする相手として、年間読書人さんに対して、一定の敬意を持って接しています。わたしは年間読書人さんを「厳しく批判する」ことはあっても、欺くつもりはありませんし、これまでに、一度も、欺いたことはありません。またこれもまた、当然のことですが、嘘をついたことも、一度も、ありません。
時々、noteを含むSNSの中で、(匿名の捨てアカウントを用いて)「(心酔したふりをして)、顔色を伺い、媚びを売り、すり寄っている」としか思えない、不気味なコメント、に出会うことがあります。彼ら、彼女ら、あるいは、彼ら、彼女らという呼び名では呼び得ない者たち、が目論むことは、「すり寄った相手を、自分のために道具として利用し、消費し尽くすこと」です。さらに「犬笛を吹いて、徒党を組むことを唆し」、すり寄った相手を自分のために、最大限に利用しよう、と企てます。
そんな「すり寄った相手を、自分のために、道具として利用し消費する」者たちの気色の悪い甘言に簡単に騙されるほど、年間読書人さんは愚かではない、とわたしは思っています。
だからこそ、わたしは甘言ではなく、「忌憚のない〈批判〉」で、年間読書人さんに応じているのです。論戦は、互いに、それぞれの「(信じている)認識を批判し合うことです。場合によっては、相手の信じていることを根底から否定し、存在の基盤を揺るがすことにもなります。決して、論戦は「心地よい」ものではありません。「真摯に論じ合う」とは、そうしたものでしかあり得ません。仮に、そのことで「わたしが、年間読書人さんから激しく嫌われてしまうことになる。」としてもです。それが「論戦を行う相手に対する、本当の礼節である。」とわたしは考えています。
※、しかし、年間読書人さんは、そのことを、全く、ご理解されていない、とわたしには思われます。
わたしの礼節に基づいた「忌憚のない〈批判〉」が、年間読書人さんの中で、「誹謗」とか「罵倒」とか「悪口」に変化し、すり替えられてしまいます。まさか、とは思いますが、年間読書人さんは「「忌憚のない〈批判〉」を行うことが許される者は、特権的な存在である、自分だけである。」とでも、思われているのでしょうか?それとも、「自分だけが、他人に向けて「忌憚のない〈批判〉」を行うことが許されているが、他人が自分に向けて「忌憚のない〈批判〉」を行うことが許されない。」とでも、思われているのでしょうか?
年間読書人さんは、他人から「忌憚のない〈批判〉」をされてしまうと、「頭の中が、沸騰し、混乱してしまい、喚き散らす」ことしか出来なくなってしまうようです。年間読書人さんは唯でさえ論理力が貧弱なのですから、興奮してしまうと尚更、意味不明な支離滅裂な言葉を書き連ねることしか出来なくなってしまいます。「忌憚のない〈批判〉」を他人から受けた時の、年間読書人さんの「慌てふためき狼狽する様」には、驚くしかありません。
年間読書人さんの振る舞いを観ていると、これまで、互いの意見/コメントの交換、「誹謗」とか「罵倒」とか「悪口」の応酬/言い合い、「批判的な言葉を互いに掛け合う、口喧嘩(の延長のようなもの)」の経験は多々あれど、礼節に基づいた「忌憚のない〈批判〉」による、文字数の大きい、(何かしらの論理が組み立てられた)、長文による、容赦のない、論理と論理の戦いである「論戦」の実戦の経験が、(ほとんど)無いように見受けられます。
あまりにも、年間読書人さんは、打たれ、弱い。
弱すぎる。
弱い者ほど、よく、吼える、ということです。
「誹謗」とか「罵倒」とか「悪口」とか、の泣き言を相手にするつもりは、わたしにはありません。反論を行うためには、反論の論理を組み立てる必要があります。その論理を組む論理力が年間読書人さんに於いて、貧弱であることは、十分に分かります。論理力の貧弱さを誤魔化すための、一番お手軽な方法として、「罵倒された」と泣き言をいいたい、気持ちは分からないでもありません。プライド/面子を保ったまま、逃げることが可能だからです。しかし、「誹謗」とか「罵倒」とか「悪口」とか、の泣き言を言って、逃げているばかりでは、いつまでたっても、本当の〈論争家〉になることは出来ません。
現実から目を背けることなく、今一度、ご自身の姿を内省してみて下さい。
No.5//「まちがいなく、年間読書人さんは、〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」という、件
(1)〈Operation William Blake Leviathan/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/〉、とは何か?
わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行されている〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉、に於いて、
>「スタートする前に、わたしによって、あらかじめ、織り込み済みのかたち、をして、現在進行形で、進行中」の、わたしによって、事前に、想像されていた、無数の、発生し得る可能性のある事象/レイヤーのひとつ、として
>「現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残す」
という、事象/事柄/出来事、を
>「記録し、公開し、保存された、ログ」が、
>「それが、いかなるものであれ、
何かしらの風景が描写されることになります。
21世紀の日本の風景の部分として」
※、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉とは、「わたしによる、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行される、〈わたしと年間読書人さんとの、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の記録〉」であり、「無数の発生し得る可能性のある事象/レイヤーのひとつの記録」であり、「21世紀の、(2024/2025)日本の風景の断片/部分の描写」である、ということです。
わたしは、現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残すためにです。
わたしが、わたしとして、行うべきことを行い、結果を記録し、ログを残すこと、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、が、作戦/オペレーション/Operatin/であることの所以がここにあります。意味もなく、そう呼んでいるのではありません。
>「わたしの、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護」が実行されている、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、は、スタートする前に、わたしによって、あらかじめ、織り込み済みのかたち、をして、現在進行形で、進行中です。
記録し、公開し、ログを保存すること、それが、いかなるものであれ、何かしらの風景が描写されることになります。21世紀の日本の風景の部分として
(2)「世の中の人々の、(ほとんど)誰も、年間読書人さんによる〈批評/批判〉を、気にしてはいない。」という、件
そりゃあ、論争なり何なりをして、忌憚のない評価を語れば、恨まれ、悪口されるくらいのことは、当然のことです。
例えば「Xのフォロワー5万人の****」を批判すれば、ひとまず私は、その5万人から憎まれるわけで、きっと「X」でも、さんざん悪口を言われていることでしょう。
しかしそれも、正直な批評をやっていれば、仕方のないことなのです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。また、***には、実在する人物の名前が書かれていますが、その方の名前をそのまま引用してしまうと、年間読書人さんの幻想/ファンタジーに「加担してしまう」可能性があるので、ここでは、***と記載します。)
>「例えば「Xのフォロワー5万人の****」を批判すれば、ひとまず私は、その5万人から憎まれるわけで、」
と、年間読書人さんは、ご自身の***さんへの批判によって、批判した方の「フォロワーの、>「5万人」、(多く/大部分/全部)から、ひとまず、憎まれる」と思われているようですが、それは、年間読書人さんの思い込みであり、幻想/ファンタジーに過ぎません。「***と戦っている年間読書人さんの図」は、「孤高の勇者(ヒーロー)となって、悪と戦う、図」を欲望する年間読書人さんの空想の産物です。本気でそう思われているところに、年間読書人さんの、現実の悲惨さと現実逃避の深刻さがうかがい知れます。
フォロワーの(ほとんど)誰も、年間読書人さんの批判など、全く気にしていません。>「ひとまず、憎まれる」という認識は、>「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」という、年間読書人さんの願望充足的な自意識過剰の表れでしかありません。また、それは孤独で無名な自己を、>「ひとまず、憎まれる」対象にして、孤立から救い出そうとする自我の必死な抵抗のひとつです。しかし、現実の中では、「憎まれる対象」にさえ、年間読書人さんは成り得ていません。
>「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」という、年間読書人さんの、自分自身への〈願望充足的なイメージ〉が、〈セルフ・イメージ〉化され、年間読書人さんは、鏡の中の、その〈セルフ・イメージ〉を、「現実の中の、実際の、自己の姿」として、認識しているのではないだろうか、とわたしは推測しています。他者から観れば、年間読書人さんの認識は錯覚/ファンタジーでしかありません。
そもそも、「年間読書人さんの文章は論理的であり、年間読書人さんは、真の〈論争家〉である。」と認識している人は、世の中には(ほとんど)存在していません。年間読書人さんは、〈(意味不明な支離滅裂な)放言〉ばかりを繰り返している、その他大勢の中の、凡庸な無名のひとり、でしかありません。無名の人の、意味不明な支離滅裂な、凡庸な〈放言〉を、いちいち気にするほど、世の中の人々はバカでもなければ、暇でもありません。
それが、偽らざる現実です。
何もかもが、年間読書人さんの頭の中だけに存在している、幻想/ファンタジーの中の出来事に過ぎません。だからこそ、年間読書人さんの「議論をしよう」という呼び掛けに、世の中の人々の(ほとんど)誰も応えないのです。
「世の中の人々の(ほとんど)誰も応えない、(ほとんど)誰からも相手ににされない。」という、惨めな現実を、受け入れるしかありません。
あれこれの理由を夢想して、呼び掛けに、応じてくれない現実のありようの辻褄合わせにいそしんだところで、年間読書人さんの惨めな現実と孤独が変わることはありません。さらに、惨めになるだけです。
(3)「年間読書人さん以外、(ほとんど)誰も、ネット空間に於ける、年間読書人さんの評判を気にしていない。」という、件
年間読書人さんにとっては、ネット空間に於ける、ご自身の評判は一大事なのかもしれませんが、「年間読書人さん以外、(ほとんど)誰も、ネット空間に於ける、年間読書人さんの評判を気にしていない。」のが、現実です。
現実から目を背けてはいけません。そんなこと、誰も知らないという現実。
わたしは、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護として実行されている〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉を、開始し、そして、終決させる、実行者の「責務」として、そのありようを、記録し、公開し、ログとして、残しているのです。内容がいかなるものであれ。結果として、わたしのありよう、及び、年間読書人さんのありよう、が、そこに、表されてしまいます。
そのありようを、どのように、受け止めるのか、読み取るのか、評価するのか、は、それは、記録/ログを観て読まれる方々ひとりひとりが判断されること、である、とわたしは考えています。
つまり「ログ」さえ残しておけば、おのずと年間読書人は恥を晒すことになり、ささやかな信用さえ失って、痛手を被ることにもなるだろうと、スロウ・ボートさんは、本気でそう考えていらっしゃる。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人さん、心配しないで下さい。安心して下さい。大丈夫です。わたしが、年間読書人さんの言葉と行動を批判しているのは、「痛手/ダメージ」を与えるためでも、「信用を失わせる」ためでもありません。年間読書人さんの見解、あるいは、行動が誤りであることを指摘しているだけですから。
また、わたしは記録者の「責務」として(内容がいかなるものであれ)記録/ログを取っているだけです。事の成り行きを記録する「責務」は、これを、始めたわたしにあります。わたしなりにそれを全うしなければなりません。
わたしは、年間読書人さんのネット空間に於ける「信用」とか「評判」とか、全く興味も関心もありません。わたしに於いては、年間読書人さんの、ネット空間での、「信用」とか「評判」などは、〈知ったことではない、どうでもよいこと〉のひとつに過ぎません。わたしも、誰も、年間読書人さんを、>「「ハメる」つもり」なんかありませんよ。そんなことをして、一体、何の意味があるというのでしょう? わたしに、年間読書人さんへの〈怒り〉の感情があるのは、確かです。しかし、だからといって、わたしは年間読書人さんを「憎い」と思っているわけではありません。わたしは、わたしの「人を観る目のなさ」を嘆いているだけです。わたしは、年間読書人さんに、「仕返し」とか「復讐」とかを、行う考えなどは全くありません。わたしは、それほど幼稚でもなければ愚かでもありません。
ということを、わたしが言っても、もはや、〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれているとしか言いようがない、年間読書人さんには、わたしが何を言ったとしても、言っていることが、届くことはないのかもしれません。
わたしを含めて、世の中の人々は、(ほとんど)誰も、年間読書人さんのことなど気に留めていません。ご自身が幻想/ファンタジーの中で、ネット空間に於ける、ご自身の存在感のありようを空想するのは、自由です。お好きになされば、いいと、思います。年間読書人さんの惨めな現実と孤独を忘れさせ癒してくれる、幻想/ファンタジーに思う存分に浸って下さい。
(4)「まちがいなく、年間読書人さんは〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」という、件
わたしの、〈オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/〉が、いつの間にか、年間読書人さんの頭の中で、>「スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく、私(年間読書人さん)のログを取って、それを残す(晒す)のが目的」とするものへと変化し、>「私(年間読書人さん)を「ハメる」つもりだったということ」に変化し、入れ替わり、すり替えられ、てしまっています。
それに、それどころか今回のスロウ・ボートさんのご説明によると、スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく、私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だったと、おっしゃる。
つまり、私を「ハメる」つもりだったということです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
>「今回のスロウ・ボートさんのご説明によると」
>「スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく」 >「私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だった」 >「私を「ハメる」つもりだったということです」
一体、わたしの記事の、何処に、そんな、「わたしの説明」があると言うのでしょうか?「為にする曲解」を超えて、もはや、ここに至っては、
「まちがいなく、年間読書人さんは〈被害妄想的な何か〉に憑りつかれてしまっている。」と、わたしは判断し認識する他ありません。
>「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない」の、「もしかしたら・・・かもしれない」ではありません。「まちがいなく、」です。何もかもが、年間読書人さんの頭の中だけに存在する、幻想/ファンタジーの世界の出来事でしかありません。
もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
No.6//年間読書人さんの反論(第9回目)全文
No.7//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.8//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.9//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。
