〈第11号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第7回目)〉への応答/反論
まえがき
今回のわたしの反論は、主に、3件の事柄、第一「『センスの哲学』のレビューの論戦に於ける、大前提としての確認事項」、第二「「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビュー(前半)に対する論点の整理・批判」、第三「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの〈誤りの構造〉と原因」である、とわたしは考えています。尚、まえがきに、「「わたしと北村紗衣さんの関係性」に対する、年間読書人さんの応答の件」を、簡単に記述しておきたい、とわたしは思います。
※前回のわたしの記事:〈第10号〉の「わたしと北村紗衣さんの関係性」の件に対する、年間読書人さんの応答の、件、簡単に。
年間読書人さんが反論(6)の中で書かれた、「わたしと北村紗衣さんの関係性」の話は、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦とは、全く関係のないものです。これは、年間読書人さんが「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から逃げ回るために延々と行っている、無様で醜悪な〈論点ずらし〉の一環であることは、明白である、とわたしは考えています。
年間読書人さんが、今回行ったことは、必要な、しかも、簡単に行うことが出来る、単純な事実確認を行うことなく、ご自身の解釈を事実であるかのように、noteというSNS上で公開したことです。言わば「信号機が赤なのか青なのか、表示を確認することなく、車を交差点に進入させてしまう」ようなことだとわたしは思います。「事故/誤解」の発生は必然的とも言えます。>「単なる「解釈」の試みにすぎない」のではなく、「〈事故/誤解〉の発生を未然に防ぐことを(意図的に)怠った、(故意の)〈事故/誤解〉」である、とわたしは考えています。
年間読書人さんは、今回、わたしに「謝罪」されていますが、おそらく、これからも同じようなことを、誰かに対して行い、「事故/誤解」後に、「謝罪」を繰り返えされるのだろうと、わたしは思います。年間読書人さんの「謝罪」が形だけのものであり、そこに「反省」の欠片さえ見当たらない、とわたしは思うからです。当たり前のことですが、「謝罪」をしたからといって「事故/誤解が相手に与えた負の事柄」が消えてなくなるわけではありません。年間読書人さんは、〈「謝罪」をすれば、事足りる、という、傲慢で卑劣な考え〉を持っているとしか、わたしには思えません。「謝罪」しなければならないようなことを、行わない、という普通のことを、年間読書人さんはされるべきだ、とわたしは思います。
年間読書人さんは、今回のこの件について、>「こうした説明があるまでは、私はそうした可能性までは想像できなかった。そのため、スロウ・ボートさんと北村紗衣の媒介項は、私くらいしかないだろうと考えてしまったのです。」>「一見、不自然な結びつきだと見えたなら、想像の及ぶ範囲で、そこに意味を読み込むのはごく自然なことで、それは被害妄想ではなく、単なる「解釈」の試みにすぎない。」と述べられています。さらに、>「なのに、私の考えが及ばす、結果として「誤った解釈」をしたら、それを即「被害妄想」という評価に結びつけるのは、恣意的な「論理の飛躍」で、それこそ「鬼の首でもとった」かのようにしてなされた、ためにする「こじつけ」でしょう。」とも述べられています。
わたしが誰かと関係していると、その関係を、>「スロウ・ボートさんと北村紗衣の媒介項は、私くらいしかないだろう」と思い込み、決め付けることの〈奇怪さ〉と〈悍ましさ〉。そして、その〈奇怪さ〉と〈悍ましさ〉に、気付かないことの〈異様さ〉。他人から誤りを指摘されると、開き直りに徹し何よりも可愛い自己を正当化する、自己愛の夥しく氾濫した〈横暴さ〉。
わたしには、こうした年間読書人さんの応答に、いろいろ思うことは多々ありますが、今回の記事:〈第11号〉では、千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦に集中したいので、それらの事柄は、ここに書いていること以上は、あえて、書くことを控えたいと、わたしは思います。
No.1// 大前提としての、確認事項。// 年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?
(1)年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の、全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?
今回、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」に対する議論を行う上で、大前提として、確認しなければならない事項が、ひとつあります。
それは、「年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?」という確認事項です。
当然、「年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の、全文を、読まれた上で、レビューを書かれた。」とわたしは思っています。全文を読むことなく、『センスの哲学』がいかなる本であるのか、結論を導くことは誰であっても不可能である、とわたしは考えているからです。
まえがき、あとがき、付録、読書ガイドはともかく、第1章「センスとは何か」から第8章「反復とアンチセンス」までの全文を、読まなければ、『センスの哲学』のレビューを書くことは出来ない、とわたしは考えています。
従って、「年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を読まれた上で、レビューを書かれた。」ということは自明なことだ、とわたしは考えています。しかし、それでも、形式的なものであれ、「議論の大前提として」、年間読書人さんご自身の言葉で明示していただく、必要がある、とわたしは思っています。
確認する必要がある、とわたしが考えている理由は、「年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を読まれた上で、レビューを書かれた。」ということは自明なことである、とわたしは考えながらも、その一方で、「年間読書人さんは本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのだろうか?という疑念」を、わたしには払拭出来ないからです。
年間読書人さんの記事を読んでいて、終始わたしに付き纏う奇妙な違和感。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうかという疑い。わたしの、これらの違和感と疑いを、放置したままで、議論を開始することは難しい、とわたしは判断しました。確認の結果がどのようなものであるとしても、一度は、年間読書人さんに向けて、確認事項として、これを提示する必要がある、とわたしは考えました。(わたしが違和感と疑いを抱いた理由の詳細は、下記の(2)をご覧下さい。)
この確認が、年間読書人さんに対して、極めて失礼な事柄であることは十分に承知しています。しかし、議論の相手が年間読書人さんであるか否かを問わず、誰が議論の相手であるとしても、「議論の大前提として」、違和感と疑いを払拭するために、この確認事項を避けることは出来ない、とわたしは考えています。
年間読書人さんは「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から逃げ回るために、延々と行っている、愚劣で卑怯な〈論点ずらし〉の繰り返しをさらに重ね、この確認からも、姑息に逃げ回ることになるのでしょうか?
年間読書人さんが、この確認事項に、どのような形で応答するのかは、ご自身が判断し決定することだ、とわたしは考えています。
尚、わたしは『センスの哲学』の全文を読んでいます。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」から、第1章「センスとは何か」〜第8章「反復とアンチセンス」さらに、付録「芸術と生活をつなぐワーク」、読書ガイド、あとがきの「おわりに 批評の権利」までの全文、を読んでいます。
※繰り返します。
年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?
(2)わたしが、「年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのだろうか?という疑念」を、抱くことになった理由について、の件
年間読書人さんのレビューの〈後半の部分〉の批判である、昨年(2024年12月16日)に公開された、わたしの記事:〈第4号〉の「No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判のまとめ」中で、わたしが、「年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのだろうか?という疑念」を抱くことになった理由、について記述されています。
その部分を、下記に、再録したい、とわたしは思います。
***、以下、わたしの記事:〈第4号〉の再録、***
No.6//年間読書人さんの記事の[セクション:後半の概要]への批判のまとめ
・・・(中略)・・・
(2)年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのか?という疑念を抱かざるを得ない。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうか?
・・・(中略)・・・年間読書人さんの記事を読んでいて、終始わたしに付き纏う奇妙な違和感があります。
それは、年間読書人さんは、本当に『センスの哲学』の最初から最後まで全部を読んだのだろうか?という疑念。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうかという疑い。その疑いを極めて強くわたしは感じます。
『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」であると捉えた〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本です。そして、最後にはセンスの向こう側の「センスとアンチセンスの複合体として人間の陰影」にまで話が及ぶことになります。『センスの哲学』はセンスについての話では終わりません。センスの向こう側、アンチセンスについてまで話は及びます。
そうしたことに、年間読書人さんの記事は一切触れていません。年間読書人さんは本当に『センスの哲学』を最初から最後まで全部を読んだ上で、この記事を書いたのだろうか? という疑問をわたしは強く抱いています。
***、以上、わたしの記事:〈第4号〉の再録、***
※尚、『センスの哲学』の全文、まえがきの「はじめに「センス」という言葉」から、第1章「センスとは何か」〜第8章「反復とアンチセンス」、あとがきの「おわりに 批評の権利」まで読んだ、わたしの『センスの哲学』の読書感想文を、下記にリンクします。(注:〈歩く水のような人の形をしたもの〉は、わたし〈スロウ・ボート〉の、noteの中での別の名前です。)
No.2//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈前半の部分〉への批判の論点整理
(1)「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの〈前半の部分〉への、わたしの批判は、既に、2024年12月26日に、わたしの記事:〈第3号〉にて、公開されている。」という、件
わたしは、昨年(2024年12月16日)に公開した、わたしの記事:〈第3号〉に於いて、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈前半の部分〉の批判を、論点を整理し、明示して、展開しています。
わたしの記事:〈第3号〉は〈年間読書人さん、及び、noteにアクセスしてわたしと年間読書人さんの、千葉雅也 さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦を、ご覧になられている方々〉へ向けて書かれたnoteの記事です。
今回この場を用いて、わたしの記事:〈第3号〉をベースにして、記事の引用、記事の(部分的な)再録、ダイジェスト版などを駆使し、年間読書人さんの千葉雅也 さんの『センスの哲学』のレビューの〈前半の部分〉の批判を再度、あらためて、展開したいと思います。
尚、年間読書人さんのレビューには、〈前半の部分〉、〈後半の部分〉という記述がなされているわけではありません。「〇〇〇」という記号で文章が区切られ、大きなひとまとまりの文章が2個存在し、わたしが、それらを便宜的に、〈前半の部分〉、〈後半の部分〉とここでは呼んでいるだけです。
※注記:従って、noteにアクセスして、これをご覧になられている方の中で、わたしの記事:〈第3号〉を既に、目を通され読まれている方にとっては、以下の内容は(幾分表現が異なる部分はありますが)、基本的には新しい内容ではなく、重複した内容となります。ご理解いただきたく思います。
(2)年間読書人さんの、『センスの哲学』のレビューの〈前半の部分〉の概要
年間読書人さんのレビューの〈前半の部分〉の概要を、わたしの要約/解釈/理解として、下記に提示したいと思います。 (わたしの記事:〈第3号〉の、「No.5―1〜7//、//、年間読書人さんの記事の[セクション:前半の概要]への批判」からの引用)
[セクション:前半の概要] (注:〈第2号〉の再録)
千葉雅也が売れっ子である理由は現代思想の大哲学者の解説屋だからである。そして、千葉雅也には自由になりたいという強い願望が存在している。そのために『センスの哲学』を書き刊行し、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化するという行為を行った。そうした行為を千葉雅也が決断した背景には、これまでの現代思想の大哲学者の解説屋としての実績が千葉雅也の自己認識を誤らせ、今この時期に世の中の人々の多くが自分の哲学の本を評価してくれるだろうという錯覚が存在している。そうした背景の中で、千葉雅也の『センスの哲学』が刊行された。
しかし、世の中の人々の多くが求めていることは、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである。世の中の人々の多くは現代思想の大哲学者というブランドに魅せられているのであって、千葉雅也というブランドに興味があるわけではない。従って、自分自身をブランド化した千葉雅也の哲学の本である『センスの哲学』は、売れない本になると私(年間読書人さん)は予想する。
(注:ここで記述されている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」であり、尚且つ、「高級な価値あるもの」という意味です。)
(3)年間読書人さんの、『センスの哲学』のレビューの〈前半の部分〉への、わたしの批判の4つの論点の整理
(論点は細かく設定すれば、論点の数は増えますが、)今回は、少し論点を整理し直し、以下の4点に絞り込みました。とわたしは考えています。
1)「千葉雅也さん(の表現)が、評価されている(売れっ子である)理由
は、〈千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋だからである。〉と
いうこと以外はない。」という、年間読書人さんの認識の妥当性
2)千葉雅也さんの著作の読者についての、年間読書人さんの認識の妥当性
3)「千葉雅也さんは、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身を
ブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き、刊行した。」と
いう、年間読書人さんの推測/認識の妥当性
4)「世の中の多くの人々は千葉雅也に、現代思想の大哲学者の優れた解説
屋としての役割しか求めていない。だから、自分の哲学を語った『セン
スの哲学』は、世の中の多くの人々から見向きもされないだろう。つま
り、『センスの哲学』は売れない。」という、年間読書人さんの推測/認
識の妥当性
No.3//『センスの哲学』の発行部数、及び、 千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作、について
※整理された各論点につての具体的な検証・批判を始める前に、必要不可欠な前提として『センスの哲学』の発行部数、と、千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について、記述しておきたい、とわたしは思います。この内容が、後で行われる各論点についての検証・批判と、直接的に関係する重要な事柄になります。
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
(1)『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について
批判を行う前に、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述したいと思います。
年間読書人さんの記事の冒頭で、年間読書人さんは「『センスの哲学』は売れない本となってしまうだろう。」という予測を行っています。そして、その予測の理由を挙げています。
わたしの年間読書人さんの記事に対する批判はその事柄と深く関係しますので、客観的な事実として、『センスの哲学』の2024年12月現在の発行部数について記述し、この本が世の中でどのように受け入れられているのか、その現実を明確にしたいと思います。
『センスの哲学』の発行部数は、11月に於いて、「6万5000部(紙の書籍+電子書籍)を突破」しているようです。また、12月の中旬の時点で、10度目の重版にもなっているようです。今年(2024年)の4月に刊行され、8か月あまりでこの部数は、ベストセラーと言えるほどではありませんが、定価1760円の哲学の本としては「大ヒット」と言っていいのではないでしょうか
実際に自分で金銭を支払って購入し、この本を最初から最後まで読んだ人の人数は、定かではありません。また、2023年2月時点で電子版を含めて発行部数が13万部を超えてベストセラーとなった『現代思想入門』(2022/3/16刊行、新書、定価990円)ほどには売れてはいないのかもしれません。それでも2024年12現在に於いて「売れた本」であることは事実だと思います。(因みに、売り上げ金額で換算すると、『センスの哲学』の6.5万冊は『現代思想入門』の11.6万冊に相当します。)
年間読書人さんの予想に反して『センスの哲学』は売れているのが現実です
わたしが行う批判はそうした現実の事実との整合性を保ったものです。但し、現実が年間読書人さんの予想に反したものであることを理由にして、年間読書人さんの記事を後出しジャンケン的に全面的に批判しているのではありません。それは部分でしかない、とあらかじめお断りしておきます。
尚、「6万5000部」という数字は、文藝春秋社の『本の話 ~読者と作家を結ぶリボンのようなウェブ〜 文春オンライン』(https://books.bunshun.jp/)の、読書オンライン「鳥羽和久が千葉雅也『センスの哲学』を読む」の記事(2024.11.19)(https://books.bunshun.jp/articles/-/9488)の中に記述されているものです。下記にリンクを設定しておきます。
(2)千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について
わたしの批判を行う上で、その前提として、千葉雅也さんがこれまでに行ってきた表現の概略を示しておきたいと思います。千葉雅也さんは毎日のようにX(Twitter)で言葉を発信されています。(X(Twitter)のフォロワー数は2024年12月現在、9万を超えているようです。)そして、著述家として本を書かれています。わたしは千葉雅也さんの単独の著作は、小説三部作を含めて、全て読んでいます。ざっとですが、今年(2024)の4月に『センスの哲学』を刊行するまでの、千葉雅也さんのこれまでに行ってきた著作の履歴を辿ってみましょう。(尚、千葉雅也さんには対談等の共著もありますが、ここでは省略します。)
千葉雅也さんの現時点での単独の著作は以下の通りです。
(1)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
(2013)
(2)『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)
(3)『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)
(4)『意味がない無意味』(2018)
(5)『アメリカ紀行』(2019)
(6)『現代思想入門』(2022)
(7)『センスの哲学』(2024)
長編小説三部作は以下の通りです。
(1)『デッドライン 』(2019)
(2)『オーバーヒート』(2021)
(3)『エレクトリック』(2023)
千葉雅也さんは、自身の博士論文である最初の著作『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)が注目を集め、その後、『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)、『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)などが刊行され、多くの読者を得ました。
その後、最初の長編小説『デッドライン』が2019年に刊行され、2021年に二作目の長編小説『オーバーヒート』、2023年に三作目の長編小説『エレクトリック』が刊行されました。千葉雅也さんは小説家として、既に三つの長編小説を発表され、それらの小説は一定数の読者を獲得しています。
そして、現在に至っている、という流れです。
『現代思想入門』(2022/3/16刊行)は「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」本かもしれません。2023年2月時点で電子版を含めて13万部を超えて、ベストセラーとなった『現代思想入門』のインパクトが強く、千葉雅也さんを「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる人」と認識している人も大勢いると思います。その認識自体は誤りではありません。千葉雅也さんには確かに現代思想(哲学)の解説者という側面があります。
しかし、『現代思想入門』以外の本は現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる本ではありません。また、千葉雅也さんのX(Twitter)も、必ずしも現代思想(哲学)について分かりやすく説明してくれるものではありません。『意味がない無意味』(2018)は批評集でもあり哲学書でもあります。この本で千葉雅也さんは自分の哲学を語っていますが、その文体は硬質で、語り口は平明なものではありません。『意味がない無意味』は決して現代思想(哲学)を分かりやすく説明する本ではありません。また、『アメリカ紀行』はタイトルを含めて見掛け上はエッセイの体裁をしていながらも、〈散文の思考〉と〈思考の散文〉が交錯し、千葉雅也さんの言葉の物質性が奏でられている音楽のような本です。
千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」ではありますが、「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれるだけの人でしかない。」という認識は明らかに誤りです。千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」であり、「現代思想(哲学)の複雑な内容を複雑なまま複雑に語る人」であり、「不思議な魅力溢れる小説を書く小説家」です。
著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は既に確立されたブランド・〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。
(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)
尚、わたしの記事の〈第1号〉と重複しますが、わたしがnoteに千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』についての感想文を投稿していますので、下記にリンクを設置しておきます。これを読んでいただければ、わたしがこの小説をどのように捉えているのか、そして、『エレクトリック』の魅力がどのようなものなのか、分かっていただけるのかもしれません。単なるひとりの読者の感想でしかありませんが。(注:〈歩く水のような人の形をしたもの〉は、わたし〈スロウ・ボート〉の、noteの中での別の名前です。)
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
No.4// 論点(1)// 「千葉雅也さん(の表現)が、評価されている(売れっ子である)理由は、〈千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋だからである。〉ということ以外はない。」という、年間読書人さんの認識の妥当性
(1)論点(1)「千葉雅也さん(の表現)が、評価されている(売れっ子である)理由は、〈千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋だからである。〉、ということ以外はない。」という年間読書人さんの認識
これまで千葉雅也が「売れっ子」であり得たのは、「主流の現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」人だったからであり、端的に言えば、そんなことを期待する読者は、千葉自身の「哲学」なんかには、あまり興味がない。
千葉の「哲学」が面白いというのは、あくまでもそれが「大思想家の哲学を、わかりやすく噛み砕いたもの」と理解されていたからであって、千葉の「オリジナル哲学」なんてものは「いらない」と、そう考えるのだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
と、上記の引用にあるように
「千葉雅也さん(の表現)が、評価されている(売れっ子である)理由は、〈千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋だからである。〉、ということ以外はない。」という年間読書人さんの認識、が示されている、とわたしは考えます。
(2)論点(1)に対する検証・批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さん、及び、その表現が注目されている(売れっ子である)理由は、千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者だからではありません。その認識は誤りです。
『現代思想入門』がベストセラーとなり、現代思想の大哲学者の解説者として千葉雅也さんを評価している人々が大勢いることは承知しています。
しかし、本パートの次のパート「(3)補足:論点(1)に対する検証・批判「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかない。」という認識について」に於いて、わたしが書いているように、それは千葉雅也さん表現者としてのひとつの側面を表したものでしかありません。著述家としての千葉雅也さんの履歴を知れば、そのことが理解出来ます。
千葉雅也さんは小説家としてこれまでに長編小説三部作を刊行されています。不思議な魅力に溢れた小説です。小説には、現在の世界に生きている人々の何かを揺り動かす力が存在しています。
千葉雅也さん、及び、その表現が注目されている(売れっ子である)理由は、千葉雅也さん、及び、その表現が現在の世界に生きている人々の何かを揺り動かす力を確かに持っているからです。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
簡単に言い換えれば、「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者である」ことは、千葉雅也さん(の表現)が評価されている(売れっ子である)「理由の部分」ではありますが、「理由の全体(大部分)」ではない、ということである、とわたしは考えます。
論理的な当然として、「現代思想の大哲学者の解説者ではない表現者」として、千葉雅也さんを評価している人々も、現実には存在していて、そうした人々は、千葉雅也さんの「オリジナル哲学」に興味や関心を抱いている可能性は十分にある、という話である、とわたしは考えます。
年間読書人さんの認識の誤りは「評価されている理由の部分」を「評価されている理由の全体(大部分)」として、取り違えてしまい、誤って認識したことにあり、年間読書人さんは、ここで、「部分と全体(大部分)の取り違え」というパターンの誤認をしてしまっている、とわたしは考えています。
年間読書人さんの認識が、〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
(3)補足:論点(1)に対する検証・批判
「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかない。」という認識について
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかない、という認識は誤りです。千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。一般読者向けの哲学の入門書を書き刊行するのも、そうした側面の表れです。
しかし、それは千葉雅也さんの側面でしかありません。千葉雅也さん、及び、その表現が現代思想の大哲学者の解説者の枠を超えたものであることは、『センスの哲学』以前の著作を読めば、明白です。千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋でしかないという年間読書人さんの認識は、千葉雅也さんの表現の一部分しか知らないことに起因する誤解です。
(注)
この記事で年間読書人さんは千葉雅也さんのことを「解説・者」ではなく「解説・屋」という侮蔑的な表現を用いて呼んでいます。年間読書人さんの千葉雅也さんに対する強い敵意が表れている表現だとわたしは思います。年間読書人さんの記事を終わりまで読むと、その敵意の理由が分かりますが、フラットな気持ちで年間読書人さんの記事を読みはじめると、剥き出しの敵意に少々辟易させられてしまいます。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
簡単に言い換えれば、「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者である」ことは、千葉雅也さんの「側面のひとつ/部分」ではありますが、「側面の全体(大部分)」ではない、ということです。
『センスの哲学』以前の著作に対する、年間読書人さんの無知が誤認を引き起こし、年間読書人さんは、ここでも「部分と全体(大部分)の取り違え」という同じパターンの誤認を繰り返しています。年間読書人さんは「側面のひとつ/部分」を「側面の全体(大部分)」として取り違えてしまい、誤って認識している、とわたしは考えています。
年間読書人さんの認識が、〈客観的な根拠〉と〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
No.5// 論点(2)// 「千葉雅也さんの著作の読者」についての、 年間読書人さんの認識の妥当性
(1)論点(2)「千葉雅也さんの著作の読者」についての、年間読書人さんの認識
しかしながら、これまで千葉の本をありがたがってきた読者の多くは、「ものの考え方」を学びたい人たちではなく、あくまでも「大哲学者の権威」を、ワッペンを貼りつけるように、お手軽かつ手っ取り早く(ファスト)に「身につけたい」と考えているような人たちだったのだから、そのワッペンの絵柄が、ドゥルーズなどの「外国の著名な哲学者」ではなく「日本人の千葉雅也」であっては、ダメなのだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
肝心なのは、「哲学を会得する」ことではなく、哲学のことを「知っているぞと見せびらかす」ことなのだから、その見せびらかすものは、「一流のブランド品」でなければならない。
いくら、実用的にはそれで十分であり、むしろ「大哲学者の哲学」なんて、そう簡単には使いこなせないのだから、機能の限定された「千葉雅也」の方が、むしろ「機能的で、使い勝手が良い」のだが、「哲学オタク」たちが欲しいのは、自分の能力では使いこなせないほどの「多機能かつ贅沢な高級品」という「分不相応なもの」なのである。
要は、その高度な多機能が使いこなせなくたって、かまわないのだ。大切なのは、見せびらかすための「ブランド」なのだから、それが「千葉雅也」では物足りない。「大ブランドの代用品」にはならないのである。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
と、上記の引用にあるように
「世の中の人々の多くが求めていることは、哲学の知識をブランドとして他人に自慢することである。世の中の人々の多くは現代思想の大哲学者というブランドに魅せられているのであって、千葉雅也というブランドに興味があるわけではない。」として、>「これまで千葉の本をありがたがってきた読者の多く」、>「哲学オタク」たちのありようを、年間読書人さんは描写しそこに、年間読書人さんの「千葉雅也さんの著作の読者」に対する認識、が示されている、とわたしは考えます。
(2)論点(2)に対する検証・批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さんの著作の読者は、哲学の知識をブランドとして他人に自慢したいと思い、自慢する人々だけではありません。そうした人々も多々いるのかもしれません。しかし、千葉雅也さんの著作の読者は、そうした人々だけ、あるいは、ほとんどの大多数がそうである、という認識は誤りです。
千葉雅也さんの著作の読者の中の一定数の人々は、哲学の知識をブランドとして他人に自慢したいと思い、自慢する人々ではありません。千葉雅也さんの表現によって自分自身の中の何かを揺り動かされている人々です。そうした一定数の人々が千葉雅也さんの新作を待ち望んでいます。
だから『センスの哲学』は売れたのです。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
簡単に言い換えれば、「現代思想の大哲学者というブランドに魅せられ、哲学の知識をブランドとして他人に自慢する、千葉雅也というブランドに興味がない人々」は、「千葉雅也さんの著作」の「読者の部分」ではありますが「読者の全体(大部分)」ではない、ということです。
さらに、>「大思想家の哲学を、わかりやすく噛み砕いたもの(本)」は、「千葉雅也さんの著作」の「部分」ではありますが、「全体(大部分)」ではない、ということです。
年間読書人さんは、ここでも、二重に「部分と全体(大部分)の取り違え」という同じパターンの誤認を繰り返しています。年間読書人さんは「千葉雅也さんの著作の読者の部分」を「千葉雅也さんの著作の読者の全体(大部分)」として取り違え、さらに「千葉雅也さんの著作の部分」を「千葉雅也さんの著作の全体(大部分)」として取り違えてしまい、二重に誤った認識している、とわたしは考えています。
年間読書人さんの認識が、〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
No.6// 論点(3)// 「千葉雅也さんは、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き、刊行した。」という、年間読書人さんの推測/認識の妥当性
(1)論点(3)「千葉雅也さんは、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き、刊行した。」という、年間読書人さんの推測/認識
しかし、この程度のことは、千葉だって承知しているはずなのだが、ではどうして、今回は自分自身を前面に出してきたのかというと、それは無論、これまでの本が「売れた」から、自分というブランドだけでやれるんじゃないかと、そう考えたからである。
「有名哲学者」の権威を後ろ盾にしなくても、正直に、自分の考えていることをそのまま語るだけでも、それだけでも、もうそろそろ売れるんじゃないか、という見込みを持ったのだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
そもそもどうして「有名哲学者の解説屋」であることから下りようとしているのかというと、それは無論、他人の褌で相撲を取るようなことは「つまらない」と思っていたし、なにしろ「学者」としては、「オリジナル」から大きく離れて「自由な解釈」をするわけにもいかないので、それは「窮屈で仕方ない」と感じるようになってきた、ということだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
つまり、これまでだって、千葉は「大哲学者の解説本」の中で「自分の思想(世界観・世界理解)」を語ってきたのだし、読者の方も、それを「面白い」「わかりやすい」と歓迎してくれたのだから、そろそろ「大哲学者を扱っている」という「金看板」を下ろして、「自分のブランド」だけで、「自分の腕一本」で勝負しても、これまで支持してくれた読者であれば、喜んで支持してくれるのではないかと、そう考えたのであろう。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
したがって、「大哲学者の金看板」を掲げたままで、「自由になる」ことはできない。「身軽になること」はできないから、その「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。
だから「早く、そんな身分になりたいものだ」という気持ちが千葉にはあって、問題は、その時期判断の適否なのだが、私は、今回の千葉の判断を、時期尚早の拙速だったと思う。だから「売れないだろう」と言うのだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
>「「有名哲学者」の権威を後ろ盾にしなくても、正直に、自分の考えていることをそのまま語るだけでも、それだけでも、もうそろそろ売れるんじゃないか、という見込みを持った」、>「「大哲学者を扱っている」という「金看板」を下ろして、「自分のブランド」だけで、「自分の腕一本」で勝負しても、これまで支持してくれた読者であれば、喜んで支持してくれるのではないか」>「「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。」と、上記の引用にあるように
「千葉雅也さんは、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き、刊行した。」という、年間読書人さんの推測/認識、が示されている、とわたしは考えます。
(2)論点(3)に対する検証・批判
1)「千葉雅也さんが、自分自身をブランド化する行為として、『センス
の哲学』を書き刊行したという推測」に対する批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さんが自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き刊行したという推測は誤りです。
本記事の「No.3//『センスの哲学』の発行部数、及び、千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について」の中の、「千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について」に、わたしが再録したことをここに引用します。
千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」ではありますが、「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれるだけの人でしかない。」という認識は明らかに誤りです。千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」であり、「現代思想(哲学)の複雑な内容を複雑なまま複雑に語る人」であり、「不思議な魅力溢れる小説を書く小説家」です。(注:わたしの記事:〈第3号〉にはこの引用なし)
著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は既に確立されたブランド:〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。
(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは、『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。
年間読書人さんの、「千葉雅也さん(表現)のブランド」に関する、誤った認識は、2024年の4月に刊行された『センスの哲学』以前の、2023年までの千葉雅也さんの著述活動の全貌に対する無知に起因する、とわたしは考えています。
年間読書人さんは、ここで、「事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をする。」という誤った認識を行っている、とわたしは考えてします。
年間読書人さんの認識が、〈客観的な根拠〉と〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
2)「千葉雅也さんが、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、『センスの
哲学』を書き刊行した。」という認識」に対する批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、『センスの哲学』を書き刊行したという認識は誤りです。
「No.4//論点(1)に対する検証・批判」で述べたように、千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。
『センスの哲学』の以後に於いても、千葉雅也さんの現代思想の大哲学者の解説者としての側面は存在し有効です。千葉雅也さんは『センスの哲学』を書いて刊行し、現代思想の大哲学者の解説者をやめたわけではありません。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
千葉雅也さんは『センスの哲学』に於いて、「現代思想の大哲学者の解説」を行っているわけではありません。その点をもってして、『センスの哲学』に於いて、「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者をやめた」という認識をされたのかもしれません。しかし、それは表面的な理解でしかありません。
『センスの哲学』は、「〈センス〉とは、芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力」であると捉えた〈芸術・音楽論〉の思考が書かれた本であり、「わたしたちが生きている世界を、音楽的な存在として、捉え直す、という哲学/世界認識」の本でもあります。〈意味〉と〈かたち〉を超え〈音楽的存在〉として世界に対峙する哲学、としての『センスの哲学』。
『センスの哲学』の中で、展開されている千葉雅也さんの思考には、現代思想が形を変えて息づき、『センスの哲学』の中で、千葉雅也さんは「現代思想を解き明かし、自身の言葉で実践を行っている。」、とわたしは考えています。
3)「千葉雅也さんが現代思想の大哲学者の解説者であることを「他人の褌
で相撲を取るようで、つまらなく窮屈で仕方ない。」と思っていた、そ
して、自由に表現したいという強い願望を叶えるために、『センスの哲
学』を書いて刊行した。」という推測に対する批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
「No.4//論点(1)に対する検証・批判」の内容と重複します。
千葉雅也さんは哲学を研究している研究者であり、大学の哲学の教授であり教育者です。従って、現代思想の大哲学者の解説者としての側面は必然的に有します。
千葉雅也さんが本当に現代哲学の研究/解説を、「他人の褌で相撲を取るようで、つまらなく窮屈で仕方ない。」と思っていたのであれば、彼は研究者であることを止める他ない、とわたしは思います。哲学に限定したことではありませんが、〈次の時代の新しい知〉を生み出すには、過去の知を研究することが始まりである、とわたしは考えています。(※この部分は今回追記)
当然、研究者、教育者、それぞれに固有の自由と不自由が存在しています。あらためていうまでもありませんが、当然のことながら、芸術家には芸術家の自由と不自由、哲学者には哲学者の自由と不自由が存在します。研究者から芸術家/哲学者へ、あるいは、教育者から芸術家/哲学者に転身すれば、自由になれるというのは幻想でしかありません。単に自由と不自由の枠組みが変化するだけです。千葉雅也さんはそうした事柄を十分に承知していると思います。(※一部、部分的に表現を変更、内容は変更なし)
自由に表現したいという強い願望を叶えるために、『センスの哲学』を書いて刊行したという推測は誤りです。『センスの哲学』を書いて刊行したのは、千葉雅也さんの芸術論がそのスタイルでしか表現し得ないものだったからです。
繰り返します。千葉雅也さんに「自由に表現したいという強い願望」が存在し、願望を叶えるために、『センスの哲学』が方法として、用いられたのではありません。順番が完全に逆です。『センスの哲学』で書かれている思考/哲学/芸術論が千葉雅也さんの内部に存在し、それが、千葉雅也さんの外部に出ることを求め、言葉/文字として存在させたものが、出現した『センスの哲学』という本の形をしたものだ、ということです。「はじめに、自由に表現したいという強い願望」が起点になったのではなく、「はじめに、千葉雅也さんの内部の思考の存在」が起点になったのだと、わたしは考えています。(※この部分は今回追記)
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
No.7// 論点(4)// 「・・人々は千葉雅也に、・・哲学を語った『センスの哲学』は、・・人々から見向きもされないだろう。・」という、年間読書人さんの推測/認識の妥当性
(1)論点(4)「世の中の多くの人々は千葉雅也に、現代思想の大哲学者の優れた解説屋としての役割しか求めていない。だから自分の哲学を語った『センスの哲学』は、世の中の多くの人々から見向きもされないだろう。つまり、『センスの哲学』は売れない。」という、年間読書人さんの推測/認識
「「売れっ子」千葉雅也の本としては、売れない本になりそうな臭いがプンプンする。
なぜなら、本書は「哲学」と題しているけれど、いわゆる「学問としての哲学」ではなく、自身の興味があるテーマについて、哲学的知識を援用して「哲学して(考えて)みました」という内容の本であり、言うなれば「哲学的エッセイ」でしかないからだ。
したがって、「哲学」の権威をありがたがりたい「哲学オタク」たちには、少しも「ありがたくない本」なのだ。」
したがって、「大哲学者の金看板」を掲げたままで、「自由になる」ことはできない。「身軽になること」はできないから、その「金看板」を下すにあたっては、自分個人の名前が、十分に「ブランド」化していなければならない。
だから「早く、そんな身分になりたいものだ」という気持ちが千葉にはあって、問題は、その時期判断の適否なのだが、私は、今回の千葉の判断を、時期尚早の拙速だったと思う。だから「売れないだろう」と言うのだ。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
では、どうして、千葉はその判断を誤ったのかというと、彼は、人並み以上に「自由」でありたい人なのだ。
「千葉雅也は、学者だから、彼の語ることは、学問的に正確である(でなければならない)」という「縛り」から、早く逃れたいという意識が、他の学者などよりもずっと強く、また「自分ならそれをやれる(かも)」という意識があったからこそ、そんな「希望的観測」に流されて、拙速にも今回は「大哲学者の金看板」を下ろしての、「自分ブランド」での勝負にうって出たのである。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
だが、「それほど世間は甘くないよ」と私は思うのだ。「後ろ盾がいない、裸の千葉雅也になど興味はない」と、つれなく去っていく読者の方が多いと、私はそう見ているのである。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
と、上記の引用にあるように
「世の中の多くの人々は千葉雅也に、現代思想の大哲学者の優れた解説屋としての役割しか求めていない。だから自分の哲学を語った『センスの哲学』は、世の中の多くの人々から見向きもされないだろう。つまり、『センスの哲学』は売れない。」という年間読書人さんの推測/認識、が示されている、とわたしは考えます。
(2)論点(4)に対する検証・批判
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
違います。そうではありません。その推測は誤りです。
世の中の人々は千葉雅也さんに、現代思想の大哲学者の優れた解説者としての役割しか求めていない、というわけではありません。千葉雅也さんの哲学を語った『センスの哲学』を読みたいと思う一定数の人々が世の中に存在しています。
その結果、『センスの哲学』は売れた、ということです。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
現実の中で、「本が売れる、売れない」という事柄は、複数の要因が複雑に絡み合った結果である、とわたしは考えています。本の内容がいかに素晴らしくとも、結果として、売れない本は多々あり、逆に、本の内容がいかに酷くとも、結果として、信じ難いほど売れる本があります。それが現実です。
つまり、本の売れ行きと本の内容の間の関係には、必ずしも相関関係はないという現実です。『センスの哲学』もまたその現実の中の一冊です。『センスの哲学』が、一定数の支持を受け「売れた」という事実は、確かに存在していますが、その事実は、「この本が素晴らしい、ということを保証するものではなく」、「この本がいかなるものであるのかは、読者ひとりひとりが決めること」である、とわたしは考えています。
年間読書人さんの推測が誤りであることは、『センスの哲学』が、一定数の支持を受け「売れた」という事実によって、明らかです。しかし、わたしが、ここで、年間読書人さんの推測を批判しているのは、推測が当たらなかったことに対してではなく、年間読書人さんの推測の根拠が誤った認識であること、に対して、である、とわたしは考えています。
>「現代思想の大哲学者の優れた解説屋としての役割しか求めていない。」という年間読書人さんの推測の根拠の誤りは、表現者としての千葉雅也さんの部分を全体(大部分)と取り違えたことにある、とわたしは考えます。
「千葉雅也さんに、現代思想の大哲学者の優れた解説者としての役割を求めている人々」は、「千葉雅也さんに何かを求める人々、の部分」ではありますが、「千葉雅也さんに何かを求める人々、の全体(大部分)」ではない、ということです。
年間読書人さんは、ここでも、「部分と全体(大部分)の取り違え」という同じパターンの誤認を繰り返しています。一旦、俯瞰的に事象を観察すれば、部分と全体(大部分)の区別は容易だと思うのですが、年間読書人さんは、自身の認識(思い込み)の論理的な整合性を組み立てるために、しばしば(意識的、あるいは、無意識的に)「部分と全体(大部分)の取り違え」を行い、誤った認識をしている、とわたしは考えています。
年間読書人さんに於いては、ご自分の見解/解釈/認識/主観が何よりも最優先され、俯瞰的な検証は後回しにされ、同じパターンの誤認を繰り返しているとわたしは考えます。
年間読書人さんの認識が、〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
No.8//年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの、読み誤り(誤読)の構造と原因
***、以下、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
具体的な批判は既に書いた通りですが、年間読書人さんの記事の〈前半の部分〉への批判のまとめとして、年間読書人さんの記事の誤りの構造と原因について、考察したいと思います。
年間読書人さんの記事は、年間読書人さんの千葉雅也さんに対する思いと『センスの哲学』に対する思いが書かれたものです。それは年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されています。
そして、その〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉のほぼ全てが誤りです。なぜ、そうした誤った〈認識〉、〈判断〉、〈推測〉がなされたかというと、大きく以下のような2つの原因が考えられます。
(1)事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をする。
千葉雅也さんのこれまでの表現としての著作の全体の内容を把握することなく、また、それらの時系列的な事実を把握することなく、部分的な事実によってのみ、認識、判断、推測を行った結果、それらが誤ったものとなってしまったと思われます。
年間読書人さんはご自身が持つ情報をもとに認識、判断、推測を行ったと思いますが、事実確認が不足していることに気が付かなく、誤った認識、判断、推測を行ったように思います。
(2)部分と全体(全部、大部分)を混同し取り違える。
年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉には、しばしば部分と全体(全部、大部分)を混同し取り違える、ということが観られます。
例えば、「千葉雅也さんが現代思想(哲学)の解説屋でしかなく、世の中の人々はそうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんしか求めてはいない。」という認識です。
確かに、千葉雅也さん現代思想(哲学)の解説者です。しかし、千葉雅也さん現代思想(哲学)の解説者であることは、千葉雅也さんの部分でしかありません。それは全体(全部、大部分)ではありません。また、確かに、世の中の人々はそうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんを求めています。しかし、そうした現代思想(哲学)の解説者としての千葉雅也さんを求めているのは、世の中の人々の部分でしかありません。それは世の中の人々の全体(全部、大部分)ではありません。
年間読書人さんは部分と全体(全部、大部分)を混同し取り違え、部分でしかない事柄を全体(全部、大部分)の事柄と捉えてしまい、誤った認識、判断、推測を行ったように思います。
***、以上、わたしの記事:〈第3号〉の再録、***
No.9//年間読書人さんの反論(第7回目)全文
No.10//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.11//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.12//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。
