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〈第9号〉                                年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第5回目)〉への応答/反論

まえがき

今回のわたしの反論は、主に、「わたしに於けるnoteの意味」である、とわたしは考えています。尚、前回のわたしの反論に関する補足を、終わりの方に記述しておきたい、とわたしは思います。


No.1//わたしのnoteに於ける「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」の件

(1)はじめに//                      >「ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?」という疑問への応答

年間読書人さんは、わたしに対して、>「ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?」という疑問を抱いていらっしゃるようなので、この件にお応えしたい、とわたしは思います。

そもそも、そう言っている段階で、「自己正当化の欲望」に流されており、欲望のままに「自分は非凡だ(欲望に流されない人間だ)」と、そう主張してしまっているだけ、なのではないでしょうか?

だから問題とすべきは、そう主張するほどのことを、実際にやれているのか否かであり、またそれでしか、自他ともに、その人の実態を判断することはできないはずです。

ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

(2)〈歩く水のような人の形をしたもの〉//:わたしの、本来のnoteのアカウント

★noteにアクセスして、この記事をご覧になられている読者の皆様方へ

本アカウントの〈スロウ・ボート〉は、わたしが、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」についての議論/論戦のために、専用のアカウントとして、昨年(2024)の12月の終わりに、わたしが単独で立ち上げたものです。(後に、年間読書人さんからも了解をいただいています。)

わたしには、わたしの書いた記事を公開する、本来のnoteのアカウントが、元々、存在しています。アカウントの名前は〈歩く水のような人の形をしたもの〉です。わたしがどのような記事を書いているのか、お知りになりたい方は下記のリンクより、ご覧下さい。

(※注:このことは、本アカウント
〈スロウ・ボート〉の開設時に、すでにはじめから開示されている事柄であり、隠し事でも何でもありません。)

(3)わたしの、作品についての感想の、noteの記事の多くが、肯定的な内容であること、の理由

わたしは現実の中で、様々な表現/作品に出会い、様々なことを思います。「何と、素晴らしいのだろう!」とか「う~ん、いまひとつ」とか「いやはや、これは、もうどうにもならないくらい、酷すぎる・・・」とか。多分、わたしの評価は他の人より相当に「厳しい」部類だ、と思っています。

但し、当たり前のことですが、わたしの感想は、単に「わたしに於いては」という限定的なものでしかなく、「他の人に於いては」、全く異なった感想を持つものである、とわたしは思っています。繰り返しますが、わたしの感想は「その作品は、わたしに於いては、***というものである。」という感想でしかなく、「***」の部分が傑作であれ駄作であれ、どのようなものであったとしても、そうである、とわたしは思っています。

わたしの作品についての感想のnoteの記事の、多く(いや、ほとんどすべて)「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のものである、とわたしは考えています。

さて、ここで、明確に言っておきますが、わたしの感想のnoteの記事が肯定的な内容であることは、わたしが、そうなるように、意図的に慎重に選別した結果であり、それには確固とした理由がある、とわたしは考えます。

理由とは、noteの記事の読者の方が、仮に、わたしの作品への否定的な感想に影響され、作品を手に取ることを、結果として、止めてしまうことなるかもしれないという危険性/可能性の回避のため、である、とわたしは考えています。つまり、わたしの見立てでしかない、わたしの否定的な感想が、他の人と作品との遭遇の機会を失くしてしまう危険性/可能性を、避けたい、とわたしが考えているからです。わたしの記事に影響力があるとは思ってはいませんが、Amazonのレビューの経験から、危険性/可能性はゼロではない、とわたしは思っています。

わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある、とわたしは思っています。わたしが「酷い」と思うことと、わたしが「これは酷い」と他の人に伝えることは、切り離すべき、であるとわたしは考えています。「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。

従って、わたしは作品についての感想をnoteに記事として書く場合、「世間の評価」の良し悪しは別のこととして、否定的な内容であることを意識的に抑制している、とわたしは考えています。誤解を招かないように鮮明にさせておきますが、わたしが出会った作品の中には、「酷い」と思うものが多々あります。しかし、だからといって、わたしはそのことをnoteの記事として書いて公開しないようにしている、だけである、とわたしは考えています。

(4)しかし、わたしの作品についての感想のnoteの記事にも、幾つかの、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事があるの件

年間読書人さんのように、「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」という、「無知と傲慢と自己美化」にまみれたとしか思えない、言葉を平然と書くことの出来る無神経さには、わたしはほとほと辟易させられてしまいます。世の中の部分であるわたしは、部分であること、を論理として、わたしもまた世の中の権威を構成し維持する者たちのひとりであることから、逃れることは出来ない、とわたしは考えています。

「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」という言葉をそのまま使うほど、わたしは自惚れていませんし、自惚れ、自己を錯覚することが、結果として、権威を制度として構築する冷酷なる〈現実〉に利することになってしまう、とも思いますが、それでも、年間読書人さんの問い掛けには、わたしなりに応答したい、と思います。

ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?

年間読書人さんからの反論(5)

わたしが、「主流・多数派を追認していない」「「世間の評価」に迎合的ではない」ことを示す、「世間の評価」の極めて高いと思われる、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事があるので、その記事を紹介したいとわたしは思います。上記に書いた理由で、わたしには、そうしたnoteの記事は少ないのですが。さらに、わたしの、幾つかの〈現実〉への、わたしなりの、「強く厳しい抵抗」のnoteの記事も、僅かにあるので、それも。

★そして、

わたしのnoteの記事は、すべてが、根源的に「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との抵抗であり戦いである。」ことの証明である、とわたしは考えています。

さらに、証明こそが、「藝術、及び、哲学」のひかりを世界に解き放つ方法のひとつである、とわたしは考えています。わたしのnoteの記事はすべてが、根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」であるとわたしは思っています。不作為に、幾つかを紹介したいと思います。

(5)わたしの幾つかの、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事

下記に、新しいもの順で、提示したいと、わたしは思います。

1)クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』

2)川上未映子さんの長編小説『黄色い家』

3)西加奈子さんの長編小説『夜が明ける』

4)細田守監督の映画『竜とそばかすの姫』

(6)わたしの、幾つかの〈現実〉への、わたしなりの、「強く厳しい抵抗」のnoteの記事

抽象であることの弱さと強さと、具象であることの弱さと強さ、わたしに出来ることと、わたしに出来ないこと、その間で、書かれた、わたしの、幾つかの〈現実〉への、わたしなりの、「強く厳しい抵抗」のnoteの記事。

1)ウクライナ戦争、について

2)パンデミックの夜と昼、について

(7)「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事

1)ゲルハルト・リヒターの絵画、について

2)デイヴィッド・ホックニーの絵画、について

3)現代美術、について

4)カズオ・イシグロの長編小説『クララとお日さま』

5)クリス・ウィタカーの長編小説『われら闇より天を見る』

6)原作:村上春樹 Ⅹ 監督:濱口竜介の映画『ドライブ・マイ・カー』

7)橋口亮輔監督の映画『恋人たち』

8)四方田犬彦の箴言集『いまだ人生を語らず』

9)永井玲衣の哲学『水中の哲学者たち』

10)あいみょん :4th full Album「瞳へ落ちるよレコード」/Falling into your eyes Record/

11)あいみょんの『さよならの今日に』

12)宮崎夏次系の漫画『と、ある日のすごくふしぎ 』

No.2//あらためて、わたしが年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」を批判する理由について

(1)あたかも、「年間読書人さんが多数派の立場に異を唱えた立場である。」ことを理由にして、わたしが年間読書人さんの千葉雅也 さんの『センスの哲学』のレビューを批判しているかのように書いているのは、読者を欺く〈印象操作〉である、という件

年間読書人さんは、年間読書人さんからの反論(5)の中で、>「私はそうした多数派の立場に異を唱えた立場(それによって、スロウ・ボートさんから批判された立場)なのですが 」と、あたかも、「年間読書人さんが多数派の立場に異を唱えた立場である。」ことを理由にして、わたしが年間読書人さんの千葉雅也 さんの『センスの哲学』のレビューを批判しているかのように書かれている、とわたしは思います。さらにわたしが「芥川賞候補作家を追認する立場」であり「主流・多数派」であり、「世間ウケの良い立場」にいるかのように、読者を誘導している、とわたしは思います。               

そもそも、スロウ・ボートさんは、世評の高い千葉雅也の『センスの哲学』を絶賛し、「芥川賞候補作」である千葉の小説を絶賛する立場の人であり、私はそうした多数派の立場に異を唱えた立場(それによって、スロウ・ボートさんから批判された立場)なのですが、どっちが「世間ウケの良い立場」かは、言うまでもないはず。

ましてや今の世の中は「売れてナンボ」の新自由主義経済。マーク・フィッシャー言うところの「資本主義リアリズム」の世界なのですから、芥川賞候補作家を追認する立場の方が、主流・多数派だというのは、論をまたない事実です。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n13bbfc479c48

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

実際、前述のとおりで、千葉雅也の評価に関して、スロウ・ボートさんは「世間の評価」に迎合的ではあっても、そこからの独立性など、どこにも見いだせない。むしろ、世間の評価を、何倍にも増幅するような立場だと言ってもいい。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

しかし、まさに、これこそが年間読書人さんが巧妙に仕掛けた、読者を欺く〈印象操作〉であり、わたしとわたしの記事の印象を変化させ、年間読書人さんに都合の良い、意図する方向性へと、読者を導く、読者への策略的な「惑わし、取り違えさせる行為」ではないだろうか、とわたしは考えます。

わたしを「世間ウケの良い立場/主流・多数派の立場」に置き、対極として、年間読書人さんご自身は「多数派の立場に異を唱えた立場/少数派」に立つ、という対立的な構図を出現させることによって、わたしの千葉雅也さんの『センスの哲学』と小説『エレクトリック』の評価を、「主流・多数派と非主流・少数派」の闘争の一場面の中で起きた「主流・多数派からの非主流・少数派への批判」として、単純化し変容させ、すり替えよう、と年間読書人さんはしているのではないだろうか、とわたしは考えます。

年間読書人さんの行為は、わたしの千葉雅也さんの作品に対する評価を、あたかも「世間ウケの良い立場/主流・多数派の立場」の主張のひとつであり、「世間の評価」に迎合的な独立性のない隷属したもの、であるかのように扱い、読者にそうした印象を埋め込むための、年間読書人さんによって成された「〈印象操作〉のためのレッテル貼り戦略」である、とわたしは考えます

年間読書人さんはご自分を「世間ウケの良い立場」に安住することなく、「主流・多数派に異を唱え孤軍奮闘する戦う者」のごとく、描写されていますが、その自己陶酔ぶりは、滑稽さを通り越して悲惨としか言いようがないとわたしは思います。年間読書人さんは、あれこれと>「今の世の中は「売れてナンボ」の新自由主義経済。マーク・フィッシャー言うところの資本主義リアリズム」の世界なのですから」ともっともらしい話をしていますが、簡単に言えば、ご自身を崇高なる存在としての「孤高の勇者(ヒーロー)」であるかのように、見立て「自分が気持ちよくなりたい/自己陶酔したい」ために、わたしとわたしの記事を、道具として、利用しているだけである、とわたしは思います。

(2)「読書はひとりひとりが孤独の中で行う密やかで複雑な内的な行為である。」、及び、「読者を「絶賛する/しない立場の人」と分け、読書体験を「主流・多数派と非主流・少数派」の、闘争の一場面に矮小化することの、尊大さと浅はかさを、年間読書人さんは恥じるべきである。」という件

わたしが千葉雅也さんの『センスの哲学』を高く評価しているのは、千葉雅也さんが「世評が高い」からではありませんし、千葉雅也さんの小説を高く評価しているのも、「芥川賞候補作」だからでもない、とわたしは考えています。

わたしが「芥川賞候補作家を追認して」『センスの哲学』と『エレクトリック』を評価しているわけではないことは、わたし自身の内的なるもの声が刻印された、わたしのnote記事を読めば、明らかである、と思います。明らかであるのは、「なぜ、わたしが『センスの哲学』と『エレクトリック』を評価しているのか?」、その理由が「他人の言葉(世間の評価)」ではなく、「わたしの言葉」で書かれているからである、とわたしは考えています。 わたしのnote記事の中から「わたしの言葉」を読み取ることが出来ない人には、そのことは、当然のことながら、理解することなど出来るはずもない、とわたしは思います。

また、わたしは「絶賛する立場の人」のひとりではなく、何かしらの立場の人でもなく、ひとりの読者として、感想を述べているにすぎない、とわたしは考えています。

さらに、「読書はひとりひとりが孤独の中で行う密やかで複雑な内的な行為のひとつである。」とわたしは考えています。肯定的か、否定的か、といった感想の上辺だけを切り取って、読者を「絶賛する/しない立場の人」とか「世間の評価」に迎合的/独立的であるとか、「世間の評価」を増幅する/しない立場とかに、安直にカテゴリ分けし、読書体験を「主流・多数派と非主流・少数派」の闘争の一場面に矮小化し貶めることの尊大さと浅はかさを、年間読書人さんは恥じるべきである、とわたしは思います。

年間読書人さんは、「読書はひとりひとりが孤独の中で行う密やかで複雑な内的な行為である。」ということを、全く理解されていないのだ、とわたしは思います。読書体験を「主流・多数派と非主流・少数派」の闘争の一場面に閉じ込めることは、許されないことである、とさえ、わたしは思います。

(3)「「世間の評価」が高かろうが、低かろうが、そうしたことに関係なく、読者ひとりひとりが本/作品と向き合い、判断するそれが読書/作品体験である。」の件

一見すれば、世間の評価の高いものを、読者が異を唱え批判すれば「(その読者は)>「世間の評価」に迎合的ではなく、そこからの独立性がある。」のように観えてしまいますが、そうではない、とわたしは思います。

読書体験とは根源的に「世間の評価」の外部に存在する事柄である、とわたしは考えています。「世間の評価」が高かろうが、低かろうが、そうしたこととは関係なく、読者ひとりひとりが孤独の中で、作品/本と向き合い、自ら判断する、それが読書体験である、とわたしは考えます。読書体験を「世間の評価」に左右されるものにしてはならない、とわたしは考えています。

繰り返します。世間の評価の高いものを、読者が高く評価すれば「(その読者は)>「世間の評価」に迎合的ではあっても、そこからの独立性など、どこにも見いだせない。」と非難し、反対に、世間の評価の高いものを、読者が異を唱え批判すれば「(その読者は)>「世間の評価」に迎合的ではなく、そこからの独立性がある。」と賞賛するという思考こそが、読書体験を「世間の評価」に支配させる思考である、とわたしは考えます。

そうした「世間の評価」に読者体験を支配させる思考が、「世間の評価に媚びる、あるいは、裏返された媚びとしての世間の評価への異を唱える読者」を生み出すことにつながる、とわたしは考えています。「「世間の評価」に囚われない」とは、「世間の評価」に異を唱えることでもなければ、「世間の評価」に同調しないことでもなく、「読者ひとりひとりが、孤独の中で、作品/本と向き合い、自ら判断する。」ことである、とわたしは考えます。

「>(「世間の評価」と同じような肯定的な評価を)「世間の評価」に迎合的ではあっても、そこからの独立性など、どこにも見いだせない。」と非難する誤った認識を怖れることなく、読者ひとりひとりが作品/本と向き合い、自ら判断し、結果として「世間の評価」と自身の判断を照らし合わせれば、それでよい、とわたしは考えています。

「年間読書人さんの物事の捉え方は、〈「世間の評価」に囚われた〉物事の捉え方である。」とわたしは思います。「世間の評価」に媚びる/媚びない、迎合的/非迎合的、独立性/非独立性、主流/多数派、非主流/少数派、世間ウケの良い/悪い、等々、という物事の捉え方それ自体が、年間読書人さんが「世間の評価」に囚われていることの証左である、とわたしは考えます。

年間読書人さんのそのことに気が付かない鈍感さには呆れる他ありません。とわたしは思います。「語るに落ちる」とはこのことを指すのではないか、とわたしは思います。

(4)「わたしは『エレクトリック』を芥川賞の候補作として、読んではいない。」そして「わたしが書いた『エレクトリック』の読書感想文のnoteの記事の公開は『エレクトリック』が芥川賞候補作として発表される、前のことである。」という、件

★noteにアクセスして、この記事をご覧になられている読者の皆様方へ

そもそも、スロウ・ボートさんは、世評の高い千葉雅也の『センスの哲学』を絶賛し、「芥川賞候補作」である千葉の小説を絶賛する立場の人であり、

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

上記の年間読書人さんの反論(5)の引用部分を、読まれた方の中には、わたしが千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』を「芥川賞候補作」として、読んで、感想をnoteの記事として書いている。と思っている方がもしかしたらいるのかもしれない、とわたしは思います。

しかし、それは誤解であり、そうではないという〈誰にでも検証可能な、客観的な事実〉を、ここに、明記しておきたい、とわたしは思います。

千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』の初出は『新潮 2023年2月号』(2023年1月7日刊行)であり、わたしはそこで『エレクトリック』を読み、2023年2月11日に読書感想文をnoteの記事として公開した、とわたし思います。わたしのnoteの公開の時点では、『エレクトリック』の初出から約一か月しか経過してなく、『エレクトリック』は単行本にもなっていませんでした単行本として刊行されたのは2023/5/31のことだと、わたしは思います。

『エレクトリック』が、第169回芥川賞候補作としては発表されたのは、わたしのnoteの記事の公開(2023年2月11日)後の、2023年6月16日であり、わたしが『エレクトリック』を芥川賞の候補作として、読んではいないということは、〈誰にでも検証可能な、客観的な事実〉である、とわたしは考えています。

(5)あらためて、わたしが年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」を批判する理由について

わたしが上記の千葉雅也さんの 、『センスの哲学』のレビューである、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」批判している理由は、単純に、それが、あまりにも酷い「読み誤り(誤読)」であるから、とわたしは考えています。

年間読書人さんの記事を読んで、わたしが思ったことは「根拠の不確かな事柄を起点にした、推論に推論を重ねた結果の酷い誤解であり、悪意ある先入観による敵意に満ちた酷い思い違いだな。」とか「なぜ、それほどまでに、千葉雅也さんとその著作の読み手を激しく侮辱するのだろう?」とか「年間読書人さんは『センスの哲学』以前の千葉雅也さんの表現を、どの程度知った上で、この記事を書いているのだろう?」とか「年間読書人さんは千葉雅也さんの長編小説を一冊でも読んだことがあるのだろうか?」をいった疑問や憤りなど複数の否定的な感想です。

(※注:太字は今回の引用に際して、わたしが行ったものです。原文は太字ではありません。)

〈第1号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのか、その経緯など。

しかし、わたしの中で幾つかの事柄が組み合わさり、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」について、わたしが何も行うことなくそのままにしてはいけないのでは、と思うようになりました。年間読書人さんによる「千葉雅也さんと千葉雅也さんの作品の読み手に対する激しい侮辱」としかわたしには思えないその記事に対して、何事もなく通り過ぎるようなことはしない方がいいのではないか、と思うようになりました。

千葉雅也さんの『センスの哲学』の読み手のひとりとして、わたしなりに『センスの哲学』を擁護し、わたしなりに千葉雅也さんと千葉雅也さんの作品と読み手を擁護しなければならない、と思いました。

(※注:細字の部分は今回の引用に際して、わたしが変更しました。原文はすべて太字です。)

〈第1号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのか、その経緯など。

『センスの哲学』は「〈センス〉とは芸術/表現をリズム/音楽的存在として感じ取り楽しむ力である。」という千葉雅也さんの〈芸術・音楽論〉です。

『センスの哲学』は複数の事柄が複雑に組み合わせられた立体を造形しています。無数の相貌を有している本とも言えます。従って、この本の読者の数だけ、この本は顔を変えます。同じひとりの読者に於いてさえ、切り口が違えば異なる顔を現わします。立体性のある本とはそうしたものです。

しかし、そのことは「『センスの哲学』には誤読が存在しない。」という意味ではありません。無数の相貌を有している『センスの哲学』ではありますが、それでも、書かれていないことをあたかも書かれている事柄のように認識することは、誤った認識であり誤読でしかありません。

〈第1号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///このアカウントについて、あるいは、どのようにして、この批判の記事が書かれることになったのか、その経緯など。

※尚、下記の記事に詳しく、「わたしが年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」を批判する理由」について書かれています。

(6)あらためて、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」のわたしの批判の記事の紹介

※noteにアクセスして、はじめて、「年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論〉への応答/反論」を読まれ、これまでの経緯をご存知ではない、読者の皆様方へ。

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」に対するわたしの批判は、既に、昨年(2024年)の12月26日に、本アカウントの開設と同時に、記事として公開されています。今現在、わたしは、わたしの批判への年間読書人さんからの反論を待っている状態にある、とわたしは考えてします。

1)年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
  と言われても…。」の構造と内容についての分析

2)年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
  と言われても…。」の〈前半の部分〉についての、わたしの批判

3)年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
  と言われても…。」の〈後半の部分〉についての、わたしの批判
     

No.3//「noteは、「他者からの承認欲求」という欲望を、わたしが、解放する場である。」という、件

(1)はじめに //

わたしの本来のnoteのアカウント〈歩く水のような人の形をしたもの〉に於ける、わたしのnoteの記事がいかなるものであるのかを、話し、わたしに於ける、noteがいかなる存在であるのかを、話したい、とわたしは思います。

(2)「わたしに於ける、noteは、「他者からの承認欲求」という欲望を、わたしが、解放する場である。」という、件

わたしは、前回のわたしの応答/反論:〈第8号〉の中で、「わたしは他者からの承認欲求から自由ではない。」と明確に書いている、とわたしは思います。「わたしは、他者からの承認欲求によって、拘束されている。(自由ではない)」ということを、わたし自身が表明していると思います。

(2)わたしに於ける、事柄(A):「他者からの承認欲求から自由である。」について

わたしの中には他者からの承認欲求が存在し、わたしは他者からの承認欲求から自由ではない、とわたしは明確に自覚しています。

第8号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第4回目)〉への応答/反論

そして、

わたしが、noteのアカウントを持ち、そこで、自分の書いた記事を公開しているのも、そうした欲望の発露である、とわたしは考えています。

〈第8号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第4回目)〉への応答/反論

「わたしに於ける、noteは、「他者からの承認欲求」という欲望を、わたしが、解放する場である。(そうした欲望の発露である)」という意味内容も、既に前回のわたしの応答/反論:〈第8号〉の中で、わたし自身が明確に表明している、とわたしは考えています。

(3)さらに、「わたしに於けるnoteは「他者からの承認欲求」という欲望を、わたし自身が解放することによって、欲望が巨大化し、〈過剰なもの〉へと変貌することを防止する、欲望をコントロールする装置である。」という、件

なぜ、「わたしに於けるnoteが、「他者からの承認欲求」という欲望を、わたしが解放する場である。」かというと、それは、そうすることで、欲望が巨大化し〈過剰なもの〉へと変貌することを防止するためである、とわたしは考えています。わたしに於けるnoteとは、「他者からの承認欲求」という欲望をコントロールするための装置である、とわたしは考えています。

noteは、使い方次第で、「他者からの承認欲求」という欲望を巨大化させることも、欲望をコントロールすることも可能な仕組みである、とわたしは考えています。繰り返します。使い方次第で。

(4)他者を魅了させるために細部に渡って仕込まれた精密な仕掛けが施された、「他者から相応の賞賛を受けることを狙って作られたもの」である、ことと、〈わたしの内的なもののモノローグ〉であることを両立させる試み、である、わたしのnoteの記事

わたしのnoteの記事は、わたしの内部に存在する「他者からの承認欲求」という欲望を、満足させるものであり、わたしの内部で欲望が巨大化して、〈過剰なもの〉に変身し爆発することを、防ぐという目的のために、意図的に人為的に作り上げられたものである、とわたしは考えています。

わたしのnoteの記事は、「欲望の過剰化と爆発を未然に防ぐための安全弁的な作用をもたらす、生のエネルギー発散のための〈或る種の、言葉と映像で人為的に作製された、小さな、安全な、爆弾のようなもの〉」である、とわたしは考えています。

わたしの内奥で蠢く「他者からの承認欲求」という欲望が、〈過剰な欲望〉へと変身してしまう激しい誘惑に、苛まれながらも、〈過剰な欲望〉のもたらす破壊的な享楽への耽溺を振り払うために、〈或る種の、言葉と映像で人為的に作製された、小さな、安全な、爆弾のようなもの〉がわたしにはどうしても必要とされた、とわたしは考えています。

見掛け上の表面的な装いは、「読書感想文」であり、「作品を鑑賞したわたしの感想文」であり、「作品の批評」であり、「エッセイ」であり、「コラム」であり、別の言葉で言い換えれば〈わたしの内的なもののモノローグ〉である、とわたしは思っています。わたしのnoteの記事が〈わたしの内的なもののモノローグ〉であることは偽りではありませんが、それは基本的な構成要素のひとつでしかない、とわたしは考えています。

わたしのnoteの記事は、「わたしの内部に存在する「他者からの承認欲求」という欲望を、満足させるという目的のために」、他者を魅了させるための細部に渡って周到に用意され、仕込まれた精密な仕掛けが施された「他者から相応の賞賛を受けることを狙って作られたもの」である、ことと、〈わたしの内的なもののモノローグ〉であることを、両立させる試みのひとつ、である、とわたしは考えています。

わたしのnoteの記事の表現のスタイル/文体は、そうした「他者から相応の賞賛を受けることを目的として、狙って作られたもの」と〈わたしの内的なもののモノローグ〉であること、の双方を両立させる試みの枠組みの中で、生み出されたものである、とわたしは考えています。

決して、誰にでも受け入れられ、誰にでも好まれ、誰にでも読むことが可能な、万人向けのスタイル/文体ではありませんが、「双方を両立させる試みの枠組みの中」での試行錯誤によって、わたしの中で徐々に形成されて行ったものである、とわたしは考えています。

もしも、そうではないと言うのであれば、単に「そうではない」と否定するだけではなく、それを「実践」しているという事実を示すしかないはずなのですが、スロウ・ボートさんが、本来のハンドルネームである、

「歩く水のような人の形をしたもの」(https://note.com/waterwaves

の方で書かれている批評文は、はたしてそのように「ストイック(欲望自制的)」なものになっているだろうか?

それとも、これまでに何度か指摘したとおり、むしろ、欲望たれ流し的ものになってしまっているのか?

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

年間読書人さんは、わたしの「歩く水のような人の形をしたもの」(https://note.com/waterwaves)での、わたしの表現(のスタイル/文体)に対して>「「ストイック(欲望自制的)」なものになっているだろうか?」それとも、>「欲望たれ流し的ものになってしまっているのか?」と疑問を呈されていますが、

「欲望の過剰化と爆発を未然に防ぐための安全弁的な作用をもたらす、生のエネルギー発散のための〈或る種の、言葉と映像で人為的に作製された、小さな、安全な、爆弾のようなもの〉」であるわたしのnoteの記事が、>「ストイック(欲望自制的)」なものであるはずもない、とわたしは思います。

年間読書人さんはわたしのnoteの記事がいかなるものなのか、全く、ご理解されていないように、わたしは思います。年間読書人さんがわたしのnoteの記事を何も読めていないことは、明白である、とわたしは考えています。

わたし自身は、試みが、必ずしもうまく達成されているとは全く思ってはいません。これまでの、わたしの試みについて、読者の方々はいろいろな感想を持っておられるのではないか、とわたしは思っています。

「他者から相応の賞賛を受けることを目的として、狙って作られたもの」が〈わたしの内的なもののモノローグ〉を飲み込んで乗っ取り、わたしのnoteの記事が「他者から相応の賞賛を受けることを目的として、狙って作られたもの」として、全面的に彩られ、「作者の欲望を満たすための欲望そのものの仕掛け」に化けてしまった部分も多々ある、とわたしは考えています。

簡単に試みが成功するとは、わたしも思ってはいませんが、しかし、挑戦してみる価値のあることだ、とわたしは思っています。失敗を怖れず、わたしなりに、これからも、挑戦して行きたい、とわたしは考えてします。

No.4//「わたしの、noteへの依存の度合い」の件

(1)「他者からの承認欲求」という欲望を満足させて得られる快楽の基盤の部分が、〈他者からの視線を浴びる快楽〉である。そして、noteという「他者からの視線を受ける/浴びることが可能となる場所」に、人々が集う、という、件

「いいね」でもなく「よくないね」でもなく、それ以前の、他者からの視線を浴び、他者との関係性の中で、自己の存在を認識し/認識され、世界の中の自己の確かさを知ることの歓びである〈他者からの視線を浴びる快楽〉、それこそが、「他者からの承認欲求」という欲望を満足させて得られる快楽の基盤に位置しているものである、とわたしは考えます。

「いいね」が快楽を加速させ倍増させますが、「いいね」は必要不可欠の基盤的な存在ではなく、快楽の基盤として必要不可欠なものは、〈他者からの視線〉であり、〈他者からの視線〉を受ける/浴びることである、とわたしは考えます。

必然として、「他者からの承認欲求」という欲望は、他者の視線に飢え渇望し、〈他者からの視線を浴びる快楽〉を求め、自己を「他者からの視線を受ける/浴びることが可能となる場所」へ強く誘惑する、とわたしは考えます。

そして、その誘惑に応えるために誕生したのが〈SNS〉であり、〈SNS〉に人々が集う理由であり、「他者からの視線を受ける/浴びることが可能となる場所」のひとつとして、noteが存在している、とわたしは考えています。

(2)「わたしのnoteの記事の投稿は、記事のひとつが巨大なものではあるけれど、投稿の件数は極めて少ない。」という、件

わたしのnoteの記事は、ひとつで文字数が2万字近くあり、比較的巨大なものだとわたしは思います。しかし、投稿の件数は極めて少なく、昨年(2024年)に於いては、僅か3本、一昨年(2023年)於いても、5本の記事しか投稿していない、とわたしは思います。

文字数で言えば、2万字Ⅹ3本:6万字、一か月に換算すれば、約5000文字、一日に換算すれば、約160文字です。

わたしはnoteを2021年から使いはじめ、2021年〜2022年頃までは、比較的短い文章を記事にして、月に1〜2回程度、投稿していましたが、現在はそのようなものである、とわたしは考えています。

(3)「わたしのnoteの記事は、わたしの表現のほんの僅かな部分でしかない。」、及び、「わたしには、他者の視線を必要としない、表現/言葉/文章が、多々、存在している。」の件

わたしには、様々ことを書き記した厖大な文書/文章が、言葉として何かしらの物質として定着されたもの、(あるいは、未だ、言葉として何かしらの物質として定着されていないものを含めて)、があるのですが、noteの記事として公開されるのは、その中のほんの僅かな一部分でしかありません。とわたしは思います。

わたしに於いては、「わたしのnoteの記事は、わたしの表現のほんの僅かな部分でしかない。」、つまり、わたしには「わたしのnoteの記事以外の、多くの表現が存在している。」ということであり、表現のほとんどは、未来に於いても、他者の目に触れることはなく、その時が到来すれば、わたしと伴に向こう側へ行くことになる、とわたしは考えています。

もちろん、誰にも観せるつもりもない、誰も観たことにない、それらの表現は、他者に於いては存在しないものと同じであり、その存在を客観的な事実として立証することも不可能であることは、わたしは理解していますが、

それでも、わたしには、他者の視線を受けることを必要としない、「他者からの承認欲求」という欲望を、満足させるという目的のためには使わない、表現/言葉/文章が、多々、存在しているということを、ここに表明しておきたい、とわたしは思います。

(4)「わたしはnoteには依存していない。」という、件

少なくとも、わたし自身は「わたしは、noteを欲望の解放とコントロールの装置として、必要としているが、依存はしていない。」と、わたしは思っています。

noteに依存していないからといって「他者からの承認欲求」という欲望が、わたしに於いて〈過剰な欲望〉に変貌していない、とは言い切れませんが、「わたしの中の欲望が〈一定程度の範囲の中〉で収まっている可能性があること」、を示唆するもののひとつである、とわたしは考えています。

No.5//前回のわたしの応答/反論への補足:                              *「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。」の件

(2)わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」の意味

わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」とは「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え(のようなもの)」という意味である、とわたしは考えています。あらためていうまでもありませんが、わたしは医師ではありませんから、当然、「医師として、医学的に、「年間読書人さんには被害妄想がある。」と診断を下した。」のではありません。とわたしは考えています。あくまでも一般の人のひとりであるわたしが、或る事態に出会い、その事態に「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を見出し、その事態を「被害妄想的な何か」と表現した、ということである、とわたしは考えています。

〈第8号〉: 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第4回目)〉への応答/反論

(1)「被害(者)意識的な何か」と「被害妄想的な何か」は違うものである、の件

「被害(者)意識的な何か」と「被害妄想的な何か」は大きく異なったものである、とわたしは認識しています。

1)「被害(者)意識的な何か」とは、「自分が他人から攻撃され被害を受
  けているという、考え/認識(のようなもの)」である。
(とわたしは考   
  えています。)

2)「被害妄想的な何か」とは、「自分が他人から攻撃され被害を受けてい
  ると、〈強く確信された、誤った、変更が困難な〉考え/認識(のような
  もの)」である。
(とわたしは考えています。)

考え/認識(のようなもの)に〈強く確信された、誤った、変更が困難な〉要素が存在するか、否か、また、要素の存在の程度によって「被害(者)意識的な何か」と「被害妄想的な何か」は区別され、大きく異なっているものである、とわたしは認識しています。尚、「考え/認識(のようなもの)」とは「考え/認識(に類似するもの)」ということである、とわたしは考えます。

そうした認識の上に立ち、今回の事態は「被害(者)意識的な何か」ではなく、「被害妄想的な何か」である、とわたしは複数の根拠に基づき判断し「被害妄想的な何か」という言葉を用いた表現を行った。とわたしは考えています。

(2)「現代の日本の社会の中では、「被害妄想的な何か」は、医学用語以外の言葉として、使用される場合がある。」の件

「被害妄想」という言葉は医学に於いて厳密に定義された医学用語のひとつであることは確かである、とわたしは思っています。しかし、その一方で、現代の日本の社会の中では、「被害妄想」という言葉を、医学用語としてではなく、「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を、一般の人が社会の中の出来事/事態として、見出し、指し示め表現する、日本語の言語表現のひとつとして、受け入れられている、とわたしは考えています。

繰り返しますが、「被害妄想」は医学用語ではありますが、医学用語として使用するのではなく、社会的な文脈の中で、「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を表現する、現代日本語の言語表現のひとつとして、認知されている、とわたしは考えています。

「「被害妄想」という言葉を、医学用語としてしか、一切、使用しない、あるいは、使用してはいけないという感覚/認識」は、現代の日本の社会の中では「現代の日本語の表現に対する、ズレている、偏狭な感覚/認識」であるとわたしは思います。

※尚、参考文献として、Weblio辞書の中の『実用日本語表現辞典』による、「被害妄想」の意味を、下記に引用したい、とわたしは思います。わたしの認識とほぼ同じ内容が記載されている、とわたしは思います。

被害妄想(読み方:ひがいもうそう)(『実用日本語表現辞典』より)

(1)被害妄想とは、被害妄想の意味
被害妄想(ひがいもうそう)は、自分が誰かから攻撃されている・危害を加えられている、と(証拠もないのに)確信するという妄想状態、および、そのように思い込む心理状態のこと。自分は「被害者」であると信じて疑わずその証拠をこじつけによって見出し、反証などは頑なに聞き入れない態度。

通俗的な文脈において(軽口の範囲で)述べる場合、「やたらと周囲が自分を苛む」「なんで俺ばっかし、と思う」くらいの意味合いで用いられることもままある。

(2)被害妄想の語の由来・語源
★、被害妄想は、もともとは精神医療の分野における症状を指す学術用語である。「妄想」は、あるひとつの考えに固執・妄執する心理状態のことである。被害妄想は過度のストレスやうつ傾向が原因で発症することが多いとされる。★、昨今では、より通俗的な文脈で、「誰かから攻撃されている信じて疑わない(という思い込みが激しくなっている状態)」くらいの意味で用いられることも多い。

(3)被害妄想の類語と使い分け方
、被害妄想の類義語・類似表現としては、「自分は被害を受けている立場である(と認識している)」という意味では「被害者意識」が挙げられる。、ただし「被害者意識」は「自分は被害者と認識している」ということをのみ意味し、「被害妄想」のように「起きてもいない加害-被害の関係を捏造して」「誰かに加害者として責任を転嫁する」という妄想の意味合いはない。もっとも、妄想に基づく被害者意識は成立し得るが。

                       (2021年9月13日更新)

(※注:カッコ(1)と(2)と(3)と★、及び、太字はわたしによるものです。原文はカッコ(1)と(2)と(3)と、はなく、太字ではありません。)

Weblio辞書の中の『実用日本語表現辞典』による、「被害妄想」の意味

No.6//前回のわたしの応答/反論への補足: *「年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由・・とわたしは考えています。」の件

(1)正確に記述すれば、「「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」と年間読書人さんは、ご自分の言葉で、ご自分のことを表現されている。」ということである、あるいは、その認識はわたしの主観ではない、の件

年間読書人さんは表向きは「他者からの承認欲求から自由である」かのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。

(※注:カッコは、本引用において、わたしが行ったものです。原文はカッコなしです。)

わたしの記事の〈第6号〉

上記のわたしの見解の中の、「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」は、下記に引用した年間読書人さんの文章の中で記述されている、>「一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。」の部分から、「そのまま、引用した言葉」である、とわたしは考えています。

「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」というわたしの認識は、年間読書人さんの内面を、わたしが推測したわたしの主観ではなく、年間読書人さんご自身が書かれた言葉である、とわたしは考えています。正確に記述すれば、「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」と年間読書人さんは、ご自分の言葉で、ご自分のことを表現されている。」ということである、とわたしは考えます。

しかし、そういう「特権的立場」の保証されていない一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
一一で、そんな人たちに対して、「ウケなくても良いじゃない。イイねなんか気にしてたら、窮屈なだけだよ」と言っても、それは無理な話なのだ。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」/後半部分の『センスの哲学』からの引用の前に記述された文章より/

(2)「〈他者からの承認欲求から自由である。〉イコール〈「いいね」が欲しくない、あるいは、全く「いいね」が気にならない。〉という意味であるとわたしは理解していない。」の件

「他者からの承認欲求から自由である。」イコール「「いいね」が欲しくない、あるいは、全く「いいね」が気にならない。」という意味であると、わたしは理解していません。

「自由である」とは「囚われない」ということであり、わたしに言わせれば「「いいね」が欲しくない、あるいは、全く「いいね」が気にならない。」という認識は「他者からの承認欲求(「いいね」が欲しい)からの不自由」を示すものでしかない、とわたしは考えます。

「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」だからこそ、

年間読書人さんは、他人に媚びることなく、>「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れる」ことが出来き、>「「ひとまず」好きに書くということを優先し、「その上で」多くの人から評価されるのなら、こんな喜ばしいことはない。」と思われているのだ、とわたしは思います。「他者からの承認欲求から自由である」者が、「好きに書くということを優先した自分の表現」への他者からの評価を、拒む理由など何処にもない、とわたしは考えます。

何ひとつ、「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」という事柄の論理的な整合性は壊れてはいない、とわたしは考えています。

※わたしは、わたしの見解の中で「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」と書いていますが、しかし、年間読書人さんからの反論(5)の中の下記に引用しているような事柄は、わたしは書いてはいないし、主張してもいない、とわたしは考えます。

私が、他人の評価から「完全に自由な人間だと主張している」かのように、主張しています。

年間読書人さんからの反論(5)

「イイね」など「欲しくない」ということ

年間読書人さんからの反論(5)

「欲しくないと主張している」ということ

年間読書人さんからの反論(5)

「イイね」がありがたくも何ともない人間なら、

年間読書人さんからの反論(5)

私が「イイねなんか、まったく気にならないと主張している」

年間読書人さんからの反論(5)

(3)「たったひとつの「いいね」に救われた」ことの支持表明としての「宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューへの前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))のリンク、の件

わたしは、わたし宛てにリンクについての通知が届き、年間読書人さんのレビューの記事を開き、リンクを確認していますが、「ざっと斜めに目を通した」だけで、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューの記事は引用文を含め、全く、読んでいません。従って「(レビューを)無視するも、無視しないも、何もない」とわたしは考えています。読んでいないのですから。

>「このレビューの存在をご承知のはずのなのに、なぜか、こちらの方は無視なさっている。」という話も、>「どうして無視なさるのかと言えば・・(略)・・スロウ・ボートさんによって「単純化された構図」に、この部分は邪魔だったからでしょう。」という話も、自分の記事は当然、スロウ・ボートに読まれているはずである。」という年間読書人さんの思い込みによる年間読書人さんの誤解である、とわたしは指摘しておきます。

例えば私は、先日アップした、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューで、作中の、

『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』

https://note.com/nenkandokusyojin/n/naaed81953f2b

という言葉を引用して、その下に、前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))へのリンクを貼っておいたのは、当然のことながら、上の言葉を、正直な気持ちを語るものとして肯定した、支持表明としてです。

そして、当然スロウ・ボートさんには、このリンクについての通知が届いており、このレビューの存在をご承知のはずのなのに、なぜか、こちらの方は無視なさっている。

どうして無視なさるのかと言えば、それは私が「イイねなんか、まったく気にならないと主張している」という、スロウ・ボートさんによって「単純化された構図」に、この部分は邪魔だったからでしょう。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんからの反論(5)

No.7//年間読書人さんの反論(第5回目)全文

年間読書人さんからの反論(5)

No.8//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

No.9//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー

・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。

・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
 版!

・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入

No.10//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について

これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。

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