〈第6号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第2回目)〉への応答/反論
No.1//年間読書人さんの反論(第2回目)全文
No.2//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.3//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.4//わたしの反論
(1)前回のわたしの反論は、「「スロウ・ボートの行為は印象操作である。」という年間読書人さんの解釈/理解/認識は誤った認識である。」という、わたしの批判である、事について
まず、私の文章を細かく区切って、「と私(アレクセイ)は思う。」と付け足していくのは、〈識別コード〉付けであって、「印象操作」を意図したものではない、とのことですね。
「と、私(スロウ・ボート)は思う。」と。
でも、それは貴方の「意図」がそうだと説明しているだけで、「事実」がそうだとは限りません。
例えば、貴方に「その意図が無くても、印象操作として機能する」場合もあるし、貴方に「印象操作の意図があった」場合でも、普通は「印象操作の意図でやりました」とは言わないからです。
つまり、貴方がおっしゃっていることは、貴方の主張する「事実(公式見解)」でしかなく、私が貴方の御文を読んで解釈した「事実(意味するもの)」の話ではありません。
前回のわたしの反論は、「「年間読書人さんの記事に対するスロウ・ボートの批判の中で、スロウ・ボートが年間読書人さんの文章に対して行った行為は、印象操作である。」という年間読書人さんの解釈/理解/認識は、誤った認識である。」という、わたしの批判である、とわたしは考えています。
印象操作とは「他者の何かに対する印象を、誰かにとって都合の良いものになるように、誰かが情報の出し方や内容を操作すること。」であり、わたしが年間読書人さんの文章に対して行った行為は「文章を批評的に、批判的に読む。」ことであり、印象操作には該当しない、とわたしは考えています。
また、わたしの意図の説明は、わたしの批判の一部分でしかなく、わたしの批判の本体の論理はそこにあるのではない、とわたしは考えています。
繰り返しますが、前回のわたしの反論の骨子となる論理は以下の2点です。(とわたしは考えています。)
(1)わたしの要約文の文末への、「と年間読書人さんは思う。(認識、判
断、推測する)」という、わたしの追記は、〈識別コード〉の付与で
ある。(とわたしは考えています。)
(※注記)
追記は、わたしの要約の部分として書かれたものであり、年間読書人
さんの文章そのものへの直接的な追記ではなく、改変したものでもあ
りません。(とわたしは考えています。)
(2)「文章を批評的に、批判的に読む。」ということは、リアル・タイム
に〈識別コード〉を付与しつつ読むことである。(とわたしは考えて
います。)
年間読書人さんは他者から「文章を批評的に、批判的に読む。」ことを自分の文章にされると、そのことを「「自分の文章を印象操作された」と誤認してしまう。」とわたしは前回の反論で批判した、とわたしは考えています。年間読書人さんは、「他者が、文章を批評的に、批判的に読む。」こととは、どのようなことなのか、意味を全く理解していない、とわたしは考えています。
年間読書人さんが議論の場で行わなければいけないことは、わたしの前回の反論/批判の問題点、論理の矛盾/誤りを摘出し、批評し批判することであるとわたしは思います。しかし、年間読書人さんは前回のわたしの反論/批判/考えに対する批評/批判を行わない、あるいは、行うことが出来ていない、とわたしは考えています。
年間読書人さんが行っていることは「自分の見解/解釈/理解/認識が、自分に於ける「事実」なのだから、それ以外に、自分に於ける「事実」は存在しない。」と主張し、自分の見解/解釈/理解/認識を、不可侵のものとして絶対化し、正当化し、自分の認識/主観の中に逃げ込み閉じ籠ることである、とわたしは考えています。
疑うべきは、年間読書人さんの実感であり、思い込みであり、見解/解釈/理解/認識であり、わたしはその事柄を言葉によって批判している、とわたしは考えています。
「議論」の場とは、相互に自分の考えを言葉で表現し、他者に伝える場であり、「議論」とは、互いの見解の是非を問い、批判し合う事だ、とわたしは考えています。議論している相手が、自分の考え/批判を相手に伝えることを、「ほとんど無意味である」と捉える姿勢は、議論そのものを否定することに繋がってしまう、危うい考え方だ、とわたしは考えます。危うい考え方が行き着く最悪の場所が、〈ノーディベート〉経由の〈分断〉であることは言うまでもない、とわたしは思います。
年間読書人さんは、「議論の場が、何を行う場であるのか、という基本的な事柄」をご理解されていないように、わたしは思います。
(2)「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」による評価、あるいは、見解の説得力の判定方法について
しかし、主観の話ばかりをしていても仕方がない。
では、何のために議論するのかと言えば、どちらの「見解」に「説得力」があるのか、それが問題になります。
そして、この時に言う「説得力」とは、「客観的な第三者」にとって、ということになるでしょう。
無論「客観的な第三者」というのは「実在」はしない「仮定された判定者」にすぎません。ですが、それを仮定しないことには、そもそも議論は成立しません。
したがって、私が「印象操作」にしかなっていないと言う時、貴方が「その意図はなかった」と説明されることは、ほとんど無意味でしょう。
問題は、そうした「特殊な書き方」が、実際にどのような「効果」を持つものなのか、というのを、「客観的第三者」が、どう判断するかが、問題なのです。
「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」は読者(表現の受け手)のひとりひとりの中で、仮構されるものであり、判定の結果は、ひとりひとりに於いてのみ、有効なものである、とわたしは思います。そうした意味に於いて、ひとりひとりの中にしか内在することが出来ない「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」による判定の結果は、ひとりひとりの数だけ存在することになる、とわたしは考えています。
しかし、そのことは、全ての読者(表現の受け手)の全ての判定の結果が、「誤りではない。」ということを意味しているのではない、とわたしは考えます。無数の読者(表現の受け手)のひとりひとりの判定の結果の中には、幾つもの「誤った判定の結果」が存在している、とわたしは思っています。
書評で言えば、「読み誤り(誤読)」であり、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューもそのひとつである、とわたしは思っています。(Amazonのブック・レビューは、こうした「読み誤り(誤読)」のレビューが氾濫している場所である、とわたしは思っています。)
漠然とした抽象的な一般化された議論ではなく、書評の「読み誤り」の箇所を具体的に論点として明示し、個別的な議論を通して、読者の見解/解釈/理解/認識/見立ての是非を議論するべきだ、とわたしは考えます。
さらに、書評を含めた、人間の表現を巡る思考についての見解/解釈/理解/認識/見立ての説得力、あるいは、妥当性の判定は、〈見解の論理性〉によって判断されるものであり、〈見解の、他者/第三者/読者の情動への訴求力〉で判断されるものではない、とわたしは考えています。
年間読書人さんは反論(2)の中で、繰り返し「客観的第三者」が見解の「説得力」の判定を行うのだ、と主張されている、とわたしは思います。
>「では、何のために議論するのかと言えば、どちらの「見解」に「説得力」があるのか、それが問題になります。そして、この時に言う「説得力」とは、「客観的な第三者」にとって、ということになるでしょう。」
>「問題は、そうした「特殊な書き方」が、実際にどのような「効果」を持つものなのか、というのを、「客観的第三者」が、どう判断するかが、問題なのです。」
で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。
見解の説得力は他者/第三者/読者のリアリティ、実感、現実に即している感覚、腑に落ちる感、納得感、等々の共感、賛同によって判定されるものではない、とわたしは考えています。ましてや、他者/第三者/読者の共感、賛同の数の多さ、少なさによって判定されるものでもない、とわたしは考えています。他者/第三者/読者が神の如き公平性と透明性を有した理想的な「客観的第三者」になることは、永久に訪れることのない単なる幻想でしかない、とわたしは考えています。
見解の説得力の判定を他者の共感に委ねてしまえば、忽ち扇動者/デマゴーグたちの餌食にされてしまうだけだ、とわたしは考えています。扇動者/デマゴーグたちの犬笛に操られ集う群れが、共感の共同体を構成し、見解の論理性を踏みにじることになる、とわたしは思います。ほんの少しだけ人類の歴史を振り返るだけで、残忍で醜悪な巨大な殺戮がそこから生まれ出たことが解る、とわたしは思っています。
年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
(3)前回のわたしの反論の中の「とわたしは考えています。」の表記について
例えば、貴方の『(わたしの反論)』の反論のひとつ。
> 〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのものです。「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません。また、繰り返しになりますが、読者に対して示されたものでもありません。とわたしは考えます。
従って、それは、読者に対する、印象操作の「刷り込み」の意図で行われたものではありません。とわたしは考えます。
しかし、結果的に年間読書人さんが、そのようなものと理解されてしまったのは、わたしの説明不足に由来する、とわたしは考えています。わたしの批判〈第2号〉に於いて、〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうした理解にはならなかったと、わたしは考えています。
と、いちおう私の希望どおりに「と、わたしは考えます。」等と付けてくださっているように見えますが、しかし、貴方流のやり方が本当に必要なのなら、ここだって、次のようにしないと、意味がありません。
「〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのもの【と、わたしは考えます】。「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません【と、わたしは考えます】。また、繰り返しになりますが、読者に対して示されたものでもありません。とわたしは考えます。
従って、それは、読者に対する、印象操作の「刷り込み」の意図で行われたものではありません。とわたしは考えます。
しかし、結果的に年間読書人さんが、そのようなものと理解されてしまったのは、わたしの説明不足に由来する、とわたしは考えています。わたしの批判〈第2号〉に於いて、〈識別コード〉の付与の意味について、詳細に解説しておけば、そうした理解にはならなかったと、わたしは考えています。」
つまり、貴方のやり方は「厳密」なようでいて、実は「恣意的」なのです。
だって、『〈識別コード〉の付与は、批評/批判者が批評/批判を正確に実行するためのもの』
とか、
『「年間読書人さんが「個人的な解釈を、事実であるかのように、断言的に語っている」と、批判的に強調するためになされた手法」ではありません』
とかいった、肝心な「ご主張」の部分は、都合よく、【と、わたしは考えます】付けから除外されてしまっているからです。
わたしの前回の反論の中の「とわたしは考えています。」の表記は、わたしの書いた各センテンス毎に記述したものではなく、恣意的に区切ったものではない〈意味のひとかたまり〉として段落分けされた文章の末尾、にのみに記述したものである、とわたしは考えています。
>「貴兄のご文章については、文末に、必ず「と私は思う(思った、そう理解した、解釈した)」等と書いていただきたいと要望いたします。」
年間読書人さんの反論(1)の中の>「貴兄のご文章については、文末に」のオーダーの意味を「各センテンス毎の、文末」ではなく、「各文章(幾つかの文を連ねて、まとまった考えを表現したもの)毎の、文末」と、わたしが早とちりし勘違いしてしまい、そうなってしまった、とわたしは考えています。
年間読書人さんのオーダー通りの形で、今回、わたしは文章を書いている、とわたしは思います。しかし、そのことによって、わたしの文章の意味内容が変化することはない、つまり、わたしの批判の論理が変更されることはない、とわたしは考えています。
(4)「言葉数で、読者を圧倒する」という手法について
しかし、この事実に気づける「実在の読者」が、いったいどれだけいるでしょうか?
初めから、短い文章なら、細かく検討する気にもなるでしょうが、貴方の書き方では、その「文章量」に圧倒されて、細かいところまで分析するどころか、斜め読みして、大筋の印象を受け取るのが、やっとでしょう。
要は、読者の集中力が、削がれる書き方だ、ということです。
実際、他の部分でも、【と、わたしは考えます】が抜けていて、ただ、恣意的に区切った文章の最後の部分に【と、わたしは考えます】が付けられているだけなのですが、その「事実」に気づける読者は、この書き方によって、物理的に減らされてしまう。
こうした「言葉数で、読者を圧倒する」という手法は、例えば、口八丁の弁護士を評するのに「三百代言」と言ったり、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』の名探偵・法水麟太郎の「ペダンティックな推理」について、その文学的な「レトリック」を楽しめない、ガチガチの本格ミステリマニアである形式論理派の醒めた読者からは「法水麟太郎の推理におけるレトリックが、存在しない事件をでっち上げているだけ」などと酷評されたりするのと、同じようなことです。
また、ミステリの世界でのトリックとして、自分の殺した人物の死体を隠すのに、わざわざ戦争を起こして死体の山を築き、そこに死体を紛れさせる、「木の葉は、森に隠せ」式の証拠隠滅法というのがあります。
もちろんミステリの場合は、誇張されたものですが、しかし、これは人間の思考の盲点や思考力の物理的な限界(検証対象量の膨大さに対する疲弊)をうまく突いたものだから、読者もそれを面白いと思うのですね。「そういうことって、確かにあるよね」と。
で、貴方の文章は、それが意図的なものかどうかまではわかりませんが、結果としては、間違いなく「法水麟太郎」式のものであり、そのように機能していると、私は評価しているのです。
そして、そういうやり方は、論点を曖昧にするものでしかない、と思うのですね。
法水麟太郎と同様「詩的なレトリック」で楽しませるのが目的であるような文章なら、それでも良いのですが、論争に、そういう文体は不適切だと私には思えます。
そもそも読者の多くは、私のレビューへの貴方の批判の論点が何であったのか、すでにわからなくなっているのではないでしょうか。
それこそ、これも江戸川乱歩式に言うと「八幡の藪知らず」のごとく。
わたしの文章は「年間読書人さん、だけ」を読者として想定して書かれたものではなく、「年間読書人さん、及び、noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々」に向けて書かれたものである、とわたしは考えています。従って、わたしの文章は100パーセント、年間読書人さん好みの仕様で書かれているのではない、ということを年間読書人さんには了解していただきたい、とわたしは考えています。
また、表現する者であれば、誰のでもその方のスタイル/文体があり、わたしにはわたしの表現のスタイル/文体がある、とわたしは思っています。わたしのスタイル/文体は、万人受けするものとして作られものではなく、わたしの思考を純化させ鮮明にする目的のための作られたスタイル/文体である、とわたしは考えています。
そして、わたしの文章のスタイル/文体はわたしが決めることである、とわたしは考えています。
とは言っても、ここは議論の場であり、自分の表現のスタイルを貫く場ではありませんから、バランスを取ることが必要だ、とわたしは考えています。
いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
尚、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューへのわたしの批判の論点は、本アカウントで公開されている、わたしの記事、〈第3号〉と〈第4号〉で、本アカウントの開始時から既に明示済みであり、誰もが自由に、ご覧いただける状態になっている、とわたしは思っています。
(5)「どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。」ということ、について
貴方のご主張では、こうしたやり方の方が、私も含めた「読者」に対して親切だ、【と、わたしは考えます】ということなのかも知れませんが、私は、前記のような理由から、そうではないと思うし、実際にも、そのようには機能していないと、考えます。
で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。
もちろん、この「現実」とは、読者にとって、いろいろでしょう。
貴方の説明に「説得力」を感じる人もいるでしょうし、私の説明に「リアリティ」を感じる人もいて、絶対的な判定は不可能でしょうが、それは仕方のないことです。
「(2)実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者による評価、あるいは、見解の説得力の判定方法について」と同じ内容である、とわたしは考えています。従って、わたしの反論は(2)の方に集約させていただきたい、とわたしは思います。
(6)「事実」という言葉の意味について
そして、私の言う「事実そのものは存在しない」というのも、そういう意味です。
「何かが存在する」というのは、共通了解という意味で「事実」だと言っても良いでしょうが、「それ」が「何なのか」という点においては「事実」は存在しない。
千葉雅也さんの小説『エレクトリック』が芥川賞候補なったというのは「事実」でしょうが、「芥川賞候補作」であることが「一定の価値を保証する」というのは、「事実」ではなく「解釈」による「主観」な価値評価でしかありません。
つまり、多様な価値観を持つ人間の中において、同じ価値や意味を持つ、固定的な「事実」としての『エレクトリック』は実在しない、ということです。
人によっては、「それ」は「聖典」かも知れないし、別の人にとっては「駄作」、馬や山羊にとっては「単なる紙の束」でしかない。これは、どれも「事実」なのです。
つまり、「事実」とは、視点によって変わってくるものだということですね。
そのあたりをご理解なさっていないのだと思います。
したがって私は、「独我論」なんて、大袈裟なことは考えていません。私がいなくても世界は存在すると思っています。
しかし、その世界とは人によって違ったものでしかなく、客観的に絶対的な「事実」などというものは、存在していないと、そう言っているだけなのです。
今回の年間読書人さんの反論(第2回目)で、わたしなりに、年間読書人さんの文章の中の「事実」という言葉の意味を理解できたのかもしれない、とわたしは思っています。わたしの理解は次にようなものである、とわたしは考えています。
年間読書人さんの文章の中の「事実」という言葉の意味には二つの意味がある、とわたしは仮定し理解しています、とわたしは考えています。つまり、年間読書人さんの「事実」は「同形異義語」のひとつである、とわたしは考えています。
(意味A):ひとりひとりの個別の解釈ではなく、多くの人々(複数の
人々)に共有されている、実際に起きた事柄(出来事)として
の「事実」。(とわたしは考えています。)
※国語辞書に記載されている、通常の意味での「事実」という
意味。(とわたしは考えています。)
(意味B):ひとりひとりの個別の解釈が姿を変えて、ひとりひとりの前に
「現実」(のようなもの)として立ち現れた、ひとりひとりの、
個別の解釈としての「事実」。簡単な言い方をすれば「(ひとり
ひとりの)見立てとしての事実」。(とわたしは考えていま
す。)
※(意味A)の国語辞書に記載されている、通常の意味での「事
実」という意味ではなく、年間読書人さん独自の意味の込め
られた言葉としての「事実」(とわたしは考えています。)
このように仮定し理解すれば、「事実」という言葉が組み込まれた年間読書人さんの文章の意味が理解することが出来る、とわたしは考えています。(意味A)の方はひとりひとりの個別の解釈ではないのですが、(意味B)の方はひとりひとりの個別の解釈であり、意味的には対極的な位置関係にあり大きく異なっている、とわたしは考えています。
しかし、年間読書人さんの文章の中では、意味の異なる「事実」が(括弧付きではありますが)全く同じ表記である「事実」と記述されている、とわたしは考えます。ここがわたしの理解を難しくした点である、とわたしは思います。ただ、一旦、年間読書人さんの「事実」という言葉の二つの意味を知れば、年間読書人さんの話は、特段、難解な年間読書人さん独自の見解ではなく、「普通の平凡なありきたりの認識」でしかないことが分かります、とわたし思います。
年間読書人さんは(意味A)と(意味B)をその都度切り替えていますが、他の人は文脈の流れの中で、何方の意味なのか推測するしかない、とわたしは思います。年間読書人さんの反論(1)の中で、突然、>「「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」と言われても、わたしに理解できるはずもない、とわたしは思います。
年間読書人さんの文章の中には、こうした括弧付きで記述された「同形異義語」が他にも多々あり、年間読書人さんの文章の特徴のひとつである、とわたしは思っています。しかも、言葉の意味が対極的な関係性にあるものに対して「同形異義語」を用いていることも注目すべき点である、とわたしは考えています。年間読書人さんが、なぜ、「同形異義語」を用いているのか、理由はわたしには分かりませんが、それは、年間読書人さんの文章、あるいは、思考の持つ自閉性/閉鎖性、及び、年間読書人さんの自己矛盾/自己分裂の隠蔽性を示している事柄なのかもしれない、とわたしは考えています。
No.5//わたしから年間読書人さんへのお願い
複数の内容が含まれている「ずらずら」と書かれた年間読書人さんの文章を、内容別に章として区切ることは、前後の文脈から可能である、とわたしは思っています。しかし、わたしの章分けが、年間読書人さんの考えている通りのものなのかは、不明である、とわたしは思います。
そこで、年間読書人さんに、項目別なり論点別なりの「(1)***について(2)***について、、、」といった形の簡単なタイトルを付けて、章を設けて、文章を書いていただけないでしょうか? とお願いしたい、とわたしは思います。
ご検討、よろしくお願い致します。
No.6//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。
