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〈第8号〉                                年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第4回目)〉への応答/反論

はじめに//                今回を含めた、今後の議論の進め方について

★年間読書人さんとわたしの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る議論を、ご覧になられている、読者の皆様方へのお知らせ

前回のわたしの記事:〈第7号〉、及び、〈第7号〉への年間読書人さんの応答(第4回目)に於いて、今後の議論の進め方について、話し合いが行われました。結論として、今後は下記のような進め方で議論を継続することが決まりました。この方法によって「議論の非対称性」が解消されることになると、年間読書人さんとわたしは考えています。

年間読書人さんが、反論をメールに書き、指定のメールアドレスに投稿する。反論のメールを受信したわたしが、その内容を、これまでと同様に、「年間読書人さんの反論」の形にして本アカウントの記事として転載する。そして、わたしがそれに対して、本アカウントの記事で応答/反論する。


No.1//ご質問(1)への、わたしの応答                                *「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。」の件

(1)年間読書人さんの、わたしへのご質問(1)

(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。

私が「被害妄想的な何か」に憑かれているのではないか、とそう書かれていますが、その根拠がまったく示されておりませんので、事実に即して、具体的にご説明ください。

でないと、「精神科医」でもないスロウボートさんが、根拠も示さずこのように書いたことは、これも「病人呼ばわり」の「悪質な印象操作」または「誹謗」の類いだ、ということにもなりかねないからです。「ある点では、非常に細かいのに、ある点では、基本的な根拠提示が出来ていない」というのでは、スロウボートさんの批評への信頼を損なうことにもなりかねないと思います。

年間読書人さんの反論(第4回目)

(2)わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」の意味

※わたしが「年間読書人さんは、「被害妄想的な何か」に憑かれているのではないか」と考えた根拠を明示する前に、わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」の意味と、「議論」と「批判」の意味を、根拠の前提として示しておきます。

わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」とは「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え(のようなもの)」という意味である、とわたしは考えています。あらためていうまでもありませんが、わたしは医師ではありませんから、当然、「医師として、医学的に、「年間読書人さんには被害妄想がある。」と診断を下した。」のではありません。とわたしは考えています。あくまでも一般の人のひとりであるわたしが、或る事態に出会い、その事態に「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を見出し、その事態を「被害妄想的な何か」と表現した、ということである、とわたしは考えています。

(3)「議論」と「批判」の意味

「議論」とは「見解の異なる者たちが互いの見解を批判し合うこと」であり「批判」とは「見解の真偽や可否を検討して、見解の誤りや欠点を指摘し、見解に対する判定を行うこと」である、とわたしは考えています。

「議論」と「批判」は「見解の異なる相手を、言葉で、攻撃し被害を与えること」ではない、とわたしは考えています。批判の中で「遠慮のない厳しい言葉」が用いられ、見掛け上は「相手を言葉で攻撃し被害を与えている」と受け止められてしまう場合もあるのかもしれませんが、内容を観れば、それが、そうしたものではないことは明白である、とわたしは思います。

従って、「批判されることを、「攻撃され被害を与えられた」と受け止め、認識すること」は「誤った認識」である、とわたしは考えています。

(4)「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない。」とわたしが考えた、3点の理由/根拠

★根拠は、以下の3点です。

〈根拠:1〉

「自分(年間読書人さん)が、スロウ・ボードから、攻撃され被害を受けているという、年間読書人さんの認識/考え(のようなもの)」年間読書人さんの反論(2)の中に記述されている。(とわたしは思いました。)

喩えれば、「サイバー攻撃のひとつである、DoS攻撃(ドス攻撃 /サービス拒否攻撃/denial-of-service attack)のように、巨大なデータを相手に送りつけ、リソース(資源)に意図的に過剰な負荷をかけ、正常に動作できなくするフラッド攻撃(Flood/洪水)」のようなものをわたしから仕掛けられ、「自分(年間読書人さん)は、スロウ・ボードから攻撃され、被害を受けている。」という受け止め方/認識/考えを年間読書人さんが持っている、とわたしは思いましました。

以下に、わたしが「年間読書人さんがそうした受け止め方」をしていると、認識することになった根拠を、年間読書人さんご自身の記述の中から、幾つかの具体例として引用したい、とわたしは思います。

初めから、短い文章なら、細かく検討する気にもなるでしょうが、貴方の書き方では、その「文章量」に圧倒されて、細かいところまで分析するどころか、斜め読みして、大筋の印象を受け取るのが、やっとでしょう。要は、読者の集中力が、削がれる書き方だ、ということです。

年間読書人さんの反論(第2回目)

こうした「言葉数で、読者を圧倒する」という手法は、例えば、口八丁の弁護士を評するのに「三百代言」と言ったり、

年間読書人さんの反論(第2回目)

また、ミステリの世界でのトリックとして、自分の殺した人物の死体を隠すのに、わざわざ戦争を起こして死体の山を築き、そこに死体を紛れさせる、「木の葉は、森に隠せ」式の証拠隠滅法というのがあります。

もちろんミステリの場合は、誇張されたものですが、

年間読書人さんの反論(第2回目)

しかし、これは人間の思考の盲点や思考力の物理的な限界(検証対象量の膨大さに対する疲弊)をうまく突いたものだから、

年間読書人さんの反論(第2回目)

そもそも読者の多くは、私のレビューへの貴方の批判の論点が何であったのか、すでにわからなくなっているのではないでしょうか。
それこそ、これも江戸川乱歩式に言うと「八幡の藪知らず」のごとく。

年間読書人さんの反論(第2回目)

〈根拠:2〉

「自分(年間読書人さん)が、スロウ・ボードから、攻撃され被害を受けているという、年間読書人さんの認識/考え(のようなもの)」を示す記述が、何度も執拗に繰り返され強調され「自分が他人から攻撃され被害を受けているという、認識/考え(のようなもの)」「強く確信された、変更が困難な認識/考え(のようなもの)」であることが示されている。(とわたしは思いました。)

上記の引用にありますように、少なくとも、文字数:約1000の文章の中で、5箇所、そうした記述が繰り返されている、とわたしは考えます。

〈根拠:3〉

わたしの記事は「年間読書人さんの見解に対する、批判」であり、「年間読書人さんを攻撃し、被害を与えるもの」ではない、とわたしは考えています。しかし、年間読書人さんはわたしの批判をご自分への「攻撃であり、被害を与えるもの」であると、「誤った認識」をされている、とわたしは思います。

わたしの記事:〈第6号〉の「(4)「言葉数で、読者を圧倒する」という手法について」から引用したい、とわたしは思います。

わたしの文章は「年間読書人さん、だけ」を読者として想定して書かれたものではなく、「年間読書人さん、及び、noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々」に向けて書かれたものである、とわたしは考えています。

わたしの記事の〈第6号〉

年間読書人さんが、仮に「自分ひとりに、集中豪雨的に大量の言葉を、わたし(スロウ・ボート)から浴びせ掛けられた。」と思われているのであれば、それは、誤解であり思い込みである、とわたしは思います。そうではなく、わたしの記事は「年間読書人さん、及び、noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々(千葉雅也さんの『センスの哲学』を読まれた方々を含みます。)」へ向けられたものであり、「年間読書人さん個人を標的にして、「DoS攻撃的な、データ洪水的な」攻撃を仕掛け、被害を与えるもの」ではない、とわたしは考えています。

繰り返しますが、わたしの反論/応答は「年間読書人さん」だけではなく、「noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々(千葉雅也さんの『センスの哲学』を読まれた方々を含みます。)」へ、わたしから、伝えなければならない、とわたしが考えた事柄も内包しています。

従って、千葉雅也さんの『センスの哲学』に対するレビューを巡る「議論」を十分に尽くすために、必要であれば、わたしは書かなければならない文章を相応の文字数を使って、書く場合もあり得る、とわたしは考えています。

(5)以上の3点の理由/根拠により、わたしは「・・「被害妄想的な何か」に・・」と判断しました。

年間読書人さんのこの記事には、年間読書人さん独特の「大袈裟な、誇張された、表現」が多々なされている、と思いますが、しかし、そうした表現であるということを差し引いても、それだけでは説明出来ない部分が残り、

上記の3点の根拠により、「いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない。」と、わたしは総合的に判断しました。わたしは根拠もなく、そう思ったのではありません。

尚、正確を期するために、補足しておきますが、「もしかしたら・・・のかもしれない」と書かれているように、これは、わたしのひとつの推測であるとわたしは考えています。「根拠のある推測」であっても、推測は推測であり、わたしの文章はそれがわたしの推測であることを、読者に分かるように記述している、とわたしは考えています。

No.2//ご質問(2の1)への、わたしの応答        *「年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由・・とわたしは考えています。」の件

(1)年間読書人さんの、わたしへのご質問(2の1)

(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。

これも同じで、この「素人精神分析」は、どのような具体的な根拠があって、このように書かれたのか、その論拠をお示しください。

年間読書人さんの反論(第4回目)

(2)わたしの記事〈第6号〉に於ける、年間読書人さんがご質問されている、わたしの見解について

年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。

わたしの記事の〈第6号〉

わたしの記事:〈第6号〉に於ける、上記の見解は、年間読書人さんの他者からの承認欲求に対する、相反する二つの事柄(A)と(B)から構成されている、とわたしは考えています。そして、年間読書人さんの内部に於いて、相反する二つの事柄の何方もが、存在している、つまり、共存している、とわたしは考えています。従って、「年間読書人さんには、根本的な自己矛盾/自己分裂が存在している。」とわたしは判断し、見解を示しました。とわたしは考えます。

事柄(A):年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。(とわ
      たしは考える。)
事柄(B):年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見
      解の説得力の拠り所にしている。(とわたしは考える。)

(3)わたしが「年間読書人さんには、相反する二つの事柄(A)と(B)が共存している。」と判断した根拠について

〈根拠:その1〉

「事柄(A):「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」と、わたしが判断した根拠

年間読書人さんの『センスの哲学』のレニューの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の中で、年間読書人さんご自身が、「年間読書人さん(自分)は他者からの承認欲求から自由である。」という内容の事柄を、ご自分の言葉で、明確に表明されています。

つまり、著名人である千葉雅也なら、本業の「哲学研究」ではなくても、それなりに注目もされ、評価もしてもらえるから、その点で、その「趣味」に満足することもできるし、「本業」のような「重さ」もないから、「そっちでやっていけるのなら、そっちでやっていきたい」という気持ちも、それは理解はできる。

しかし、そういう「特権的立場」の保証されていない一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
一一で、そんな人たちに対して、「ウケなくても良いじゃない。イイねなんか気にしてたら、窮屈なだけだよ」と言っても、それは無理な話なのだ。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」/後半部分の『センスの哲学』からの引用の前に記述された文章より/

そして、勘の良い人ならすでに気づいているだろうが、要は、これは、千葉自身が進みたい方向を正当化するための「議論」なのだ。そうなってしまっている。
「大哲学者の解説屋なんかになるよりは、下手なりに、自由に自分らしくやったほうが楽しいし、見苦しくもないよ」と、そういうことである。

たしかに、この考え方は「正しい」とは思うし、私自身、その方向でやってきた人間でもある。一一けれども、それが「正しい」からと言っても、多くの人は、たぶんそんなことは望まないはずだ。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」/後半部分の『センスの哲学』からの引用の後に記述された文章より/

上記の引用に示されている、年間読書人さんご自身が書かれ表明された言葉が「事柄(A):「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」と、わたしが判断した根拠である、とわたしは考えます。

〈根拠:その2〉

「事柄(B):「年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」と、わたしが判断した根拠

年間読書人さんの反論(第2回目)の中で、年間読書人さんご自身が、「で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。」と、ご自分の言葉で、表明されています。

貴方のご主張では、こうしたやり方の方が、私も含めた「読者」に対して親切だ、【と、わたしは考えます】ということなのかも知れませんが、私は、前記のような理由から、そうではないと思うし、実際にも、そのようには機能していないと、考えます。

で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。

もちろん、この「現実」とは、読者にとって、いろいろでしょう。
貴方の説明に「説得力」を感じる人もいるでしょうし、私の説明に「リアリティ」を感じる人もいて、絶対的な判定は不可能でしょうが、それは仕方のないことです。

(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)

年間読書人さんの反論(第2回目)

ここで、「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を、読者に問う。」という考えを年間読書人さんご自身が示されています。

「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を読者に問う。」という考えは、「見解の説得力(の優劣)を読者の判断に仰ぐ。(読者の判断に求める。)」という考えである、とわたしは思います。

言い換えれば、「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を読者に問う。」とは、「見解の説得力を、読者からの評価(「いいね」という承認の有無)に依拠している。(拠り所にしている)」ということである、とわたしは考えます。つまり、年間読書人さんはご自身の見解の説得力を主張するためには、必然として、他者からの承認「いいね」を希求せざるを得ない、とわたしは考えます。

また、「で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。」という訴えかけるような表現には、年間読書人さんの「強い思い」が表現されている、とわたしは思います。

以上のことを根拠にして、「事柄(B):「年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」、とわたしは判断しました。

No.3//ご質問(2の2)への、わたしの応答          *わたし自身に於ける、「表向きは他者からの承認欲求から自由・・・見解の説得力の拠り所にしている』ということ、の有無の件

(1)年間読書人さんの、わたしへのご質問(2の2)

また、スロウボートさん自身『表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている』ということは、あるのか無いのかを、ご説明ください。
そして、それが「ある」のであれば、それは「自分の欲望を、他人に投影した」結果の「邪推」だとも考えられるからです。

年間読書人さんの反論(第4回目)

(2)わたしに於ける、事柄(A):「他者からの承認欲求から自由である。」について

わたしの中には他者からの承認欲求が存在し、わたしは他者からの承認欲求から自由ではない、とわたしは明確に自覚しています。しかし、その欲望は他者との繋がりを求める社会的な動物である人間にとって、必要不可欠なものであり、そうした欲望を持つことは、人間に於いて、自然なことである、とわたしは考えています。

わたしが、noteのアカウントを持ち、そこで、自分の書いた記事を公開しているのも、そうした欲望の発露である、とわたしは考えています。それは、人として、自然な行為である、とわたしは思っています。

但し、他者からの承認欲求が〈適度な欲望〉である限りに於いてであり、〈過度な欲望〉は自己と他者への暴力を生み出し、わたしたちの生きている世界を破壊する危険なものでしかない、とわたしは考えています。

※尚、わたしの記事:〈第4号〉中の「No.5―1//[セクション:後半]の概要に対する批判(その1)」に「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉についての、わたしの見解」と題された文章がありますので、その文章の全文を下記に引用したい、とわたしは思います。ここに、わたしの、他者からの承認欲求、〈適度な承認欲求〉、〈過度な承認欲求〉などについての基本的な見解が示されている、とわたしは考えます。

〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉についての、                   わたしの見解

人の集まりを形成する社会的動物である人間に於いて、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は必要不可欠なものとして存在しています。その欲望があるからこそ、人間は社会をかたち作ることができます。その欲望がなければ、社会は存在しません。進化の過程で、必ずしも生物的に頑強ではないホモ・サピエンスが今日まで生き延びることが出来たのは、人間に社会性が備わっているからです。単独ではなく、集まりによって困難を乗り越える方法としての社会性。人間の生存戦略としての社会性。人間の社会性を支えるものが、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉です。それがなければ人の世界は、ばらばらに分解してしまうでしょう。

しかし、それは、「〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉が適度である。」ことを前提にしています。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉はひとりひとりの人間、そして、社会を破壊するものとして作用します。

過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人間の自我を肥大させます。他者を自我の部分とすることで、欲望を満足させるためにです。さらに、巨大化した自我を維持するために、次々と他者を自我の幻想/ファンタジーの強化の道具として利用することになります。つまり、他者を自我の餌にすることになります。それが他者への暴力であることは言うまでもありません。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は、自我を肥大させ暴力を生み出すことになります。

SNSというテクノロジーは、集まりによって困難を乗り越える方法としての社会性のための有効なツールです。一方で、〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を刺激し、過度なものへと変貌させてしまう危うさも同時に孕んでいます。SNSが〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉を加速し、加速された〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉がSNSへの依存を加速します。連鎖的に加速されるSNSへの依存と〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉の暴走的巨大化。SNSに強く依存した人々が、他者を肥大した自我の餌にしようと、ネット空間を跋扈してしまうことになります。

繰り返します。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は社会的動物である人間に於いて、程度の差こそあれ、誰でも大なり小なり持っている欲望です。「そんな欲望など自分にはない。」という人は単に嘘つきか無知なだけです。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉自体に悪いも良いもありません。他人から「いいね」と言われたいために、あれこれと工夫すること、全然、悪いことではありません。〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人間の自然な欲望のひとつです。

適度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は、社会のために、そして、人間のひとりひとりのために、必要不可欠です。しかし、過度な巨大化した〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉は人も社会も壊してしまいます。過度な〈世間(他者)からの承認を求める人間の欲望〉が、暴力を生み出し、世界を破壊します。わたしたちは人間はそのことを知り、うまくその欲望と付き合う他ありません。

(※注:原文は全て太字です。引用にあたって、部分的に太字のままにし、他は通常の文字へ変更しました。)

わたしの記事の〈第4号〉の中の「No.5―1//[セクション:後半]の概要に対する批判(その1)」

(3)わたしに於ける、事柄(B):「他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている。」について

わたしは他者からの承認欲求が〈適度な欲望〉である限り、誰にとっても、必要なものである、とわたしは思っています。時には、「他者からの承認「いいね」を強く希求し」ても、全然、悪いことではない、とわたしは思います。繰り返しますが、それが〈過度な欲望〉に変貌しなければ、悪いことではない、とわたしは考えています。

しかし、だからといって、わたしは「他者からの承認「いいね」を、見解の説得力の拠り所にする。」ことはありませんし、それは誤った危険な考え方である、とさえ、わたしは考えています。自分の見解/表現の正当性を他人に譲り渡してはいけない、とわたしは考えています。自分の見解/表現の正当性を他人に譲り渡すことは、自己を他者へ譲り渡すことに他ならない、とわたしは思います。

既に、わたしの記事:〈第6号〉の中の「No.4//わたしの反論」の「(2)「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」による評価、あるいは、見解の説得力の判定方法について」の文章に、そのことが書かれている、とわたしは思います。

※下記に、あらためて、わたしの考えを明示するために、その部分を引用したい、とわたしは思います。

さらに、書評を含めた、人間の表現を巡る思考についての見解/解釈/理解/認識/見立ての説得力、あるいは、妥当性の判定は、〈見解の論理性〉によって判断されるものであり、〈見解の、他者/第三者/読者の情動への訴求力〉で判断されるものではない、とわたしは考えています。

わたしの記事の〈第6号〉の中の「No.4//わたしの反論」の「(2)「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」による評価、あるいは、見解の説得力の判定方法について」

見解の説得力の判定を他者の共感に委ねてしまえば、忽ち扇動者/デマゴーグたちの餌食にされてしまうだけだ、とわたしは考えています。扇動者/デマゴーグたちの犬笛に操られ集う群れが、共感の共同体を構成し、見解の論理性を踏みにじることになる、とわたしは思います。ほんの少しだけ人類の歴史を振り返るだけで、残忍で醜悪な巨大な殺戮がそこから生まれ出たことが解る、とわたしは思っています。

わたしの記事の〈第6号〉の中の「No.4//わたしの反論」の「(2)「実在しない仮定された判定者である、客観的な第三者」による評価、あるいは、見解の説得力の判定方法について」

No.4//年間読書人さんの反論(第4回目)全文

No.5//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

No.6//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー

・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。

・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
 版!

・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入

No.7//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について

これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。

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