〈第10号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第6回目)〉への応答/反論
まえがき
今回のわたしの反論は、主に、3件の事柄、第一「年間読書人さんの『センスの哲学』のレビュー」、第二「わたしのnoteの意味(年間読書人さんからの反論(6)に対する、わたしの応答)」、第三「わたしと北村紗衣さんの関係性」である、とわたしは考えています。尚、(わたしの〈第8号〉部分的な再録)を、終わりの方に記述しておきたい、とわたしは思います。
※第三「わたしと北村紗衣さんの関係性」について、
年間読書人さんからの反論(6)の中で、「わたしと北村紗衣さんの関係性」について書かれています。これは、年間読書人さんが、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から、逃げ回るために延々と行っている、無様で醜悪な〈論点ずらし〉の一環である、とわたしは考えています。
本来であれば、〈論点ずらし〉の相手をわたしがする必要もなく、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」とは、全く関係のない事柄なので、ここに、「わたしと北村紗衣さんの関係性」の件について書くことは控えるべきだろう、とわたしは思っています。
しかし、「わたしと北村紗衣さんの関係性」に関する年間読書人さんの誤認の中に「千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューに於ける、年間読書人さんの〈誤認〉の構造」と相似形を成す、「〈誤認〉の構造」が見出され、パターン化された「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」を明らかにすることは、意味があると判断し、第三のテーマとして、「わたしと北村紗衣さんの関係性」について、わたしは書くことにしました。
年間読書人さんが思い描いている、「わたしと北村紗衣さんの関係性」が、年間読書人さんの頭の中だけにしか存在しない「幻想(ファンタジー)」であることを〈誰にでも検証可能な、客観的な根拠(事実)〉に基づき、詳細に具体的に説明したいと、わたしは思います。
No.1//「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューは(ほぼ)すべて年間読書人さんの主観である。」さらに、「レビューには〈客観的根拠〉と〈論理的整合性〉が欠如している。」という、件
(1)「年間読書人さんは、いつまでも〈論点ずらし〉を繰り返して、逃げ回るのではなく、わたしの批判の〈論理的な整合性〉を批判すべきである。」という、件
年間読書人さんは、否定的なワードを、文章の中に、散りばめれば、それで批評/批判が実践されている、と勘違いされているようですが、全く、批評/批判にはなっていません。(とわたしは考えています。)
年間読書人さんは、いつまでも〈論点ずらし〉を繰り返して、逃げ回るのではなく、わたしの批判を批判するのであれば、わたしの提示した根拠に向き合い、言及し、わたしの、「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビュー」への批判の〈論理的な整合性〉を批判すべきである、とわたしは考えています。
(2)「スロウ・ボートさんのご意見というのは、すべて「私はそう思った」という主張でしかない。」という年間読書人さんの批判への、わたしの応答
事実、ここでの議論も、いつでも「私はこうだ」という主観だけです。
結局のところ、スロウ・ボートさんのご意見というのは、すべて「私はそう思った」という主張でしかない。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
だからこそ、大切なのは「客観的根拠」と「論理的整合性」なのですが、スロウ・ボートさんの「主張」は、いつでも「私はこう考えています」「私はこうなんです」という「強弁」ばかり。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人は反論の中で、繰り返し、わたしの批判を、>「スロウ・ボートさんのご意見というのは、すべて「私はそう思った」という主張(主観)でしかない。」と批判され、さらに、>「大切なのは「客観的根拠」と「論理的整合性」なのです」と書かれていますが、
しかし、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」は「すべて「私(年間読書人さん)はそう思った」という主張(主観)でしかなく、」、さらに、それは、「〈客観的根拠〉も〈論理的整合性〉も欠如したものでしかない。」ということを、明らかにしたい、とわたしは思います。
(3)「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューの内容は(ほぼ)すべて年間読書人さんの主観である」という、件
※年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
と言われても…。」の構造と内容についての分析
上記にリンクしている、わたしの記事、〈第2号〉:年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」(2024年4月10日)に対するわたしの批判:///年間読書人さんの記事を読み解くために記事を、33のセクションに分割し、各セクションの文書を、わたしが要約する。の中の、「No.3//年間読書人さんの記事の各セクションの文章を読み解くために、わたしによって文章の内容の要約を行う、その方法について」の項目の中から、一部引用します。
年間読書人さんの記事の内容は、実際に存在する事実も僅かに記述されていますが、ほぼ全て、年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されています。
・・・(中略)・・・
年間読書人さんのこの記事は、年間読書人さんの千葉雅也さんに対する考えと『センスの哲学』に対する考えが書かれたものですので、年間読書人さんの記事が年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されていることは、当然のことと言えます。
尚、ここで用いている〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉の言葉に意味は、下記にあるような一般的な辞書的な意味です。特別な意味は基本的には付与していません。
〇認識:或る事柄について、見分け、判断し、知ることこと。
〇判断:或る事柄について、考えをまとめて、定めること。
〇推測:或る事柄について、他の事柄をもとにして、判断すること。
推測も判断のひとつですが、推測を「他の事柄をもとにして、推し量ること」として、「考えをまとめて、定めること」である判断と区分しました。また、認識も判断のひとつですが、「見分け、知ることこと」である判断として区分しました。意味的には重なる部分がありますので、厳密な区分ではありません。あくまでも年間読書人さんの記事を読み解くためのものです。
「年間読書人さんの記事、「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の内容の(ほぼ)すべてが、年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉と〈推測〉によって構成されたものである。」、
さらに、「年間読書人さんの〈推測〉の根拠の(ほぼ)すべてが、年間読書人さんの〈認識〉と〈判断〉である。」、そして、「年間読書人さんの〈推測〉の根拠には、〈誰にでも検証可能な客観的な事実〉は(ほぼ)存在しない。」ことが、わたしの分析によって明らかになっている、とわたしは考えています。
「年間読書人さんのレビューは、年間読書人さんの見解/解釈/認識/理解/見立て、であり、「年間読書人さんのレビューの内容の(ほぼ)すべてが、年間読書人さんの〈主観〉である、とわたしは考えています。
(4)「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューの内容は(ほぼ)すべて年間読書人さんの見解/認識/主観である」という分析に対する、年間読書人さんの反論の、件
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューの内容は(ほぼ)すべて年間読書人さんの見解/認識/主観である」という、わたしの分析に対して、年間読書人さんは上記の引用にあるような反論をされている、とわたしは思います。
言い換えれば、年間読書人さんは、「作品/表現に対する批評/レビューとは、批評者の見解/認識/理解/解釈/見立て/であり、>「「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。」」と、ご自身で、指摘されています。
繰り返します。年間読書人さんは、「作品/表現に対する批評/レビューとは、批評者の見解/認識/理解/解釈/見立て/であり、批評者の主観である。」と、ご自身で説明されている、とわたしは考えます。
尚、ここで、年間読書人さんが書かれている「事実」という言葉の意味は、以下のような意味である、とわたしは理解/解釈しています。
(意味B):ひとりひとりの個別の解釈が姿を変えて、ひとりひとりの前に
「現実」(のようなもの)として立ち現れた、ひとりひとりの、
個別の解釈としての「事実」。簡単な言い方をすれば「(ひとり
ひとりの)見立てとしての事実」。(とわたしは考えていま
す。)
(5)「年間読書人さんのレビューは、すべて年間読書人さんの見解/認識/主観である」という分析に対する、年間読書人さんの反論」への、わたしの応答、件
上記の年間読書人さんの反論に対してわたしは以下のように応答しました。
>「誰が批評/批判者であっても、批評/批判は、批評/批判者の見解、理解、解釈見立てです。」そして、「批評/批判者の見解、理解、解釈、見立ての評価は、内容によって、その妥当性は判断されます。」
つまり、批評/批判が、批評/批判者の主観的な判断であるから、それを理由にして、否定されるものではなく、批評/批判の妥当性は、批評/批判に内在する「論理的整合性」によって判断される、とわたしは考えています。
わたしの批評/批判が、「「と私(スロウ・ボート)は思う。」ということにすぎないのではないでしょうか?」と言われれば、その通りです。しかし、そのことに良いも悪いもありません。批評/批判とは誰に於いても、本質的にそうしたものでしかあり得ません。とわたしは考えます。
・・・(中略)・・・
また、「断言」自体に良いも悪いもありません。問題となるのは、断言の内容です。とわたしは考えます。
批評/批判という行為によって成される、批評/批判そのものは、批評/批判者の見解、理解、解釈見立てです。誰が批評/批判者であっても、それ以外、あり得ません。とわたしは考えます。
批評/批判者の見解、理解、解釈、見立ての評価は、その内容によって判断されます。批評/批判が見解、理解、解釈、見立てであるから、それを理由にして、それらは信頼できるものではない、誤りである、ということではありません。あくまでも、内容によってその妥当性は判断されます。とわたしは考えます。
(6)「しかし、年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューには「客観的根拠」と「論理的整合性」が欠如している。」という、件
「年間読書人さんの、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビュー」に於いて、具体的にどのように、「客観的根拠」と「論理的整合性」が欠如しているのかは、下記にリンクされた、わたしの記事に詳細に書かれています。
※あらためて、順次、個別的な論点を明示しながら、再度、次回以降の、わたしの反論/応答の中で、記述したい、とわたしは考えています。
1)年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
と言われても…。」の〈前半の部分〉についての、わたしの批判
2)年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」
と言われても…。」の〈後半の部分〉についての、わたしの批判
No.2//「〈権威主義的な思考〉以外の何ものでもない、年間読書人さんの物事の捉え方」の件
(1)「「千葉雅也さんの『センスの哲学』『エレクトリック』を高く評価することは、権威主義的な評価である。」と、年間読書人さんは主張されている。」についての、件
> わたし(※ スロウ・ボート)が「芥川賞候補作家を追認して」『センスの哲学』と『エレクトリック』を評価しているわけではないことは
『エレクトリック』が「芥川賞候補」になる前に褒めていたという事実によって否定される、というのは認めましょう。
しかし、それがそのまま「権威主義的な評価ではなかった」ということにはならない。
なぜなら、『センスの哲学』や『エレクトリック』は、千葉雅也が、世間で十分に評価された後に刊行されたり、発表された作品であり、「無名の著書の作品」ではなく、「人気作家・千葉雅也」のそれに間違いないからです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
千葉雅也さんの『センスの哲学』、『エレクトリック』を高く評価することは、「「権威主義的な評価ではなかった」ということにはならない。」、つまり、「千葉雅也さんの『センスの哲学』、『エレクトリック』を高く評価することは、権威主義的な評価である。」と、年間読書人さんは主張されているのではないか、とわたしは思います。
(2)年間読書人さんが「千葉雅也さんの『センスの哲学』、『エレクトリック』を高く評価することは、権威主義的な評価である。」と、主張している理由」についての、件
「千葉雅也さんの『センスの哲学』、『エレクトリック』を高く評価することは、権威主義的な評価である。」と、年間読書人さんは主張されている。その主張の理由は以下のものである、とわたしは考えます。
(※)『センスの哲学』、『エレクトリック』が、「無名の作家の作品」で
はなく「世間で十分に評価された、人気作家・千葉雅也さんの作品」
であるから。
「無名の作家の作品ではなく、世間で十分に評価された、人気作家の作品」を高く評価することは、「世間の評価」に迎合した、「権威」に媚びる、「権威主義的な評価」である、という論理/思考が提示されている、とわたしは考えます。
(3)「「作品の作者のプロフィール(肩書き)」によって、作品を評価するそのありよう、こそが、〈権威主義的な思考〉以外の何ものでもない。」についての、件
短絡的で幼稚な、年間読書人さんの思考/論理には、今更ながら、目を背けたくなりますが、
しかし、そうした、作品の内容によって、作品を評価/判断するのではなく、「作品の作者のプロフィール(肩書き)」によって、作品を評価するそのありよう、こそが、まさに、〈権威主義的な思考〉以外の何ものでもない、ということは、あらためて、言うまでもないことだ、とわたしは思います。
作品の作者が、無名の作家であるのか、あるいは、世間で十分に評価された人気作家であるのか、そうした「作品の作者のプロフィール(肩書き)」に関係なく作品の内容によって、作品を評価/判断すること、それこそが、本当の「反/非〈権威主義的な思考〉」である、とわたしは考えています。
「作者のプロフィール(肩書き)」で、作品への態度/評価を変える、まさしく、〈権威主義的な思考〉の物事の捉え方の為せる行為だと、わたしは思います。「無名の人にやさしく、著名な人に強く」、その一見、「反/非〈権威主義的な思考〉」に観える行為が、「作者のプロフィール(肩書き)」に起因するものであることが分かれば、行為は、忽ち、(作品を、作品の内容ではなく、作者のプロフィール(肩書き)によって判断する、という意味に於いて)作品への侮辱へ、そして、評価する者の、著名な人へのジェラシーを覆い隠すための偽りへ、と変容して行くことになる、とわたしは思います。
(4)「年間読書人さんが〈権威主義的な思考〉の物事の捉え方を持っていることが、暴露されてしまった。」の、件
「無名の作家の作品」ではない「人気作家・千葉雅也」の、世間で十分に評価された後に刊行されたり、発表された作品である『センスの哲学』、『エレクトリック』を批判すれば、あたかも、ご自身は、「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることになる、と年間読書人さんは思われているようですが、
「作者のプロフィール(肩書き)」によって、作品を評価するその姿勢に、年間読書人さんの持つ〈権威主義的な思考〉が否応なく、表れてしまった、とわたしは考えています。年間読書人さんの、>「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」が、「作者のプロフィール(肩書き)」によって左右され決定されるのだとすれば、実践の中身がいかなるものか、推して知るべしである。(とわたしは思います。)
年間読書人さんが、様々な場面で、「作者のプロフィール(肩書き)」を気にしている理由が、分かったように、わたしは思います。
年間読書人さんは、「作者のプロフィール(肩書き)」を一早く調べ上げ、「無名の人にやさしく、著名な人に強く」のポーズをとり「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることをアピールし「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。年間読書人さんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない、とわたしは思います。
(5)〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、「作者のプロフィール(肩書き)」を理由に、礼讃することを躊躇ってはいけない。
〈偉大なる芸術家たち〉の作品を前にすれば、「作者のプロフィール(肩書き)」など〈どうでもよいこと〉であるのは、明らかだ、とわたしは思います。〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために、〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、礼讃することを躊躇ってはいけない、とわたしは思います。
サンドロ・ボッティチェッリ、ヒエロニムス・ボス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ピーテル・ブリューゲル、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ、ディエゴ・ベラスケス、レンブラント・ファン・レイン、ヨハネス・フェルメール、フランシスコ・デ・ゴヤ、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、ポール・セザンヌ、クロード・モネ、等々、美の天才たちとは、美の女神に選らばれし、美の女神に仕える美のための美の奴隷のことだった。美は人間を超えて存在していた。
その美の女神から授けられた美によって人間の魂が救済されたことは、まごうことなき真実だ。わたしたち人間は救われた。その美によって。人間の世界から美が失われることを考えれば、人間が美の女神の奴隷であることなど容易く受け入れることができることだ。いくらでも美の女神へ捧げようではないか。ありとあらゆるものを美の女神へ捧げようではないか。美のためにその時が到来するまでは、それで良いのだと思っていた。誰もが長き間。
No.3//「作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することを、わたしは抑制している。」という話は「可能な限り守るべきスタンダード」であって、「100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード」ではない、という件
★noteにアクセスして、この記事をご覧になられている読者の皆様方へ
本アカウントの〈スロウ・ボート〉は、わたしが、年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」についての議論/論戦のために、専用のアカウントとして、昨年(2024)の12月の終わりに、わたしが単独で立ち上げたものです。(後に、年間読書人さんからも了解をいただいています。)
わたしには、わたしの書いた記事を公開する、本来のnoteのアカウントが、元々、存在しています。アカウントの名前は〈歩く水のような人の形をしたもの〉です。わたしがどのような記事を書いているのか、お知りになりたい方は下記のリンクより、ご覧下さい。
(※注:このことは、本アカウント〈スロウ・ボート〉の開設時に、すでにはじめから開示されている事柄であり、隠し事でも何でもありません。)
(1)「作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することをわたしは抑制している。」というスタンダードは、「可能な限り守るべきスタンダード」であって、「100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード」ではない、という件
1)「わたしの、作品についての感想の、noteの記事の多くが、肯定的な内容であること、の理由」、及び、「作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することを、わたしは抑制している。」というスタンダード、について
前回のわたしの記事:〈第9号〉の中で、「No.1//わたしのnoteに於ける「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」の件」の中で、次のように、わたしは書きました。
(3)わたしの、作品についての感想の、noteの記事の多くが、肯定的な内容であること、の理由
わたしの作品についての感想のnoteの記事の、多く(いや、ほとんどすべて)「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のものである、とわたしは考えています。
さて、ここで、明確に言っておきますが、わたしの感想のnoteの記事が肯定的な内容であることは、わたしが、そうなるように、意図的に慎重に選別した結果であり、それには確固とした理由がある、とわたしは考えます。
理由とは、noteの記事の読者の方が、仮に、わたしの作品への否定的な感想に影響され、作品を手に取ることを、結果として、止めてしまうことなるかもしれないという危険性/可能性の回避のため、である、とわたしは考えています。つまり、わたしの見立てでしかない、わたしの否定的な感想が、他の人と作品との遭遇の機会を失くしてしまう危険性/可能性を、避けたい、とわたしが考えているからです。わたしの記事に影響力があるとは思ってはいませんが、Amazonのレビューの経験から、危険性/可能性はゼロではない、とわたしは思っています。
わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある、とわたしは思っています。わたしが「酷い」と思うことと、わたしが「これは酷い」と他の人に伝えることは、切り離すべき、であるとわたしは考えています。「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
従って、わたしは作品についての感想をnoteに記事として書く場合、「世間の評価」の良し悪しは別のこととして、否定的な内容であることを意識的に抑制している、とわたしは考えています。誤解を招かないように鮮明にさせておきますが、わたしが出会った作品の中には、「酷い」と思うものが多々あります。しかし、だからといって、わたしはそのことをnoteの記事として書いて公開しないようにしている、だけである、とわたしは考えています。
わたしは、ここで、「わたしの、作品についての感想の、noteの記事の多くが、肯定的な内容であること、の理由」を明らかにして、「作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することを、わたしは抑制している。」という、〈わたしに於ける、自分の守るべきスタンダード〉を提示しています。
2)〈作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することを、わたしは抑制している。〉というスタンダードを、わたしは自分自身で提示した後、 「しかし、わたしの作品についての感想のnoteの記事にも、幾つかの、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事がある。」と話を続けている、という件
(4)しかし、わたしの作品についての感想のnoteの記事にも、幾つかの、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事があるの件
わたしが、「主流・多数派を追認していない」「「世間の評価」に迎合的ではない」ことを示す、「世間の評価」の極めて高いと思われる、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事があるので、その記事を紹介したいとわたしは思います。上記に書いた理由で、わたしには、そうしたnoteの記事は少ないのですが。さらに、わたしの、幾つかの〈現実〉への、わたしなりの、「強く厳しい抵抗」のnoteの記事も、僅かにあるので、それも。
3)「わたしの話の全体的な文脈の流れから、〈作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することを、わたしは抑制している。〉というスタンダードは、〈可能な限り守るべきスタンダード〉であって、〈100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード〉ではない、のは、明白である。」の件
つまり、わたしは、ここで、〈作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することをわたしは抑制している。〉というスタンダードは、〈可能な限り守るべきスタンダード〉であり、〈100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード〉ではない、という意味の話を、行っているとわたしは考えます。
時には、わたしにも、〈可能な限り守るべきスタンダード〉を破り、「他人を傷付けること」もいとわず、「思い上がり」、作品の愚劣さを激しく批判する否定的な記事を書き、noteに公開し、「愚劣なものを愚劣と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行う場合がある、という意味の話を、わたしは、ここで、行っている、とわたしは考えています。
「普通に、順番に、わたしの文章を読めば、」そうした理解になる、とわたしは思います。特別に話の内容は、複雑なものでもなく、シンプルなものであり、話の流れもジグザグしていない、とわたしは思います。わたしは、「思い上がることを戒めながらも、時には、思い上がってしまう。」という単なる普通の人のひとりである、と自分のことを語っているにすぎません。
しかし、年間読書人さんは、このわたしの話をもってして、> 「スロウ・ボートさんの主張を、「内面の真実を装った嘘」だと疑うに足る理由が、次の矛盾です。」とか、> 「その明らかな「矛盾」」とか、>「しかも、前記のような「ダブルスタンダード」まで登場するのですが、たぶん、それについても、スロウ・ボートさんなら「ダブルスタンダードだとは思いません」で終わりでしょう。」等々、と批判されています。
しかし、これこそ、「為にする曲解」でしかない、とわたしは思います。> 「内面の真実を装った嘘」、> 「矛盾」、> 「ダブルスタンダード」と否定的な言葉を複数並べれば、批判を行ったことになると、年間読書人さんは思われているようですが、それらの表現が「為にする曲解」を飾るレトリックでしかないことは、明らかだ、とわたしは思います。
仮に、本当に、年間読書人さんが、「わたしの話の全体的な文脈の流れ」を把握した上で、わたしの文章を、そのような意味で読み取っているのであれば、年間読書人さんの「文章に対する読解力と認識力」は、重大な問題を抱えているとしか言いようがない、とわたしは考えます。
(2)わたしが提示した幾つかの、〈「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事〉は、すべて〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉である、の件
※年間読書人さんの「文章に対する読解力と認識力」は、重大な問題を抱えている可能性があることを示唆するものとして、さらに、次のことを示したい、とわたしは思います。
※もはや、それらは「見解の相違という次元」のことではなく、「基本的な文章に対する読解力と認識力」に関する事柄である、とわたしは考えます。
1)「わたしのnoteの記事は、すべてが根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」である。」という件
わたしのnoteの記事は、すべてが、根源的に「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との抵抗であり戦いである。」ことの証明である、とわたしは考えています。
さらに、証明こそが、「藝術、及び、哲学」のひかりを世界に解き放つ方法のひとつである、とわたしは考えています。わたしのnoteの記事はすべてが、根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」であるとわたしは思っています。不作為に、幾つかを紹介したいと思います。
わたしが、ここで、言っていることは、
わたしのnoteの記事は、すべてが根源的に「〈作品(藝術、及び、哲学)とは残酷なる〈現実〉との抵抗であり戦いである。〉というテーゼ(命題)」の論理的な証明であり、
その証明、つまり、
わたしのnoteの記事は、「〈作品(藝術、及び、哲学):イコール:(残酷なる〈現実〉との抵抗であり戦い)〉が、いかなるものであるのか、解き明かしたもの」であり、
「藝術、及び、哲学」のひかりを世界に解き放つ方法のひとつであり、
故に、〈わたしのnoteの記事は、作品に対して肯定的であれ、否定的であれすべてが、根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」〉となる。
と言っている、とわたしは考えています。
年間読書人さんは、わたしがここで言っている、意味/論理/ロジックを、全く、ご理解出来ていないように、わたしは思います。
2)〈「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事〉が〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉になるのは、論理的な当然の帰結でしかない。
前回のわたしの記事:〈第9号〉の中で、〈「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事〉の幾つかを、わたしは提示しました。
わたしのnoteの記事は、すべてが根源的に〈〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」〉であり、尚且つ、当時に、わたしのnoteの記事の(ほほ、全部が)〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉である、という二つの事柄から、わたしは提示した幾つかの〈「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事〉が、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉になるのは、論理的な当然の帰結でしかない、とわたしは考えます。
わたしが、「不作為に、幾つかを紹介したいと思います。」と言って選び取った記事が、すべて、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉となるのは、必然である、とわたしは考えます。
3)年間読書人さんは、真逆の事柄として、〈「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事〉が、〈作品への否定的なもの〉である、と誤解し、誤認している、の件
> わたしのnoteの記事はすべてが、根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」であるとわたしは思っています。不作為に、幾つかを(※ 否定・批判的な文章を)紹介したいと思います。
(※ は、年間読書人による補足)
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人さんからの反論(6)の中で、わたしの文章に年間読書人さんが補足していますが、そもそも、この、>「(※ 否定・批判的な文章を)」という年間読書人さんの補足自体が、全くの、真逆の誤りです。違います。
そうではなく、わたしが、「不作為に、幾つかを紹介したいと思います。」と言って紹介した記事は、すべて、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉の中から、わたしが選び取ったものである、とわたしは考えます。
年間読書人さんの、錯誤、は、さらに、続きます。
例えば、上の、
> 不作為に、幾つかを紹介したいと思います。
と言うのだって、実際には「不作為(無作為)」ではなく、自分で、作為を持って「選んだ」はずです。
目を瞑って、えいやっ!と指差して選んだような「無作為」なら、圧倒的に多い「褒め文章」の方に当たる確率が高いというのは、分かりきった話です。
★「でも、現実には、そうなっていない。」
つまり「不作為(無作為)」なんていうのは、レトリックであり、ていの良い「嘘」です。
(※注:太字と星印とカッコはわたしによる追記です。原文は太字ではありません。)
> 「でも、現実には、そうなっていない。」のではありません。違います。全くの、真逆の誤りです。>「(※ 否定・批判的な文章を)」が真逆の誤りですから。
繰り返しますが、わたしが「不作為に、幾つかを紹介したいと思います。」と言って選び取った、ここに掲載した12個のわたしの記事は、すべて、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉です。
わたしの記事の選択方法は「不作為に、」まちがいなく行われ、結果が、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉であることも、論理的に必然である、とわたしは考えます。
わたしのnoteの記事は、すべてが、根源的に「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との抵抗であり戦いである。」ことの証明であり、「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」である。
何度も繰り返しますが、年間読書人さんは、このわたしの文章の意味を、全く、ご理解出来ていない、ようにわたしは思います。
4)年間読書人さんの、「わたしが、ここで、選び取って掲載した12個の記事が、〈「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のもの〉であることを理解出来ていない。」と「「なぜ、わたしのnoteの記事は、すべてが根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」であるのか?」その論理を理解出来ていない。」二重の読解力不足による誤認、の件
年間読書人さんは、わたしが、わたしの文章の中で展開している論理/ロジックを、全く、理解していない、あるいは、理解する力がない、とわたしは思います。わたしの文章のロジックとレトリックの区別さえ出来なく、取り違えている疑いがある、とわたしは思います。
年間読書人さんは、わたしの前回の記事、そして、わたしが掲げた幾つかの記事を、何ひとつ読めていなく、わたしが文章の中で、繰り広げている論理/ロジックを追跡することが出来ずに、読み誤り(誤読)を何度も行っていることが、ここに、表れている、とわたしは考えます。
議論/論戦に於いて、議題/テーマ/論点を、鮮明に提示できない年間読書人さんの思考力/論理力の一端を垣間見たように、わたしは思います。
あまりにも、年間読書人さんの読み誤り(誤読)が酷すぎて、唖然とするしかないのですが、年間読書人さんの読解力のレベルの異様なまでの低さに、わたしは、思わず、目を覆いたくなりました。
千葉雅也さんの『センスの哲学』の酷い読み誤り(誤読)も、当然のことだ、とも、わたしは思います。必然として、年間読書人さんの他の批評のレベルも、およそ想像出来るというものだ、とわたしは考えます。
No.4//(再録)//わたしの記事〈第9号〉より 「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事
※、以下、わたしの記事:〈第9号〉より、再録
***
(7)「藝術、及び、哲学とは、残酷なる〈現実〉との、抵抗であり、戦いである。」ことの証明としての、わたしのnoteの記事
1)ゲルハルト・リヒターの絵画、について
2)デイヴィッド・ホックニーの絵画、について
3)現代美術、について
4)カズオ・イシグロの長編小説『クララとお日さま』
5)クリス・ウィタカーの長編小説『われら闇より天を見る』
6)原作:村上春樹 Ⅹ 監督:濱口竜介の映画『ドライブ・マイ・カー』
7)橋口亮輔監督の映画『恋人たち』
8)四方田犬彦の箴言集『いまだ人生を語らず』
9)永井玲衣の哲学『水中の哲学者たち』
10)あいみょん :4th full Album「瞳へ落ちるよレコード」/Falling into your eyes Record/
11)あいみょんの『さよならの今日に』
12)宮崎夏次系の漫画『と、ある日のすごくふしぎ 』
No.5//「〈「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなこと〉とは、わたしのAmazonのレビューでの経験である。」についての、件
(1)「「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。」と書いた前回のわたしの記事〈第9号〉についての、件
わたしは、前回のわたしの記事〈第9号〉の中の、「No.1//わたしのnoteに於ける「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践」の件」の中で、次のように書き、「わたしの、作品についての感想の、noteの記事の多くが、肯定的な内容であること、の理由」について説明している、とわたしは思います。
理由とは、noteの記事の読者の方が、仮に、わたしの作品への否定的な感想に影響され、作品を手に取ることを、・・(略)・・
・・・(中略)・・・
わたしの記事に影響力があるとは思ってはいませんが、★「Amazonのレビューの経験から」、危険性/可能性はゼロではない、とわたしは思っています。
・・・(中略)・・・
「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
(※注:★「Amazonのレビューの経験から」の部分の星印とカッコは、本引用で追加したものです。原文にはありません。また、太字、細字は今回の引用にあたり、原文より変更しました。)
その中で、
「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
と書いています。
(2)「〈「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなこと〉とは、わたしのAmazonのレビューの経験である。」についての件
スロウ・ボートさんは、
> 「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
と書いて、さも私が「思い上がって」おり、ご自分の方はそうではない、かのように「自己美化」しておられます。
(※注:太字はわたしによるものです。原文には太字ではありません。)
「なぜ、年間読書人さんが、>「さも私が「思い上がって」おり」と思われたのか?」わたしにはさっぱり理由が分かりませが、年間読書人さんは、わたしによって、> 「「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切る」者として、自分(年間読書人さん)のことを、名指しされたと思われているように、わたしは思います。
しかし、この「「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切る」者は、年間読書人さんのことではなく、Amazonのレビューの中の人たちのことであり、わたしがここで書いていることは、わたしの「Amazonのレビューの経験から」のわたしの見解である、とわたしは考えています。
Amazonのレビューには、今に始まったことではありませんが、こうした「(自分は、自分の感想を正直に書いているだけで、嘘は書いてはいない。レビューとはそうしたものである。)駄作を駄作と言って何が悪い!」という感覚が、良くも悪くも、溢れている、とわたしは思っています。わたしはそうした〈正しき人たち〉の独善性に満ちた、Amazonのレビューに、心底〈げんなり〉させられています。
多分、少なからずの人たちが、わたしと同じようにAmazonのレビューの〈正しき人たち〉に〈げんなり〉しているのではないでしょうか。
(3)「わたしは、年間読書人さんのnoteの記事の90パーセント以上を、読んでいません。」についての件
年間読書人さんと議論をはじめた昨年の終わりから、わたしは年間読書人さんをフォローさせていただき気になった記事は読ませていただいています。
しかし、年間読書人さんの関心事とわたしの関心事には大きな違いがあり、わたしは、年間読書人さんの記事のほとんどは、「記事のタイトルを読み、ざっと、斜めに目を通す」だけです。わたしが「(断片的に)読んでいる」年間読書人さんの記事は、実質的に数パーセント程度のものでしかない、でしょう。
年間読書人さんは、ほぼ毎日のように、数千文字のnoteの記事を投稿されています。今年に於いても、既に、約60件の記事を投稿され、総文字数は30万を超えているのではないでしょうか。わたしが「読んでいる」のは、おそらく僅か2万文字以下でしょう。わたしは、年間読書人さんの記事の90パーセント以上を、読んでいません。それが現実です。年間読書人さんの記事の多くを「読むこと」が出来るほど、わたしには、noteに使用することが可能な「書くこと/読むこと」の物理的な時間が存在していません。(この記事を書くのも、空いた時間を工夫して作りながらの行為です。)
(4)「わたしの話を、理由もなく、年間読書人さんがご自分の記事と結び付けるのは、年間読書人さんの自意識過剰である、と言わざるを得ない。」の、件
年間読書人さんは、ご自身が書いて、公開された厖大な記事に関連する事柄について、わたしが言及した場合、「わたしが、年間読書人さんの記事を読んで、その事柄について、わたしが言及している。」と思われてしまうのかもしれません。
しかし、「年間読書人さん独自の、年間読書人さん以外の人が書いてはいない、思ってはいない、考えてはいない」という年間読書人さんオリジナルの思考/事柄ではなく、「その他の人たちも、似たようなことを、思っている/考えている/書いている事柄」に、わたしが言及した場合、
「わたしが、年間読書人さんの記事を読んで、その事柄についてわたしが言及している。」可能性は無い、あるいは、可能性は限りなく低い、のが現実である、とわたしは考えます、わたしの話を、年間読書人さんがご自分の記事と結び付けるのは、年間読書人さんの自意識過剰である、と言わざるを得ない、とわたしは思います。
繰り返しますが、わたしは、「年間読書人さんの記事の90パーセント以上を、読んでいません。それが(偽らざる)現実です。」(大量の年間読書人さんの記事を、読む物理的な時間が、わたしにはありません。)
年間読書人さんには、「世界が自分を中心に回っているという錯覚」である自己中(じこちゅう)性と、「物事を自分事に関連付けるという強い傾向(自意識過剰の傾向)」が存在している、さらに、その自覚がない、とわたしは考えています。
(5)「「年間読書人さんはこんなことを書いて自慢している」などという文章」は、具体的にどの文章を指すのか?」についての件
それほど、スロウ・ボートさんは、私の文章に興味がないにもかかわらず、「年間読書人さんはこんなことを書いて自慢している」などという文章を、よくも見つけてきたものです。
あれは、たまたまだったのでしょうか? それとも、一所懸命に探されたのでしょうか?
(※注:太字はわたしによるものです。原文には太字ではありません。)
>「よくも見つけてきたものです。
あれは、たまたまだったのでしょうか? それとも、一所懸命に探されたのでしょうか?」
わたしが、一体何を、「たまたま」、それとも、「一生懸命探して」、見つけてきた、と年間読書人さんは言われているのでしょうか? わたしに於いては、意味不明な年間読書人さんの思い込みを聞かされている、としか言いようがありません。
仮定として、>「 「年間読書人さんはこんなことを書いて自慢している」などという文章」を、> 「駄作を駄作と言って何が悪い!」を指すのであれば(繰り返しますが)、「年間読書人さんの記事から見つけ出しもの」ではなく、わたしの「Amazonのレビューの経験から」のわたしの見解であることを、ここに、明記しておきたいと思います。
No.6//「わたしと北村紗衣さんの関係性」についての件
(1)はじめに// 年間読書人さんの、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」の中に於ける、疑問の、件
例えば、スロウ・ボートさんは、私が批判している北村紗衣の、ネット連載エッセイ、
・【素面のダブリン市民】第11回 ショーン・オケイシー『銀杯』に出てくる「フットボール」とは?(北村紗衣)
https://note.com/kankanbou_e/n/n285db6b2726b
に、「別名義」の方で「スキ」を押しておられますが、これは「偶然」なのでしょうか?
スロウ・ボートさんは、私と議論をする前から、北村紗衣を知っていて、そのネットエッセイまでチェックし、わざわざそれに「スキ」を押すほど高く評価していたと、そうおっしゃるのでしょうか?
それとも、私の記事を見て、北村紗衣に興味を持ち、それで北村紗衣のネット記事まで読んで、さらに「スキ」まで押したのでしょうか?
普通に考えれば、後者だと思いますが、しかしそこまで私の書くもの、そして私の批判対象までチェックしている人なのなら、わざわざリンクを張って通知がいくようにしたもの方を、まともに読まないというのは、いかにもアンバランスであり、無理のある話なのではないでしょうか。
それとも、関係のあるものでも、読みたくないものは読まない(見たくないものは見ない=故意に無視する)、ということだったのでしょうか?
まあ、これも「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ない」と言い張ることはできるでしょう。
しかし、そんな無理な「自己申告」を、誰が信じるんでしょうね?
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
年間読書人さんは、上記の引用にありますように、年間読書人さんからの反論(6)の中で、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」について言及されています。その中で、幾つかの疑問を、わたしに対して持っていらっしゃる、とわたしは思います。
それらは年間読書人さんの頭の中だけに存在する「幻想(ファンタジー)」が生み出した疑問でしかないのですが、本記事の冒頭に書いた理由により、以下に説明したい、とわたしは思います。
(2)「わたしと北村紗衣さんとの関係性」についての、件
時系列的に、順を追って、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」について、詳しく具体的に説明したいと思います。
※尚、ここに書かれている事柄の幾つかの部分は、わたし以外の誰も知らないことです。それらの事柄について、〈誰にでも検証可能な客観的な事実〉として、提示することは、わたしには出来ません。わたしの立場に立てば、わたしに限らず、誰であっても不可能なことである、とわたしは思います。しかし、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」の核心的な部分については、〈誰にでも検証可能な客観的な事実〉として、提示している、とわたしは考えています。
1)小説家・川上未映子さんが、歌人・笹井宏之さんの短歌を紹介されたの
を機に、笹井宏之さんのこと、その作品/短歌のことを、わたしは知る。
(noteを始める前の、2021年以前のこと。)
2)笹井宏之さんの歌集を、わたしは購入し、笹井宏之さんの短歌を読み、
深く揺り動かされる。(noteを始める前の、2021年以前のこと。)
尚、後に、noteをはじめたわたしは、笹井宏之さんの歌集『ひとさらい 笹井宏之第一歌集』について言及した記事を、2022年6月12日に公開しています
3)笹井宏之さんの歌集『ひとさらい 笹井宏之第一歌集』の出版社として、書肆侃侃房をわたしは知る。書肆侃侃房は、わたしに於いて、気になる大切な出版社のひとつとなる。(noteを始める前の、2021年以前のこと。)
4)わたしは、書肆侃侃房が刊行した『お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(2019/6/16)によって、北村紗衣さんのことを知る。(noteを始める前の、2021年以前のこと。)
5)2021年7月10日に、わたしは、〈歩く水のような人の形をしたもの〉として、noteをはじめる。
6)わたしは、noteにて、『書肆侃侃房 web侃づめ』をフォローする。
※現在、わたしは、300人近くの方々をフォローさせていただいていますが『書肆侃侃房 web侃づめ』は、12番目にフォローさせていただきました。わたしが、noteをはじめて、早い時期の、2021年のことだと思います。
>「出版社の書肆侃侃房のウェブマガジン「web侃づめ」です。新刊やイベントの情報もお知らせします。」

7)わたしは、noteにて、『書肆侃侃房 web侃づめ』が配信された際に、
(全部ではないにしても)その都度、読み、〈読みましたよ〉と、書肆侃
侃房さんへお知らせするために、「スキ」を押し、現在(2025年)に至っ
ている。
確かではありませんが、多分、わたしが〈読みましたよ〉と書肆侃侃房さんへお知らせするために、「スキ」を押した、最も過去(2021年8月20日)のものは、これではないかと、わたしは思います。
(3)わたしが北村紗衣さんのことを知った経緯、及び、『書肆侃侃房 web侃づめ』〈北村紗衣「素面のダブリン市民」〉についての、件
繰り返しますが、わたしが北村紗衣さんのことを、はじめて知ったのは、書肆侃侃房が刊行した『お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(2019/6/16)、この本だと、記憶しています。「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」という不思議なタイトルが、印象的でした。しかし、わたしは映画好きではありますが「フェミニスト批評」に特別な関心や興味があるわけではありません。わたしは「おもしろそう」とは思いましたが、この本を実際には読んではいません。
北村紗衣さんは他にもいろいろな本を書かれているようですが、わたしは一冊も読んではいません。わたしは映画好きなので、最近、わたしのアンテナに下記の本がキャッチされました。『書肆侃侃房 web侃づめ』に【試し読み】もあり、実際に本を手に取って、気になる映画のページをパラパラと断片的に読んでみましたが、「特段、これ、という感想」は何もありません。
北村紗衣さんの映画についての文章には、「わたしの何かを、揺り動かすものが、欠けていた。」ということです。さらに、言えば「映画は〈思想〉を表現する道具/手段ではない。」と思っているわたしには、「北村紗衣さんの映画への向き合い方とは相容れない部分がある」とわたしは思っています。
「素面のダブリン市民」(1年間アイルランドのダブリンに住むことになった『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』著者の北村が、ゆるい感じでアイルランド生活について発信します。)も、『書肆侃侃房 web侃づめ』のエッセイのひとつとして、読んでいるに過ぎません。執筆者が北村紗衣さんだから、それを選び取って、読んでいるというわけではありません。(因みに、わたしには〈ダブリン〉という都市が、幾つかの理由(ケルト文化、ジェイムズ・ジョイス、等々)で、深い関心があるのです。)
(4)「しかし、わたしは北村紗衣さんには、特別な興味も関心も何もありません。」さらに、「わたしに於いて、〈年間読書人さんの、北村紗衣さんへの批判〉は〈わたしの知ったことではない、どうでもよいこと〉のひとつでしかありません。」という、件
「わたしと北村紗衣さんの関係性」は以上のようなものです。それ以外のものは何もありません。わたしにとっての北村紗衣さんは、「お名前を知っていてネット・メディアに掲載されたエッセイを多少読んではいるけれど、一冊も著作を読んだことのない、大勢の方々のひとり」でしかない、とわたしは思っています。わたしの中で北村紗衣さんの存在はとても希薄なのです。
当然、北村紗衣さんが、ネットを含めたその他のメディアで何を語って、何を行っているのかなど、わたしは全く知りませんし、知りたいとも思ってはいません。簡単に率直に言えば、「わたしは、北村紗衣さんという名前は知っているけど、よく知らない人」ということです。何かしらわたしの関心のある事柄について、北村紗衣さんが文章を書かれているのであれば、それを読むことをことさら拒む理由はありませんが、内容を問うことなく、「北村紗衣さんが書いた文章」を、わたしが積極的に探して読むことはありませんとわたしは思います。
従って、わたしは北村紗衣さんには、特別な興味も関心も何もありません。そして「年間読書人さんの、北村紗衣さんへの批判」についても、わたしは、特別な興味も関心も何もありません。わたしに於いて、「年間読書人さんの、北村紗衣さんへの批判」など、〈わたしの知ったことではない、どうでもよいこと〉のひとつでしかありません。
そもそも、わたしは、北村紗衣さんにも、年間読書人さんにも、特別な興味も関心も何もない、のです。
年間読書人さんは、わたしに於いて、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦の相手の方」であり、「それ以上でも、それ以下でも」ない、とわたしは考えています。年間読書人さんが誰をどのように批判しているなど、わたしには〈知ったことではない、どうでもよいこと〉です。
(5)さて、はじめに戻って「わたしと北村紗衣さんとの関係性の中での、年間読書人さんの疑問への返答」の、件
1)わたしと北村紗衣さんとの関係性の中での、疑問(その1)への返答
【素面のダブリン市民】第11回 ショーン・オケイシー『銀杯』に出てくる「フットボール」とは?(北村紗衣)
のエッセイに、「わたしが別名義(歩く水のような人の形をしたもの)で「スキ」を押した理由は?(偶然なのか、それとも、?)」
・【素面のダブリン市民】第11回 ショーン・オケイシー『銀杯』に出てくる「フットボール」とは?(北村紗衣)
https://note.com/kankanbou_e/n/n285db6b2726b
に、「別名義」の方で「スキ」を押しておられますが、これは「偶然」なのでしょうか?
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
偶然ではありません。必然です。繰り返しになりますが、わたしがフォローしている『書肆侃侃房 web侃づめ』のエッセイのひとつとして、読んでいるだけに過ぎません。執筆者が北村紗衣さんだから、それを選び取って、読んでいるというわけではありません。
※わたしが、後付け的に作り話をして、慌てて今になって、『書肆侃侃房 web侃づめ』をフォローし、「スキ」を押していないことは、『書肆侃侃房 web侃づめ』のバックナンバーに、誰がどのタイミングで「スキ」を押しているのか確認すれば、わたしの言っていることが、〈誰にでも検証可能な、客観的な事実〉であることが分かる、とわたしは思います。
2)わたしと北村紗衣さんとの関係性の中での、疑問(その2)への返答
スロウ・ボートさんは、私と議論をする前から、北村紗衣を知っていて、そのネットエッセイまでチェックし、わざわざそれに「スキ」を押すほど高く評価していたと、そうおっしゃるのでしょうか?
わたしは北村紗衣さんのことを、年間読書人さんと議論をする前から知っています。しかし、わたしは北村紗衣さんのネットエッセイをチェックしてはいません。繰り返しますが、フォローしている『書肆侃侃房 web侃づめ』のエッセイのひとつとして、読んでいるだけに過ぎません。執筆者が北村紗衣さんだから、それを選び取って、読んでいるというわけではありません。
さらに、わたしの「スキ」は、〈読みましたよ〉と、書肆侃侃房さんへお知らせするための、「形式的なもの」、でしかありません。
3)わたしと北村紗衣さんとの関係性の中での、疑問(その3)への返答
それとも、私の記事を見て、北村紗衣に興味を持ち、それで北村紗衣のネット記事まで読んで、さらに「スキ」まで押したのでしょうか?
わたしは北村紗衣さんのことを、年間読書人さんと議論をする前から知っています。わたしは「年間読書人さんの記事を見て、北村紗衣に興味を持っ」たのではありません。それは年間読書人さんの思い込みによる誤解です。わたしはnoteを始める、2021年以前から北村紗衣さんのことを知っています。
また、これも繰り返しになりますが、フォローしている『書肆侃侃房 web侃づめ』が配信された際に、その都度読み、〈読みましたよ〉と書肆侃侃房さんへお知らせするために、「スキ」を押している、ということです。
わたしは、北村紗衣さんに興味を持ち、それ故に、「素面のダブリン市民」を読んでいるのではありません。観た目がそのように観え、「そうであるに違いない」という年間読書人さんの先入観(思い込み)によって、年間読書人さんに、そう観えているに過ぎません。わたしがフォローしている『書肆侃侃房 web侃づめ』として配信された「「素面のダブリン市民」の執筆者が北村紗衣さんだった」ということでしかありません。仮に、執筆者が他の方であっても、わたしはそのエッセイを読んでいる、とわたしは思います。
4)わたしと北村紗衣さんとの関係性の中での、疑問(その4)への返答
まあ、これも「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ない」と言い張ることはできるでしょう。
しかし、そんな無理な「自己申告」を、誰が信じるんでしょうね?
「わたしが、2021年から『書肆侃侃房 web侃づめ』をフォローしていて、web侃づめが配信され、その都度、わたしがそれを読み、〈読みましたよ〉と書肆侃侃房さんへお知らせするために、「スキ」を押し、現在(2025年)に至っている。」という事柄/事実を、年間読書人さんは、全くご存知ない、
さらに、年間読書人さんには「世界が自分を中心に回っているという錯覚」である自己中(じこちゅう)性と「物事が自分事に関係している、と思い込む強い傾向(自意識過剰の傾向)」が存在し、年間読書人さんの中で、パターン化された「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」によって、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」についての誤認が発生してしまった、のだとわたしは思います。
>「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ないと言い張る・・・そんな無理な「自己申告」を誰が信じるんでしょうね?」
>「無理な「自己申告」」も、誰が信じるも信じないも、何もありません。すべて、年間読書人さんの「幻想(ファンタジー)」の世界の出来事です。現実の世界では、わたしは特別に北村紗衣さんに興味があるわけではありません。また「わたしと北村紗衣さんとの関係性」に、年間読書人さんの存在は、完全に無縁なのです。
何もかもが、年間読書人さんの思い込みによる誤認から生まれた、年間読書人さんの頭の中だけにしか存在しない「幻想(ファンタジー)」である、とわたしは考えています。
年間読書人さんが、ご自分の頭の中で、どのような内容の「幻想(ファンタジー)」を作るのかは、年間読書人さんの勝手ですが、「幻想(ファンタジー)」は「幻想(ファンタジー)」であって、現実ではありません。年間読書人さんは「幻想(ファンタジー)」と現実を混同しているとしか、わたしには思えません。
(6)「〈年間読書人さんの、わたしと北村紗衣さんとの関係性の認識〉は、年間読書人さんの思い込みによる、大きな誤解でしかない。」の、件
繰り返しますが、年間読書人さんは、「わたしが、2021年から『書肆侃侃房 web侃づめ』をフォローしていて、web侃づめがは配信され、その都度、わたしがそれを読み、〈読みましたよ〉と書肆侃侃房さんへお知らせするために、「スキ」を押し、現在(2025年)に至っている。」という事実/現実のへ認識が、完全に欠落した状態で、「わたしと北村紗衣さんとの関係性」を、年間読書人さんの頭の中だけで、組み立てているとわたしは思います。
起点となる認識が誤っているのですから、当然、その後の認識は何もかも、誤りだらけの認識でしかありません。
さらに、年間読書人さんは、「自分の認識と異なることを、相手が言うと、相手が嘘をついている。」と(相手が嘘を言わなければならない理由など、無いにもかかわらず)根拠不明なまま、決めつけ、自分の認識を正当化するという行為を平然と行っている、とわたしは思います。年間読書人さんは、度々「犯罪者は嘘をつく。」とか「嘘つきは、他人に「自分は嘘をつかない」と嘘を言う。」と書かれていますが、そもそもが「その人は犯罪者でも、嘘つきでもない。」のですから、話の前提が誤りでしかない、とわたしは考えています。
年間読書人さんの認識の中では、「〈わたしと北村紗衣さんとの関係性〉にご自身が関与している。」という事柄が、疑いの無い事実として、存在しているようですが、「〈わたしと北村紗衣さんとの関係性〉にご自身が関与している。」という根拠は、年間読書人さんの思い込み以外に、何処にも存在していません。
仮に、年間読書人さんが、「〈わたしと北村紗衣さんとの関係性〉にご自身(年間読書人さん)が関与している。」という〈客観的な根拠〉を持っていると思われているのであれば、その〈客観的な根拠〉をご提示していただきたい、とわたしは思います。
(7)パターン化された、「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」
こうした、「誤認を起点として、推測を幾重にも重ね、誤った結論的な認識を〈事実/現実〉として認識し、他者に披露する。」というパターンを、「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」とわたしはここで呼ぶことにしました。
「わたしと北村紗衣さんの関係性」に関する年間読書人さんの誤った認識(誤認)には、「千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューに於ける、年間読書人さんの〈誤認〉の構造」と相似形を成す「〈誤認〉の構造」が見出され、パターン化された「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」が再現されている、とわたしは考えます。
年間読書人さんには、「起点となる認識の事実関係の裏付けを取ることなく、なぜか、それを事実だと(誤って)確信し」、さらに、不可解なことに、「物事を自分事と関連付け、話を組み立て、辻褄を合わせる。」という構造的な認識の誤りが存在している、とわたしは考えています。
年間読書人さんの、「世界が自分を中心に回っているという錯覚」である自己中(じこちゅう)性と、「物事を自分事に関連付けるという強い傾向(自意識過剰の傾向)」が組み合わさり、パターン化された「〈誤認〉の構造」が形成され、年間読書人さん自身が、自分の思い込みによる大きな誤解の中に嵌まり込み、それを〈事実/現実〉と認識してしまうことになる、とわたしは考えています。
〈年間読書人さんの、わたしと北村紗衣さんとの関係性の認識〉という大きな誤解は、パターン化された「年間読書人さんの〈誤認〉の構造」が、引き起こした事例のひとつだ、とわたしは考えています。
No.7//(わたしの〈第8号〉部分的な再録)//*「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。」の件
年間読書人さんは、繰り返し、何度も、わたしが、なぜ、「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。」という認識を持ったのか、その根拠を問われていますが、その根拠は〈誰にでも検証可能な客観的な根拠(事実)〉ではない、とわたしは考えています。
しかし、わたしと同じ立場に立てば、わたしに限らず、誰であれ、その根拠を、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠(事実)〉として提示することは、不可能である、とわたしは考えます。何かしらの出来事に人が出会って、そこに何かしらを、人が、〈見出す〉とは、そうしたものである、とわたしは考えます。
「事実の摘示」と言っても、そこには必ず解釈や理解があってのことで、「事実そのもの」は存在しないし、指摘もできない。
にも、かかわらず、私だけが「出来ないことをやっている」とするのは、貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤なのではないでしょうか。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
まさに、年間読書人さんご自身が、指摘されている、とわたしは思います。
だからといって、わたしの認識/印象が「わたし以外の他の人に於いて、意味不明な、あるいは、無意味な」わたしだけの認識/印象でしかないものであるとは、わたしは考えていません。
わたしの認識/印象は、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠(事実)〉を提示することが不可能な、人間の〈見出し〉のひとつであるが、それは「論理的な整合性を内在した、わたし以外の他の人に於いても、共有可能な認識/印象」であるとわたしは考えています。
この件に於いて、わたしに〈誰にでも検証可能な客観的な根拠(事実)〉を提示することを要求することは、>「貴兄ご自身の、自覚不足の錯誤」であり、無意味である、とわたしは考えています。誰であっても、そうした形の根拠の提示は不可能な事柄なのですから。わたしの認識/印象に対して批判するのであれば、年間読書人さんは、わたしの認識/印象の「論理的な整合性」を批判しなければならない、とわたしは考えています。
***以下、再度、(わたしの〈第8号〉部分的な再録)として、提示したいと、思います。***
No.1//ご質問(1)への、わたしの応答 *「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。」の件
(1)年間読書人さんの、わたしへのご質問(1)
(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
私が「被害妄想的な何か」に憑かれているのではないか、とそう書かれていますが、その根拠がまったく示されておりませんので、事実に即して、具体的にご説明ください。
・・・(今回の再録にあたっての、中略)・・・
(4)「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない。」とわたしが考えた、3点の理由/根拠
★根拠は、以下の3点です。
〈根拠:1〉
「自分(年間読書人さん)が、スロウ・ボードから、攻撃され被害を受けているという、年間読書人さんの認識/考え(のようなもの)」が年間読書人さんの反論(2)の中に記述されている。(とわたしは思いました。)
喩えれば、「サイバー攻撃のひとつである、DoS攻撃(ドス攻撃 /サービス拒否攻撃/denial-of-service attack)のように、巨大なデータを相手に送りつけ、リソース(資源)に意図的に過剰な負荷をかけ、正常に動作できなくするフラッド攻撃(Flood/洪水)」のようなものをわたしから仕掛けられ、「自分(年間読書人さん)は、スロウ・ボードから攻撃され、被害を受けている。」という受け止め方/認識/考えを年間読書人さんが持っている、とわたしは思いましました。
以下に、わたしが「年間読書人さんがそうした受け止め方」をしていると、認識することになった根拠を、年間読書人さんご自身の記述の中から、幾つかの具体例として引用したい、とわたしは思います。
初めから、短い文章なら、細かく検討する気にもなるでしょうが、貴方の書き方では、その「文章量」に圧倒されて、細かいところまで分析するどころか、斜め読みして、大筋の印象を受け取るのが、やっとでしょう。要は、読者の集中力が、削がれる書き方だ、ということです。
こうした「言葉数で、読者を圧倒する」という手法は、例えば、口八丁の弁護士を評するのに「三百代言」と言ったり、
また、ミステリの世界でのトリックとして、自分の殺した人物の死体を隠すのに、わざわざ戦争を起こして死体の山を築き、そこに死体を紛れさせる、「木の葉は、森に隠せ」式の証拠隠滅法というのがあります。
もちろんミステリの場合は、誇張されたものですが、
しかし、これは人間の思考の盲点や思考力の物理的な限界(検証対象量の膨大さに対する疲弊)をうまく突いたものだから、
そもそも読者の多くは、私のレビューへの貴方の批判の論点が何であったのか、すでにわからなくなっているのではないでしょうか。
それこそ、これも江戸川乱歩式に言うと「八幡の藪知らず」のごとく。
〈根拠:2〉
「自分(年間読書人さん)が、スロウ・ボードから、攻撃され被害を受けているという、年間読書人さんの認識/考え(のようなもの)」を示す記述が、何度も執拗に繰り返され強調され「自分が他人から攻撃され被害を受けているという、認識/考え(のようなもの)」が「強く確信された、変更が困難な認識/考え(のようなもの)」であることが示されている。(とわたしは思いました。)
上記の引用にありますように、少なくとも、文字数:約1000の文章の中で、5箇所、そうした記述が繰り返されている、とわたしは考えます。
〈根拠:3〉
わたしの記事は「年間読書人さんの見解に対する、批判」であり、「年間読書人さんを攻撃し、被害を与えるもの」ではない、とわたしは考えています。しかし、年間読書人さんはわたしの批判をご自分への「攻撃であり、被害を与えるもの」であると、「誤った認識」をされている、とわたしは思います。
わたしの記事:〈第6号〉の「(4)「言葉数で、読者を圧倒する」という手法について」から引用したい、とわたしは思います。
わたしの文章は「年間読書人さん、だけ」を読者として想定して書かれたものではなく、「年間読書人さん、及び、noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々」に向けて書かれたものである、とわたしは考えています。
年間読書人さんが、仮に「自分ひとりに、集中豪雨的に大量の言葉を、わたし(スロウ・ボート)から浴びせ掛けられた。」と思われているのであれば、それは、誤解であり思い込みである、とわたしは思います。そうではなく、わたしの記事は「年間読書人さん、及び、noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々(千葉雅也さんの『センスの哲学』を読まれた方々を含みます。)」へ向けられたものであり、「年間読書人さん個人を標的にして、「DoS攻撃的な、データ洪水的な」攻撃を仕掛け、被害を与えるもの」ではない、とわたしは考えています。
繰り返しますが、わたしの反論/応答は「年間読書人さん」だけではなく、「noteにアクセスし、この記事を読まれる読者の方々(千葉雅也さんの『センスの哲学』を読まれた方々を含みます。)」へ、わたしから、伝えなければならない、とわたしが考えた事柄も内包しています。
従って、千葉雅也さんの『センスの哲学』に対するレビューを巡る「議論」を十分に尽くすために、必要であれば、わたしは書かなければならない文章を相応の文字数を使って、書く場合もあり得る、とわたしは考えています。
(5)以上の3点の理由/根拠により、わたしは「・・「被害妄想的な何か」に・・」と判断しました。
年間読書人さんのこの記事には、年間読書人さん独特の「大袈裟な、誇張された、表現」が多々なされている、と思いますが、しかし、そうした表現であるということを差し引いても、それだけでは説明出来ない部分が残り、
上記の3点の根拠により、「いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない。」と、わたしは総合的に判断しました。わたしは根拠もなく、そう思ったのではありません。
尚、正確を期するために、補足しておきますが、「もしかしたら・・・のかもしれない」と書かれているように、これは、わたしのひとつの推測であるとわたしは考えています。「根拠のある推測」であっても、推測は推測であり、わたしの文章はそれがわたしの推測であることを、読者に分かるように記述している、とわたしは考えています。
***以上、(わたしの〈第8号〉部分的な再録)、***
No.8//(わたしの〈第8号〉部分的な再録)//*「年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由・・とわたしは考えています。」の件
***以下、再度、(わたしの〈第8号〉部分的な再録)として、提示したいと、思います。***
No.2//ご質問(2の1)への、わたしの応答 *「年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由・・とわたしは考えています。」の件
(1)年間読書人さんの、わたしへのご質問(2の1)
(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
これも同じで、この「素人精神分析」は、どのような具体的な根拠があって、このように書かれたのか、その論拠をお示しください。
(2)わたしの記事〈第6号〉に於ける、年間読書人さんがご質問されている、わたしの見解について
年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
わたしの記事:〈第6号〉に於ける、上記の見解は、年間読書人さんの他者からの承認欲求に対する、相反する二つの事柄(A)と(B)から構成されている、とわたしは考えています。そして、年間読書人さんの内部に於いて、相反する二つの事柄の何方もが、存在している、つまり、共存している、とわたしは考えています。従って、「年間読書人さんには、根本的な自己矛盾/自己分裂が存在している。」とわたしは判断し、見解を示しました。とわたしは考えます。
事柄(A):年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。(とわ
たしは考える。)
事柄(B):年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見
解の説得力の拠り所にしている。(とわたしは考える。)
(3)わたしが「年間読書人さんには、相反する二つの事柄(A)と(B)が共存している。」と判断した根拠について
〈根拠:その1〉
「事柄(A):「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」と、わたしが判断した根拠
・・・(今回の再録にあたっての、中略)・・・
〈根拠:その2〉
「事柄(B):「年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」と、わたしが判断した根拠
年間読書人さんの反論(第2回目)の中で、年間読書人さんご自身が、「で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。」と、ご自分の言葉で、表明されています。
貴方のご主張では、こうしたやり方の方が、私も含めた「読者」に対して親切だ、【と、わたしは考えます】ということなのかも知れませんが、私は、前記のような理由から、そうではないと思うし、実際にも、そのようには機能していないと、考えます。
で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。
もちろん、この「現実」とは、読者にとって、いろいろでしょう。
貴方の説明に「説得力」を感じる人もいるでしょうし、私の説明に「リアリティ」を感じる人もいて、絶対的な判定は不可能でしょうが、それは仕方のないことです。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
ここで、「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を、読者に問う。」という考えを年間読書人さんご自身が示されています。
「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を読者に問う。」という考えは、「見解の説得力(の優劣)を読者の判断に仰ぐ。(読者の判断に求める。)」という考えである、とわたしは思います。
言い換えれば、「見解の「現実に即している感覚」、「説得力」、「リアリティ」を読者に問う。」とは、「見解の説得力を、読者からの評価(「いいね」という承認の有無)に依拠している。(拠り所にしている)」ということである、とわたしは考えます。つまり、年間読書人さんはご自身の見解の説得力を主張するためには、必然として、他者からの承認「いいね」を希求せざるを得ない、とわたしは考えます。
また、「で、どちらの見解が、読者にとって「現実に即している」と感じられるか、と問いたいわけです。」という訴えかけるような表現には、年間読書人さんの「強い思い」が表現されている、とわたしは思います。
以上のことを根拠にして、「事柄(B):「年間読書人さんは他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている。」が「年間読書人さんに於いて、存在している。」、とわたしは判断しました。
***以上、(わたしの〈第8号〉部分的な再録)、***
No.9//前回のわたしの応答/反論への補足: *「たったひとつの「いいね」に救われた」ことの支持表明としての、「宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューへの、前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))のリンクの件
(1)「(わたしが)「ざっと斜めに目を通した」だけで、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューの記事は引用文を含め、全く、読んでいません。」の、件
> 「本当にそうでしょうか?」と、年間読書人さんはわたしに疑問を投げかけていますが、わたしが「読んでいない」ことを示す〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉を示すことは、わたしには不可能です。(わたしの立場に立てば、誰であってもそれは不可能です。)「読んでいないもの」は「読んでいない」としか言いようがない、とわたしは思います。
わたしの記事が、誰かの記事の中で、リンクされれば、わたしはその記事を読むと思います。しかし、わたしの記事ではなく、「年間読書人さんの書いた反論が、年間読書人さんの記事の中でリンクされ」、年間読書人さんが自分の記事を補足するために、自分の記事のリンクを行っているだけです。年間読書人さんの記事に、「ざっと斜めに目を通し」「わたしが記事を読む必要があるほどには」「こちらでの議論に関係ある内容」ではない、とわたしは判断しました。わたしが「記事は引用文を含め、全く、読んでいない」ことは、何ら不思議な奇妙なことではない、とわたしは思います。
文字数が全部で一万文字近くあれば、尚更です。「ざっと斜めに目を通した」だけで、十分である、とわたしは思いました。
例えば私は、先日アップした、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューで、作中の、
『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』
https://note.com/nenkandokusyojin/n/naaed81953f2b
という言葉を引用して、その下に、前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))へのリンクを貼っておいたのは、当然のことながら、上の言葉を、正直な気持ちを語るものとして肯定した、支持表明としてです。
そして、当然スロウ・ボートさんには、このリンクについての通知が届いており、このレビューの存在をご承知のはずのなのに、なぜか、こちらの方は無視なさっている。
どうして無視なさるのかと言えば、それは私が「イイねなんか、まったく気にならないと主張している」という、スロウ・ボートさんによって「単純化された構図」に、この部分は邪魔だったからでしょう。
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
> (3)「たったひとつの「いいね」に救われた」ことの支持表明としての「宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューへの前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))のリンク、の件
>
> わたしは、わたし宛てにリンクについての通知が届き、年間読書人さんのレビューの記事を開き、リンクを確認していますが、「ざっと斜めに目を通した」だけで、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューの記事は引用文を含め、全く、読んでいません。従って「(レビューを)無視するも、無視しないも、何もない」とわたしは考えています。読んでいないのですから。
本当にそうでしょうか?
こちらでの議論に関係ある内容だから、わざわざリンクを張って通知が行くようにしたのに、それを読んでいない?
(2)「今回、あらためて、リンクが設定されている部分の上の引用を読んで、」の件
(03)
『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』
(P103「ローパス・フィルター」)
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
「他者からの承認欲求から自由である。」イコール「「いいね」が欲しくない、あるいは、全く「いいね」が気にならない。」という意味であると、わたしは理解していません。
「自由である」とは「囚われない」ということであり、わたしに言わせれば「「いいね」が欲しくない、あるいは、全く「いいね」が気にならない。」という認識は「他者からの承認欲求(「いいね」が欲しい)からの不自由」を示すものでしかない、とわたしは考えます。
「他者からの承認欲求から自由である」者(年間読書人さん)が、> 『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』という話を支持するのは、不可解なことではなく、当然のことである、とわたしは考えます。
新しい話は何もない、とわたしは思います。「ざっと斜めに目を通し」、「わたしが記事を読む必要があるほどには」「こちらでの議論に関係ある内容」ではない、とわたしが判断したのは誤りではなかった、とわたしは思います。
何ひとつ、「年間読書人さんは他者からの承認欲求から自由である。」という事柄の論理的な整合性は壊れてはいない、とわたしは考えています。
No.10/年間読書人さんの反論(第6回目)全文
No.11//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.12//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.13//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。
