〈第12号〉 年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」の〈わたしの批判に対する、年間読書人さんの反論(第8回目)〉への応答/反論
まえがき
今回のわたしの反論は、主に、4件の事柄、第一として「〈事実確認〉とは何か?」、第二として「年間読書人さんは、〈逃げるが勝ち〉とばかりに『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」という、件、第三として「年間読書人さんは真の〈論争家〉ではない。御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉あるいは〈言行不一致の人〉でしかない。」という、件、第四として「世の中の人々は、バカではないので、年間読書人さんによる議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのは、当然のことである。」という、件です。
年間読書人さんは〈(自称の)疑い〉まみれの存在です。
※、尚、「わたしと北村紗衣さんの関係性」の誤解について、年間読書人さんは、散々、あれだけ居直っておきながら、「心のこもった謝罪として受け入れろ」という言い草には、わたしは呆れてしまいました。まさに、「盗人猛々しい」とはこのことです。年間読書人さんの態度/姿勢は、「自分の犯した誤りを棚上げして、他人に説教する。」ようなもので、>「その口が言うことではない。」と言わざるを得ません。
(※※★★★※※)
※noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方へ
年間読書人さんは〈論点ずらし〉を延々と行い、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から、〈逃げ回るという行為〉を継続しています。〈論点ずらし〉が、無様で醜悪であり、〈逃げ回るという行為〉が「醜態」であることは、当然である、とわたしは考えています。
わたしは、現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残すためにです。
わたしが、わたしとして、行うべきことを行い、結果を記録し、ログを残すこと、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、が、作戦/オペレーション/Operatin/であることの所以がここにあります。意味もなく、そう呼んでいるのではありません。
今回、まえがきの部分として、年間読書人さんの〈論点ずらし〉が〈レッテル貼りによる、話のすり替え、という印象操作〉の手法で行われている事例を提示しておきたい、とわたしは思います。
★〈レッテル貼りによる、話のすり替え、という印象操作〉の手法で、行われている、年間読書人さんの〈論点ずらし〉の典型的なひとつの事例
年間読書人さんによって、わたしの「根拠のある批判」が、わたしの「無根拠の誹謗」へと、すり替えられるという印象操作、が、ここで、実行されている、とわたしは考えます。「根拠ある」が「無根拠」へ、そして「批判」が「誹謗」へと、レッテル貼りされ、話が、巧妙にすり替えられています。
わたしは、下記の年間読書人さんからの反論(8)の冒頭の部分の引用にある(1)と(2)について、上記にリンクした、わたしの記事:〈第8号〉にて、詳細に根拠を提示しています。わたしの批判は「根拠のある批判」であり、決して「無根拠の誹謗」ではありません。とわたしは考えています。
この件をわたしに指摘され、年間読書人さんは、よほど屈辱的で大ショックだったようで、わたしに「謝罪・撤回」させたいらしく、わたしが明確に根拠を提示した後も、わたしが提示した根拠を意図的にスルーして、何度も繰り返し執拗に卑劣な手段を用いて「根拠の無い誹謗」と言い募っています。
年間読書人さんが、正々堂々と、わたしの提示した根拠に言及し、問題点を批判することはありません。いつも、こうした、〈レッテル貼りによる、話のすり替え、という印象操作〉の手法で、〈論点ずらし〉を行い、わたしの批判を無効化(キャンセル)しようとしている、とわたしは考えています。
年間読書人さんが「議論の放棄」、あるいは、「議論の破壊」を行っているのは、疑いのないことだと、わたしは考えています。
年間読書人さんが何度も実行している、「〈レッテル貼りによる、話のすり替え、という印象操作〉の手法で、行われている、〈論点ずらし〉の事例」の典型のひとつとして、下記に引用をしておきたい、とわたしは思います。
スロウ・ボートさんが、この「まえがき」でやりたかったのは、
(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
なんてことを「無根拠」に書いて他人を誹謗しても、決して「謝罪することのない」スロウ・ボートさんと、間違いは間違いとして「謝罪した」私との大きな違いを、お得意のレトリックによって、「逆転」しようとする試みです。
(※注:太字はわたしによるものです。本文は太字ではありません。)
No.1// 〈事実確認〉とは何か?
(1)〈事実確認〉という行為の定義/意味、について
前提として〈事実〉と〈現実〉の意味を、以下のように、規定します。
ここでわたしが説明する〈事実確認〉という言葉で記述する行為の中の、〈事実〉という言葉の意味は、国語辞書に普通に記載されている意味/定義と同じにように、以下のような意味である、と規定します。また、〈現実〉という言葉の意味も、国語辞書に普通に記載されている意味/定義と同じように、「想像/虚構/フィクションの対極としての世界」という意味であると、規定します。
〈事実〉とは、「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)、事柄/物事/出来事/事象」のことである。
凄く当たり前過ぎてまどろこしいのですが、〈事実確認〉という行為の定義/意味を明確にするためには、必要不可欠です。
従って、ここで、わたしが説明する〈事実確認〉という行為の定義/意味は、以下のようなものとなります。
〈事実確認〉とは、「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)事柄/物事/出来事/事象を、不確かな曖昧な状態に留めずに、「このようである」と、判定することが出来る程度に、明確にさせること」である。
(2)わたしが、ここで、説明している〈事実確認〉という行為の対象である〈事実〉は、「客観的な外的な出来事、及び、主観的な内的な出来事、そして、それらの複合体、全て」という、件
わたしが、ここで、説明している〈事実確認〉という行為の重要なポイントは、行為の対象である〈事実〉が、客観的な外的な出来事、及び、主観的な内的な出来事、それらの複合体、全てを含んだ「現実の中で、実際に発生した事柄」であるという点です。
つまり、わたしがこれから説明を行う〈事実確認〉という行為の対象である〈事実〉とは、現実の中の多くの人々が共有可能な客観的な出来事だけではなく、現実の中の人間に関する出来事として、「人間の内的な出来事」も含むことになります。「人間の内的な出来事」とは、言い換えれば、人間の内心、主観、認識、理解、解釈、見立て、受け止め、知覚、等々の事柄です。
〈事実〉とは、「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)、事柄/物事/出来事/事象」のことである。
と定義した通り、「現実の中で、実際に発生した事柄」の中には、「人間の内的な出来事」を含んだものとして、ここで、わたしは話を進めて行くことになります。〈事実〉という言葉は、多くの場合、客観的な外的な出来事という意味を強く全面に出して使われるのですが、ここでは、少し意味を拡張して用います。この重要なポイントを理解していないと、以下のわたしの話を誤解なく理解することは出来ません。
(3)〈事実確認〉に於いて、「〈誰にでも検証可能な客観的な根拠を提示することが、可能な事柄〉と〈誰にでも検証可能な客観的な根拠を提示することが、不可能な事柄〉」の2つのケースが存在している、の件
誰かが、何かに対して、〈事実確認〉という行為を行った場合、確認の結果の源である根拠を、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、可能な事柄〉と、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、不可能な事柄〉の、二つのケースが存在している、とわたしは考えています。
ここで、記述の煩雑さを回避するために、便宜的に以下のように、それぞれのケースに名前を付けたい、とわたしは思います。
(タイプAの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客
観的な根拠として、提示することが、可能な事柄
(タイプBの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客
観的な根拠として、提示することが、不可能な事柄
(4)注意すべき点は、〈根拠〉に対して、「誰にでも検証可能な客観的な」という限定をしている点である。
わたしがここで行っている話の中で、注意すべき点は、〈根拠〉に対して、「誰にでも検証可能な客観的な」という限定をしている点である。(タイプAの事柄)と(タイプBの事柄)についての二つのケースの区分は、この限定に於いて、はじめて意味を成すものとなっている。この限定を外してしまうと、わたしがここで行っている話とは異なったものとなってしまいます。
「〈根拠〉とは、事象の存在のありようを指し示す論理の階梯、あるいは、複数の連鎖する事象の接合のありようを指し示す論理の階梯である。」とするならば、「誰にでも検証可能な客観的な」という限定をされない〈根拠〉も、当然のこととして、わたしたちが生きている世界には存在している、とわたしは考えています。つまり、〈根拠〉は、「誰にでも検証可能な客観的な」かたちを形成していなくとも、(例えば、主観の中で)論理の階梯として意味を成すものとして存在し得るものである、とわたしは考えています。
しかし、わたしは、ここでの〈事実確認〉という行為についての話に於いて「誰にでも検証可能な客観的な」という限定された〈根拠〉を前提に話を行っている、ことに留意していただきたい、とわたしは考えています。
従って、「誰にでも検証可能な客観的な、という限定をされた〈根拠〉」と「誰にでも検証可能な客観的な、という限定をされない〈根拠〉」を混同してしまうと、わたしのここでの話を完全に誤解してしまうことになります。さらに、言えば、この二つを都合よく入れ替えて、話を組み立てても、無意味なものにしかならない、とあらかじめ申し上げておきたいと思います。
(5)(タイプAの事柄)の事例の、幾つか
例えば、「千葉雅也さんが『センスの哲学』を刊行する前に、どのようなタイトルの本を書かれて刊行しているのか?」という〈事実確認〉は(タイプAの事柄)の事柄であり、また、「わたしがnoteに於いて、書肆侃侃房をフォローした時期はいつか?」という〈事実確認〉も(タイプAの事柄)の事柄であり、さらに、「わたしが千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』を読んで、読書感想文を投稿し公開したのは、『エレクトリック』が芥川賞候補になる前なのか、それとも、後なのか?(わたしは『エレクトリック』を芥川賞候補作として読んだのか?)」という〈事実確認〉も(タイプAの事柄)の事柄である、とわたしは考えています。
それぞれの具体的な〈事実確認〉に対して、何れも、誰であっても、〈事実確認〉の結果の根拠を、「誰にでも検証可能な客観的な根拠」として、提示することが、(比較的に容易に)可能である、とわたしは考えています。
(6)(タイプAの事柄)の〈事実確認〉の不足から、生じてしまった、年間読書人さんの認識の誤り、の事例(わたしの記事:〈第9号〉の再録)
「わたしが千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』を読んで、その読書感想文を投稿し公開したのは、『エレクトリック』が芥川賞候補になる前なのか、それとも、後なのか?(わたしは『エレクトリック』を芥川賞候補作として読んだのか?)」という事柄に関する、年間読書人さんの認識の誤りは、「(タイプAの事柄)の〈事実確認〉の不足/欠如から生じてしまった、誤った認識の事例のひとつ」である、とわたしは考えています。
下記にリンクのわたしの記事:〈第9号〉の中の、「No.2//あらためて、わたしが年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」を批判する理由について」の(4)の中に書かれている、この件をここに再録しておきたい、とわたしは考えます。
***、以下、わたしの記事:〈第9号〉の再録、***
(4)「わたしは『エレクトリック』を芥川賞の候補作として、読んではいない。」そして「わたしが書いた『エレクトリック』の読書感想文のnoteの記事の公開は『エレクトリック』が芥川賞候補作として発表される、前のことである。」という、件
★noteにアクセスして、この記事をご覧になられている読者の皆様方へ
そもそも、スロウ・ボートさんは、世評の高い千葉雅也の『センスの哲学』を絶賛し、「芥川賞候補作」である千葉の小説を絶賛する立場の人であり、
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
上記の年間読書人さんの反論(5)の引用部分を、読まれた方の中には、「わたしが千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』を「芥川賞候補作」として、読んで、感想をnoteの記事として書いている。」と思っている方がもしかしたらいるのかもしれない、とわたしは思います。
しかし、それは誤解であり、そうではないという〈誰にでも検証可能な、客観的な事実〉を、ここに、明記しておきたい、とわたしは思います。
千葉雅也さんの長編小説『エレクトリック』の初出は『新潮 2023年2月号』(2023年1月7日刊行)であり、わたしはそこで『エレクトリック』を読み、2023年2月11日に読書感想文をnoteの記事として公開した、とわたし思います。わたしのnoteの公開の時点では、『エレクトリック』の初出から約一か月しか経過してなく、『エレクトリック』は単行本にもなっていませんでした。単行本として刊行されたのは2023/5/31のことだと、わたしは思います。
『エレクトリック』が、第169回芥川賞候補作としては発表されたのは、わたしのnoteの記事の公開(2023年2月11日)後の、2023年6月16日であり、わたしが『エレクトリック』を芥川賞の候補作として、読んではいないということは、〈誰にでも検証可能な、客観的な事実〉である、とわたしは考えています。
***、以上、わたしの記事:〈第 号〉の再録、***
(7)(タイプBの事柄)の事例の、幾つか
〈(タイプBの事柄)の事例:その1〉
「千葉雅也さんが『センスの哲学』を刊行する前に刊行された本のひとつである、『アメリカ紀行』は、いかなる本であるのか?」という〈事実確認〉は(タイプBの事柄)の事柄である、とわたしは考えています。
わたしはこの本を以下のように表現しました。
『アメリカ紀行』はタイトルを含めて見掛け上はエッセイの体裁をしていながらも、〈散文の思考〉と〈思考の散文〉が交錯し、千葉雅也さんの言葉の物質性が奏でられている音楽のような本です。
これは、わたしに於ける、「千葉雅也さんの『アメリカ紀行』とはいかなる本であるのか?」という問いに対する答えです。真/本当か、偽/嘘か、と問われれば、「わたしに於いては、真/本当です」。そのことを以てして、この事柄は、わたしに於ける、「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)、事柄/物事/出来事/事象」としての〈事実〉であることは誤りではありません。
しかし、この件は、(タイプAの事柄)の「〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示することが、可能な事柄」ではなく、(タイプBの事柄)の、「〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示することが、不可能な事柄」である、とわたしは考えています。
わたしに於ける〈事実〉であることは誤りではありませんが、しかし、他人にそのことを、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示すること〉は不可能である、とわたしは考えています。
わたしの千葉雅也さんの『アメリカ紀行』の読書感想は、わたしの内心/主観/見解/理解/解釈/認識である、のですから、当然と言えば当然のことです
言い換えれば、わたしの内心/主観/見解/理解/解釈/認識とは、わたしの〈内的なるもの(内心)〉を言葉で表現したものである、のですから、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示すること〉は、不可能であるのは、必然でしかありません。
仮に、わたしの主観の内容に論理的な整合性が存在していたとして、わたしが、論理性を語ることが可能であっても、主観の内容の根拠を、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉として提示することは、不可能なことです。それは、わたしに限ったことではなく、わたしの立場に立てば、誰であっても不可能なことです。
重要なことは、「わたしの主観の内容が、わたしに於ける〈事実〉であることは誤りではない。さらに、わたしの主観の存在は厳密に確かである。」が、しかし、その〈事実〉を、わたしは他者に向けて〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉として提示することは、決して行うことの出来ない、不可能なことである、ということです。精密に言い換えれば、わたしの見解の〈根拠〉を、わたしが正確に述べることは出来ても、その〈根拠〉は、「誰にでも検証可能な客観的な」〈根拠〉となることは出来ない、ということです。
〈(タイプBの事柄)の事例:その2〉
「わたしが北村紗衣さんを、いつ、どのような経緯で知ったのか?」という〈事実確認〉は(タイプBの事柄)の事柄であるとわたしは考えています。
わたしは、「わたしがnoteを始める以前に、小説家・川上未映子さんから歌人・笹井宏之さんを知り、その縁で、書肆侃侃房を知り、書肆侃侃房経由で北村紗衣さんを知った」のですが、これらの一連の事柄は、わたしがそのように認識しているだけの、全て、わたし以外の人は知らない事柄です。わたしに於いては、〈事実〉であることは誤りではありませんが、他人にそのことを〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示すること〉は不可能な(タイプBの事柄)の事柄である、とわたしは考えています。
例えば、「目撃者は、目撃したのだから、その出来事を知っている」はずですが、しかし、出来事によっては目撃者の(知っている事柄としての)証言が大きく食い違うということは、特別に珍しいことではありません。事例を数え上げればきりがないほどの、現実のありようのリアルな姿です。
「人間が何かを認識する/知る」という行為は、状況や付随する出来事から他人はその人がそのことを認識している/知っているか否か、或る程度は推測することが可能です。しかし、認識する/知るという行為そのものは、本人の内的な行為ですから、最終的には、本人以外には分からない事柄です。「人間が何かを認識する/知る」という行為の〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉は、確かなものとして、必ず存在しているわけではありません。
〈(タイプBの事柄)の事例:その3〉
わたしは前回のわたしの記事:〈第11号〉に於いて、以下のようき記述し、「わたしは『センスの哲学』の全文を読んでいます。」と表明しています。
尚、わたしは『センスの哲学』の全文を読んでいます。まえがきの「はじめに「センス」という言葉」から、第1章「センスとは何か」〜第8章「反復とアンチセンス」さらに、付録「芸術と生活をつなぐワーク」、読書ガイド、あとがきの「おわりに 批評の権利」までの全文、を読んでいます。
しかし、「わたしは『センスの哲学』の全文を読んでいます。」という表明の〈事実確認〉もまた(タイプBの事柄)の事柄である、とわたしは考えています。わたしに於いては、〈事実〉であることは誤りではありませんが、他人にそのことを、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示すること〉は不可能である、とわたしは考えています。
「わたしが『センスの哲学』の本を持っているということ」は、客観的な根拠で示すことは出来ると、わたしは思いますが、「わたしが『センスの哲学』(の全文)を読んでいるいうこと」は、わたしの立場に立てば、誰であっても、客観的な根拠で示すことは出来ない、とわたしは思います。
「わたしが『センスの哲学』の本を、持って、開いて、読んでいるような姿の写真/映像が存在していた」としても、それが、「わたしは『センスの哲学』の全文を読んでいます。」という事柄の〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉を、必ずしも意味するものではない、ということです。
人間が本を読むという行為もまた「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)、事柄/物事/出来事/事象」としての〈事実〉の中の、「人間の内的な出来事」です。従って、これに対する〈事実確認〉もまた、(タイプBの事柄)となります。
(8)わたしたちが生きている現実のありよう、あるいは、複数の(タイプAの事柄)と複数の(タイプBの事柄)が、複雑に撚り合わせられた立体的な世界
このようにわたしたちが生きている現実は、複数の「(タイプAの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示することが、可能な事柄」と、複数の「(タイプBの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示することが、不可能な事柄」が、複雑に絡み合い立体的に織り成している、黒/偽と白/真と灰色/真偽不明の斑模様の世界である、とわたしは考えています。
(9)わたしたちは現実の中で、生きて行くために、(タイプBの事柄)に対しても〈事実確認〉を行い、対処し、現実の多くを、把握する必要がある。
現実の大部分を構成し、わたしたちが現実で生きて行く中で、関係せざるを得ない、他者たちとは、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示すること〉が不可能な〈内的なるもの(内心)〉を内包している存在です。
従って、必然的に(タイプAの事柄)だけに対して、〈事実確認〉を行い、対処するだけでは、人は、他者たちを含めた現実の多くの部分を把握することが出来ません。
わたしたちは現実の中で、生きて行くために、「(タイプBの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として、提示することが、不可能な事柄」に対しても、何かしらの方法で、〈事実確認〉を行い、相応の対処をして、現実の多くの部分を把握する必要がある、とわたしは考えています。
人として、社会生活を営むために、(タイプAの事柄)と(タイプBの事柄)の双方への〈事実確認〉という行為が必要不可欠な事柄である、とわたしは考えています。
(10)わたしたち人間は、誕生した時から、それを知っている
他者たちの〈内心〉、あるいは、他者から観れば、他者である〈わたし〉の〈内心〉は、確かに存在しています。しかし、他者に〈わたし〉の〈内心〉のありようを100パーセント完全に伝えること、あるいは、他者の〈内心〉のありようを〈わたし〉が100パーセント完全に知ることは、出来きない「不可能事」であるのは、分かり切ったことです。
わたしたち人間は、誕生した時から、希望と絶望の綯い交ぜの中で、そのことを、痛みと伴に、知っています。
宇宙の漆黒の闇の中、孤独の中で、浮遊する、人間の存在の根源である「内的なるものたち〈内心〉」。100パーセント完全に、互いを分かり合うことのできないものたち。
だからこそ、わたしたちには、言葉があり、表現があるのです。
〈芸術〉、あるいは、〈哲学〉が、人間の存在の孤独に抗うための営為であり、人間の存在の根源である「内的なるものたち〈内心〉」の中の何かを、他者と共有しようとする行為の結実、であることは言うまでもありません。
(11)わたしたち人間には、他者の話(内心の事実性)の信憑性/蓋然性/妥当性を評価する能力が備わっている。
(タイプBの事柄)に対する〈事実確認〉を行っても、人は〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉を得ることは出来ません。しかし、だからといって、(タイプBの事柄)への〈事実確認〉は「不可能事」として切り捨るしかない、不必要なことであり、完全に無意味なものである、のかというと、そうではありません。その認識は全くの誤りである、とわたしは考えています。
他人の話を、「真と偽が混濁した、真偽不明なもの、あるは、全てが偽かもしれないもの」として、〈事実確認〉から排除してしまうのは、誤った行為であり、誤った認識である、とわたしは考えています。さらに、言えば、その考えは他者との繋がり、他者との対話/議論/論戦、社会の存在、を否定/キャンセル/する考えにも進展してしまうものだ、とわたしは考えています。
確かに、他人の話は真偽不明なものであるかもしれません。しかし、わたしたちには、他人の話(内心の事実性)の信憑性/蓋然性/妥当性を評価する能力が備わっています。必ずしも、いつも、正確に判定を下すが出来るわけではありません。しかし、他者の話(内心の事実性)の信憑性/蓋然性/妥当性を評価し、真と偽を判定し、〈一定程度の確からしさ〉を〈事実確認〉によって引き出し、現実のありようを「或る程度の輪郭のあるもの」として把握するしか、わたしたちには現実を把握して生きる術は存在していない、とわたしは考えています。
繰り返します。他者の話(内心の事実性)に、〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉を求めることは出来ませんし、また、そうした要求をする必要もありません。〈事実確認〉によって、致命的な錯誤をしない程度に、誤差を含んでいる〈一定程度の確からしさ〉を暫定的な目印として、掴み取れれば、それで十分生きて行くことが出来るのです。そのためにこそ、真と偽の混ぜ合わせの他人の話に耳を傾ける必要がある、とわたしは考えています。
(12)〈自己中(じこちゅう)〉の免罪符として、「内心の事実を、他人が確認することは、不可能事である。」という話を、利用することは許されない。
「他人の内心の事実を、本人以外が確認することは、不可能事である」と決め付け、他人の話に耳を傾けることを怠り、放棄し、自身の〈解釈的な推測〉を事実であるかのように、他者に向けて振る舞う行為は誤った行為である、とわたしは考えます。そうした誤った行為を平然と行う人たちのことを〈自己中(じこちゅう)〉と、世の中では呼んでいます。
〈自己中(じこちゅう)〉の免罪符として、「内心の事実を、その本人以外の者である他人が確認することは、不可能事である。」という事柄を利用する詐術を許してはいけない、とわたしは考えています。
(13)〈自己中(じこちゅう)〉的な世界を正当化するために(タイプAの事柄)と(タイプBの事柄)を、都合良く、すり替えてはいけない。
「(タイプAの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、可能な事柄」に対して、「(タイプBの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、不可能な事柄」として、対応すること、
さらに、逆に、
「(タイプBの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、不可能な事柄」に対して、「(タイプAの事柄):〈事実確認〉の結果の根拠を、誰にでも検証可能な客観的な根拠として提示することが、可能な事柄」として、対応すること、
何れも、錯誤でしかない。
仮に、錯誤が意図的に〈自己中(じこちゅう)〉的な世界を正当化する目的として行われるのであれば、論外という他ない、とわたしは考えています。
(14)年間読書人さんの〈いつもの論法〉、あるいは、パターン化され、構造化された(タイプAの事柄)と(タイプBの事柄)の意図的な巧妙なすり替え
年間読書人さんが毎回のように繰り返している〈いつもの論法〉は、以下のように、パターン化され構造化されている、とわたしは考えています。
(タイプBの事柄)に対して、(タイプAの事柄)であるかのように取り扱い、「誰にでも検証可能な客観的な根拠を提示せよ!」と、相手に要求し、さらに、(タイプAの事柄)に対して、(タイプBの事柄)であるかのように取り扱い、「誰にでも検証可能な客観的な根拠を提示することは、不可能事である。」と言い逃れる、という、年間読書人さんの〈いつもの論法〉。
年間読書人さんの〈いつもの論法〉は、見解に対する、他者からの批判への反論ではなく、現実の中での個別の事象のありようを巧妙にすり替えることによって、他者からの批判を、やり過ごし、無効化(キャンセル)する試みである、とわたしは考えています。批判への、反論ではなく、キャンセル。これを〈論点ずらし〉と言わずして何というのだろう。
(15)「わたしと北村紗衣さんの関係性」についての、年間読書人さんの論理/ロジックは、意味不明な支離滅裂なものである。
「わたしと北村紗衣さんの関係性」についても、〈事実確認〉が一定の有効性があったこと示しています。事後的ですが、実際に、年間読書人さんは、>「スロウ・ボートさんの説明が「事実である蓋然性は十分に高い」とも判断した」、とご自身の言葉で書かれています。
年間読書人さんは、「〈事実確認〉を、「他人の内心の事実を、本人以外が確認することは、不可能事である」として退け、>「だからこそ私は、「解釈的な推測」を語るしかなかった。」と言いつつ、その一方で、「わたしの話(説明)が蓋然性の十分に高いものである」と判断されている。
年間読書人さんの話の論理/ロジックは、論理/ロジック以前の、レトリックであり、「為にするこじつけ」程度の、意味不明な支離滅裂なものでしかないことが、ここに、端的に現れている、とわたしは考えています。
No.2// 批評の対象は、他者の〈内心〉ではない。批評の対象は、他者の言葉、行為である。
(1)「批評の対象は、他者の〈内心〉ではない。批評の対象は、他者の言葉、行為である。」というわたしの基本的な考え
「批評/批判の対象は、他者の〈内心〉そのもの、あるいは、他者の〈主観〉そのもの、ではなく、他者の「内的なるもの(内心、あるいは、主観)」から外部へ生み出された〈表現としての言葉〉であり、〈表現としての行為〉である。」という、批評についての、わたしの基本的な考えを、あらためてここに示したい、とわたしは思います。
〈内心〉、あるいは、〈主観〉は、わたし以外の他人には正確に認識することは不可能な事象であるが、人間の「内的なるもの」として、〈内心〉、あるいは、〈主観〉は厳然として存在している、とわたしは考えています。
しかし、
「批評/批判の対象となるものは、〈内心〉そのもの、あるいは、〈主観〉そのものではなく、〈内心〉そのもの、あるいは、〈主観〉そのものから生み出された〈表現として、表現された言葉〉であり、〈表現として、表現されたの行為〉である。」という考えが、わたしの批評/批判に対する基本的な考えです。繰り返します。批評/批判の対象は〈内心〉そのものではない、とわたしは考えています。つまり、「議論の対象は、〈表現としての言葉〉であり、〈表現としての行為〉である。」とわたしは考えています。
〈表現として、表現された言葉〉、あるいは、〈表現として、表現されたの行為〉で提示された自己、及び、他者の認識/理解/解釈/見立てに対して、自己、及び、他者が互いに論理的な整合性を構成しながら、論理を組み立て、推測し、検証し、互いの〈表現として、表現された言葉〉、あるいは、〈表現として、表現されたの行為〉の信憑性/蓋然性/妥当性を批評/批判する、という事柄として、議論/論戦が行われる、とわたしは考えています。
(2)「〈事実確認〉は、「批評/批判という行為」の過程/プロセスの部分である。」の件
〈事実確認〉は、そうした「批評/批判という行為」の過程/プロセスの部分として、適宜、実行されます。〈事実確認〉は「批評/批判という行為」の過程/プロセスの部分である、というのが、わたしの認識です。〈事実確認〉は「他者の〈内心〉そのもの」を、直接的に把握するために行われるのではありません。
「批評/批判という行為」に於いて、
〈事実確認〉とは、「現実(想像/虚構/フィクションの対極としての世界)の中で、実際に存在した(発生した、起きた)事柄/物事/出来事/事象を、不確かな曖昧な状態に留めずに、「このようである」と、判定することが出来る程度に、明確にさせること」である。
である〈事実確認〉は、事案によっては、必要不可欠なことになる場合があります。但し、他者の言葉/行為の妥当性の評価である批評に於いて、「〈事実確認〉がいつも必要になる。」ということではありません。あくまでも、過程/プロセスの部分として、事案のありように応じて適切に用いられます。
個々の事案の批評/批判のために行われる、〈事実確認〉は、(タイプAの事柄)であったり、(タイプBの事柄)であったり、両方が組み合わさったり、します。事案の、その時々に応じて、適切な〈事実確認〉を行う必要があり、〈事実確認〉が不足したり、〈事実確認〉を誤ると、批評/批判は結果として誤ったものになってしまいます。
(3)「批評/批判という行為」の過程/プロセスの部分としての〈事実確認〉の事例、あるいは、他者の見解/認識/解釈の妥当性の評価の方法、としての〈事実確認〉の事例、について
上記の、わたしの記事:〈第11号〉の中で、「批評という行為」の過程/プロセスの部分、あるいは、他者の見解の妥当性の評価の方法、としての〈事実確認〉を行っているので、下記に再録しておきたいとわたしは思います。
***、以下、わたしの記事:〈第11号〉の再録、***
論点(3)「千葉雅也さんは、現代思想の大哲学者の解説屋をやめて、自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き、刊行した。」という、年間読書人さんの推測/認識に対する検証・批判
・・・(中略)・・・
千葉雅也さんが自分自身をブランド化する行為として、『センスの哲学』を書き刊行したという推測は誤りです。
・・・(中略)・・・
著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは、『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。
年間読書人さんの、「千葉雅也さん(表現)のブランド」に関する、誤った認識は、2024年の4月に刊行された『センスの哲学』以前の、2023年までの千葉雅也さんの著述活動の全貌に対する無知に起因する、とわたしは考えています。
年間読書人さんは、ここで、「事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をする。」という誤った認識を行っている、とわたしは考えてします。
年間読書人さんの認識が、〈客観的な根拠〉と〈論理的整合性〉の欠落した認識であることが、明らかになった、とわたしは考えています。
・・・(中略)・・・
(※)千葉雅也さんの『センスの哲学』までの著作について
わたしの批判を行う上で、その前提として、千葉雅也さんがこれまでに行ってきた表現の概略を示しておきたいと思います。千葉雅也さんは毎日のようにX(Twitter)で言葉を発信されています。(X(Twitter)のフォロワー数は2024年12月現在、9万を超えているようです。)そして、著述家として本を書かれています。わたしは千葉雅也さんの単独の著作は、小説三部作を含めて、全て読んでいます。ざっとですが、今年(2024)の4月に『センスの哲学』を刊行するまでの、千葉雅也さんのこれまでに行ってきた著作の履歴を辿ってみましょう。(尚、千葉雅也さんには対談等の共著もありますが、ここでは省略します。)
千葉雅也さんの現時点での単独の著作は以下の通りです。
(1)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
(2013)
(2)『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)
(3)『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)
(4)『意味がない無意味』(2018)
(5)『アメリカ紀行』(2019)
(6)『現代思想入門』(2022)
(7)『センスの哲学』(2024)
長編小説三部作は以下の通りです。
(1)『デッドライン 』(2019)
(2)『オーバーヒート』(2021)
(3)『エレクトリック』(2023)
千葉雅也さんは、自身の博士論文である最初の著作『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)が注目を集め、その後、『別のしかたで:ツイッター哲学』(2014)、『勉強の哲学:来たるべきバカのために』(2017)などが刊行され、多くの読者を得ました。
その後、最初の長編小説『デッドライン』が2019年に刊行され、2021年に二作目の長編小説『オーバーヒート』、2023年に三作目の長編小説『エレクトリック』が刊行されました。千葉雅也さんは小説家として、既に三つの長編小説を発表され、それらの小説は一定数の読者を獲得しています。
そして、現在に至っている、という流れです。
『現代思想入門』(2022/3/16刊行)は「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる」本かもしれません。2023年2月時点で電子版を含めて13万部を超えて、ベストセラーとなった『現代思想入門』のインパクトが強く、千葉雅也さんを「現代思想(哲学)」について「わかりやすく説明してくれる人」と認識している人も大勢いると思います。その認識自体は誤りではありません。千葉雅也さんには確かに現代思想(哲学)の解説者という側面があります。
しかし、『現代思想入門』以外の本は現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる本ではありません。また、千葉雅也さんのX(Twitter)も、必ずしも現代思想(哲学)について分かりやすく説明してくれるものではありません。『意味がない無意味』(2018)は批評集でもあり哲学書でもあります。この本で千葉雅也さんは自分の哲学を語っていますが、その文体は硬質で、語り口は平明なものではありません。『意味がない無意味』は決して現代思想(哲学)を分かりやすく説明する本ではありません。また、『アメリカ紀行』はタイトルを含めて見掛け上はエッセイの体裁をしていながらも、〈散文の思考〉と〈思考の散文〉が交錯し、千葉雅也さんの言葉の物質性が奏でられている音楽のような本です。
千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」ではありますが、「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれるだけの人でしかない。」という認識は明らかに誤りです。千葉雅也さんは「現代思想(哲学)を分かりやすく説明してくれる人」であり、「現代思想(哲学)の複雑な内容を複雑なまま複雑に語る人」であり、「不思議な魅力溢れる小説を書く小説家」です。
著述家としての〈千葉雅也・印〉のブランドは『センスの哲学』(2024)以前に既に確立しています。千葉雅也さんが「『センスの哲学』(2024)の刊行によって、現代思想(哲学)の解説者をやめて、自身のブランドを確立しようとした。」という認識は、これまでの千葉雅也さんの著作の時系列的な事実を知らない人による、誤った認識です。『センスの哲学』は既に確立されたブランド・〈千葉雅也・印〉が刻印された芸術論です。
(注:わたしがここで言っている「ブランド」とは、「他のものと識別するためのしるし」と言う意味です。他のものとは異なっているという意味で、「特別なもの」という意味はありますが、「高級な価値あるもの」という意味を必ずしも含んではいません。)
・・・(中略)・・・
***、以上、わたしの記事:〈第11号〉の再録、***
No.3〈事実確認〉として、再度、問います。// 年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?
「〈事実確認〉とは何か?」の、わたしの考えは、〈No.1〉に、書かれています。その上で、あらためて、〈事実確認〉として、再度、問います。
年間読書人さんは、千葉雅也 さんの『センスの哲学』の全文を、読まれた上で、レビューを書かれたのでしょうか?
前回の年間読書人さんからの反論(8)の結果、わたしの中では、さらに、「年間読書人さんは、まえがきの「はじめに「センス」という言葉」と第1章の「センスとは何か」しか読んでいないのではないだろうかという疑い」が非常に増大する結果となりました。
さらに、「「年間読書人さんが、『センスの哲学』の部分しか読んでいないにもかかわらず、あたかも全文を読んだかのようにレビューを書いたこと」を隠蔽するために、必死に論戦から逃げ回っている、とすれば、話の辻褄が合う、という構図」もわたしの中で浮かび上がって来ました。しかし、それは、わたしの頭の中だけの、「想像される最悪のケース」としての、勝手な憶測でしかなく、全く、具体的な根拠を欠いたものです。
あれこれの、言い訳は必要ありません。年間読書人さんご自身の言葉で返答していただければ、それで、よい、ということです。わたしの質問(事実確認)は、返答の内容を裏付けを〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉として提示することが不可能な事柄であることは、わたしを含めて誰もが承知していることです。誰一人、この件に対して、年間読書人さんに〈誰にでも検証可能な客観的な根拠〉を求めません。
年間読書人さんがどのような返答をするのかは、ご自身が決めることです。また、わたしを含めて誰も年間読書人さんに、「それは本当のことですか?それとも嘘ですか?」などという愚かな質問はしません。
仮定として、年間読書人さんが嘘を言っても、わたしを含めて、他人には分かりません。但し、それが嘘の場合、年間読書人さんは「わたしに対して、noteにアクセスしてこれをご覧になっている方々に対して、そして、何より自分自身に対して、嘘をついた。」という事柄を、ご自分の内心の中で、背負い込み、場合によっては、苛まれることになってしまいます。
年間読書人さんは『センスの哲学』のレビューを書かれ、レビューをnoteというSNSの場で公開されました。わたしに対してということではなく、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの読者、及び、noteにアクセスして、この議論を読まれている読者に対して、年間読書人さんには、ご自身の言葉で、この件について説明する「責務」がある、とわたしは考えています
返答の内容の信憑性/蓋然性/妥当性は、わたしを含めて、noteにアクセスしてこの記事を読まれている方々のひとりひとりが判断するしかない、とわたしは考えています。
重要なことは、noteという公開の場で、「わたしが年間読書人さんに〈事実確認〉として、質問したという事柄」を、記録しログとして残すことです。さらに、可能であれば、質問に対する、年間読書人さんの返答を、記録しログとして残すことです。
仮に、年間読書人さんからの返答が無くとも、「年間読書人さんからの返答が無かった、という事柄」として、記録しログとして残すことが出来れば、年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューへの、わたしの批判の過程/プロセスとして、意味がある、とわたしは考えています。
プロローグ、を、再度、繰り返します。
わたしが、わたしとして、行うべきことを行い、結果を記録し、ログを残すこと、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、が、作戦/オペレーション/Operatin/であることの所以がここにあります。意味もなく、そう呼んでいるのではありません。
No.4//年間読書人さんは、〈逃げるが勝ち〉とばかりに、『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」という、件
(1)「年間読書人さんが〈逃げるが勝ち〉とばかりに『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」ということは、もはや、言い逃れの出来ない、誰の目にも明らかな事柄である。
年間読書人さんは、〈論点ずらし〉を延々と行い、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から、逃げ回り、続けています。年間読書人さんの反論は、毎回(ほぼ)『センスの哲学』とは直接的には関係の無いことばかりです。
「年間読書人さんが〈逃げるが勝ち〉とばかりに『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」ことは、もはや、言い逃れの出来ない、誰の目にも明らかな事柄である、とわたしは思っています。
年間読書人さんは、明確に意図的に、『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。とわたしは考えています。
(2)年間読書人さんの戦術の分析://: 〈逃げるが勝ち〉戦術と、〈論点ずらし〉による〈持久戦〉戦術
年間読書人さんは、『センスの哲学』を巡る論戦に対して、現在、二つの戦術を用いて対応している、とわたしは考えています。尚、わたしがここで言っている〈戦術〉とは、〈議論に於ける方法論〉のことです。
第一に、
〈逃げるが勝ち〉戦術を行っている、とわたしは考えています。 〈逃げるが勝ち〉という戦術は、「困難に直面し形勢が不利と判断された時に、一時的に身を退け戦わずして逃げ、保身をはかることが、大局的に得策であり、卑怯そうに見えるが、終局において勝利をおさめればよい。」という戦術である、とわたしは考えます。実行されている戦術は、正面から議論すれば、自身の形勢が不利なので、議論の迂回を重ね、その間に、状況の変化を辛抱強く待ち、反転攻勢の機を探り、終局に於いて、勝利を掴み取るという戦術である、とわたしは考えています。
第二に、
〈論点ずらし〉を繰り返し、『センスの哲学』を巡る論戦以外の話題に、次々と話を拡大し拡散させ、持久戦に持ち込み、拡散、拡大された話題への対応によって、相手を苛立たせ疲弊させ揺さ振り、相手の苛立ちと疲弊の中から、何かしらの相手の綻びを見つけ出し、そこを衝き、形勢を逆転させるという、「〈論点ずらし〉による、〈持久戦〉戦術」である、とわたしは考えています。年間読書人さんは、意味もなく、話を次々と拡大、拡散させ、相手を「苛立たせ、疲弊させ、揺さぶっている」わけではない、とわたしは考えています。
第一の、〈逃げるが勝ち〉戦術も、第二の、〈論点ずらし〉による、〈持久戦〉戦術も、年間読書人さんが、〈『センスの哲学』を巡る論戦〉を攻略するために、明確に意図的に選択した、〈議論に於ける方法論〉としての戦術であり、年間読書人さんは、経験上から、〈議論に於ける方法論〉としての戦術について、多様な知識と技術を備え、活用している、とわたしは考えています。しかし、戦術を駆使し、わたしを、「いいようにあしらっている」つもりでも、わたしには全く無意味な無駄な抵抗でしかありません。結局、年間読書人さんの行為は、年間読書人さんの無様さと醜悪さを際立たせる効果を生み出すことにしかなっていない、とわたしは考えています。
(3)年間読書人さんが、そうした戦術を用いながら、『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている理由について
年間読書人さんが、なぜ、逃げ回るという醜態を晒し続けているのか、理由は、正確にはわたしはよく分かりません。年間読書人さんには、「(自分が)逃げ回るという醜態を晒し続けている。」という自覚が無いのかもしれませんし、「相手(わたし/スロウ・ボート)が〈論点ずらし〉をしているだけで、自分(年間読書人さん)は正々堂々と議論を行っている。」と思われているのかもしれません。
年間読書人さんの、現在の状況に対する認識がどのようなものであるのか、わたしには定かではありません。しかし、何れにしても、わたしは、「年間読書人さんは、〈逃げるが勝ち〉とばかりに、『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」と認識し、「それは、もはや今となっては、言い逃れの出来ない、誰の目にも明らかな事柄である。」と考えています。
No.5//年間読書人さんは、真の〈論争家〉ではない。御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉あるいは〈言行不一致の人〉でしかない。」という、件
(1)年間読書人さんは、真の〈論争家〉ではない。御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉、あるいは、〈言行不一致の人〉でしかない。
繰り返しますが、わたしは、「年間読書人さんは、〈逃げるが勝ち〉とばかりに、『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」と認識しています。また、年間読書人さんの毎回の反論も、わたしにとっては、「結局のところ、何が言いたいのだろう?」と首を傾げてしまうだけの、「テーマも論理も欠落した、意味不明な支離滅裂な、長々とした文章」でしかない、とわたしは考えています。
年間読書人さんは、ご自分のことを〈論争家〉と呼びながらも、自分に都合のよい時だけしか論争しない、御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉であり、「議論しよう。」と口で言っている/言葉で書いている、だけの、実際には「議論しない、あるいは、議論できない。」、言っていること/書いていることと行動が一致しない〈言行不一致の人〉である。さらに、年間読書人さんの文章は、「テーマも論理も欠落した、意味不明な支離滅裂な、長々とした文章、あるいは〈為にする、こじつけ〉」でしかない。
年間読書人さんは、真の〈論争家〉ではなく、〈言行不一致の人〉であり、その文章は「論理の欠落した、意味不明な支離滅裂な、長々とした文章」である。
というのが、これまで年間読書人さんと公開往復書簡的なやり取りをさせていただいた経験の上での、わたしの率直な感想です。誤魔化すつもりはありません。また、ことさら大袈裟に言って印象を貶めるつもりもありません。これまでの〈現実の、実際の、年間読書人さんの行動と文章〉を、わたしの視点に立って、観れば、わたしにはそう表現する以外、表現の仕方がないからです。多分、わたしの視点に立てば、きっと多くの人たちが大なり小なり似たような感想を持たれるだろう、とわたしは想像します。
議論でありながら、ご自身の反論の中に、テーマ、議題すら/書けない/書くことをしない/書こうともしない/、『センスの哲学』のレビューの議論の論点を、わたしが明確に整理して提示しても、スルーする。「張り子の虎」と呼ぶしかない、自称の論争家の年間読書人さんの振る舞い。本物の論争家であれば、わたしの批判など直ちに容易く「論破」してしまうことでしょう。
こうした、わたしの「忌憚のない感想」も、また、年間読書人さんの手にかかれば、〈スロウ・ボートによる、レトリックを用いた、印象操作〉というレッテルを貼られ、「わたしの率直な感想」が、年間読書人さんの印象を「悪しき方向へ」操作するために行われる行為として、すり替えられてしまうのかもしれません。しかし、仮に、わたしが年間読書人さんの印象を操作することが出来ても、わたしにはその行動まで操作することは出来ません。
(2)「年間読書人さんの、自分自身への〈願望充足的なイメージ〉」としての、「自分は論争家であり、自分の書く文章は論理的である。」という、年間読書人さんの〈セルフ・イメージ〉
年間読書人さんのnoteのプロフィールには、ご自身を「昔から論争家」であり、ご自身の文章を「だたし論理的です。だからタチが悪いとも言われる」と書かれてあり、「年間読書人さんの〈セルフ・イメージ〉」、つまり、「年間読書人さんの、自分自身に対する認識や評価、イメージ」が投影され記述されている、とわたしは考えています。

〈セルフ・イメージ〉という自画像とは、鏡に映った客観的な外形的な自己の姿を描写したものではなく、自己の内包する〈自己の欲望を含んだ、内的なるもの〉の姿を、自己自身が言葉で描写したものです。〈セルフ・イメージ〉という自画像には、〈自己の欲望を含んだ、内的なるもの〉が複雑に屈折したものとして、出現している、とわたしは考えています。
一一だが、この考えは「甘い」と思う。私の言い方で言えば、「願望充足的な読み」である。「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」というような、思考の流れの結果にすぎないと思う。
(※注:太字はわたしによるものです、原文は太字ではありません)
「自分は論争家であり、自分の書く文章は論理的である。」という年間読書人さんの〈セルフ・イメージ〉は、(上記の引用にあるように)>「「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」というような、思考の流れの結果にすぎない」〈年間読書人さんの、自分自身への願望充足的なイメージ〉である、
と、仮定すれば、
「年間読書人さんが、現実の中では、実際は、真の〈論争家〉ではなく、御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉、あるいは、〈言行不一致の人〉でしかない。さらに、その文章は「論理の欠落した、意味不明な支離滅裂な、長々とした文章」である。」という事柄が、論理的な整合性を持った事柄として、成立する、とわたしは考えています。
簡単に言い換えれば、「「自分は論争家であり、自分の書く文章は論理的である。」という年間読書人さんの〈セルフ・イメージ〉は、言葉通りのイメージでしかなく、年間読書人さんの頭の中だけにしか存在しない幻想(ファンタジー)として存在しているだけである。」という仮説を、わたしは極めて蓋然性の高い仮説である、と考えています。
>「そうであったらいいな。そうであってほしい。たぶんそうだろう。きっとそうに違いない」という、年間読書人さんの、自分自身への〈願望充足的なイメージ〉が、〈セルフ・イメージ〉化され、年間読書人さんは、鏡の中の、その〈セルフ・イメージ〉を、「現実の中の、実際の、自己の姿」として、認識しているのではないだろうか、とわたしは推測しています。他者から観れば、年間読書人さんの認識は錯覚/ファンタジーでしかありません。
(3)「〈セルフ・イメージ〉を守るために、年間読書人さんは他者からの批判を〈印象操作〉という言葉を使って批判する。」という、件
年間読書人さんの反論の中で、特徴的な事柄として、「他者からの批判を〈印象操作〉という言葉を使って非難する。」という事柄がある、とわたしは考えています。しばしば、〈印象操作〉という言葉が登場し、繰り返されています。「その見解/認識は、***という理由/根拠によって、それは誤った見解/認識である。」という形ではなく、「それは、***は***である、という印象を与える〈印象操作〉である。」という形で、年間読書人さんは他者の見解/認識を批判/非難を行っている、とわたしは考えています。
年間読書人さんに於いては、自己が〈セルフ・イメージ〉と同一の姿で、現れ、自己を保全するための行為として、〈(セルフ)・イメージ〉を守ることが極めて重要な事項となっている、とわたしは考えています。年間読書人さんにとっては「他者からの印象操作によって、〈(セルフ)・イメージ〉が侵害されることは、許し難いことであり」だからこそ、反論の中で、しばしば、〈印象操作〉という言葉が登場している、とわたしは考えています。
No.6//「〈言行不一致の人〉である年間読書人さんの、〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉は、口先だけのものでしかない。」という、件
(1)>「ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?」という年間読書人さんの、わたしへの批判
年間読書人さんは、上記のリンクした反論(5)の中で、下記の引用にあるように、わたしに対して批判を行っています。
そもそも、そう言っている段階で、「自己正当化の欲望」に流されており、欲望のままに「自分は非凡だ(欲望に流されない人間だ)」と、そう主張してしまっているだけ、なのではないでしょうか?
だから問題とすべきは、そう主張するほどのことを、実際にやれているのか否かであり、またそれでしか、自他ともに、その人の実態を判断することはできないはずです。
ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
>「だから問題とすべきは、そう主張するほどのことを、実際にやれているのか否かであり、またそれでしか、自他ともに、その人の実態を判断することはできないはずです。」
>「ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?」
年間読書人さんは、ここで、わたしに対して、「「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を行っているのか?」 さらに、「そう主張するほどのことを、実際にやれているのか?」と批判されています。わたしはその批判に対して、下記にリンクした、わたしの記事:〈第9号〉で明確に反論しています。
(2)年間読書人さんの記事は、〈一方的に、無責任に、好き勝手に、言い放つ、放言〉でしかない。それは、〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉などではない。
しかし、年間読書人さんが、ご自身で実践されていると、表明されている〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉が、口先だけの〈放言〉でしかないことは、明白である、とわたしは思います。
年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューの記事を巡る行為は、「自分が言いたいことだけを書き連ね、後は、知らない、仮に、他者からそれに対して反論/異議があっても、無視して、〈逃げるが勝ち〉とばかりに、議論から延々と姑息に逃げ回る」というものです。年間読書人さんが行っていることは、〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉などではなく、単純に、自分が気持ちよくなるためだけの、〈一方的に、無責任に、好き勝手に、言い放つ、放言〉でしかない、とわたしは考えています。
何度も、繰り返します。年間読書人さんの『センスの哲学』のレビューは、他者からの反論/異議から逃げ回るということに於いて、『センスの哲学』への〈放言〉でしかなく、何ら『センスの哲学』への批判にはなっていない。
(3)〈批判〉が困難である理由は、他者からの反論/異議に耐えなければならないからである。年間読書人さんが行っているのは〈批判〉ではない。〈放言〉である。
世の中の多くの人たちが、「〈批判〉を行うことが出来なく、〈放言〉しか出来ない。」のには鮮明な理由があります。
〈批判〉が困難である理由は、「(自分が行った)批判に対しての、他者からの反論/異議に、応答し、耐えなければならない。」ということにあります
言いたいことを言うだけの〈放言〉は気持ちよいもの、ですが、しかし、反論に応じなければならない〈批判〉は厳しいもの、です。だから、世の中の多くの人たちは、〈放言〉をして、憂さを晴らし、〈批判〉から逃げているのです。年間読書人さんのnoteの記事は、まさに、〈批判〉の装いをした、憂さ晴らしのための〈放言〉でしかありません。
年間読書人さんは、毎日のように、記事を公開して〈一方的に、無責任に、好き勝手に、言い放つ、放言〉を繰り返しているだけです。年間読書人さんの幻想(ファンタジー)の中で、〈放言〉が〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉の行為/出来事へと変貌して現れている、とわたしは考えています。
(4)年間読書人さんの発言の言葉を繋ぎ合わせると、まるで、それは、鏡に映った自分の姿を自分自身が非難しているように。
>「だから問題とすべきは、そう主張するほどのことを、実際にやれているのか否かであり、またそれでしか、自他ともに、その人の実態を判断することはできないはずです。」
>「ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?」
>「その口が言うことではない。」
年間読書人さんの発言の言葉を繋ぎ合わせると、まるで、それは、鏡の中の自分と鏡の外の自分との一人芝居の様相を呈しています。非難する者が非難している行為そのものを、非難する者自身が行っている、というウロボロス的な構造。ありていにいえば、〈言行不一致の人〉が、他人に、>「その口が言うことではない。」、と言う、度し難い、自己矛盾/自己分裂。
(5)年間読書人さんの自家宣伝について
年間読書人さんの書かれた記事には、滑稽というしかないのですが、ご自身の名前に(#年間読書人)とタグを付けて、公開されている記事、が多々あります。自分が書いた記事に、自分の名前のタグを付けて、公開する?!
また、いつも記事の末尾には、記事との直接的な関係性が不明な、長大なご自身の記事のリンク集がリンクされています。
年間読書人さんの「自分のアピール、自分で自分のことを吹聴すること、自家宣伝に余念がないこと」をあらためて、思い知らされてしまいます。
年間読書人さんは、「〈「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践〉として誇るべきものと思い込んでいる記事を、ひとりでも多くの人々に、観て、読んで欲しい」と強く思われている、とわたしは考えてします。
年間読書人さんの記事が〈放言〉であること考えれば、年間読書人さんの滑稽な自家宣伝が「痛々しいもの」としてさえ観えて来ます。
No.7//「世の中の人々は、バカではないので、年間読書人さんによる、議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのは、当然のこと」という、件
(1)わたしの深く愛する映画のひとつである、リュック・ベンソン監督の映画『レオン』の記事(2025年4月5日)、について
年間読書人さんが、わたしの深く愛する映画のひとつである、リュック・ベンソン監督の映画『レオン』の記事を書かれていたので、わたしはこの記事の全文を読ませていただきました。
(尚、わたしは映画好きなので、わたしは年間読書人さんの映画評の内容を確認しています。とは言っても、大きく関心事が異なっていますので、記事の全文を読んでいるのは、その中の、極、一部でしかありません。でも、デイヴィッド・リンチ監督の記事は全て読ませていただいています。デイヴィッド・リンチ監督の映画については、年間読書人さんの見解と部分的に重なるところもあれば、そうではないところも、いろいろです。)
さて、年間読書人さんのリュック・ベンソン監督の映画『レオン』の記事の中に、「年間読書人さんによる、他者への議論の呼び掛けに関する事柄」について、書かれています。それを引用しつつ、「世の中の人々は、バカではないので、年間読書人さんによる、議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのは、当然のこと」という件、について、書きたいとわたしは思います。
※★★★※
わたしの映画『レオン』についての短い感想文/レビューを、本パートの終わりに書き添えておきたい、と思います。ここで、わたしが映画『レオン』のレビューを書かないのは、アンフェアなような気持ちがしますので。
(※注:わたしが観たのは、劇場公開版であり、完全版ではありません。)
(2)年間読書人さんによる、>「さあ、勝負しようぜ」、という「議論」の呼び掛けが求めているもの、あるいは、noteというSNSに強く依存している者たちの〈他者からの視線を浴びることの快楽〉
「なんだ、この程度の奴らが、知ったかぶりで居丈高にフェミニズムを振り回していたのか。この程度なら、大学教授クラスだって、簡単に論破できるな。さあ、勝負しようぜ」と、そんなスタンスになったのである
(※注:太字はわたしによるものです。原文は太字ではありません。)
一一で、件(突っかかり牛人間)の北村紗衣をはじめとして、私に批判され、喧嘩を売られたフェミニストたちは、誰ひとり喧嘩を買ってくれない。
Twitter(現「X」)での短文による悪口陰口合戦ならしているくせに、長文でロジカルに批判しあうというようなことは、出来ないようなのだ。それで負けると、赤っ恥をかくことになるから、危険な野良犬には関わらないのが得策だと、そういう判断なのであろう。
(※注:太字は原文そのままです。わたしによるものではありません。)
年間読書人さんのnoteの記事「リュック・ベッソン監督 『レオン』 : ロリコンとフェミニズム」から、引用した上記の文章は、シンプルに、「自分の見解(の是非)について、誰かと議論を行い、言葉を交わしたい」という年間読書人さんの思いが、そのまま表れた言葉だ、とわたしは思います。
しかし、そうしたシンプルな「議論を交わしたい」という思いだけではなく、そこには、「〈著名人/著者の誰か〉に、自分の相手をして欲しい」という欲望/願望が、隠されることなく、表れている、とわたしは考えています。
年間読書人さんに於いては、「議論の相手が著者/著名人であることが、非常に重要な必要条件になっている」とわたしは考えています。なぜなら、年間読書人さんが議論に求めていることが、「議論そのものだけではなく、著者/著名人と同じリングに立ち、著者/著名人と対等なポジションに位置し、多くの人々からの視線を浴びる快楽」にあるのではないか、とわたしは推測しているからです。
わたしの推測の根拠は、「年間読書人さんが〈他者からの視線を浴びることの快楽〉に溺れている」ことに由来します。年間読書人さんが「noteに強く依存し、毎日のように記事を投稿している/投稿せざるを得ないこと」から、「年間読書人さんが〈他者からの視線を浴びることの快楽〉から逃れられないこと」は明らかである、とわたしは考えています。年間読書人さんに限った話ではありません。良し悪しは別のこととして、noteを含めたSNSに強く依存している「現代を生きているわたしたちの共通の生のありよう」です。
裏返せば、議論の相手が著者/著名人ではない場合、〈他者からの視線を浴びることの快楽〉が大きく減じてしまい、年間読書人さんの議論へのモチベーションもまた大きく減じてしまうことになる、とわたしは考えています。別の言葉で言い換えれば、年間読書人さんは議論を求めながらも、自分がどれだけ気持ちよくなることが出来るのかを、周到に精密に計算して、「議論の相手を選んでいる」ということである、とわたしは認識しています。
(3)「世の中の人々は、バカではないので、年間読書人さんによる議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのは、当然のことである。」の件
世の中の人々は、そうした年間読書人さんの議論に於ける欲望/願望を、正確に見透かしている、とわたしは考えています。
世の中の人々は、年間読書人さんが、「議論という方法」を用いて、〈他者からの視線を浴びることの快楽〉を得ようとしていること、さらに、年間読書人さんが、真の〈論争家〉ではないことも、見抜いているのだ、とわたしは考えています。年間読書人さんの本質は既に暴かれています。
だから、世の中の人々は、年間読書人さんによる議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのだ、とわたしは考えています。簡単に言えば、世の中の人々は、「年間読書人さんの欲望を、満足させるための、〈議論〉」に付き合うつもりはない、ということです。「気持ちよくなりたい」のであれば、「自分で、自分を、なぐさめて、気持ちよくなれば」としか、世の中の人々は思ってはいない、ということです。
>「私に批判され、喧嘩を売られたフェミニストたちは、誰ひとり喧嘩を買ってくれない。」のは当然のことです。>「Twitter(現「X」)での短文による悪口陰口合戦ならしているくせに、長文でロジカルに批判しあうというようなことは、出来ないようなのだ。それで負けると、赤っ恥をかくことになるから、危険な野良犬には関わらないのが得策だと、そういう判断なのであろう。」ということなど、誰も考えていない、とわたしは想像します。まさに、これこそ、年間読書人さんの頭の中だけの幻想(ファンタジー)である、とわたしは思います。自己満足のための、年間読書人さんの「(見せ掛けの)議論の呼び掛け」に応じるほど、世の中の人たちは、バカではない、ということだ、とわたしは思います。
(※)わたしの、映画『レオン』についての、短い文章/レビュー
映画『レオン』は孤独なる者たちの出会いと別れの物語の映画である。孤独の者のひとりが大人の男であり、もうひとりの孤独の者が子供の女となっている。大人と子供の性愛を、そこに、見出すことになるのかもしれない。わたしは見立てを全面的に否定するつもりはない。そうした側面は確かに存在していると思う。しかし、映画『レオン』を大人と子供の性愛の物語という枠組み中に押し込めてしまうと、この映画を見失ってしまうことになる。
孤独の中で、ひとりから手が伸ばされ、その手を握り返した者がいる。それだけだ。それを友情と呼べば、切なく、性愛と呼べば、惨くなる。あらためて言うまでもないことだが、映画『レオン』は、孤独なる者たちの、声なき叫びが刻み込まれた、まぎれもない傑作である。孤独の意味が分からない者たちが映画『レオン』を語ってはいけない。レオンとマチルダのために。
映画を含めた芸術は、決して思想を説明するための道具ではない。映画の中に、思想を発見することが出来るとしても、だからといって映画を思想を語るための道具として扱うことは、映画への侮辱以外の何ものでもない。映画とは、言葉ならざる光と闇の身体を持つ生命の閃光であり跳躍なのだから。
No.8//Operation William Blake Leviathan/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/、とは何か?
2025/1/14/20:07
わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
わたしの、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護です。いろいろ思うところがあって、昨年/2024/12月の終わりから、このオペレーションを実行しています。わたしはいつもぼんやりしている人間なので、こういうことには全く向いていないのですが、わたしの内なるダークサイドの中で騒めくものたちがいます。このオペレーションはそれらのために行われています。
>「わたしの、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護」が実行されている、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、は、スタートする前に、わたしによって、あらかじめ、織り込み済みのかたち、をして、現在進行形で、進行中です。
記録し、公開し、ログを保存すること、それが、いかなるものであれ、何かしらの風景が描写されることになります。21世紀の日本の風景の部分として
わたしも、また、〈わたしの内なるダークサイドの中で騒めくものたち〉の欲望の召使でしかありません。誰もが、そうである、と同じように。
オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン//、Operation William Blake Leviathan//、とは何か?
その中で、
騒めき犇めき喚く、メタファーの意味が、未だ、何であるのか、 誰にも理解されていない。
No.9//年間読書人さんの反論(第8回目)全文
No.10//年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
No.11//年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
No.12//あとがき//年間読書人さんとわたしの『センスの哲学』の評価を巡る「論戦」のスタートに至る、これまでの経緯について
これまでの経緯をお知りになりたい方は、以下の記事をご覧ください。
