『僕らの未熟な蒼』第5章
第5章 再会
1
六月の雨は、音がない。
会議室の窓ガラスに、細い水の筋が幾本も引かれていく。ビルとビルの狭間に切り取られた空は、どこまでも低く垂れ込めた灰色で、梅雨特有の重たい湿り気が、空調の効いた室内にまで忍び込んでくるようだった。
僕は手元の資料に視線を落としていた。
新しいキャンペーンの企画書。先方の代理店から事前に送られてきた叩き台に、僕はいくつかの書き込みをしていた。ターゲット層の設定が甘い。媒体の選定に根拠が薄い。そういった指摘を、丁寧な言葉に変換しながら余白に書き加えていく。それが、今の僕の仕事だった。
「瀬戸さん、先方、もうすぐ来ますよ」
隣に座った同僚の田中が、スマホから顔を上げて言った。入社三年目の、要領のいい男だ。
「ああ」
僕は短く答え、ボールペンのキャップを閉めた。
「今日の担当、木村さんでしたっけ。いつも準備いいですよね」
田中は独り言のように続けた。僕はそれを聞き流しながら、窓の外に視線を向けた。
雨が、少し強くなっていた。
六月。
この季節になると、毎年同じように、胸の奥の古い場所がざわつく。梅雨の湿った空気の匂いが、あの頃の教室の空気とどこかで繋がっているせいだ。古い木製の机が湿気を吸い込んでじっとりと重くなる感触。チョークの乾いた音。そして、右隣の席から漂ってくる、微かな石鹸の香り。
僕は資料に視線を戻した。
会いたい。
その言葉が、また胸の奥から這い上がってくる。押し込めても、押し込めても、この季節になると必ず浮かび上がってくる。十三年という時間は、その渇望を薄めるどころか、じわじわと濃くしていくだけだった。
奈緒のことを思った。今頃オフィスで、いつもの穏やかな笑顔で仕事をしているだろう。先週の夜、
「最近どこか遠くにいる感じがする」
と、ワイングラスを傾けながら彼女が言った。僕は
「仕事が立て込んでいるだけだよ」
と答えた。それは嘘ではなかった。ただ、本当のことでもなかった。
ドアがノックされた。
三回。丁寧な間隔で。
「どうぞ」
田中が顔を上げる。僕は手元の資料に視線を落としたまま、ボールペンを指先で軽く回した。
ドアが開く音がした。
複数の足音。革靴の、硬い音。それからもう一つ、少し軽い足音。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。いつもお世話になっております、木村です」
滑らかな口調。いつもの木村さんだ。
僕は視線を上げた。
入り口に、スーツ姿の木村さんが立っていた。その隣に、薄いベージュのジャケットを着た女性がいた。
褐色の肌。
真っ直ぐな背筋。
そして、僕の視線に気づいて、ほんの少しだけ動きを止めた、あの大きな瞳。
時間が、止まった。
会議室の空調の音が、遠くなる。田中が何かを言っている気配がするが、言葉として届いてこない。窓の外の雨音も、すべてが遠い世界の出来事のように消えていく。
十三年。
十三年という時間が、梅雨の湿った空気の中で、音もなく崩れ落ちていく。
彼女も、僕を見ていた。
あの頃と同じ瞳で。机の下の暗がりで、消しゴムを差し出しながら僕を覗き込んでいた、あの瞳で。
「な……佐伯、さん」
僕の口から、そんな言葉が出た。
苗字で呼んだのは、中学以来だった。それしか出てこなかった。十三年分の言葉が喉の奥で渋滞して、たった四文字しか通り抜けてこなかった。
凪紗は、一瞬だけ唇を動かした。
そして、静かに微笑んだ。
消しゴムを拾ってくれた時の笑顔でも、体育館で僕だけに向けてくれたあの笑顔でも、卒業式で一瞬だけ交わしたあの複雑な微笑みでもない。
もっと大人びた、もっと深いところから来る、静かな笑顔だった。
「……お久しぶりです、瀬戸さん」
その声が、梅雨の重たい空気を、一瞬で晴らした。
しばらくの沈黙の後、木村さんが二人の顔を交互に見て、少し明るい声を出した。
「お知り合いでしたか。それは奇遇ですね。では今日はいつも以上によろしくお願いします」
場を和ませるような、営業らしい笑顔だった。凪紗は小さく頷いた。僕も短く頷き返した。
会議は、そのまま始まった。
2
会議は、淡々と進んだ。
木村さんが手際よく資料を並べ、企画の概要を説明し始める。凪紗はその隣に座り、木村が説明する資料のページを静かに揃えながら、僕たちの反応を確認していた。
プロだった。
表情は落ち着いていて、視線は真っ直ぐだった。あの頃、学級委員の仕事を黙々とこなしていた凪紗が、そのままこういう人間になったのだと、妙に納得がいった。
けれど、僕はほとんど話が頭に入っていなかった。
企画書の文字を目で追いながら、意識の端でずっと、テーブルを挟んだ向こう側にいる凪紗の気配を感じていた。
褐色の肌は、中学の時より少しだけ落ち着いた色になっていた。ポニーテールではなく、きちんとまとめた髪型。でも、話しながら時折見せる、考える時の癖、視線をわずかに上に向ける、あの仕草だけは、何も変わっていなかった。
「瀬戸さん、このターゲット層の設定についてはいかがでしょうか」
木村さんが僕に視線を向けた。
僕は一瞬だけ、現実に引き戻された。
「……そうですね。二十代後半から三十代前半という設定は理解できますが、もう少し購買動機の根拠が欲しいですね。次回までに数字で裏付けてもらえますか」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
「おっしゃる通りです。次回までに調査データをご用意します」
木村さんが頷く。凪紗はメモを取りながら、小さく頷いた。その横顔を、僕はまた盗み見た。
十三年。
この十三年間、彼女は東京のどこかで、こうして真っ直ぐに生きていたのだ。僕が奈緒との穏やかな日常に埋もれながら、あの頃の残像を引きずって歩いていた間も。
会議が終わったのは、一時間後だった。
木村さんが名刺を渡し、次回の日程を確認し、丁寧に頭を下げながら会議室を出ていく。凪紗はその後ろで資料をまとめながら、田中と二言三言、事務的な言葉を交わしていた。
僕は立ち上がれなかった。
何か言わなければ。今ここで何か言わなければ、また終わってしまう。また、「ああ」とか「またね」とか、そういう言葉しか言えないまま、彼女は会議室のドアの向こうに消えていく。
中学の時と同じように。高校の時と同じように。
凪紗が鞄を持って立ち上がった。木村さんの後を追うように、ドアに向かって歩き始める。
「佐伯さん」
気づいたら、声が出ていた。
凪紗が足を止めた。振り返る。
田中が何も言わずに荷物を抱えて「お先に失礼します」と会議室を出ていった。木村さんも空気を読んだように「では外でお待ちしています」と静かにドアを閉めた。
会議室に、二人だけになった。
梅雨の雨音だけが、窓の外から静かに響いていた。
3
梅雨の雨音だけが、窓の外から静かに響いていた。
凪紗は僕を見ていた。驚いた様子もなく、戸惑った様子もなく、ただ静かに。まるで、こうなることをどこかで知っていたかのような、落ち着いた瞳で。
僕は一歩だけ前に出た。
「……びっくりした」
声に出すつもりはなかった。ただ、喉の奥から勝手に漏れ出てきた。数年間蓄積した言葉が渋滞して、結局それしか通り抜けてこなかった。
凪紗は小さく笑った。
「……うん。久しぶり」
敬語が取れた。その一瞬で、空白だった数年分の距離が少しだけ縮んだ気がした。
「東京にいたんだね」
「うん。三年くらい。ゆーくんも——」
凪紗が、はっとしたように口を閉じた。
一瞬の沈黙。
「……瀬戸も?」
言い直した声は、少しだけ照れたような響きを持っていた。顔が、わずかに赤くなっている気がした。
僕の胸の奥で、何かが静かに弾けた。
高校時代に街で遭ってからから数年。何年か越しに、彼女の口からその呼び名が漏れた。
「……大学からずっと。もう七年になる」
自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
凪紗は窓の外に視線を向けた。雨が、また少し強くなっていた。
「やっと、会えた」
独り言のように、凪紗の口から言葉が漏れた。
僕は息を呑んだ。
やっと。
その一言が、胸の奥に静かに刺さって抜けなかった。まさか、と思った。まさか、僕を探していたわけじゃない。東京は広い。たまたま同じ街に来て、たまたま仕事で繋がって、だからやっと会えた、それだけのことだ。
そう言い聞かせても、心臓だけは勝手に跳ねていた。
「……仕事、広告なんだね」
僕はようやく、そう言った。話題を変えなければ、この心臓の音が伝わってしまいそうで。
「うん。好きな仕事だよ」
凪紗は窓から視線を戻して、僕を見た。
「瀬戸は、ここに来てどのくらい?」
「三年。宣伝部に異動してから」
「そっか」
また短い沈黙が落ちた。でも、中学の時の沈黙とは違った。あの頃の沈黙は、言えない言葉が詰まって息ができなくなるような重さがあった。今の沈黙は、もう少し穏やかだった。あの頃から十数年という時間が、少しだけ大人にしてくれたのかもしれない。
それでも、伝えたいことは喉の奥で固まったままだった。
あの夕暮れのオフィス街で追いかけた背中のこと。銀座のレストランで万年筆を拾った瞬間に崩れ落ちた十三年分の記憶のこと。今も、あの頃の石鹸の香りを、人混みの中で探し続けていること。
全部、言えなかった。
「木村さん、待ってるから」
凪紗が鞄を持ち直した。
「……うん」
また、うん、しか言えなかった。中学一年の終業式から、何も変わっていない。
凪紗はドアに向かって歩き出した。その背中に、僕は声をかけた。
「また、打ち合わせで来るよね」
振り返った凪紗の顔に、あの笑顔があった。
「……うん。また来ます」
敬語と、タメ口が混ざった返事だった。
廊下に出ると、木村さんがエレベーターのボタンを押すところだった。凪紗がその隣に並ぶ。僕は会議室のドア枠に手をかけたまま、その場に立っていた。
扉が開いた。木村さんが先に乗り込み、凪紗がその後に続く。くるりと振り返った凪紗が、僕に向かって小さく頭を下げた。
「では、次回またよろしくお願いします」
木村の声が続く。僕は「こちらこそ」と短く返した。
閉まり始めた扉の隙間から、凪紗の視線がまっすぐに僕を捉えていた。逸らさない。ただ静かに、落ち着いた瞳で、こちらを見ている。
心臓が、うるさかった。
十三年前と同じように。消しゴムを拾ってもらった時と同じように。机の下の暗がりで顔を合わせた時と同じように。この視線を受けるたびに、僕はいつも、自分がどこに手を置けばいいかわからなくなる。
扉の隙間が、もう少し狭くなった。
その時、凪紗が胸の高さで、小さく手を振った。
子供みたいな、でも少しだけ大人びた、そのしぐさが、あまりにも可愛らしくて、僕は思わず息を止めた。
振り返すべきか。でも今更、どんな顔で。右手が少しだけ浮いて、でも宙で止まった。
扉が、完全に閉まった。
僕の中途半端に浮いた右手だけが、廊下の空気の中に取り残された。
4
デスクに戻ると、田中が「お疲れ様です」と言いながらコーヒーを一杯置いていった。気の利く男だった。
「さっきの方、お知り合いでしたよね」
田中が自分の椅子に座りながら、さりげなく言った。
「……中学の時に同じクラスだった」
「へえ。なんか、雰囲気ありましたよ」
田中はそれ以上何も言わず、モニターに向き直った。
雰囲気。
その言葉が、オフィスの空気の中にしばらく漂った。
僕はコーヒーカップを両手で包みながら、窓の外を眺めた。六月の雨は、午後になっても止む気配がなかった。灰色の空から、細い雨粒が絶え間なく落ちてくる。
やっと、会えた。
あの言葉が、また胸の奥から這い上がってくる。
まさか、と思った。まさか、僕を探して東京に来たわけじゃない。それは自意識過剰だ。あの頃も同じだった。「ゆーくん」という呼び名を盗み聞きして、勝手に確信を持って、勝手に安心して、何もしなかった。スマホの画面に映った「ゆーくん、美味しそう」という文字に有頂天になって、野原が置き去りにしたクッキーの袋に気づかなかった。
都合よく解釈して、また何もしない言い訳にするな。
振り返せばよかった。
たったそれだけのことが、またできなかった。中学の時から、何も変わっていない。消しゴムを落とすのに命を削るような思いをしていた、あの頃から。
指先に、まだあの感覚が残っていた。宙で止まったまま、扉の閉まるのを見送った、あの中途半端な右手の重さ。
ポケットの中でスマホが震えた。
奈緒からだった。「今夜、何食べたい?パスタにしようかな」という、いつもの穏やかな問いかけ。添付された写真には、スーパーで買ってきたらしい食材が並んでいた。
僕はしばらくその画面を眺めていた。
奈緒は今日も、当たり前のように僕の帰りを待っている。四年間、ずっとそうだった。僕が上の空でも、返事が遅くても、彼女はいつも穏やかに、僕の隣にいてくれた。
それなのに今の僕の頭の中には、梅雨の会議室と、閉まっていく扉の隙間から小さく手を振った凪紗の姿しかなかった。
ごめん、と思った。奈緒に対して。でもその謝罪が誰に向いているのか、自分でもよくわからなかった。
「いいよ、パスタで」
短く返信して、スマホを裏返す。
後ろめたさが少し合ったのかも知れない。
モニターを立ち上げ、午後の仕事を再開した。でも、画面の文字が意味を持たないノイズとして視界を滑っていく。
次の打ち合わせは、おおよそ一ヶ月後だ。
そんなことを考えている自分に気づいて、僕は小さく息を吐いた。
窓の外では、六月の雨が、まだ静かに降り続けていた。
5
その夜、奈緒が作ったパスタは、いつも通り美味しかった。
テーブルの向かいで、奈緒がワイングラスを傾けながら、今日あった出来事を話している。職場の後輩が失敗して、それをフォローした話。ランチに行った新しいカフェの話。声のトーンは穏やかで、笑顔は柔らかくて、どこまでも居心地がいい。
僕は相槌を打ちながら、フォークを動かしていた。
「……ねえ、悠真」
奈緒が、少しだけ声のトーンを変えた。
「今日、なんかあった?」
僕は手を止めた。
「別に。なんで」
「なんかずっと、遠くにいる感じがして」
奈緒はワイングラスをテーブルに置き、僕の顔をじっと見た。責めているわけじゃない。ただ、心配している。四年間、ずっとそういう目で僕を見てきた。
「仕事で少し、バタバタしてただけだよ」
嘘だった。
奈緒は「そっか」とだけ言って、それ以上聞かなかった。いつもそうだ。彼女は僕を追い詰めない。踏み込んでこない。その優しさが、今夜だけは、どこか息苦しかった。
食事が終わり、奈緒がキッチンで食器を洗い始めた。水の音が、静かなリビングに響いている。
僕はソファに座ったまま、奈緒の背中を確認してから、こっそりスマホの画面を点けた。
通知はなかった。
当たり前だ。凪紗は僕の連絡先を知らない。担当は木村さんで、次の連絡が来るとしたら木村さんからだ。それなのに、画面を確認せずにいられなかった。
ありもしない期待をしている自分が、ひどく滑稽だった。
中学の時から何も変わっていない。消しゴムを落とすたびに彼女の反応を待っていた、あの頃と。
僕はスマホをソファの隅に向かって投げつけた。
スマホはクッションに当たって跳ね、そのまま勢いよく床に転がった。
「どうしたの?」
キッチンから奈緒の声がした。
「スマホ落としちゃった」
僕はソファから身を乗り出して、床に手を伸ばした。
その瞬間、画面が光った。
株式会社——からのメールだった。凪紗の会社だ。
僕は息を止めたまま、画面を開いた。
件名:本日の打ち合わせのお礼と次回日程のご確認
瀬戸様
本日はお時間をいただきありがとうございました。
次回の打ち合わせについて、以下の日程でいかがでしょうか。
送信者の名前を確認した。
木村さんではなかった。
佐伯凪紗。
僕はしばらく、その名前を眺めていた。
「拾えた?」
奈緒がキッチンから顔を出した。
「……ああ」
僕はスマホを握りしめたまま、短く答えた。
水の音が、また静かに再開した。
6
木村さんに声をかけられたのは、その日の朝だった。
「佐伯さん、今日のクライアント対応、一緒に行ってもらえるか?」
「はい、大丈夫です」
即答する。
初めて同行するクライアントだ。木村さんの補佐として、きちんとこなさなければいけない。そう言い聞かせながら、送られてきた企画書の叩き台をざっと確認する。化粧品メーカーの宣伝部。新しいキャンペーンの企画。担当者名は書かれていない。
窓の外では、朝から六月の雨が静かに降り続けている。梅雨の湿気で、髪の毛がまとまらない。朝、何度鏡を見ても、毛先がふわふわと広がってしまう。こういう日が一番嫌いだ、と思いながら、もう一度企画書に目を通す。
お昼を挟んで、木村さんが「そろそろ行くぞ」と声をかけてきた。私は急いで鞄に資料を詰め込み、立ち上がった。
渋谷駅から山手線に乗って、新宿駅で降りた。混雑した改札を出ると、梅雨の湿った空気が頬を撫でた。雨はまだ降り続けていたが、傘を差すほどでもない程度に小降りだ。木村さんの後ろについて西口のビル群の中を足早に歩きながら、頭の中でもう一度企画書の内容を整理していた。
ビルのエントランスをくぐると、受付の女性が
「お待ちしておりました」
と笑顔で迎えてくれた。綺麗な人だ。こういう大手には、こういう人が受付にいるんだな、とぼんやり思う。木村さんが名刺を渡し、私はその隣で会釈をした。
「こちらへどうぞ」
と、受付の女性が先に立って歩き出す。エレベーターで上の階へ上がり、廊下へと続く。磨き上げられた床に、蛍光灯の光が静かに反射している。大手メーカーのオフィスらしい、整然とした空気。女性は数歩前を歩きながら、時たまこちらを確認するように振り返る。自分の足音が妙に耳に残った。
突き当たりの窓際に、会議室があった。すりガラス越しに、人影が見える。
木村さんが私の顔を一度見て、小さく頷く。それだけで、背筋が自然に伸びた。初めて会うクライアントだ。きちんとこなさなければいけないと思った。
木村さんがドアをノックすると、すぐさま中から若い男性の声で「どうぞ」と返ってきた。
一瞬だけ、息を整える。
ドアを開けた瞬間、私の足が止まった。
窓際のテーブルに、二人の男性が座っている。手前の席の若い方の男性が顔を上げる。もう一人が、少し間をおいてから資料から視線を上げた。
その顔を見た瞬間、心臓が飛び跳ねた。
真っ直ぐな眉。少し鋭い目元。高校の頃、街で何度かすれ違ったあの顔が、ずっと大人びて、でもその奥にある表情だけは、あの頃と何も変わっていない。
瀬戸悠真……ゆーくん。
彼も、私を見ていた。
会議室の空気が、一瞬だけ止まった気がした。
「な……佐伯、さん」
彼の口から、そんな言葉が漏れた。
な、という一音が、胸の奥に刺さる。
気のせいかもしれない。言い間違えただけかもしれない。でも、あの一音に、凪紗、と呼びかけようとした何かが含まれていた気がして、喉の奥が熱くなった。
「……お久しぶりです、瀬戸さん」
微笑んで、そう返す。それだけで精一杯だった。
「お知り合いでしたか。それは奇遇ですね。では今日はいつも以上によろしくお願いします」
木村さんが場を和ませる。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。いつもお世話になっております、木村です」
木村さんの挨拶が続く。私は木村さんの隣に座り、鞄から資料を取り出した。指先が、少しだけ震えていた。
会議は、そのまま始まった。
一時間後。
木村さんが次回の日程を確認して、丁寧に頭を下げながら会議室を出ていく。
二人きりになった。
ゆーくんが私に一歩近づいたのが分かった。
「……びっくりした」
話しかけてくれた。二人きりになった瞬間、ゆーくんの方から。胸の奥が静かに弾む。何年かぶりに、ゆーくんが自分に向かって言葉を発してくれた。それだけで、十分だった。
思わず、笑いそうになる。
「……うん。久しぶり」
敬語が取れた。自分でも気づいている。でも、直せなかった。
「東京にいたんだね」
「うん。三年くらい。ゆーくんも——」
はっとした。口から勝手に出てしまった。ずっと影でそう呼んでいたけれど、本人の前では一度も言ったことがなかった。それが今、仕事の場で、よりによってクライアントとして目の前に座っているこの人に向かって。顔が熱くなる。慌てて言い直す。
「……瀬戸も?」
顔が、まだ熱い。表情に出ていないか、自分でも心配になった。
「……大学からずっと。もう七年になる」
知ってた。知ってるよ。
でも七年。同じ街に、七年もいたんだ。私が東京に来てからの三年間も、ずっとここにいた。それなのに、今日まで会えなかった。
窓の外に視線を向ける。雨が、また少し強くなっていた。
「やっと、会えた」
あっ……声に出すつもりはなかったのに。でも、漏れちゃった。ゆーくんが息を呑む気配がした。まずい……。でも取り消せない。
「……仕事、広告なんだね」
ゆーくんが話題を変えてくれた。助かった~、と思いながら、窓から視線を戻してゆーくんを見た。
「うん。好きな仕事だよ」
「瀬戸は、ここに来てどのくらい?」
「三年。宣伝部に異動してから」
「そっか」
宣伝部……大手化粧品メーカーの宣伝部で働いていたんだ。ゆーくん頭良かったもんね。そんな事を考えている間に短い沈黙になっちゃった。でも、中学の時の沈黙とは違うだ。あの頃の沈黙は、息ができなくなるような重さがあった。今の沈黙は、もう少し穏やかな気がする。十三年という時間が、少しだけお互いを大人にしてくれたのかもしれない。
でも、伝えたいことは喉の奥で固まったままだった。
謝らなければいけない、とずっと思っていた。あの全校集会で河村くんに視線を向けたこと。噂が広まって、ゆーくんを傷つけてしまったこと。あれは違う、と言いたかった。
でも、言えない理由がもう一つある。
謝るということは、あの頃ゆーくんのことが好きだったと、暗に認めることになる。もしゆーくんが私のことを何とも思っていなかったなら、ただの自意識過剰な女になってしまう。それが怖かった。
そして今日もまた、言葉が出てこない。
「木村さん、待ってるから」
鞄を持ち直す。このまま出ていくしかない。今日は急遽呼ばれただけだ。次回の打ち合わせに来られる保証なんてどこにもない。また会えないまま、時間だけが過ぎてしまうかもしれない。十三年間、ずっとそうだった。
ドアに向かって歩き出した、その背中に、ゆーくんの声がかかった。
「また、打ち合わせで来るよね」
飛び上がりそうになるのを、必死に堪える。帰ろうとした私を、引き止めてくれた。来られるかどうかはわからない。でも、来たい。絶対に来たい。
振り返る。
「……うん。また来ます」
口から出た瞬間、自分でも気づく。敬語と、タメ口が混ざった返事だ。もっと別の言葉を言いたかったのに、結局またこれしか出てこなかった。
エレベーターホールで扉が開いた。木村さんが先に乗り込み、私がその後に続いて乗り込み振り返る。
「では、次回またよろしくお願いします」
木村さんの声が響く中、私はゆーくんをまっすぐに見ていた。逸らしたくない。扉が閉まるまで、この人の顔を見ていたかった。
扉の隙間が、もう少し狭くなる。
私は胸の高さで、小さく手を振った。
ゆーくんの右手が、少しだけ浮いた。
それだけで、心臓が跳ねた。振り返してくれようとした。宙で止まったままでも、その右手が浮いたという事実だけで、十分だった。
扉が、完全に閉まる。
下りのエレベーターの中で、木村さんが「いやあ、知り合いだったとは思いませんでしたよ」と笑った。
「ええ、中学の時の同じクラスで」と短く答える。
「それは心強い。佐伯さん、次回も一緒に来てもらえるかな。上司には俺から話しておくから」
胸の奥で、何かがほっと緩んだ。
また、会える。今度は確実に。
ふと、髪の毛のことが頭をよぎる。今日、湿気でまとまらなかったやつ。ゆーくんの前で、大丈夫だったかな。
でもやっと、会えた。
会社に戻ると、木村さんが「さっきの件、お礼メール送っておいてもらえるか。次回の日程も確認して」と言いながら自分のデスクへ向かった。
まず議事録だ。椅子に座り、パソコンを開く。
でも、指先がなかなか動かない。画面に向かっていても、頭の中では会議室の場面が何度も再生される。ゆーくんの顔。真っ直ぐな眉。少し鋭い目元。中学の時より大人びて、でもその奥にある表情だけは、あの頃と何も変わっていなかった。
な、という一音。
あれは何だったんだろう。気のせいかもしれない。でも、あの一音が頭から離れない。
集中しなければ、と思いながら、キーボードを打ち始める。議事録の文字を並べながら、意識の端でずっと、あの会議室の空気を手繰り寄せていた。宙で止まったゆーくんの右手。あれは振り返そうとしてくれたのだろうか。それとも、ただの反射だったのだろうか。
考えても仕方ない。わかっている。でも、やめられなかった。
気づくと、オフィスの人が少なくなっていた。窓の外はすっかり暗くなっている。六月の雨は、夜になっても止む気配がない。
ようやく議事録を仕上げて、メールの画面を開いた。
宛先欄に、瀬戸悠真の名前を打ち込む。会社のメールアドレス。今日初めて知った、彼の連絡先。
カーソルがその名前の上で点滅している。
瀬戸悠真。
同じ街にいた。同じ時間を、すれ違いながら生きてきた。そして今日、同じ会議室で、久しぶりに顔を合わせた。
しばらく、その名前を眺める。
な、という一音が、頭から離れない。
気のせいかもしれない。言い間違えただけかもしれない。でも、あの一音に、凪紗、と呼びかけようとした何かが含まれていた気がして、胸の奥がじわりと熱くなる。
中学生だった頃、彼は私を「佐伯」と呼び続けた。私は心の中でずっと「ゆーくん」と呼んでいた。その非対称な距離が、あの頃の私たちの関係そのものだった。
でも今日、彼の口から漏れたあの一音は。
次の打ち合わせまで、おおよそ一ヶ月。その間に何も言えないまま時間だけが過ぎてしまう。長い間、ずっとそうだった。
首を振って、メールの本文を打ち始める。
定型文を並べながら、指先だけが落ち着かない。送信ボタンを押す前に、もう一度だけ宛先を確認する。
瀬戸悠真。
送信した。
あ、送っちゃった。
思わず、ふう、と息が漏れた。緊張してたんだ、と自分でも気づく。たかがビジネスメールなのに。宛先がゆーくんだというだけで、送信ボタンを押す指先がこんなに重くなるなんて。
やっと、彼の連絡先を知った。やっと、同じ時間の中に入れた気がする。
気づくと、木村さんはとっくに帰っていた。オフィスには数人しか残っていない。
窓の外では、六月の雨がまだ静かに降り続けている。
画面を閉じて、鞄を手に取る。今日という一日が、胸の奥でまだ静かに揺れていた。
第6章 揺れるへ続く
▼小説出版しました!KindleUnlimitedに加入しているかたは是非読んでみてください!(買うと高いので加入してない方はキャンペーンまで待っててね)
超大作・・・長編にしようと書いていたら、結局200ページ・・・
ん〜短い💦
ちなみに現在出版中の本はこれら!↓
Kindle Unlimited(読み放題)なら全部0円で読めます。
▼ 僕がKindle出版した本はこちら
▼ もう一冊書いちゃいました!
▼ 3日連続出版(笑)
▼ 4冊目出版(笑)
今度は面白おかしいブログ運営ストーリー
▼ 5冊目出版!
今度はエッセイ
いいなと思ったら応援しよう!
チップもらったって嬉しくないぞ、コノヤロー(めっちゃ嬉しい)
もしどうしてもというのでしたら・・・でも本心ではありません(嘘)
いただいちゃったら有料記事買ってインプットします。
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