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『僕らの未熟な蒼』第6章

第6章 揺れる

1

 水の音が続いている。

 僕はソファに座ったまま、スマホの画面を見つめていた。

 佐伯凪紗からのメール。凪紗からのメール。何度か読み返した。丁寧なビジネス文書だった。今日の打ち合わせへのお礼、次回の日程の確認、添付された議事録。どれも過不足のない、きちんとした文面だ。木村さんのアドレスがCCに入っている。

 でも僕の目は、文面よりも送信者の名前にずっと引き寄せられていた。

 佐伯凪紗。

 数年ぶりに、同じ会議室で顔を合わせた。あの「やっと、会えた」という言葉が、まだ胸の奥に刺さったまま抜けない。まさか、僕を探して東京に来たわけじゃない。そう言い聞かせても、心臓だけは勝手に跳ねていた。

 奈緒がキッチンから出てきて、僕の隣に腰を下ろした。

「何のメール?」

「仕事」

 短く答えると、彼女は「そっか」とだけ言って、手元のワイングラスを傾けた。それ以上聞いてこない。いつもそうだ。彼女は僕を追い詰めない。踏み込んでこない。その優しさが、今夜だけは、どこか苦しかった。

 奈緒の温もりが、すぐそばにある。四年間、ずっとそこにあった温もりだ。なのに今夜の僕には、その温もりがどこか遠い場所のものに感じられた。

 返信しなければいけない。それはわかっていた。承知しました、次回の日程で問題ありません、そういう短い返信を書けばいい。それだけでいい。

 でも、指が動かなかった。

 奈緒がワイングラスを持ったまま、テレビに視線を移した。その横顔を盗み見ながら、僕はスマホをポケットに押し込んだ。今ここで返信を書くのは、なんとなく、できなかった。

 奈緒が先に寝室へ向かったのは、十一時を過ぎた頃だった。

「おやすみ。遅くまで仕事しないでね」

 そう言って、彼女は静かにドアを閉めた。

 リビングに一人残った僕は、パソコンを開いた。

 返信画面を立ち上げると、宛先には木村さんと凪紗のアドレスが並んでいた。CCで入っている。

 木村さんのアドレスを、削除しようとした。

 指が止まった。

 削除したら、凪紗への個人的なメールになる。それは、何かを意味することになる。奈緒が隣の部屋で眠っている。

 削除しなかった。いや臆病な僕には出来なかった。

 承知いたしました。次回の日程、問題ございません。引き続きよろしくお願いいたします。

 短い文章だった。送信ボタンに指をかけて、また止まった。

 署名欄に、会社用の携帯番号が自動で入っている。

 僕はその下に、カーソルを移動させた。

 個人携帯:

 番号を打ち込もうとして、やめた。やめようとして、今度は打ち込んだ。

 画面を見つめる。会社番号の下に、個人番号が並んでいる。

 これは、ただの署名だ。個人番号を載せることは、特別おかしいことじゃない。そう言い聞かせながら、でも自分が何をしているのかは、わかっていた。

 消しゴムを落とすのと、同じことだ。

 気づいてくれればいい。気づかなくてもいい。どちらにも転べる距離に、そっと置いておく。中学の時から、何も変わっていない。あの頃も、こうやって彼女の反応を待っていた。消しゴムを机の端に追い詰めながら、何度も指を止めて、深呼吸をして、それでも踏み出せなかった。

 今も同じだ。

 三十秒くらい、画面を見つめていた気がする。

 送信ボタンを押した。

 画面を閉じる。パソコンをテーブルに置いた。

 気づいてくれるだろうか。いや、気づかないかもしれない。ビジネスメールの署名欄なんて、ほとんどの人は流して読む。でも、もし気づいてくれたら。もし、RINGに登録してくれたら。

 そこまで考えて、僕は自分の思考を打ち切った。

 隣の部屋で、奈緒が眠っている。四年間、僕の隣にいてくれた人が。僕が上の空でも、返事が遅くても、ずっと穏やかに待っていてくれた人が。

 ごめん、と思った。奈緒に対して。でも、その謝罪を打ち消すほどの、別の感情が胸の奥で静かに燃えていた。

 リビングの電気を消した。

 暗闇の中で、スマホの画面だけが静かに光っている。

 RINGの通知は、まだ来ない。

 窓の外では、六月の雨がまだ静かに降り続けていた。 

2

 翌朝、目が覚めた瞬間に、スマホを確認した。

 RINGの通知はなかった。

 でも、それより先に、昨日の会議室の場面が頭の中に広がっていた。

 頭の中にある凪紗の顔は、ずっと高校時代のものだった。紺色のブレザー。ポニーテール。駅前で「またね」と言った時の、あの横顔。街で見かけるたびに逃げてばかりで、まともに顔を見たのはあの時が最後だった。

 それが今日、スーツを着た大人の女性になっていた。少し大人びて、でも笑った時の目元は、あの頃と何も変わっていなかった。

 綺麗だった、と思った。可愛かった、とも思った。思ってしまった。

 エレベーターの扉が閉まる直前に振った、小さな手。「やっと、会えた」という言葉。「ゆーくんも——」と言いかけて、慌てて言い直した時の、赤くなった顔。

 胸の奥が、じわりと温かくなった。

 シャワーを浴びながら、また同じ場面を反芻していた。思わず口角が上がった。シャワーの中で一人、緩みそうになる顔を必死に引き締めた。我ながら、情けない。

 キッチンに行くと、奈緒がトーストを焼いていた。

「おはよう。なんか、今日機嫌よくない?」

 奈緒が少し首を傾けて、僕を見た。

「そうか? 別に」

 そっけなく返しながら、コーヒーカップを手に取った。普段より少しだけ、コーヒーが美味しく感じた。

 会社に向かう道。いつもは無表情で歩くその道が、今日だけは妙に軽かった。足取りが、知らないうちに速くなっていた。梅雨の湿った空気も、今日だけはそこまで不快じゃなかった。

 気づいたら、いつもより十分早く会社に着いていた。

 デスクに座って、モニターを立ち上げながら、またスマホを確認した。

 通知はなかった。

 それでも、胸の奥の温かさは消えなかった。凪紗に会えた。ちゃんと話せた。「やっと、会えた」と言ってくれた。それだけで、今日という一日を生きていける気がした。

 午前中の会議で、後輩が資料のミスを指摘された。いつもなら素通りするところを、僕は「後でフォローするよ」と声をかけていた。後輩が驚いたような顔をした。

「瀬戸さん、今日なんかいつもと違いますね」

「そうか?」

「なんか、やわらかいというか」

 僕は「気のせいだろ」と返して、資料に視線を落とした。でも、口角が緩みそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。

 昼休み、一人でデスクに残って弁当を開いた。

 窓の外では、梅雨の雨がまだ降り続けている。いつもは鬱陶しいと思うこの景色が、今日だけは悪くない気がした。六月の雨。凪紗と最初に言葉を交わした、あの季節と同じ雨だ。

 スマホを確認した。

 通知はなかった。

 まだ気づいていないのかもしれない。あるいは、迷っているのかもしれない。

 迷っていてくれたら、と思った。

 退勤して、マンションへ向かう道。信号待ちで空を見上げると、雨雲の切れ間から、わずかに青空が見えた。梅雨の晴れ間。珍しい。

 思わず足が止まった。

 見上げたまま、しばらく動けなかった。

 後ろから来た人に肩をぶつけられて、我に返った。慌てて歩き出しながら、自分でも少し呆れた。信号待ちで空を見上げて立ち止まるなんて、らしくない。

 マンションが見えてきた頃、ふと上を見上げると、ベランダに人影があった。

 奈緒だった。

 洗濯物を取り込んでいたのか、こちらに気づいた様子で、視線が合った。

 僕は軽く手を上げた。

 奈緒は、少しの間、動かなかった。

 それから、静かに手を振り返した。

 その表情が、何かを考えているように見えたのは、気のせいだろうか。

 僕はそのまま、エントランスへと歩いていった。 

3 奈緒

キッチンから出てきたら、悠真がスマホを見ていた。

 ソファに座ったまま、画面から目を離さない。いつもと違う集中の仕方だった。仕事の連絡を確認している時の、流し読みをするような眼差しじゃない。何かを、何度も読み返しているような。

「何のメール?」

 隣に腰を下ろしながら聞いた。

「仕事」

 短く答えて、悠真はスマホをポケットに押し込んだ。

 そっか、と返して、私はワイングラスを口に運んだ。

 テレビに視線を向ける。画面の中で誰かが笑っていた。悠真も同じ方向を見ている。でも、見ていない。そんな気がした。隣にいるのに、ずっと遠いところにいるような。

 踏み込まなかった。

 聞いても、きっと「なんでもない」と返ってくる。四年間でそれは分かっていた。だから聞かない。聞かない方が、穏やかでいられる。そのはずだった。

 でも今夜は、その沈黙がいつもより少し重かった。

 ワイングラスの中で、赤ワインが静かに揺れている。悠真の体温が、すぐそばにある。四年間、ずっとそこにあった体温なのに、今夜だけは、なぜか遠く感じた。

 十一時を過ぎた頃、私は先に立ち上がった。

「おやすみ。遅くまで仕事しないでね」

 悠真が「うん」と返した。その声のトーンは、普通だった。普通、のはずだった。

 寝室のドアを閉めて、布団に入った。目を閉じる。

 しばらくして、リビングでパソコンを開く音がした。キーボードを叩く音が、ドア越しにかすかに聞こえてくる。

 仕事、と言っていた。そうかもしれない。急ぎの用件が入ることだってある。

 でも眠れなかった。

 ここ最近、ずっとこんな感じだった。帰ってきても上の空で、私の話を聞いているんだか聞いていないんだか、返ってくる相槌がどこかずれている。プロポーズを考えてくれているのかな、と思おうとしていた。そう思えば全部に説明がつく気がして、ずっとそう信じようとしていた。

 でも今夜のあのスマホを見つめる顔は。

 あれは違う。

 リビングのキーボードの音が、しばらくして止んだ。電気が消える気配。やがて寝室のドアが静かに開いた。

「……おやすみ」

 目を閉じたまま、私は息を潜めていた。答えなかった。もう寝たと思ってくれればいい。今、声を出したら、何かを聞いてしまう気がした。

 悠真が布団に入る。暗闇の中で、寝返りを打つ音が一度、また一度。

 梅雨の雨が、窓を静かに叩いていた。

4

 翌朝。

 悠真が起きてきた時、私はトーストを焼いていた。

 背後に気配を感じて振り返ると、悠真の顔が、昨夜と違った。昨夜は何かを押し込めようとしていた顔だったのに、今朝はそれがない。むしろどこか——軽い。

「おはよう。なんか、今日機嫌よくない?」

 口から出てから、しまった、と思った。でも悠真は「そうか? 別に」とそっけなく返して、コーヒーカップを手に取った。

 普段通りの朝。

 私もトーストを皿に乗せて、テーブルについた。バターを塗りながら、昨夜のことを頭の中で繰り返していた。

 仕事のメールで、あんなに顔が変わるものだろうか。そして翌朝、あんなに軽くなるものだろうか。

 悠真が

「行ってきます」

 と立ち上がる。いつもより少し早い。

「行ってらっしゃい」

 玄関のドアが閉まった。

 一人残されたリビングで、私はコーヒーを一口飲んだ。

 窓の外は、今日も雨だった。

5

 ベランダに出たのは、何となくだった。

 洗濯物を取り込もうとしていたわけじゃない。ただ、リビングにいると、何かが息苦しくて。夜風に当たれば、少しはましになると思っただけだった。

 梅雨の晴れ間だった。珍しい。湿った空気の中に、どこか乾いた風がまじっていた。遠くのビル群がオレンジ色に滲んで、雨上がりの路面に揺れている。

 悠真が帰ってくる時間だった。

 マンションの前の道を、見慣れた人影が歩いてくるのが見えた。スーツ姿。昨夜と同じ格好のはずなのに、どこかが違った。

 足取りが、軽い。近づいてくるにつれて、それがはっきり分かった。

 おかしい、と思った。

 昨夜あんなに眠れなさそうにしていたのに。あのキーボードの音。暗闇の中で打つ寝返りの音。それが今日の朝には機嫌がよくなっていて、いつもより早く家を出て、今また、あんなに軽い足取りで帰ってくる。

 仕事のメールで、そんなに変わるものだろうか。

 何かがあった。

 それが何なのかは、わからない。わかりたくない、という気持ちも、少しあった。知ってしまったら、今私が立っているこの場所から、どこへも行けなくなる気がして。

 悠真が顔を上げて、私に気づいた。軽く手を上げる。

 私は、少しの間、動けなかった。

 笑えばいい。手を振ればいい。それだけのことが、一瞬できなかった。

 それから、静かに手を振り返した。

 悠真はそのまま、エントランスへ向かって歩いていく。その背中を見送りながら、私は手すりをそっと握りしめた。鉄の冷たさが、じんわりと手のひらに移っていく。

 聞いてしまったら、何かが終わってしまう気がした。だから聞かない。聞かないまま、隣にいる。それが今の私にできる、唯一のことだった。

 梅雨の晴れ間の風が、頬を撫でていった。

 部屋に戻ると、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」

「おかえり」

 いつも通りの言葉を、いつも通りの声で返した。

 悠真がリビングに入ってきて、ジャケットを脱ぐ。テーブルに鞄を置いて、ネクタイを緩める。何も変わらない、見慣れた動作。

 私はソファに戻って、何でもない顔で本を開いた。

 それだけだった。 

6

 会社に戻ってから、ずっと落ち着かなかった。

 議事録を仕上げて、木村さんの指示通りお礼メールを送った。宛先に瀬戸悠真の名前を打ち込む時、思わず手が止まった。

 瀬戸、悠、真。

 キーボードの上で、一文字ずつ確かめるように打った。たかがビジネスメールの宛先なのに、、なんか変な感じがした。仕事のメールで、ゆーくんの名前を打っている。送信ボタンを押してから、口元が緩むのを誰にも見られなくて良かった、と思った。

 返信が来たのは、夜になってからだった。

 件名:Re: 本日のお打ち合わせについて。

 木村さんへのCCと一緒に、短い文面。承知しました、次回の日程で問題ございません、引き続きよろしくお願いいたします。

 読んだ。もう一度読む。

 文面じゃなくて、署名欄に目が止まった。会社名、部署名、名前。会社の電話番号、会社の携帯番号。そこまでは普通だ。その下に、もう一行ある。

 個人携帯:

 数字が並んでいた。

 画面を見つめたまま、しばらく動けない。

 ビジネスメールの署名に個人番号を載せる人もいる。特別なことじゃない。そう言い聞かせながら、でも視線がその番号から離れなかった。木村さんへのメールにも、同じ署名が入っているはずだ。だから特別な意味なんてない。たぶん。

 でも気づいたら、連絡先アプリを開いていた。番号を打ち込んで、名前の欄に「瀬戸悠真」と入力して、保存ボタンを押す。

 あっ、保存しちゃった。

 思わず口元が緩む。アパートの部屋に一人でいるのに、顔がにやけるのが止まらない。我ながら情けない。でも止められない。

 東京に来て、やっと。やっと会えた。

 ずっとこのために来たんだ。仕事のためだけじゃない。広告がやりたかったのも本当だけど、本当のことを全部話したわけじゃなかった。この街のどこかにいるはずのゆーくんと、いつかまた同じ場所にいたかった。その気持ちが、ずっと心にあった。

 それが今日、同じ会議室で顔を合わせた。

 偶然? 運命? どっちでもいいけど、でもちょっと待って、これって絶対運命じゃない? 東京に来て三年、同じ街にずっといたのに一度も会えなかったのに、よりによって仕事で、よりによって木村さんに急に呼ばれて、よりによって同じ会議室に座ることになって。こんなこと、ある? 普通ある? 都合良すぎない? 小説のヒロインじゃあるまいし。

 ベッドにうつ伏せになって、枕を頭の上からぎゅっと押さえた。

 きゃーーー。

 足がバタバタした。止まらない。

 二十六歳がなにやってんだろう、と思いながら、それでも足が止まらない。見られたら恥ずかしくて死ぬけど、誰も見ていないからいい。

 しばらくしてようやく落ち着いて、仰向けになって天井を見上げる。

 でも、ふと思う。ゆーくんは今でも、私が河村くんと付き合っていたと思っているんだろうか。あの全校集会のこと、ずっと謝れないままだった。違うんだよ、と言いたかった。あれは、ゆーくんに気づいてほしかっただけだったんだ。

 でも今日は、そんなこと言える雰囲気じゃなかった。

 次の打ち合わせで、言えるかな。

7

 あの日から、ずっとそわそわしていた。

 翌朝、通勤電車の中で気づいたら次の打ち合わせのことを考えていた。一ヶ月後。何を着ていこう。今日みたいに湿気でまとまらない髪だったら嫌だな。いや仕事なんだから関係ない。でも関係なくはない。

 会社に着いてからも、木村さんが瀬戸さんの話をするたびに、さりげなく聞き耳を立てていた。「いい人そうだったな」とか「次回もよろしく」とか、それだけの言葉なのに、ゆーくんのことを言われているというだけで妙に嬉しくなる。我ながらどうかしてると思いながら、やめられなかった。

 昼休み、一人でお弁当を食べながらスマホを眺めた。連絡先に保存した「瀬戸悠真」という名前を、何度か開いては閉じた。何かするわけじゃない。ただ、名前があそこにある、という事実を確かめたかっただけだ。

 気づいたのは、二日後の昼休みだった。

 RINGを開いたら、画面の上に小さな通知が出ている。

 "連絡先に登録されている方がいます"

 タップすると、一人だけ表示された。

 瀬戸悠真。

 あっ、と声が出た。周りに人がいなくて良かった。そういえば連絡先に入れていた。それがRINGと繋がるなんて、考えていなかった。

 追加ボタンを、押した。

 あっ、押しちゃった。

 思わずスマホを胸に押し当てる。心臓がうるさい。お昼休みのオフィスで一人、何やってるんだろう。

 気を取り直してお弁当を開いたら、なんか全部美味しかった。いつもと同じ卵焼きなのに。窓の外は今日も雨で、梅雨はまだ続いている。髪のうねりも相変わらずだけど、今日はなんか全然気にならなかった。


第7章 近づく夏 へ続く



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