『僕らの未熟な蒼』第7章
第7章 近づく夏
1
高校三年の春、シンクロを引退してから、美術の塾に通い始めた。
週四日。シンクロをやめた分、放課後が空いた。その時間を埋めるように美術の塾に通い始めたけど、最初から美大を目指していたわけじゃなかった。ただ、絵を描いている時だけ、余計なことを考えなくて済んだ。
先生はすぐに「見ていない」と言った。見ている、と思っていた。でも先生の言う「見る」は、輪郭をなぞることじゃなかった。光と影の境界を、空気の厚みを、時間の堆積を見ろ、ということだった。
それが分かってから、鉛筆の動きが変わった。
気づいたら週六日になっていた。日曜日も自主制作で埋まっていた。シンクロで鍛えた体力が、今度は鉛筆を握る時間に変わっていった。指先がひび割れても、目が痛くても、やめなかった。
東京の美大に行きたい、と思い始めたのはいつ頃だったか。
たぶん、ゆーくんが東京に行くと知ってから、だ。
高校が別になって、ゆーくんと会う機会はほとんどなくなった。
あるのは駅前だけだった。たまに、本当にたまに、人混みの中に見知った背筋を見つける。そのたびに足が止まる。
高一の頃、一度だけ正面から目が合いそうになったことがある。
向こうから歩いてくるゆーくんが、私に気づいた瞬間、あからさまに視線を逸らした。スマホを取り出して、画面を見た。見てるふりをしてるのは、わざとらしかったからすぐに分かった。
通り過ぎていく。
ゆーくんは振り返らなかった。
胸の奥で、何かがしぼんでいく音がした。嫌いになったわけじゃないと思いたかった。でも、あれだけはっきり視線を逸らされたら、そう思うしかなかった。
分かっていた。中学の終わり頃から、ゆーくんの視線が変わっていた。理由は分かっていた。河村くんが一組によく顔を出して、私と話すようになってから、いつの間にか噂になっていた。河村くんのことは何とも思っていなかった。でも噂はひとり歩きする。
違うんだよ、と言いたかった。ゆーくんに、直接。でも言えなかった。言ったら「なんで私がそれをあなたに説明しなきゃいけないの」みたいな話になる。それはつまり、ゆーくんのことを意識していると認めることになる。
だから言えないまま、時間が過ぎた。
2
高校二年の秋。
その日は塾の前に、駅前の画材屋に寄るつもりだった。ポートフォリオの課題で使う紙が切れていた。急ぎじゃないけど、あると安心する。そういう細かいことが、最近は気になるようになっていた。
画材屋を出て、駅に向かって歩いていた時だった。
人混みの中に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
足が、止まった。
重そうなリュックを背負って、一人で歩いている。塾の帰りだろうか。スーツの社会人たちに混じって歩く制服姿は、でも不思議と浮いていなかった。中学の時より少し背が伸びて、肩幅が広くなった。それだけで、ゆーくんだと分かった。
声をかけよう、と思った。
一歩踏み出した。
その瞬間、ふとスマホの画面を確認した。塾まであと十五分。走れば間に合う。でも画材の袋を抱えたまま走ったら、紙が折れる。
そんなことを考えている間に、ゆーくんは人混みの流れに乗って、少しずつ遠ざかっていく。
声をかければいい。「瀬戸」って、それだけ言えばいい。同級生と駅前でばったり会って、声をかけるのは普通のことだ。何もおかしくない。
でも足が動かなかった。
もし振り返ってくれたとして、何を話すの。久しぶり、元気? それだけ? それだけで終わるなら、声をかけない方がいい。また「またね」で終わるなら、かけない方がいい。
高一の時、スマホを取り出して視線を逸らされた時のことを思い出した。あの時の胸の奥のしぼんでいく感覚。またあれを味わうくらいなら。
ゆーくんの背中が、人混みの中に消えていった。
その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
画材の袋が、手の中でくしゃっと音を立てた。気づいたら強く握りしめていた。
行かなきゃ。描かなきゃ。東京に行かなきゃ。
走り出した。リュックの中のスケッチブックが背中に当たる。画材の袋が揺れる。人混みをかき分けながら、ゆーくんとは逆方向に走った。
塾に着いた時、息が切れていた。先生に「どうした」と言われて、「走ってきました」とだけ答えた。
その夜、デッサンをしながら、ゆーくんの後ろ姿をずっと思い出していた。
声をかければよかった。分かってる。でも、かけられなかった。
鉛筆を走らせながら、モチーフの輪郭をなぞる。先生の言う通り、輪郭じゃなくて光と影を見なきゃいけないのに、今夜だけはうまく見えなかった。
紙の上に、ゆーくんの背中ばかりが浮かんでくる。
3
三年生になると、塾の課題がさらに増えた。
ポートフォリオの制作が始まった。デッサンだけじゃなくて、平面構成、立体、色彩。一つ仕上げるたびに先生に直されて、また描き直す。直される度に悔しかったけど、直された後の絵が明らかに良くなっているのが分かるから、やめられなかった。
週六日が、気づいたら毎日になっていた。
朝起きて、学校に行って、塾に行って、帰って、また描く。シンクロをやっていた頃と同じリズムだった。あの頃は水の中で体を動かし続けた。今は紙の上で鉛筆を動かし続ける。疲れ方が違うだけで、やっていることは同じだと思っていた。
夏が終わる頃、先生に呼ばれた。
「佐伯、志望校もう一度考えてみろ」
東京の美大を目指していると話した時、先生は少し間を置いてから言った。
「実力がないとは言わない。でも今の仕上がりで受かる保証はない。滑り止めをちゃんと考えておけ」
分かってます、と答えた。でも滑り止めのことは、あまり考えたくなかった。滑り止めを考えるということは、落ちることを想定するということで、落ちることを想定したら、気持ちが折れそうだった。
だから考えなかった。ただ描き続けた。
秋になると、塾内の講評会が増えた。自分の作品を並べて、先生や他の生徒に見てもらう。良い評価をもらえる時は自信が湧いて、厳しいことを言われる時は全部投げ出したくなった。でも投げ出したら、東京に行けない。東京に行けなかったら、ゆーくんと同じ場所にいけない。
その一心だった。
十一月。仕上げたポートフォリオを先生に見せた。
「悪くない」
先生がそう言った。先生が「悪くない」と言う時は、本当は「いい」という意味だと、一年半かけてようやく分かっていた。
いける、と思った。
その夜、久しぶりにゆっくりお風呂に入りながら、東京に行ったら何をしようかと考えた。どこに住もうか。どんな会社に入りたいか。広告の仕事がしたい、とぼんやり思い始めていた。水の中で何かを表現しようとしていたあの感覚と、絵を描いて何かを伝えようとするこの感覚が、どこかで繋がっている気がしていた。
それから、ゆーくんのことを考えた。
東京に行ったら、会えるかもしれない。同じ街にいたら、またすれ違うかもしれない。今度こそ、ちゃんと話せるかもしれない。
お湯の中で、ひとり、少しだけ笑った。
受験まで、あと三ヶ月。
4
受験の結果は、不合格だった。
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。悔しいというより、ただ、茫然としていた。もう一年、ここにいるんだ。ゆーくんはもうすぐ東京に行くのに。
でも泣かなかった。泣いても何も変わらない。もう一年やるだけだ。
そう思いながら、自転車を出した。
どこに行くつもりか、自分でも分からないまま、ペダルを踏んだ。
気づいたら、ゆーくんの家の前にいた。
中学の時、友達と自転車で走っていたら「ここ瀬戸くんの家だよ」と教えてもらったことがあった。何気なく聞き流したふりをして、でもその場所だけは、ずっと覚えていた。
自転車を止めて、表札を確認した。合っていた。
普通の一軒家だった。庭に小さな木が一本あって、玄関のポストに表札がある。どこにでもある、普通の家。
インターホンの前に立つ。
ボタンが、そこにある。小さくて、丸くて、押せば音が鳴る。それだけのことなのに、指が動かない。
心臓がうるさかった。こんなに緊張したのは、シンクロの全国大会の時以来かもしれない。いや、あの時より緊張してる。あの時は水に飛び込めば体が勝手に動いた。でも今は、ただここに立っているだけなのに、足が震えていた。
何を言うの。突然来て、何を言うの。受験落ちたんだけど、って? もうすぐ東京行くんだよね、って? 河村くんのことは違うんだよ、って?
どれも違う。全部違う。
本当に言いたいことは、一つだけだった。でもそれは、インターホン越しに言える言葉じゃなかった。
五分くらい、そこに立っていた気がする。
結局、ボタンを押せないまま、自転車にまたがった。
来た道を戻りながら、夕暮れの住宅街を力なく走った。街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
涙が頬を伝う。
不合格が悔しいんじゃない。もう一年先延ばしになる事、彼に忘れ去られてしまう事が怖かった。
気がつけばコートの袖が濃く染まっていた。
今度こそ、東京に行く。ゆーくんが行く場所に、私も行く。今はそれだけしか考えられなかった。
5
あの打ち合わせから、一ヶ月が経った。
長かった。体感的には三ヶ月くらいあった気がする。
この一ヶ月、仕事をしながらも頭の片隅にずっとあった。カレンダーの打ち合わせの日に、こっそり印をつけた。毎朝それを確認するのが、いつの間にか習慣になっていた。
そしてやっと、明日になった。
問題は、何を着ていくかだった。
仕事なんだから何でもいい。分かってる。でもクローゼットの前に立つと、手が止まる。前回と同じ格好は避けたい。でも気合い入れすぎてるのも違う。あくまで仕事の打ち合わせとして、でも少しだけ、ちゃんとして見えるやつ。
三十分かけて選んだ。
梅雨が明けて、髪がまとまりやすくなったのだけは良かった。明日は朝早めに起きてしっかり整えよう。前回みたいにうねったままで行くのは嫌だから。
そこまで考えて、ふと我に返った。
二十六歳がカレンダーに印つけて、服を三十分悩んで、何やってるんだろう。
まあいいか。誰も見てないし。
あの日、チャイムの前に立って押せなかった。浪人して、短大に入って、就職活動で一年粘って、やっと東京に来た。それだけの時間をかけて、やっと同じ場所に来れた。だから、ちゃんとしたい。それだけだ。
前夜、なかなか眠れなかった。
天井を見つめながら、何を話そうか考えた。仕事の話は当然として、それ以外に何か話せるかな。あの全校集会のこと、いつか言わなきゃいけない。違うんだよって、河村くんのことは違うんだよって。
でも打ち合わせの場でそんな話、できるわけがない。
じゃあいつ言うの。
答えは出なかった。でも、また会える。それだけで今夜は十分だった。
目を閉じる。
ゆーくんがいる場所に、私は行く。
あの夕暮れの住宅街で繰り返した言葉が、今夜だけは違う意味を持って、胸の奥で静かに灯っていた。
6
通知が来たのは、三日後の朝だった。
出勤前にスマホを開いた瞬間、RINGのアイコンに数字が光っていた。
心臓が跳ねる。タップすると、友達追加の通知。
佐伯凪紗。
画面を見つめたまま動けなかった。署名欄の番号に気づいてくれた。朝のリビングで一人、じわじわと顔が緩んでいく。
奈緒がキッチンから「コーヒーできたよ」と声をかけてくる。
反射的にスマホを伏せてしまった。心臓が跳ねる。バレた、と思った瞬間、何もバレるようなことはまだ何もしていないと気づく……通知を見ただけだ。仕事の関係者から友達追加が来た、それだけのことだ。
「ありがとう」
何事もなかったように立ち上がって、マグカップを受け取った。奈緒はいつもと変わらない顔で笑っている。気づいていないと思う。気づかれるようなことは、何もしていないから。
そう言い聞かせながら、コーヒーを一口飲むと、なぜかいつもより苦かった。
最初のメッセージを送ったのは、翌日の昼休みだった。
一人でデスクに残って、何度か文面を考えた。仕事の件で一点確認したいことがあって——堅すぎる。お疲れ様です、先日はありがとうございました——もっと堅い。何度書き直してもしっくりこない。
でも結局、
『先日の資料、次回までに追加で用意した方がいいものってありますか?木村さんにも確認しましたが、佐伯さん目線でも聞いておきたくて。』
消しゴムを机の端に追い詰めていた頃から、何も変わっていない。そう思いながら、送信ボタンに指をそっと近づけた。その瞬間、画面が反応した。送信済み。……送った。送ってしまった。自分でやったくせに、一瞬「勝手に送られた」と思いたくなった。
返信は三十分後に来た。
丁寧なビジネス文書だった。でも文末に、こう続いていた。
『ところで、木村さんから聞いたんですが、瀬戸さんって学生時代から宣伝の仕事したかったんですか?』
個人的な質問だった。
『いや、全然。大学でマーケティングの授業取ったのがきっかけで。佐伯さんは最初から広告志望だったんですか?』
返してから、「佐伯さん」という敬称が妙によそよそしく感じた。
『私は美術系で。デザインから広告に興味が移って、気づいたらこの仕事してました』
『そうなんですね』
我ながら、つまらない返しだと思った。でも他に何を言えばいいか分からなかった。
『瀬戸さんって、東京来てもう何年ですか?』
『七年になります。佐伯さんは?』
『三年です。あ、「凪紗」でいいですよ。私も「悠真」って呼んでいいですか?』
画面を見つめたまま、少しの間動けなかった。
中学の時からずっと、心の中では「凪紗」と呼んでいた。でも面と向かっては一度も言えなくて、ずっと「佐伯」だった。それが今、向こうから「悠真って呼んでいいですか」と来た。
『もちろん(笑)』
返してから、じわじわと実感が来た。次に凪紗が送ってくるメッセージには、「悠真」という文字が入っている。それだけのことなのに、なんかやばかった。
それからやり取りのペースが変わった。
最初は数時間おきだったのに、気づいたら一時間おきになって、三十分おきになっていた。会議中にスマホが気になって仕方なかった。トイレに立つたびに確認した。返信が来ていると、用を足すのも忘れて返信を打った。
『悠真って休みの日何してるの?』
『特に何も。仕事の資料読んだり、走ったり。凪紗は?』
『私もそんな感じ。あと美術館とか。一人で行くの好きで』
『一人で?』
『うん。なんか好きなペースで見れるから。変かな』
『変じゃない』
即返しした後、少し恥ずかしくなった。即返しすぎた。でも取り消せなかった。
『ありがとう(笑)悠真は美術館とか行く?』
『あんまり。でも、行ってみようかな』
送ってから、何を言っているんだと思った。一緒に行きたい、と言いたかったわけじゃない。でも、そういう意味に取られたかもしれない。
『いいじゃん、絶対好きになるよ』
凪紗の返信は、それだけだった。深読みしすぎた、と思った。でも、なんかほっとした。
夜のやり取りが、一番長くなった。
仕事が終わって、帰りの電車の中から始まって、家に帰っても続いた。奈緒が先に寝室に行った後、リビングで一人、スマホを持ったまま気づいたら日付が変わっていた。
『そろそろ寝なきゃ』
凪紗がそう送ってきた。
『そうだね。おやすみ』
『おやすみ。また明日』
また明日。その四文字を見て、なんか嬉しかった。明日もやり取りが続く。それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
スマホを置いて、暗いリビングの天井を見上げた。
隣の部屋で、奈緒が眠っている。
ごめん、と思った。でもその謝罪を打ち消すほどの何かが、胸の奥で静かに燃えていた。
話題はいつの間にか中学の頃に変わっていた。
『図書委員、一緒だったよね』
『覚えてる』
『あの書庫、めちゃくちゃ狭かった!』
『……うん』
『覚えてるじゃん!なんで素っ気ないの笑』
返信に詰まった。素っ気なくしてるつもりじゃなかった。ただ、あの書庫のことを覚えすぎていて、どう返せばいいか分からなかっただけだ。
『素っ気なくはないよ』
『じゃあどうして笑』
『……全部覚えてるから』
送ってから、少し後悔した。全部覚えてる、って普通に引かれるんじゃないか。図書室の本の匂いまで覚えてるとか、普通じゃない。
既読がついて、少し間があった。
『私も』
その二文字を、何度も読み返した。
『ねえ、聞いてもいい?中学の時、なんか私のこと避けてた時期あったよね。気のせいかな』
打ち合わせまであと三日という夜、そのメッセージが来た。
気のせいじゃない。隼人と付き合っているという噂が頭から離れなくて、確かめる勇気もなくて、ただ視線を逸らし続けた。
でも今夜、それを打ち明ける言葉が出てこなかった。
『……気のせいじゃないよ。ちゃんと話したいことがある。今度、直接』
打ってから、三十秒くらい画面を見つめた。送るべきか、送らないべきか。でも送らなかったら、また同じことを繰り返す気がした。
しばらく間があって、既読がついた。
『うん。私も』
短い返信だった。でもその言葉が、打ち合わせまでの三日間を、全然違うものに変えた。十三年分の「言えなかった」が、ようやく動き始めようとしていた。
窓の外では、台風が近づいていた。風が強くなり始めた木々の揺れる音が、どこか遠くから聞こえてくる。
台風が過ぎれば、打ち合わせの日がくる。
7
昨夜の嵐が嘘みたいに、どこまでも青い朝だった。
こんな朝に、今日という日が来た。窓の外を見ながら、なんか今日はうまくいく気がする、と根拠もなく思った。そういう気分にさせる空だった。
午前中は仕事にならなかった。後輩の声が耳を素通りしていく。上司に何か聞かれて、「はい」と答えたけど何を聞かれたか分からなかった。頭の中が凪紗のことで埋まっていて、それ以外が全部入ってこない。
デスクの隅のデジタル時計が11:11を示していた。ラッキー、と思った。
約束の時間が近づくにつれて、落ち着かなくなっていった。会議室に入って、資料をテーブルに並べる。また会える。それだけで十分なはずなのに、「うん。私も」が浮かんで、また会えるに戻って、また「うん。私も」に戻ってくる。そのループが止まらなくて、手だけが無意味に動き続けていた。
廊下から足音が聞こえてきた瞬間、手が止まった。
ガラス越しに人影が見える。木村さんの隣に、凪紗がいる。こちらに気づいていない。横顔だけが見えていた。前回と違う格好をしている。何が違うのかは分からない。でも、なんか今日の凪紗は、可愛く見えた。
しばらくしてドアが開く。
その瞬間、凪紗がふとこちらを向いた。目が合って、凪紗の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その顔を見て、心臓が大きく波打つ。
「本日もよろしくお願いします」
木村さんの声で、打ち合わせが始まった。
一時間、集中しようとした。木村さんの説明を聞きながら、資料に目を落とす。でも意識の端に、ずっと凪紗がいた。メモを取る指先。資料をめくる仕草。木村さんの質問に答える時の、少しだけ低くなる声のトーン。仕事中の凪紗は、RINGで話している時とは少し違う顔をしている。でもその真剣な横顔も、なんか好きだった。
一度だけ、目が合った。
凪紗がすぐに視線を資料に戻した。頬が少しだけ赤くなった気がした。
打ち合わせが終わって、木村さんが次回の日程を確認し始めた。手帳を取り出して、丁寧に確認している。その間、凪紗と僕の間に、短い沈黙があった。
「木村さん、少しだけ佐伯さんをお借りしてもいいですか。せっかくなのでランチでも」
木村さんが、一瞬だけ僕を見た。何かを察したような顔で、でも何も言わずににっこり笑った。
「どうぞどうぞ。私は先に戻ってますんで」
凪紗が「え、あ、はい」と少し慌てた顔をした。
木村さんが会議室を出ていった。
「どこ行こうか」
RINGなら即返しできるのに、目の前に立つと声が出にくい。凪紗も同じなのか、「どこでもいいよ」と答える声が、メッセージの時より少しだけ柔らかかった。その声を、直接聞けた。それだけで、なんかよかった。
エレベーターを待つ間、二人とも黙っていた。下りていく数字を眺めながら、何か言おうとするたびに、言葉が喉の手前で止まった。一ヶ月間あれだけやり取りしたのに、こんなに近くにいると何も出てこない。
ビルを出ると、台風一過の風が吹いた。昨夜あれだけ荒れていたのに、今日の空は洗われたように青い。凪紗がふと空を見上げた。
「きれいな空だね」
「ほんとだな」
同じ空を見上げながら並んで歩いている。それだけのことが、なんか嬉しかった。
「この辺に蕎麦屋があって」
「お蕎麦、好き」
それだけで、少し空気がほぐれた気がした。
蕎麦屋は小さな店だった。引き戸を開けると、出汁の香りが広がった。カウンター席しか空いていなくて、二人で並んで座ることになった。凪紗の肩がすぐそこにある。ドキドキした。こんな感覚、いつぶりだろう。
メニューを広げながら、凪紗が「天ざるにしよ」と独り言みたいに言った。
「同じにする」
凪紗がちらっとこちらを見て、少しだけ笑った。
注文を終えて、お茶が来た。しばらく沈黙があったけど嫌な沈黙じゃなかった。エレベーターの前で言葉が出てこなかった時とは違う。ただ、同じ時間の中にいる、そういう静けさだった。中学の時、図書室の書庫で並んで本を棚に戻していた時の、あの空気に少し似ていた。
しばらくして、おばさんの店員が蕎麦を持ってきた。凪紗の前にそっと置いて、「はいどうぞ」と言った。それから僕の前にも置いて、「ごゆっくり」と言って去っていった。
二人で手を合わせた。
凪紗が天ぷらを一口食べて、「おいしい」と小さく言った。その横顔に見惚れてしまった。
でも、頭の中がまだ追いついていなかった。
「俺、話したいことがあって」
言おうとした、その瞬間だった。
「わたしね」
凪紗が、カウンターの木目を見たまま言った。
「ゆーくんのことが、好きだったの」
固まった。
ゆーくん。今、ゆーくんって言った。しかも、好きだった?
その瞬間、カウンターの向こうで寡黙そうな店長がこちらをじっと見ていた。白い割烹着に腕を組んで、品定めするような目をしている。
二人同時に気づいて、同時に黙った。
「出よう」
蕎麦を急いで食べて、お会計をして、店を出た。引き戸を閉める直前、なんとなく振り返った。
店長が、静かにガッツポーズをしていた。
思わず、口角が上がった。
近くの公園に入ると、野外ステージがあった。誰もいない。階段状になった客席に並んで座った。八月の日差しが、石の段を温めていた。
ゆーくんと呼んでたのは知ってたけど、いざ言われると恥ずかしかった。
「じゃあ、悠真じゃなくてゆーくんって呼んでくれればいいのに。なんで?」
「それは……」
「えっ、でも」
頭がまだ追いついていなかった。
「河村と付き合ってたんじゃ……」
「付き合ってないよ」
凪紗があっさり言った。
「えっ、噂が」
「噂だもん」
じゃあ、あの三年間は何だったんだ。視線を逸らし続けたのも、街で逃げ続けたのも、全部。
「えっえっ、じゃあ体育館で隼人みてたのは?見てたよね?」
凪紗がちらっとこちらを見て、少し間を置いた。
「よく覚えてるね」
とぼけた顔で言った。
「覚えてるよ!ずっと気になってたから!」
言ってから、しまったと思った。でも凪紗は少し嬉しそうだった。
「いや、俺も……す、好きだったから。凪紗のことみてたんだ。気が付かなかった?」
凪紗の言葉が止まった。
「えっ」
「ずっと見てた。体育館のたびに」
「…………」
「気が付かなかった?」
凪紗がゆっくりこちらを向いた。目が少し丸くなっていた。
「わかってるよ!目があってドキドキしてたもん!」
言ってから、凪紗が両手で顔を覆った。
「……ってことはお互い好きだったの?本当に?」
僕も、なんか信じられなかった。
「たぶん、そう」
「本当に?」
「本当に」
凪紗が両手で顔を覆ったまま、その場で小さく飛び跳ねた。階段状の客席で、一人でぴょんぴょんしている。
なんか、可愛かった。
「隼人のことは」
僕から切り出した。
「あの全校集会で、隼人の方を見てたよね。それから噂になって、俺はずっとそれが本当だと思って。だから……逃げてた」
凪紗が少し俯いた。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「気を引こうとして、わざと見たんだ。ゆーくんが焦ってくれるかなって思って。でも逆効果だった」
しばらく、二人とも黙っていた。
木漏れ日が、石の段の上で揺れていた。
「じゃあ、十三年間」
声が出にくかった。
「お互い好きだったのに、すれ違ってたってこと?」
凪紗が小さく頷いた。
なんか、笑えてきた。笑えるような話じゃないのに。
「馬鹿みたいだな、俺たち」
凪紗が顔を上げて、こちらを見た。目が少し赤くなっていた。でも、笑っていた。
「ほんとだよ」
その笑顔が、あの頃と同じだった。机の下の暗がりで、消しゴムを差し出してくれた時の、あの笑顔と。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
でも今度は、黙ったまま逃げたくなかった。
「凪紗」
呼んだ。
「好きだ、今も」
凪紗が、また両手で顔を覆った。でも今度は、その隙間から笑っているのが見えた。
「……知ってた」
「嘘つけ」
「ほんとだよ」
二人で笑った。
公園の木漏れ日が、石の段の上で揺れていた。どこかで鳥が鳴いていた。
十三年分の夏が、やっと終わった気がした。
凪紗がスマホを確認して、「やば、そろそろ戻らなきゃ」と立ち上がった。
名残惜しそうに、でも少し弾んだ足取りで。
「じゃあ、また」
「また」
それだけだった。でも、その「また」が、中学の時の「またね」とは全然違った。
凪紗が公園の出口に向かって歩いていく。途中で一度だけ振り返って、小さく手を振った。
僕も手を振り返した。
その背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
その夜、RINGの通知が来た。
『今日はありがとう』
それだけだった。でも、スタンプが一個ついていた。うさぎが飛び跳ねているやつ。
思わず、笑った。
『こちらこそ』
返してから、しばらく画面を眺めた。
『蕎麦屋のおじさん、良かったね笑』
『店長ね笑 またあの店行きたいな』
『行こう』
送ってから、少し止まった。「行こう」って、誘ったことになるのか。
既読がついた。
『うん!』
その一言が、なんかよかった。
第8章 305号室 へ続く
▼小説出版しました!KindleUnlimitedに加入しているかたは是非読んでみてください!(買うと高いので加入してない方はキャンペーンまで待っててね)
超大作・・・長編にしようと書いていたら、結局200ページ・・・
ん〜短い💦
ちなみに現在出版中の本はこれら!↓
Kindle Unlimited(読み放題)なら全部0円で読めます。
▼ 僕がKindle出版した本はこちら
▼ もう一冊書いちゃいました!
▼ 3日連続出版(笑)
▼ 4冊目出版(笑)
今度は面白おかしいブログ運営ストーリー
▼ 5冊目出版!
今度はエッセイ
いいなと思ったら応援しよう!
チップもらったって嬉しくないぞ、コノヤロー(めっちゃ嬉しい)
もしどうしてもというのでしたら・・・でも本心ではありません(嘘)
いただいちゃったら有料記事買ってインプットします。
そして全力でアウトプットに使わせていただきます!
よろしければサポートをお願いします!(おいおい) 