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『僕らの未熟な蒼』第8章

第8章 305号室

 1

 帰り道、足が軽かった。

 公園を出てから、ずっとそうだった。信号待ちでスマホを開くと、凪紗からのスタンプが来ていた。飛び跳ねるうさぎ。思わず口角が上がってしまう。

 でも、電車に乗った頃から、少しずつ別のことが頭に浮かんできた。

 奈緒のことだった。

 今頃、家で夕飯を作っているだろうか。僕が帰ってくるのを、いつも通り待っているだろうか。四年間、ずっとそうだった。僕が上の空でも、返事が遅くても、踏み込まずに待っていてくれた人が。

 その人に、僕は嘘をついていた。

 仕事の連絡、と言いながら凪紗とやり取りして、今日だって打ち合わせを理由に公園で二時間過ごしていた。凪紗のことを考えると胸が温かくなる。でもその温かさの裏側に、ずっと冷たいものが張り付いている。

 マンションが見えてきた頃、スマホを鞄にしまった。

 エントランスに入って、エレベーターのボタンを押す。上がっていく数字を眺めながら、今夜ちゃんと向き合わなければいけない気がした。でも、何をどう言えばいいのか、まだ分からなかった。

 ドアを開けると、リビングの電気がついていた。

 奈緒がソファに座って、僕を待っていた。

 いつもなら先に寝室に行っている時間だ。テレビもついていない。ワイングラスもない。ただ、膝の上で手を重ねて、静かに座っている。

 その姿を見た瞬間、分かった。

「おかえり」

 いつもと同じ声だった。でも、どこかが違う。

「ただいま」

 鞄をテーブルに置いて、向かいのソファに座った。奈緒がこちらを見る。

「話があるの」

 黙って頷いた。

「スマホ、最近よく見てるよね」

 責めているわけじゃなかった。ただ、確かめるように言う。

「仕事の——」

「違うよね」

 奈緒が静かに遮った。

 何も言えなかった。

「言い訳しなくていい。悠真が嘘をつく時、声のトーンが少し変わるから。四年間で、それは分かってるから」

 胸が痛かった。

「好きな人が、いるんでしょ」

 否定できなかった。

 奈緒が小さく息を吐く。泣いているわけじゃない。ただ、どこか遠くを見ているような顔をしていた。

「ずっと、どこか遠いところを見てる人だと思ってた。思慮深いんだって、そう思おうとしてた。でも違ったんだよね。最初から、別の誰かを見てたんだよね」

「奈緒——」

「いいよ」

 奈緒が首を振る。

「責めてない。ただ、もう終わりにしようと思って」

 その言葉が、リビングに影を落とした。

 ごめん、という言葉も、いやだ、という言葉も、どちらも本当のことなのに、どちらも軽すぎる気がして、何も言えなかった。

「四年間、楽しかったよ」

 奈緒が立ち上がって寝室へ向かった。僕も反射的に立ち上がる。振り返って何か言わなければ……。

 その瞬間だった。

「あーーーー!」

 という声とともに、鈍い衝撃が僕のケツに飛んできた。

「いっ……!」

 思わずよろけて、ケツを押さえた。振り返ると、奈緒はもう前を向いて歩いている。何事もなかったような背中だった。

 今、蹴られたのか。俺……。

「悠真と一緒にいると、穏やかだった。それは本当だから」

 寝室のドアが、静かに閉まる。

 ケツを押さえたまま、しばらく立ち尽くした。

 痛かった。色々と。 

 連絡が来なくなったのは、あの夜からだった。

 最初は気のせいだと思った。既読はつく。でも返信が来ない。一日経って、二日経って、三日経っても、RINGは静かなままだった。

『どうしたの?』

 不安でたまらなく送った。すぐに既読がついた。でも返信は来なかった。

 何かあったんだろうか。仕事が忙しいのか。それとも、あの日公園で話しすぎたのか。私が先に「好きだった」と言ってしまったのが、重かったのか。

 考えれば考えるほど、分からなくなった。

 木村さんに「瀬戸さん、最近どうですか」と何気なく聞いたら、「さあ、いつも通りじゃないですかね」と返ってきた。仕事上は普通らしい。じゃあ私だけ?

『ねえ、なんかあった?』

 既読がついた。しばらくして、返信が来た。

『ごめん。少しだけ待って』

 それだけだった。

 待って、と言われたから待とうとした。でも三日経っても、四日経っても、胸の奥がざわざわしたままで、じっとしていられなかった。

 気づいたら、電車に乗っていた。

 悠真のマンションの最寄り駅は、RINGのやり取りの中で何となく分かっていた。新宿寄り、と言っていた。駅名も、一度だけ話題に出たことがあった。マンション名は知らない。でも、その駅の周りをぐるぐる歩いていたら、なんとなく見つけられる気がした。根拠はなかったけど、そういう気がした。

 駅から歩いて十分くらいのところに、それらしいマンションがあった。エントランスに、オートロックがある。部屋番号が分からない。

 当たり前だ。

 エントランスの前に立って、どうしようかと思った。チャイムを押せなかったあの春と、何も変わっていない気がした。あの時は悠真の実家の前だった。今は東京のマンションの前だ。場所が変わっただけで、私はまだここで立ち尽くしている。

 どのくらいそうしていたか分からない。

 エントランスのドアが開いた。

 女の人が出てきた。きれいな人だった。大きなバッグを持っていて、どこか落ち着いた雰囲気があった。

「あの、すみません」

 思わず声をかけていた。

「このマンションに、瀬戸悠真さんって住んでいませんか?」

 女の人が、一瞬だけ動きを止めた。

 それから、ゆっくりこちらを見た。

「……瀬戸さんのお知り合いですか?」

「あ、はい。仕事で、あの、同じ中学で——」

 なんで両方言ってるんだろう、と思いながら止まらなかった。

「中学の同級生で、仕事でも関わりがあって。急に来てしまって、すみません」

 女の人が、少しだけ微笑んだ。穏やかで、静かな微笑みだった。

 しばらく間があった。

「305号室ですよ」

「ありがとうございます」

 女の人は小さく頷いて、歩き出した。その背中が、なんか綺麗だった。凛としていて、でもどこか寂しそうで。

 もう少し話したかったけど、なぜなのかその理由が分からなかった。

 インターホンのボタンの前に立った。

 悠真の実家の前で、ボタンを前にして立ち尽くしたあの日は怖くて逃げちゃった。

 でも今日は、怖くなかった。

 怖くないわけじゃない。でも、それより会いたかった。返信が来ない一週間、ずっとそれだけを思っていた。何があったか分からなくていい。ただ、顔が見たかった。

 インターホンのパネルを見た。

 3、0、5。

 さんまるご。さんまるご。心の中で繰り返しながら、ボタンを押してチャイムを鳴らす。

 しばらくして、インターホンから声が聞こえてきた。

「……はい」

 悠真の声だ。心臓が跳ねる。でも、ここまで来たら引き返せない。

「あの、私、佐伯です」

 沈黙があった。

「……凪紗?」

「うん」

 また沈黙。

「……下に行く。待ってて」

 インターホンが切れた。

 エントランスの前で待つ。落ち着かなくて、バッグの持ち手を何度も握り直した。

 エレベーターのドアが開く。

 悠真が出てきた。部屋着で、目の下に影がある。一週間、何があったんだろう。聞きたいことは山ほどあったのに、顔を見た瞬間に全部どこかに行ってしまった。

 悠真がこちらを見て、少し固まる。それから、ふっと笑った。しんどそうなのに、それでも笑ってくれた。その笑顔を見たら、ここまで来てよかったと思った。

「……なんで」

「会いたくて」

 口から出た瞬間、顔が熱くなった。でも後悔はなかった。

 悠真が、また笑った。今度はさっきより少しだけ、深く。さっきまでの疲れた顔が、少しだけほぐれた気がした。

「上、来る?」

 えっ、部屋に? 鼓動がゆーくんに聞こえちゃう。でも、小さく頷いちゃっていた。 

 エレベーターに乗ると、ゆーくんがボタンを押した。

 少し斜め後ろに立ちながら、ゆーくんの後ろ姿を見る。肩幅が広い。中学の時より、ずっと大きくなってる。部屋に行くって、どういうことなんだろう。彼女とかいないのかな。いや、連絡できなかった理由があるって言ってた。何があったんだろう。聞きたいけど、聞けない。頭の中がぐるぐるしてるうちに、三階に着いた。

 内廊下を歩きながら、ゆーくんの背中を追う。空調が効いていて、外の暑さが嘘みたいに涼しい。305のプレートが見えてきた。

 ゆーくんがポケットから鍵を取り出した。金属音がして、ドアが開く。しっかりした重さのあるドアだった。

「どうぞ」

 一瞬、足が止まる。ゆーくんの部屋に入る。当たり前のことなのに、なんか緊張して、深呼吸を一回して、中に入った。

 玄関から一歩入ると、生活の匂いがする。ゆーくんの匂いだ、と気づいた瞬間、少しだけドキドキした。

 リビングに通されて、ダイニングの椅子に座る。一人暮らしにしては広い部屋だ。きれいに片付いているけど、どこかすっきりしすぎている。なんだろう、この感じ。

 ふと、かすかに甘い匂いがする。香水か、柔軟剤か。ゆーくんのものじゃない気がして、さっきエントランスで会った女の人のことが頭をよぎる。あの大きなバッグ。あの静かな微笑み。聞きたい。でも今じゃない。

「飲み物、何がいい」

「なんでもいいよ」

 ゆーくんがキッチンに立つ。冷蔵庫を開ける音がする。その背中を眺めながら、なんか変な気持ちになる。ゆーくんが私のために飲み物を用意している。こんな場面が来るなんて、中学の時には想像もできなかった。

 飲み物を持って、ゆーくんが向かいに座る。テーブルを挟んで、向かい合っている。近い。なんか近い。どう話せばいいか分からなくて、グラスを両手で包む。

 しばらく沈黙が続く。ゆーくんが何か言おうとしているのが分かる。

「色々あって」

 ゆーくんが話しはじめた。

「実は、彼女がいたんだ。四年間付き合ってた人が」

 心臓が、静かに沈む。やっぱりそうか。多分あの女の人だ。きれいな人だった。少しだけ、胸が痛い。

「別れた。俺が、ちゃんと向き合えてなかったから」

 黙って聞く。

「だから連絡できなかった。凪紗に連絡したら、自分が何をしたいのか、誤魔化せなくなる気がして」

 そっか。女友達とRINGするのも、彼女からしたら嫌だよね。大変だったんだ。

「そっか」

 それしか出てこない。

「ごめん」

「謝らなくていいよ」

 窓の外に、夕暮れが広がっている。何か言わなきゃ。でも「私が原因?」とは聞けない。「どんな人だったの?」も違う。私が聞ける立場じゃない。

 視線をさまよわせていたら、棚の上にワインのボトルが並んでいるのが見えた。

「ワイン、好きなの?」

 ゆーくんが少し驚いた顔をする。

「まあ、嫌いじゃないよ」

「何本もあるじゃん」

「それは奈緒が……」

 ゆーくんが途中で止まる。名前が出た。奈緒さん、という人だったんだ。気まずい沈黙が、一瞬だけ流れる。

「……部屋、広いね」

 今度は私が話題を変える。ゆーくんが小さく笑った。

「一人には広すぎるよ」

 その一言が、なんか刺さる。一人、という言葉が。

 窓の外の空が、だんだんと深いオレンジ色に変わっていく。ゆーくんがそれをぼんやり眺めている。横顔が、なんか穏やかだ。もう少しだけここにいたい。でもそろそろ帰らなきゃ。

「じゃあ、私そろそろ」

「ごめん、連絡できなくて」

 首を振る。謝らなくていい。でも言えなくて、ただ首を振るだけになってしまう。

「来てくれて、ありがとう」

 ありがとう、って言われると思わなかった。泣きそうになる。
「うん」

「駅まで送るよ」

 外に出ると、夕暮れの風が涼しくて、空がオレンジ色に染まっている。二人で並んで歩きながら、会話はないのに全然嫌じゃなくて、この時間がもう少し続けばいいのに、ってずっと思っている。

 大通りに出ると人が増えてくる。ゆーくんが少し歩幅を狭めてくれた気がして、なんか嬉しい。

「じゃあ、また」

 また会いたい、今日来てよかった、そういう言葉を全部飲み込んで「うん」とだけ返して、ICカードをタッチして改札を通る。通り抜けてから振り返った。

 ゆーくんがまだそこに立っていた。なんか嬉しくて、笑顔で手を振る。泣きそうなのに、笑顔が出た。

 ゆーくんも手を振り返してくれた。その顔が、なんか穏やかだった。さっきまで目の下に影があったのに、今は少しだけ表情が柔らかい。

 階段を降りながら、頭の中がぐるぐるしていた。彼女がいたんだ。四年間も。少しだけ胸が痛い。でも、あのエントランスで会った女の人が、もしかしてそうだったのかな。だとしたら、あの大きなバッグは。あの静かな微笑みは。

 ホームに降りると、電車はまだ来ていなかった。レールを眺めながら、ショックと安堵が混ざって、自分でもよく分からない気持ちのまま、ただぼんやりと立っていた。

 でも、会えた。やっと話せた。それだけは確かだ。

 電車が来て、乗り込んでドアが閉まった瞬間、涙が一粒だけ出た。 

 改札の向こうに凪紗の姿が消えた。

 しばらく、その場に立っていた。人が流れていく。夕暮れの駅前は忙しく、誰も立ち止まらない。サラリーマンが肩をぶつけながら通り過ぎる。カップルが笑いながら歩いていく。でも僕だけが、まだそこにいた。

 来てくれた。

 奈緒が出ていった日に、凪紗が来た。そんな偶然があるのか、と思いながら、でも偶然じゃない気もした。今日という日に、凪紗が来た。それだけで、この一日が全然違うものになった。

 今度こそ、僕から動かなければ。

 でも次は、僕から言う。そう決めながら、歩き出した。夏の終わりの空がオレンジ色に染まっていた。商店街の明かりが灯り始めて、夕飯の匂いがどこかから漂ってくる。いつもと同じ帰り道なのに、今日だけは全然違う景色に見えた。

 凪紗の顔が、頭から離れなかった。

 エレベーターを降りた時の、疲れた顔。でも笑ってくれた。「会いたくて」と言いながら少し顔が赤かった。部屋で向かい合って飲み物を飲みながら、奈緒の話を黙って聞いてくれた。「そっか」とだけ言って、それ以上聞かなかった。改札で振り返って、手を振ってくれた。

 来てくれてよかった。本当に来てくれてよかった。

 スマホを取り出した。RINGを開いて、凪紗のトーク画面を開く。歩きながら文字を打ち始めた。

 大通りに出て、信号待ちをしながら送信ボタンを押した。

 ためらうことなく送れた。口元が、自然と緩んだ。こんな短い文章を送るだけで、なんでこんなに嬉しいんだろう。

 赤信号だった。

 横断歩道の前に数人が並んでいる。夕暮れの帰宅ラッシュで、歩道は人が多かった。僕はその端に立って、スマホをポケットにしまった。

 その時だった。

 右手から、異様なエンジン音が近づいてきた。速い。普通じゃない速さだった。顔を向けた瞬間、黒いセダンが赤信号を無視して大通りに突っ込んできた。ハンドルが右に切れて、そのまま歩道に乗り上げてくる。

 逃げる間もなかった。

 それから先は、何も分からなかった。 

 アパートの前まで来た時、RINGの通知が来た。

 ゆーくんからだ。心臓が跳ねる。この一週間、ずっと待っていた。待って、待って、やっと来た連絡が、今日会った直後に来た。スマホを取り出す手が、少し急いている。

 あわてて画面を開く。

 『来てくれてありがとう。』

 たった一言だった。でもじわじわと胸に広がってくるものがある。ありがとう、って言ってくれた。部屋でも言ってくれたのに、また言ってくれた。

 なんだろう、この感じ。

 嬉しくて、でも泣きそう。アパートの前で一人、スマホを胸に押し当てる。行ってよかった。勇気を出せてよかった。今日という日が、信じられないくらい特別な一日になっている。

 また会える。次に会ったら、もっとちゃんと話せる気がする。

 返信を打とうとしたけど何を送ればいいかな。しばらくスマホの画面を見つめる。

 その時、急に着信が来た。

 知らない番号だった。

「もしもし、佐伯凪紗さんですか」

「はい」

「瀬戸悠真さんの携帯の履歴からご連絡しています。瀬戸さんが交通事故に遭われまして——」

 声が、遠くなる。

 何を言っているか、頭に入ってこない。交通事故。瀬戸悠真。さっきまで一緒にいたよね。改札で手を振ったよね。来てくれてありがとう、って送ってきたよね。

 なんで。なんで。

 病院の名前だけ、なんとか頭に入れた。気づいたら、走り出していた。

 タクシーの中で、ずっとRINGの画面を見ている。

 『来てくれてありがとう。』

 この一言を、何度も読み返す。さっきまでこんなに嬉しかったのに。さっきまでアパートの前で笑っていたのに。窓の外を夜の街が流れていく。信号が赤になるたびに、早く、と思う。

 病院が見えた瞬間、タクシーを降りた。走る。救急口の自動ドアが開くのが遅い。早く、早く。

 受付に飛び込んで名前を告げる。看護師が立ち上がって案内してくれる。廊下が長い。なんでこんなに長いんだろう。足が震えている。

 案内された廊下のベンチに座る。

 看護師さんが慌ただしく走り回っている。扉が開いては閉まる。早く。早く教えて。でも誰も私のことを見ない。声をかけてくれない。

 ゆーくんはあの扉の向こうにいる。

 時計を見た。

 十分。たった十分しか経っていない。なのにもう何時間も待っている気がする。今この瞬間も、あの扉の向こうで何かが起きている。看護師さんが走っている。機械の音がする。私には何も分からない。何もできない。ただここに座って待つことしかできない。

 また時計を見る。十一分。

 一分しか進んでいないの?この一分がこんなに長いのに、ゆーくんにとってのこの一分はどんな一分なんだろう。痛いのかな。苦しいのかな。怖いのかな。

 神様、お願い。

 声に出さずに、何度も繰り返した。こんなに真剣に神様にお願いしたのは、生まれて初めてかもしれない。ゆーくんを、助けてください。

 
 どのくらいそうしていたか分からない。気づいたら、扉が開いていた。看護師さんが出てきて、こちらを見た。

「少しだけ会えますよ」

 立ち上がった瞬間、足がふらついた。

 部屋に入ると、さっきより静かだった。機械の音だけが、規則正しく続いている。

 ベッドに近づいて、ゆーくんの顔を見た瞬間、喉の奥が詰まった。

 たくさんの管が繋がっている。顔が青白い。さっきまで笑っていたのに。

 ゆーくんの隣に立って、その手をそっと握る。

 冷たい。さっき駅まで歩いた時、隣にいた体温がもうない。

「ゆーくん」

 声が出た。でもゆーくんは動かない。まつ毛が少し震えた気がした。気のせいかもしれない。

「ゆーくん、聞こえる?」

 返事はない。モニターの音だけが、規則正しく続いている。

 手を握ったまま、ただ祈った。すぐに看護師さんが来て、外に出るよう促される。でも手を離したくない。

「もう少しだけ」

 そう言ったら、看護師さんは黙って待ってくれた。

 ゆーくんの手を握ったまま、目を閉じる。

 やっと会えたのに。やっと話せたのに。

 その時だった。

 モニターの音が変わる。

 え……。

 看護師が飛び込んでくる。腕を掴まれて、廊下に出されドアが閉まる。

 何が起きてるの?ねえ、何が起きてるの?

 ドアを見つめたまま、動けない。中から声が聞こえ機械の音がする。壁に手をつく。膝が笑っている。立っていられない。

 お願い。お願い。お願い。

 しばらくして、ドアが開く。

 看護師の顔を見た瞬間、頭が真っ白になった。

 気づいたら部屋に入っていて、ゆーくんの胸に顔を埋めていた。ゆーくん。ゆーくん。声にならない言葉が、ただ溢れてくる。涙が止まらない。このままここにいたい。ずっとここにいたい。

 どのくらいそうしていたか分からない。


第9章 僕らの未熟な蒼 へ続く



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