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『僕らの未熟な蒼』第4章

第4章 見えない距離

 私は渋谷から少し外れた雑居ビルの四階にある、小さな広告代理店に勤めていた。

 インターネット広告、雑誌広告、時々展示会のディスプレイ。大手がやらないような、細かい仕事を丁寧にこなす会社だった。華やかさはないけれど、クライアントの顔が見える距離感が、私には合っていた。社員は十二人。お世辞にも広いとは言えないオフィスに、所狭しとデスクが並んでいて、隣の席の先輩がため息をつくのも、後輩がこっそりお菓子を食べているのも、全部筒抜けだった。それでも私は、この場所が嫌いじゃなかった。

 仕事は好きだった。

 シンクロをやっていた頃、私は水の中で観客に何かを伝えようとしていた。言葉じゃなく、動きで、形で、色で。限られた空間の中で、見る人の心に何かを残す。広告の仕事は、あの感覚に似ていた。クライアントが伝えたいことと、見る人が受け取るものの間に、どうすれば橋を架けられるか。そのことだけを考えている時間が、私には一番落ち着いた。

 この街に来て、三年が経つ。

 東京に出てきた理由を、誰かに聞かれるたびに、私はいつも同じように答えた。やりたい仕事があったから、と。それは嘘じゃなかった。大学を卒業する頃には、広告の仕事がしたいという気持ちは本物だったし、地元よりも東京の方が仕事の選択肢が広いことも事実だった。

 ただ、本当のことを全部話したわけでもなかった。

 自分でも、認めたくなかった。

 東京に来れば、もしかしたら、という気持ちが、心のどこかにあったことを。この広い街のどこかで、あの人とすれ違うかもしれない、という根拠のない期待が、私の背中を押していたことを。

 馬鹿みたい、と思う。

 中学を卒業して、高校が変わって、大学が変わって、それだけの時間が経っても、私の中にはずっと、あの六月の教室が残っていた。机の下の暗がりで、褐色の指先が白い消しゴムを差し出した、あの一瞬が。

 あれから何年経っても、あの場所だけは色褪せなかった。

 デスクに向かって原稿のレイアウトを確認していると、隣の席の先輩が声をかけてきた。

「佐伯さん、今日のクライアント対応、一緒に行ってもらえるか?」

「はい、大丈夫です」

 立ち上がりながら、窓の外を一瞬だけ見た。夕暮れのビル群が、オレンジ色に染まり始めていた。今日も一日が終わろうとしている。

 打ち合わせを終えて会社に戻る道、私はいつも少しだけ遠回りをした。

 理由は自分でもうまく説明できなかった。ただ、夕暮れのオフィス街を歩いていると、どこかで息ができるような気がした。小さなオフィスの中にいると、自分が少しずつ縮んでいくような感覚があって、外の空気を吸うと、それがほぐれていく。そういう時間が、私には必要だった。

 でも本当のことを言えば、それだけじゃなかった。

 人混みの中を歩いていると、無意識に誰かを探している自分に気づく。背の高い、真っ直ぐな背筋の男性を見かけるたびに、足が一瞬だけ止まる。違う、と気づくたびに、胸の奥で小さな何かが萎んでいく。

 その繰り返しだった。

 我ながら、しつこいと思う。もう十三年も経つのに。あの人はとっくに私のことなんて忘れているかもしれないのに。それどころか、今頃誰かと幸せに暮らしているかもしれないのに。

 それでも、やめられなかった。

 ある夕方、打ち合わせの帰り道だった。

 信号待ちの人波に紛れながら、私はいつものように少しだけぼんやりしていた。隣に立つ見知らぬ人たちの、暗い色のコートやスーツが、夕暮れの光に溶け込んでいく。

 ふと、顔を上げた。

 交差点の向こう、ビルの壁面に設置された大型モニターがニュースを流していた。夕方のニュース映像が、音もなく切り替わっていく。街頭インタビューの場面だった。レポーターが道行く人にマイクを向けている。その画面の奥、ピントの合っていない背景の中を、人波に紛れて歩いていく人影が見えた。

 私の目が、その人影に釘付けになった。

 真っ直ぐな背筋。迷いのない歩き方。肩幅の広い、あの感じ。

 次の瞬間、画面が切り替わった。

 天気予報のキャスターが、明日の気温を告げている。

 私は、自分の心臓の音を聞いていた。

 気のせいだ。画面の奥に映り込んでいた、ただの通行人だ。この街には何百万人もの人間がいる。似たような背格好の人間なんて、いくらでもいる。

 でも、体は正直だった。

 信号が青に変わっても、私はしばらく動けなかった。後ろから来た人に肩をぶつけられて、ようやく我に返り、人波の中に踏み出した。

 歩きながら、私はコートのポケットの中で、ぎゅっと手を握りしめていた。

 あの一瞬の人影が、頭から離れなかった。 


 その夜、私はアパートの部屋に帰っても、ぼんやりしたままだった。

 夕飯を作る気にもなれず、コンビニで買ったサンドイッチを机の上に置いたまま、窓の外を眺めていた。東京の夜景は、どこまでも明るくて、どこまでも騒がしかった。地元の夜とは全然違う。あちらは少し遅い時間になれば、街がしんと静まり返った。ここは何時になっても、誰かが動いていて、どこかで光っている。

 最初の頃は、その明るさが心強かった。

 今は時々、その騒がしさが、自分の内側の静けさと釣り合わなくて、息苦しくなることがある。

 私はサンドイッチの袋を開けながら、さっきのモニターの人影を、また思い出していた。

 ゆーくんは今、どこにいるんだろう。

 東京にいるのかもしれない。地元に残ったのかもしれない。大学で東京に出たいと言っていたのは、遥から聞いた話だ。実際にそうしたのかどうか、私には知る術がなかった。

 高校の三年間、街で何度かすれ違った。

 別々の制服を着た私たちは、同じ街に住んでいるのに、まるで違う世界の住人みたいだった。一度だけ、駅の近くで正面からぶつかりそうになって、目が合った。

「瀬戸!」

 声をかけたのは、私の方だった。

 彼は一瞬だけ固まって、それから「お……おう」と答えた。友人たちと一緒だったせいか、それ以上何も言えなかった。私も言えなかった。

「元気?」

「うん……」

 それだけだった。

 友人に引っ張られて、彼は行ってしまった。私はその背中を見送りながら、胸の奥がじりじりと焼けるような感覚を、呼吸と一緒に飲み込んだ。

 あの時、もう少し何か言えばよかった。

 でも何を言えばよかったのか、今でもわからない。

 サンドイッチを半分だけ食べて、私は袋を畳んだ。食欲がなかった。

 スマホを手に取り、画面を点けて、また消した。

 ゆーくんの名前を検索したことは、一度もない。正確に言えば、しようとして、やめたことが何度もある。検索すれば何か出てくるかもしれない。今どこにいるか、何をしているか。でも、もし出てきてしまったら。もし、誰かと幸せそうにしている写真でも見てしまったら。

 その先を想像するのが、怖かった。

 知らない方がいい。そう言い聞かせて、私はずっとそのままにしてきた。
 窓の外で、遠くの交差点の信号が青に変わった。

 また明日も、あの夕暮れのオフィス街を歩くだろう。また誰かの背中を目で追って、違うと気づいて、胸の奥で何かが萎んでいく。その繰り返しだろう。

 わかってる。

 それでも、やめられなかった。

 消しゴムを拾ってから、ずっとそうだった。

 私の中の空白は、あの六月の教室に置いてきたままだ。どれだけ時間が経っても、どれだけ遠くに来ても、その空白だけは少しも埋まらなかった。

 東京に来れば、何かが変わると思っていた。

 三年経った今も、私は答えを見つけられないまま、この街の明るい夜の中に、一人で座っていた。 


 四月。

 新しい制服は、まだ少し硬かった。

 市内で一番の公立高校。その校門をくぐった朝、僕は人波に紛れながら、知っている顔を探していた。健一はサッカーの推薦で私立に進んだ。隼人は商業高校へ行った。野原も別の私立へ。成瀬がどこに行ったのかは、聞かないままだった。

 そして、凪紗は。

 答えはわかっていた。名簿を確認するまでもなく、凪紗の名前がここにないことは、合格発表の日から知っていた。市内では三番目、公立の中では二番目の高校。凪沙はそこに行ったはずだ。

 わかっていた。

 それでも、知っている顔を探している自分がいた。

 新しいクラスの教室に入り、出席番号順の席に座る。知らない顔ばかりだった。窓の外には、桜が散り始めていた。ピンク色の花弁が、アスファルトに貼りついている。

 進学校というのは、僕が思っていたより自由な場所だった。校則は緩く、休み時間に廊下で大声で笑っている奴もいれば、授業中から次の授業の予習をしている奴もいた。勉強ができるというだけで集まってきた人間の集団は、中学のクラスよりずっとバラバラで、それぞれが自分のペースで動いていた。

 僕はそのバラバラな空気の中に、それなりに溶け込んでいった。勉強は悪くなかった。授業についていくのに苦労はなかったし、新しいクラスメイトとも、表面上は上手くやれていた。

 けれど、何かが違った。

 中学の時は、休み時間になれば健一や隼人が騒ぎ込んできた。成瀬が当たり前のように僕の前の席に座り、野原が問題集を持って現れた。あの賑やかさを、当然のものだと思っていた。うるさいと感じることもあったし、煩わしいと思う日もあった。でも今になって、あの騒がしさが、実は僕の日常を支えていたことに気づく。

 けれど今は、誰も来ない。

 僕が呼ばなければ、誰も来ない。それだけのことが、新しい教室の静けさを、思いのほか冷たいものに感じさせた。

 休み時間、窓の外を眺めながら、僕はこの静けさに少しずつ慣れていった。
 そして気づいた。

 中学の時、あの賑やかさの中心にいた自分は、本当は誰かに見ていてほしくて、その賑やかさを作っていたのかもしれない。誰か、というのはもちろん、凪紗のことだ。凪紗が見ているかもしれないから、凪紗に気づいてもらえるかもしれないから、僕はあの教室で笑っていた。

 その凪紗が、今はここにいない。

 笑う理由が、少しだけ減った気がした。

 新しいクラスメイトとの会話は、それなりに弾んだ。勉強の話、将来の話、他愛もない冗談。表面上は何も問題なかった。僕はいつも通り、器用に立ち回った。誰からも一目置かれる立ち位置を、気づけばここでも確保していた。

 それなのに、放課後に一人で自転車を漕いでいると、胸の中にぽっかりと空いた穴が、いつも同じ場所を吹き抜けていくような感覚があった。

 あの穴を埋められるのは、一人しかいないとわかっていた。

 そして、その一人は今、ここにいない。 

 夏が来て、また去った。

 街で凪紗を見かけることが、月に一度か二度あった。

 駅前の商店街。塾の帰り道。駅近くのショッピングモールの入り口。

 そのたびに、僕の心臓は中学の時と同じように跳ねた。でも、足は動かなかった。

 一度、塾からの帰り道、向こうから歩いてくる凪紗と目が合いそうになった。僕は反射的に視線を逸らし、スマホを取り出すふりをした。
 通り過ぎた後、僕は自分が何をしたのか、しばらく理解できなかった。

 逃げた。

 また、逃げた。

 向こうから歩いてくる彼女に、視線を合わせることすらできなかった。スマホの画面を見つめたまま、彼女の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。

 なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。いや、わかっていた。あの噂が頭の中にあった。隼人と付き合っているという噂。真偽はわからない。でも、それを確かめる術もなかった。

 確かめたくなかったのかもしれない。

 知ってしまったら、本当に終わりになる気がして。

 もし彼女が本当に隼人と付き合っているなら、僕がこの三年間抱えてきたものは、完全な片思いだったということになる。それはわかっていた。わかっていても、確定させたくなかった。確定しない限り、まだ終わっていないと思えるから。

 それがどれほど臆病で、みっともない言い訳なのかも、わかっていた。

 ある夏の夕方、駅前のモールから出てきたところで、凪紗が友人たちと笑いながら歩いているのを見かけた。みんなで何かを笑い合っていた。凪紗の笑い声が、夕暮れの空気に溶けていく。

 あの笑顔を、僕は知っている。

 机の下の暗がりで、消しゴムを差し出してくれた時のあの笑顔。図書室の書庫で、背伸びをしながら本を棚に戻そうとしていたあの横顔。体育館の埃っぽい光の中で、僕だけに向けてくれたあの微笑み。

 今、彼女が向けているその笑顔の中に、僕の居場所はない。

 それでも、僕はしばらく動けなかった。

 彼女が笑うたびに、その笑顔が誰かに向けられるたびに、胸の奥が静かに痛んだ。痛みというより、じわじわと滲んでいくような、鈍い疼き。それを感じるたびに、僕はやっと、自分がどれだけ彼女のことを好きなのかを、改めて思い知らされた。

 好きだ、という言葉は、中学の三年間で何度も頭の中で繰り返した。でも今、こうして遠くから眺めているだけの自分には、その言葉を口にする資格すらないような気がした。

 僕はそのまま、反対方向へと足を向けた。

 秋になると、凪紗を見かける頻度が減った。部活が忙しいのか、それとも僕が塾に行く時間が変わったのか。理由はわからなかった。

 ただ、あの紺色のブレザーを見かけなくなると、駅前の景色が少しだけ褪せて見えた。人混みの中を歩いていても、何かが欠けているような感覚が、ずっと足元にまとわりついていた。

 新しい高校での生活は、それなりに充実していた。勉強は悪くなかった。東京の大学を目指すという目標が、僕の毎日に輪郭を与えていた。

 ただ、その輪郭の内側は、いつも少しだけ空っぽだった。

 凪紗がいない日常に、少しずつ慣れていく自分がいた。

 慣れていくことへの、言いようのない罪悪感とともに。

 慣れてしまったら、本当に終わりになる気がして。でも慣れないと、毎日が重くて仕方なかった。そのどちらにも振り切れないまま、僕は季節をやり過ごしていた。

 

 高校二年の秋。

 その日、僕は塾の帰りに一人で駅前を歩いていた。夕方の人混みが、街灯に照らされて流れていく。参考書を詰め込んだリュックが肩に食い込み、今日の授業で解けなかった問題が頭の片隅にこびりついていた。

 不意に、後ろから声が飛んできた。

「瀬戸!」

 足が止まった。

 振り返ると、そこに凪紗がいた。

 紺色のブレザー。ポニーテール。褐色の肌が、秋の柔らかい光に照らされている。友人たちと連れ立って歩いていたらしく、その少し後ろに女子が二人立っていた。

 一瞬、時間が止まったような気がした。

 声をかけてきたのは、凪紗の方だった。

 中学の三年間、僕は一度も自分から彼女に声をかけられなかった。廊下ですれ違っても、図書室で顔を合わせても、いつも先に動くのは彼女だった。消しゴムを拾ってくれたのも、「また隣になれるといいね」と言ってくれたのも、「ゆーくん」と呼んでいたのも、全部彼女だった。

 今もそうだ。

 高校が変わって、制服が変わって、会う機会も減って、それでも先に動いたのは彼女だった。

「お……おう」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど間が抜けていた。

 凪紗は少しだけ笑った。中学の時と変わらない、あの静かな笑顔。

「元気?」

「うん……」

 それだけだった。

 凪紗の視線が、僕の顔の上で少しだけ揺れた。何かを待っているような、あるいは何かを諦めようとしているような、微妙な揺れ。

 何か言わなければ、と思った。もっと別の言葉が、いくらでもあるはずだった。久しぶりだな、とか。高校どう?とか。シンクロまだやってる?とか。そんな何でもない言葉でよかった。

 でも、喉が動かなかった。

 中学の時と何も変わらない。消しゴムを落とした時も、図書室の書庫で隣に立った時も、終業式の廊下で「また隣になれるといいね」と言われた時も、僕はいつも肝心な瞬間に言葉を飲み込んできた。高校が変わって、二年の時間が経っても、この臆病さだけは微塵も変わっていなかった。

 凪紗の後ろに立っていた友人の一人が、スマホを見ながら何かを言った。凪紗が振り返り、短く答える。そしてまた僕を見た。

 その瞳に、何かが揺れていた。

 言いたいことが、あるのかもしれない。あるいは、僕が何か言ってくれるのを、待っているのかもしれない。

 頼むから、もう少し待ってくれ。

 心の中で、そう思った。でも声にはならなかった。

「じゃあ、またね」

 凪紗が先に言った。

 僕は「ああ」とだけ答えた。

 彼女は友人たちのところへ戻り、人混みの中に消えていった。その背中が見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。

 リュックの重さが、さっきより増した気がした。

 参考書の重さじゃない。もっと別の、どこにも降ろせない重さだった。
 帰り道、自転車を漕ぎながら、僕はずっと「またね」という言葉を反芻していた。

 またね。

 その言葉に、どんな意味があったのか。ただの社交辞令だったのか。それとも、本当にまた会いたいと思ってくれていたのか。

 考えても仕方ないことだと、わかっていた。

 それでも、あの一瞬の笑顔が、秋の光の中に焼き付いて離れなかった。あの笑顔に、もう一言だけ返せていたら。もう一歩だけ踏み込めていたら。

 声をかけてきたのは、彼女だった。

 中学の三年間も、高校になっても、いつも先に動くのは彼女だった。それなのに僕は、また「ああ」とだけ答えて、彼女を人混みの中へ帰してしまった。

 坂道を下りながら、風が頬を叩く。

 僕はまた、消しゴムを落とした時と同じ後悔を、夜道の中で一人抱えていた。

 何も変わっていない。

 本当に、何も。


 高校三年。

 受験という現実が、僕の日常を塗り替えていった。

 朝から晩まで参考書と向き合い、模試の結果に一喜一憂し、志望校の過去問を解き続ける。塾が終わって家に帰る頃には、夜の十時を回っていることも珍しくなかった。そんな毎日の中で、凪紗のことを考える時間は、少しずつ削られていった。

 削られていった、というより、意識して削ろうとしていた。

 今は受験だけを考えなければいけない。凪紗のことは、忘れてしまおう。東京に出れば、新しい景色の中で、自然と忘れられるはずだ。そう自分に言い聞かせて、心の蓋を閉じた。

 でも、駅前で紺色のブレザーを見かけるたびに、蓋はあっさりと開いた。
 十一月。模試の帰り道。

 駅前の人混みを抜けようとした時、遠くに凪紗の姿が見えた気がした。友人たちと笑いながら、駅近くのカフェの前に立っていた。

 足が止まった。

 声をかけようとして、やめた。

 参考書を詰め込んだ重いリュックが、肩に食い込む。今日の模試の出来は悪くなかった。東京の志望校まで、あと少し点数が足りない。そんな現実が、頭の中にある。

 今の僕には、あの笑顔に近づく資格がない気がした。

 受験という大義名分で自分の臆病さを隠しながら、ただ遠くから眺めているだけの自分。東京に行けば何かが変わると信じながら、今この場所で何もできない自分。そんな自分が、あの笑顔の前に立つことを、どこかで恥じていた。

 東京に行こう。東京に行って、もっとましな自分になってから、もう一度向き合おう。

 そう言い聞かせながら、自転車にまたがり、ペダルを踏み込んだ。

 カフェの前から、凪紗の笑い声が風に乗って聞こえた気がした。

 振り返らなかった。

 後で何度も、振り返ればよかったと思った。でもあの瞬間の僕には、その一歩が踏み出せなかった。

 それが、高校三年間で凪紗の姿を見た、最後だった。

 冬が来て、受験が終わった。

 合格発表の日、志望校の掲示板の前で自分の番号を見つけた瞬間、安堵よりも先に、ああ東京に行ける、という思いが浮かんだ。それと同時に、もうこの街にいる理由がなくなった、という感覚が、静かに胸の奥に広がっていった。

 東京に行けば、何かが変わる。

 もっとましな自分になれる。

 その根拠のない確信だけを胸に、僕はこの街での最後の冬を過ごした。 


 三月。高校の卒業式。

 体育館に整列しながら、僕は中学の卒業式のことを思い出していた。

 あの日、凪紗が来てくれるかもしれないという淡い期待を抱えながら、校庭の隅で人波を眺めていた。結局来なかった。あの時の、春の風が制服の裾を揺らす感覚だけが、今もはっきりと残っている。

 今日は違う。凪紗はここにいない。それはわかっていた。でも、だからこそ、何かが清算されるような、奇妙な寂しさがあった。

 式が終わり、校庭に出ると、三年間を共にしたクラスメイトたちが、泣いたり笑ったり、写真を撮り合ったりしていた。その輪の中に、自分もいた。それなりに充実した三年間だったと思う。勉強を頑張った。新しい友人もできた。でも何かが足りないまま終わっていくような感覚が、ずっと胸の奥にあった。

 その「何か」が何なのか、自分では一番よくわかっていた。

 凪紗に、もう一度会いたかった。

 ただそれだけのことが、高校の三年間、ずっとできなかった。駅前で見かけるたびに逃げて、塾の帰り道で目を逸らして、声をかけてもらっても「ああ」としか答えられなかった。

 この臆病さは、東京に行っても変わらないかもしれない。

 その不安が、卒業式の喧騒の中で、静かに頭をもたげていた。

 夕方、荷物を持って校舎を出る時、僕は一度だけ振り返った。

 三年間通った校舎が、夕陽に染まって静かに立っていた。

 窓ガラスに反射するオレンジ色の光が、どこか懐かしくて、どこか残酷だった。あの窓の向こうで過ごした三年間。勉強して、悩んで、凪紗のことを考えて、また勉強した。それだけの三年間だったような気がした。

 この街を出る。

 東京へ行く。

 それは、ずっと決めていたことだった。でも今この瞬間、その決意の裏側に、もう一つの気持ちが貼りついていることに気づいた。

 凪紗が、東京に来ることはないだろうか。

 根拠なんてなかった。ただ、凪沙のことだから、きっとどこかで自分の道を見つけて、自分の足で歩いていくだろうという確信だけがあった。その道が、東京に続いていたら。

 そんな都合のいい夢を、僕はまだ捨てられずにいた。

 自転車にまたがり、最後の坂道を下りながら、僕は春の風を全身で受けた。

 この街の匂い。この坂道の傾き。毎日当たり前のように感じてきたものが、今日だけは鮮烈に、皮膚の奥まで染み込んでくるようだった。

 坂道の下で、信号が青に変わった。

 東京へ行こう。

 あの街で、もう一度、自分がどこまでいけるか試してみよう。

 そして、もしも。

 もしも東京のどこかで、あの褐色の肌と、あの静かな笑顔に出会えたなら。
 今度こそ、逃げない。

 僕はペダルを力強く踏み込み、春の光の中へと飛び出した。 


 四月。

 新しい制服は、思っていたより軽かった。

  市内では三番目、公立の中では二番目の高校。校門をくぐった朝、私は人波の中で、知っている顔を探していた。遥は市内の私立で、ゆーくんとも私とも違う高校だった。お互い受験が終わってからも連絡は取り合っていたけれど、毎日顔を合わせることはなくなった。

 そして、ゆーくんは。

 答えはわかっていた。市内で一番の公立高校。ゆーくんなら、そこに行くはずだ。合格発表の日、掲示板の前で自分の番号を見つけながら、私は隣の学校の掲示板を思い浮かべていた。ゆーくんも、今頃同じように、自分の番号を探しているだろうか。

 新しいクラスの教室に入り、席に座る。知らない顔ばかりだった。

 窓の外には、桜が散り始めていた。

 中学の終わりに、私は卒業式でゆーくんに第二ボタンをもらいに行こうとした。でも野原さんに先を越されて、動けなくなった。あの時の、足が地面に縫い付けられたような感覚を、私はまだ覚えていた。

 あの時、一歩踏み出せていたら。

 でも、踏み出せなかった。それが私たちの三年間の、正直な結末だった。
 高校が変わって、制服が変わって、これからは街で会うことさえ少なくなるだろう。それはわかっていた。でも、同じ街にいる限り、どこかでまた会えるかもしれない。その根拠のない期待だけが、新しい教室の空気を、少しだけ温かくしていた。

 新しいクラスメイトとの会話は、それなりに弾んだ。シンクロの話をすると、みんな興味を持ってくれた。水の中で演技をするということが、陸の上に生きる人間には、どこか別世界の話のように聞こえるらしかった。
 でも放課後、一人で帰り道を歩いていると、胸の中にぽっかりと空いた穴が、いつも同じ場所を吹き抜けていくような感覚があった。

 中学の時は、遥がいた。賑やかで、鋭くて、私の心の中を土足で踏み荒らしてくるような子だったけれど、それでも隣にいてくれた。今は、その遥もいない。

 誰もいない帰り道を歩きながら、私はゆーくんのことを考えていた。

 今頃、どんな高校生活を送っているんだろう。新しい友達ができて、楽しくやっているだろうか。私のことなんて、もうとっくに忘れているだろうか。

 そう思う一方で、あの臆病な子が、そう簡単に変われるはずがないとも思っていた。

 消しゴムを落とすのに命を削るような子が。

 「うん」しか言えなかった子が。

 そう簡単には、変われない。

 私はそんな確信を、胸の奥にそっとしまいながら、新しい季節を歩き始めた。 


 夏が来て、また去った。

 街でゆーくんを見かけることが、月に一度か二度あった。

 駅前の商店街。塾の帰り道。駅近くのショッピングモールの前。

 そのたびに、私の心臓は中学の時と同じように跳ねた。でも、足は動かなかった。

 一度、塾からの帰り道、向こうから歩いてくるゆーくんと目が合いそうになった。

 次の瞬間、ゆーくんはスマホを取り出して、画面を見るふりをした。

 私の足が、止まった。

 気づいていたのに、逃げた。

 すれ違いざまに、私は前を向いたまま歩き続けた。でも胸の奥が、じりじりと焼けるような感覚があった。

 怒っているわけじゃなかった。ただ、悲しかった。

 中学の三年間、私はずっと待っていた。消しゴムを拾い続けて、視線を送り続けて、「また隣になれるといいね」と勇気を振り絞って、最後は第二ボタンをもらいに行こうとした。全部、ゆーくんに気づいてほしかったからだ。

 ゆーくんはまだ避けている。

 高校が変わっても、制服が変わっても、街ですれ違っても、まだ避けている。

 あの全校集会で、私はゆーくんに気づいてほしくて、わざと河村くんに視線を向けた。焦ってくれると思っていた。でも結果は最悪だった。ゆーくんは焦るどころか、私を避けるようになった。

 自業自得だと思う。あんな幼稚な策を弄した私が悪かった。それはわかっている。でも、あの頃の私には、それしか思いつかなかった。

 そして河村くんとの噂まで広まってしまった。

 ゆーくんに「違う」と言いたかった。噂は噂で、河村くんとは何もなかった。でも、それをどうやって伝えればいいのか、わからなかった。言い訳みたいで、みっともない気がして。

 だから私はただ、また待ち続けるしかなかった。

 ある夏の夕方、駅前のモールから出てきたところで、ゆーくんが一人で歩いているのを見かけた。参考書を詰め込んだリュックを背負って、少し疲れた顔をしていた。

 声をかけようとして、足が止まった。

 中学の時から、先に動くのはいつも私だった。消しゴムを拾いに行ったのも、「また隣になれるといいね」と言ったのも、全部私だった。

 また私が先に声をかけて、ゆーくんは「うん」とだけ答えて、それで終わりなのか。それが怖い。

 その一瞬の迷いが、私の足を止めた。

 ゆーくんは私に気づかないまま、人混みの中へ消えていった。

 私はその背中を見送りながら、胸の奥でずっと抱えてきた問いを、また繰り返していた。

 ゆーくんは、私のことを、どう思っているんだろう。

 秋になると、ゆーくんを見かける頻度が減った。受験勉強で忙しいのかもしれない。私も部活と勉強の両立で、街に出る時間が減っていた。

 あの紺色じゃない、黒い学ランを見かけなくなると、駅前の景色が少しだけ褪せて見えた。

 シンクロの練習は、高校でも続けていた。水の中に入ると、陸の上の煩わしいことが、全部遠ざかる気がした。息を止めて、水の冷たさに全身を委ねる。その瞬間だけは、ゆーくんのことも、すれ違い続ける日々のことも、忘れられた。

 でも水から上がると、また同じ場所に戻ってくる。

 あの空白は、水の中でも埋まらなかった。

10


 高校二年の秋。

 その日、私は友人たちと駅前を歩いていた。塾の帰りに少し寄り道をして、駅近くのショッピングモールで時間を潰していた帰り道だった。

 前から歩いてくる人波の中に、見覚えのある背中を見つけた。

 黒い学ラン。真っ直ぐな背筋。リュックを背負った、あの歩き方。

 心臓が、跳ねた。

 気づいたら、声が出ていた。

「瀬戸!」

 我ながら、大きな声だった。友人たちが驚いたように振り返った。でも、もう止められなかった。

 ゆーくんが足を止めて、振り返った。

 一瞬、時間が止まったような気がした。

 秋の柔らかい光の中で、ゆーくんの顔が、中学の時よりずっと大人びて見えた。でも、その目の奥にある表情は、あの頃と何も変わっていなかった。あの、困ったように固まる、不器用な顔。

「お……おう」

 私は思わず、笑いそうになった。

 三年ぶりくらいに、ちゃんと顔を合わせて話しているのに、その第一声が「お……おう」だった。中学の時から、何も変わっていない。本当に、何も。

「元気?」

「うん……」

 それだけだった。

 私はゆーくんの顔を見ながら、もう少し何か言ってほしいと思っていた。久しぶりだな、とか。高校どうだ、とか。そんな何でもない言葉でよかった。ただ、もう少しだけ、この時間を引き伸ばしたかった。

 でも、ゆーくんは黙ったままだった。

 その沈黙の中に、何かが揺れているのは見えた。言いたいことがある、でも言えない、あの不器用な葛藤。中学の時から、ずっと見てきたあの顔。

 私は、その葛藤をまた待とうとした。

 でも、待つ資格が自分にあるのか、わからなかった。

 あの全校集会で、私が余計なことをしなければ。河村くんに視線を向けるなんて幼稚な真似をしなければ、ゆーくんはまだ私を見てくれていたかもしれない。避けられるようになったのは、自分のせいだ。それはわかっていた。
 胸の奥が、静かに痛かった。

 友人の一人が「そろそろ行かない?」とスマホを見ながら言った。私は「うん、行こう」と答えて、またゆーくんを見た。

 その瞳に、もう少し何かが残っていた。

 言って、と思った。

 何でもいいから、何か言って。

 でも、ゆーくんは黙ったままだった。

「じゃあ、またね」

 私が先に言った。

 これ以上引き止めたら、迷惑かもしれない。そう思ったら、自然と口から出ていた。

「ああ」

 ゆーくんの声が、背中に届いた。

 友人たちのところへ戻りながら、私は笑顔を作った。友人が「知り合い?」と聞いてきた。「中学の時の同じクラスの子」と答えた。それだけだった。

 帰り道、私は一人で歩きながら、さっきの「またね」を頭の中で反芻していた。

 「じゃあ、またね」

 またね、なんて言葉じゃなかった。本当は、もっと別のことを言いたかった。

 誤解してるよ、と言いたかった。河村くんとは何もない、と言いたかった。あの全校集会で視線をずらしたのは、あなたに気づいてほしかったからだ、と言いたかった。

 好きだ、と言いたかった。

 でも何も言えなくて、出てきたのは「またね」だけだった。

 消しゴムを拾った日から、ずっとこうだった。伝えたいことは山ほどあるのに、いつも肝心な言葉だけが、喉の奥で固まってしまう。

 駅前の人混みに紛れながら、私はコートのポケットの中で、ぎゅっと手を握りしめた。

 伝えられないまま、すれ違い続けた。自分のせいで誤解を招いて、それでもまだ好きでいる。

 馬鹿みたいだと思う。

 それでも、やめられなかった。

11


 高校三年。

 受験という現実が、私の日常を塗り替えていった。

 シンクロの練習も、この春に引退した。水の中にいる間だけは、ゆーくんのことも、すれ違い続ける日々のことも、忘れられた。でも受験を前にして、その逃げ場さえなくなった。

 ゆーくんが東京の大学を目指していると、遥から聞いたのは、もう三年前の話だ。今頃必死に勉強しているはずだ。あの真面目な子のことだから、きっとそうしているだろう。受験が終わったら、本当に東京へ行ってしまうんだ。

 十一月。私も志望校が固まってきた頃。

 駅前でゆーくんの姿を見かけた。模試帰りらしく、重そうなリュックを背負って、少し疲れた顔をしていた。

 声をかけようとして、やめた。

 あの二年生の秋、「またね」と言って別れてから、私たちはまともに話していない。街ですれ違っても、お互いに目を逸らすようになっていた。あの時、もう少し何か言えていたら、と思うことが何度もあった。でも今更どうすることもできなかった。

 ゆーくんは、私に気づかないまま、人混みの中へ消えていった。

 私はその背中を見送りながら、胸の奥で静かに何かが決まっていくのを感じていた。

 このままじゃ、終わってしまう。

 ゆーくんが東京へ行くのは、ずっとわかっていた。でも受験が終わって、それが現実として目の前に迫ってきた時、改めて胸が締め付けられた。わかっていても、実際にいなくなるとなると、話が違った。

 このまま終わるのは、嫌だった。

 だから私も東京へ行く。それだけは、ずっと前から決めていた。
 冬が来て、受験が終わった。

 合格発表の日、私は自分の番号を見つけながら、ゆーくんがどこに受かったのかを考えていた。東京の大学。きっと受かっているはずだ。ゆーくんなら。
 嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちが胸の中に広がっていた。
 

12


 三月。

 ゆーくんが東京へ行く、という話を聞いたのは、遥からだった。
 春休みに入ってすぐの頃だった。

 私は自分の部屋で、その話を聞きながら、窓の外を眺めていた。春の柔らかい光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 行ってしまうんだ、と思った。

 この街から、いなくなってしまうんだ。

 悲しいとか、寂しいとか、そういう言葉では収まりきらない何かが、胸の奥でゆっくりと広がっていった。怒りでも、後悔でもなかった。ただ、取り返しのつかない何かが、静かに幕を下ろしていくような感覚だった。

 あの消しゴムを拾った日から、六年が経っていた。

 六年間、ずっと待ち続けた。消しゴムを拾い続けて、視線を送り続けて、「また隣になれるといいね」と言って、第二ボタンをもらいに行こうとして、高校になっても声をかけ続けた。全部、ゆーくんに気づいてほしかったからだ。

 ゆーくんは、最後まで動かなかった。

 私が間違っていたのかもしれない。あの全校集会で余計なことをしなければよかった。自分で誤解を招いておいて、それでもゆーくんに気づいてほしいと思い続けていた。

 好きだという言葉を、一度も声に出せなかった。それだけのことが、六年間できなかった。

 だから、私たちはずっとすれ違い続けたのかもしれない。

 窓の外で、春の風が木の枝を揺らしていた。

 ゆーくんが東京の大学に行きたいと言っていると、遥から聞いたのは中学三年の時だった。その時から、私の中で何かが動き始めていた。

 人に何かを伝える仕事がしたい、と思い始めたのは高校二年の頃だった。シンクロで水の中から観客に何かを届けようとしていたあの感覚を、別の形で続けたかった。東京の方が選択肢が広いことも事実だった。でも本当のことを言えば、東京へ行けば、またゆーくんに会えるかもしれない。その根拠のない期待が、私の背中を押していた。

 馬鹿みたいだと思う。

 それでも、やめられなかった。

 私はしばらく窓の外を眺めてから、静かに立ち上がった。春の光の中で、そっと窓を閉めた。

第5章 再会へ続く


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