『僕らの未熟な蒼』第2章
第2章 視線の射程
1
あの日、あの万年筆を拾い上げた瞬間から、僕の心には底の見えない巨大な空白が口を開けていた。
奈緒の誕生日から二ヶ月。暦が四月を指し、街に春の埃っぽい熱が混じり始めても、僕の意識はあの銀座のレストランでの出来事をきっかけに、十三年前の景色の中へと引きずり戻されたままだった。最高級のワインが喉を滑り、奈緒が幸せそうに笑う現在の輪郭が、砂のように崩れて消えていく。僕の心は、あの一瞬から一歩も動けずに、凪紗のいたあの頃の残像だけを追い続けていた。
「……ねえ悠真。意識、どこかに飛んでるよ」
週末の夜、リビングでワイングラスを片手に奈緒がこちらを覗き込んできた。
「え……?」
「ほら、またそれ。返事、三秒遅い。最近の悠真、ずっと上の空だもん」
彼女はいたずらっぽく笑いながら、僕の膝の上に軽やかに体重を預けてきた。柔らかなルームウェア越しに伝わる彼女の体温。以前の僕なら、その温もりを慈しみ、気の利いた言葉で彼女を笑わせる余裕があったはずだ。
けれど今の僕は、彼女の首に腕を回しながら、自分の指先がまるで他人の体の一部であるかのような錯覚に陥っていた。
奈緒は僕の首筋に顔を埋めると、吐息が触れるほどの距離で、耳元に少しだけ声を潜める。
「……ねえ。もしかして、何か大きな決心でもしてる? 結婚とか。そんなにガチガチにならなくても、私はいつでもいいのに」
期待を隠しきれない、春の陽だまりのような奈緒の瞳。その真っ直ぐな信頼が、今の僕には何よりも残酷な刃となって突き刺さる。彼女は、僕の心ここにあらずな沈黙を、「プロポーズ前の緊張」だと、あまりにも幸せな方向へ誤解しているようだ。
僕は彼女の腰を抱き寄せながら、引きつったような笑みを返すのが精一杯だった。彼女を安心させるための嘘を重ねようとしても、喉の奥が砂を噛んだように乾いて、言葉が出てこない。
「ごめん。仕事でちょっとバタバタしててさ」
「もう、働きすぎ。いいよ、無理にしゃべらなくても」
奈緒は僕の頬を軽くつねると、まるで子供をあやすような柔らかい笑顔を浮かべた。
「その代わり、美味しいコーヒー淹れてあげる。飲み終わる頃には、ちゃんと相手してね」
奈緒は上機嫌にキッチンへ向かって鼻歌を歌い始める。
幸せな未来を夢見る彼女の無垢な期待。それは、今の僕にはあまりに眩しく、そして鋭い毒のように胸の奥深くまで浸食していった。キッチンから漂う豆の香りでさえ、僕にとっては「現実」という名の檻の匂いにしか感じられなかった。
仕事においても、僕は自分自身をまともに扱えなくなりつつあった。
「おい悠真! 聞いてるのか!」
会議室の静寂を切り裂く上司の怒号に、僕は弾かれたように顔を上げた。
プロジェクターに映し出されたプロジェクトの進捗表や、無機質なグラフの羅列が、意味を持たないノイズとなって視界を滑っていく。一秒前まで自分が何を説明しようとしていたのかさえ、深い霧の向こうに消えていた。
「……失礼しました。もう一度、お願いします」
周囲の冷ややかな視線が、無数の針となって肌を刺す。今まで何事もなく過ぎ去っていた毎日が、少しずつ、けれど確実に剥がれ落ちていく音が聞こえるようだった。謝罪の言葉さえも、自分の内側から出たものではなく、録音された音声を無機質に再生しているような感覚。
奈緒との安定した関係も、積み上げてきた信頼も、今の僕にはどこか遠い異国の他人の物語のようだった。波風の立たない平穏な日常をなぞればなぞるほど、内側の空虚は底なしに深まっていく。僕は、精巧に作られた「瀬戸悠真」という器の中に閉じ込められた、名もなき傍観者に過ぎなかった。
この空っぽの器を埋められるのは、もはや現在の何物でもない。その確信だけが、僕の体温をじりじりと奪っていった。
2
変化は、そんな麻痺した日常の裂け目から、抗いようのない力で僕におしよせてきた。
夕暮れのオフィス街。退勤を急ぐ人波は、一様に暗く沈んだ色のスーツやコートに身を包み、アスファルトの色に溶け込むように流れている。
その淀んだ色彩の群れの中で、一点、西日を強く跳ね返して発光する色彩が、僕の死んだ視界を射抜いた。
薄い黄色のスプリングコート。
都会の煤けたトーンを拒絶するような、鮮やかな黄色。その襟元から、陽の光をたっぷりと吸い込んだような、見覚えのある褐色の肌が覗いている。
(……凪紗?)
脳が理性を追い越して叫びを上げた。
周囲の誰とも違う、凛として真っ直ぐな背筋。そして、雑踏の中でも決して軸のぶれることのない、あの見覚えのある綺麗な歩き方。
僕は、無意識に足を踏み出していた。
「すみません」
「ちょっと、通して」
自分でも驚くほど無作法に人混みをかき分け、その黄色の背中を死に物狂いで追いかける。背後で誰かが上げた小さな悲鳴も、肩がぶつかった衝撃も、今の僕には遠い世界の出来事のようだった。
あと、一メートル。 伸ばしかけた指先が、その薄い黄色の肩に触れそうになった、その刹那。
ふわりと鼻腔をくすぐった、あまりに素朴な石鹸の香り。
心臓が締め付けられるかのように苦しくなった。
そして全身の血が逆流するような衝撃に、僕の足は地面に縫い付けられたように止まる。
その香りに思考を奪われた一瞬の隙に、追いかけていたはずの黄色い背中が、まるで陽炎のように人混みの奥へと滲み、見失ってしまった。
「待って……」
僕の掠れた声は、雑踏の騒音にかき消された。
二十六歳という現在の僕の皮が、内側から突き破られるようにして剥がれ落ちていく。
一度こじ開けられた記憶の蓋は、もう二度と閉じることはない。
ビル風に運ばれる空気は、今やはっきりと、あの頃の校庭の匂いへと変貌していた。
目の前を通るサラリーマンたちの足音が、いつの間にか、廊下を駆ける上履きの音になっていた。
3
四月。校庭の桜は、去り際を心得たように、春の終わりの湿った風に吹かれて散り始めていた。
アスファルトにへばりついたピンク色の花弁は、新学期の浮き足立った空気に踏み荒らされ、どこか残酷な対比を見せている。
昇降口に張り出された新しいクラス名簿の前には、生徒たちの狂乱に近い歓声と悲鳴が渦巻いていた。冬の間に少しだけ伸びた背中を押し合い、誰もが自分の名前と、「誰か」の名前を必死に探している。
僕もまた、その熱狂の端っこで、冷たくなった指先を丸めていた。
中学二年生。
もし、神様という存在がいて、あのいじらしい「僕の初恋」を見ていてくれたのなら。あの放課後の書庫で交わした「背が高いね」という静かな会話に免じてくれるのなら。
願いはただ一つだった。隣の席とは言わない。ただ、同じ教室の、同じ空気を吸える場所にいたい。
しかし僕は、自分の血の気が引いていく音を聞いた。
一組、瀬戸悠真。
そこから、祈るような心地で視線を右へとずらしていく。
二組、三組……。
三組、佐伯凪紗。
その瞬間、周囲の喧騒がふっと遠ざかり、肺の中の空気がすべて引き抜かれたような感覚に陥った。
「一組」と「三組」。
たった数センチ、横に離れただけの文字。
けれどそれは、僕から「世界のすべて」を奪い去る、残酷な境界線に見えた。
さらに視線を走らせ、ようやく見つけた親友の河村隼人の名は、校舎の反対側にある遠い「五組」の欄にあった。
「……そんなもんだよな」
呟いた声は、自分の耳にさえ届かないほど頼りなかった。
もう、わざと消しゴムを落として、彼女が拾ってくれるのを机の下で待つこともできない。
あの狭い机の隙間で、互いの境界線が曖昧になるような、あの共犯者のような時間は二度と訪れない。
「一組」の札がかかった教室へ向かう廊下は、僕には途方もなく長く、冷え切った道に思えた。同じクラスに彼女がいないというだけで、自分の存在意義すら薄れてしまうのではないかと、心細さがこみ上げてきた。
新しく割り振られた一組の教室は、一年生の時よりも少しだけ日当たりが悪く、長く閉じ込められていたような、埃っぽい空気の淀みが喉に張り付いた。
僕は出席番号順に窓際の一番後ろの席に座り、廊下の先にある「三組」の喧騒を想像した。
周囲では、春休み明けの再会を喜ぶクラスメイトたちが、僕の肩を叩いたり、名前を呼んだりして通り過ぎていく。僕はそれに適当な笑顔を返す。ただ、誰が何を言って通り過ぎたのか、上の空だった僕は覚えていない。もちろん、担任の話も、配られた教科書すらどうでもよかった。
視界の端に映るはずの褐色の肌も、机を並べた時に伝わってきた微かな体温も、ここにはない。
すべてが予定通りに、円滑に動き出したはずの新しい日常が、僕には剥製のように死んだものに見えた。凪紗という唯一の拠り所を奪われたこの場所で、僕はただ、感情の動かない置物になってしまったような気がした。
僕は窓の外を流れる雲を眺めながら、たった数十メートル先にいるはずの彼女の気配を探していた。二つの向こうの教室、三組で、彼女は今、誰と机を並べているんだろう。
胸を躍らせるはずのチャイムの音が、今はただ、僕と彼女の間に引かれた境界線を上書きする、無機質な宣告のように校舎へ響き渡った。
4
五月。校庭の隅に置かれた古びたベンチを、欅の若葉が鮮やかな黄緑色に染め上げていた。
風が吹くたび、その若葉たちは騒がしく、それでいて涼しげな音を立てて、僕の焦りを見透かすように揺れている。冬の終わりの重たい湿り気はいつの間にか消え、空気は乾いた光をたっぷりと含んで、どこまでも透き通っていた。
けれど、その瑞々しい五月の光も、僕のいる一組の教室までは届かなかった。
休み時間のチャイムが鳴るたび、廊下を渡る乾いた風に乗り、三組の方から誰かの笑い声が届く。その中に、あの鈴を転がしたような凪紗の声が混じっていないか。僕は、目の前で話しかけてくるクラスメイトに生返事で頷きながら、耳だけを廊下の向こうへと研ぎ澄ませていた。
そんなある日の、全校集会。
まだ夏には早いというのに、体育館の中には数百人の生徒たちの体温と、制服のウールが吸い込んだ湿気で、息が詰まるほどに濁っていた。 その熱気から弾き飛ばされたかのように、僕の胸の奥には逃げ場のない冷たい空洞が広がり、呼吸を浅くさせていく。
高い位置にある窓からは、鋭い初夏の陽光が何本もの光の柱となって差し込み、舞い上がる埃を金色の粒に変えている。その窓の向こうには、どこまでも深い青空と、生命力に溢れた緑の世界が広がっているというのに、僕たちはこの薄暗い、ワックスと汗の匂いが混じり合う空間に閉じ込められていた。
壇上に立つ校長が、マイク越しにこもった声で、退屈な教訓を並べ立てている。
僕は、自分の整列順など無視して、前方に並ぶ三組の列を視線でなぞった。
……いた。
人混みの隙間に、ポニーテールにまとめた彼女のうなじが見えた。
陽光の柱を浴びて、彼女の小麦色の肌が、微かな湿り気を帯びてしっとりと光を反射している。その滑らかなうなじの輝きを見ているだけで、彼女の体温までもが伝わってくるようだった。
(凪紗)
心の中で、あの日階段で聞いた「ゆーくん」という呼び声を重ねてみる。
その瞬間、まるでその呼びかけが物理的な糸となって彼女を引いたかのように、凪紗がふっと、肩越しに振り返った。
体育館のざわめきが、一瞬で消えた。
埃の舞う金色の光のなかで、僕たちの視線がまっすぐに繋がる。
彼女は、はっとしたように目を見開き、少しだけ頬を染めた。そして、あの図書室で見せたような、僕にだけ向ける特別に静かな、けれど深い慈しみを含んだ笑顔で、小さく微笑んだ。
ドクン、と心臓が熱を帯びて跳ねた。
周囲の生徒たちの頭越しに交わされる、わずか数秒の沈黙の会話。
その瞬間、体育館の不快な熱気も、退屈な校長の話も、僕たちを隔てる教室の壁さえも、すべてがどうでもよくなった。
「……瀬戸、何ニヤついてんだよ。暑さでやられたか?」
隣クラスの小林が、怪訝そうな顔で僕を小突いた。僕は慌てて視線を演壇へと戻し、激しく打つ鼓動を鎮めようと深く息を吐いた。
彼女が僕を「ゆーくん」と呼び、僕が彼女を「凪紗」と想い、視線だけで互いの生存を確認し合う、この空間。
五月の風が、体育館の入り口から吹き込み、僕の頬を撫でていった。
言葉なんていらない。この一瞬があるからこそ、僕たちの想いは純化され、揺るぎないものになっていくのだと。そんな、傲慢なまでの「確信」を、僕は初夏の光とともに深く吸い込んでしまった。
それからの全校集会が、僕にとって特別な時間になった。
5
六月。梅雨の重たい湿り気が、校舎のコンクリートにじっとりと染み付いていた。
放課後の教室は、ワックスの匂いと湿った埃の匂いが混ざり合い、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた。窓の外では、細い雨が音もなく降り続き、校庭の隅に置かれたサッカーゴールを暗い灰色に塗り潰している。
僕は自分の机に座り、数時間もの間、健一が部活動から戻ってくるのを一人で待っていた。
小学校の頃から、僕と健一は同じチームでサッカーをしていた。中学に入っても、その延長で迷わずサッカー部に入った。けれど、その春、入部してすぐのことだった。練習中の接触で膝の靭帯をやり、僕の選手生命は、始まったばかりの季節とともに呆気なく終わった。
一年生の時、凪紗と図書委員をしていたあの平穏な日々、僕はすでに「走れなくなった自分」を隠し通していた。普通に歩く分には違和感はないし、体育の授業だって器用に立ち回れば、周囲に悟られることもない。
だからこそ、彼女の前では最後までそのことを口にしなかった。彼女が僕に向けてくれる、あの迷いのない信頼を失いたくなかったのだ。
全力で地面を蹴ることができないという、取り返しのつかない「欠落」を抱えた自分。それを打ち明けることで、彼女の中にある「僕という存在の形」が崩れてしまうのが、何よりも怖かった。
自分の内側にだけ、誰にも見えない空白を抱えたまま、僕は彼女とたった一つの消しゴムで世界を共有し、静かに言葉を交わしていた。
二年生になり、僕は北校舎の隅にある美術部に籍だけを置いた。サッカー部で常に注目の中心にいた頃とは正反対の、日当たりの悪い、絵の具の匂いだけが充満した部屋。僕はそこにも馴染めず、結局は放課後、こうして誰もいない教室で時間を潰すだけの幽霊部員になり下がっていた。
終礼から一時間が過ぎ、二時間が過ぎる。
廊下の喧騒が消え、吹奏楽部の練習音が雨の音に塗り替えられていく。
かつて僕もいたあの場所で、健一がボールを蹴る音が聞こえるたび、膝の奥がじりじりと熱を帯びるような気がした。期待は少しずつ、冷めた焦燥感へと変わっていた。それでも僕は動かなかった。ここで僕が帰ってしまえば、サッカーを奪われた僕と、今も変わらずフィールドを駆け回っている健一とを繋ぎ止めている、この「約束」という名の細い糸さえも切れてしまうような気がしたのだ。
校舎が完全に夜の気配に支配された頃。
静まり返った教室に、不意に、スニーカーが床を軽く叩く音が響いた。
顔を上げると、ドアのところに女子が一人立っていた。二組の成瀬遥だった。少し短すぎるスカートに、指定外の派手なカーディガン。
「……瀬戸くん、だよね。こんな時間まで、何してるの?」
その問いには、深い興味も悪意もなかった。ただ、暗い教室に一人で座り続けている僕という存在が、風景として少しだけ奇妙だった。それだけのことのようだった。
「……健一を待ってるんだ」
僕が短く答えると、成瀬は「ふーん」と、感情の読めない声を漏らした。
「健一なら、まだグラウンドで片付けしてたよ。……物好きだね。自分の時間、もっと大事にすればいいのに」
彼女はそれ以上何も言わず、興味が失せたように「じゃあねー」と手を軽く振って、そのまま廊下の闇へと消えていった。
それからさらに三十分。
ようやく、廊下から複数の騒がしい足音が近づいてきた。ドアが勢いよく開き、健一が入ってきた。その後ろには、同じサッカー部の二組の部員たちも一緒だった。
「おーゆーくん、悪い。部活長引いちゃってさ」
健一は自分の机へ向かうと、泥のついたエナメルバッグをドサリと置き、中身を整理し始めた。
「……健一、そろそろ行けるか?」
三時間半、一度も声を出していなかったせいで、僕の言葉は喉に張り付くように低く響いた。健一は手を止め、少しだけ申し訳なさそうに、短く刈り込んだ茶髪の頭を掻いた。
「……悪い。今日さ、部活のあとにみんなでゲーセン行くことになったわ。今、二組の女子とも合流することに決まってさ。本屋、また明日でもいいか?」
健一にとっては、よくある「予定の変更」だった。三時間半、ただ彼を待ち続けた僕の時間の重さなんて、彼は微塵も想像していないようだった。
けれど、その時、僕の中で何かが激しく音を立てて壊れた。
自分が大切に、頑固なまでに守ろうとしていた三時間半が、誰にでも配る安物のガムのように扱われたこと。そして、サッカーを奪われた僕の目の前で、それを続けている健一の、その場限りの軽さが、今の僕にはどうしても許せなかった。
「……約束だろ、健一。ずっと、待ってたんだぞ」
低く抑えた僕の声に、教室の空気が一瞬で凍りついた。二組の生徒たちが笑いを止め、怪訝そうに僕を見つめる。
「なんだよゆーくん、そんなマジな顔すんなって。たかが本屋だろ?」
健一が笑いながら、いつものように僕の肩を軽く叩いた。
その、馴れ馴れしい指先が僕の制服に触れた瞬間、胸の奥で煮えくり返っていた何かが、理性を焼き切った。
気づいたときには、右拳を振り抜いていた。
グシャッ、という鈍い音が、雨の音しかしない教室に響き渡った。
健一の体が、隣の机をなぎ倒しながら派手に床に転がった。椅子が床を滑り、ガシャンと大きな音を立てて倒れる。二組の生徒たちは「え……何……?」と絶句したまま、立ち尽くしていた。
床に突っ伏した健一は、切れた口元を手の甲で拭いながら、信じられないものを見るような目で僕を見上げた。
「……ゆーくん……お前……いきなり何だよ……」
僕の拳には、言葉にできないほど熱く、痺れるような衝撃が残っていた。僕は何も答えず、ただ自分の拳をじっと見つめていた。雨の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
6
その事件を境に、僕の周りから音と色が消えた。
翌日から、僕が廊下を歩くと、それまで雑談に興じていた連中が目に見えて声を潜め、視線を逸らした。サッカー部の中心にいた健一を殴った不気味な奴。それが、僕に貼られた新しいレッテルだった。
当たり障りのない優等生だった僕の居場所は、どこにもなくなった。
休み時間のたび、僕は逃げるように屋上の手前、踊り場の窓際に立っていた。そこからは三組の教室の窓が見える。凪紗が友達と笑っているのを、汚れたガラス越しに、遠い星を眺めるような気持ちで見ていた。
そんな歪な静寂を切り裂いたのは、あの六月の夕暮れと同じ、スニーカーが床をならす足音だった。
「あ、見つけた。ねえ、ゆーくん」
背後からかけられた声に、僕は肩を小さく震わせて振り返った。そこには二組の成瀬遥が立っていた。彼女は踊り場の手すりに背中を預け、指定外の派手なカーディガンの袖を指先で弄びながら、僕をじっと見つめていた。
「……何か、用?」
僕はあえて、成瀬が口にした「ゆーくん」という呼び名には触れなかった。健一やサッカー部の部員たちが、幼馴染の延長で僕をそう呼ぶのには慣れている。けれど、ろくに話したこともない成瀬に、当たり前のような顔でその名をなぞられるのは、どこかこそばゆく、奇妙な感覚だった。
女子に、それも学年でも目立つ存在の成瀬にそんな風に呼ばれるなんて。
誰からも距離を置かれている今の僕にとって、その呼び名は驚くほど耳に残り、戸惑いと同時に、不思議な熱を持って胸の奥に居座った。
「どうしてって、私、ずっとゆーくんのこと見てたからね~」
成瀬は面白がるように僕の隣まで歩み寄り、手すりに肘をついた。漂ってきたのは、あの時と同じ、甘っい香水の匂い。
肘が触れる・・・
「一年生のとき、覚えてない? 私が廊下で教科書を盛大にぶちまけたとき、みんなが笑いながら通り過ぎるなかで、ゆーくんだけが一緒に拾ってくれたんだよ。……あの日からかな。ずっと、目で追っちゃうようになったの~」
成瀬は僕の横顔を覗き込むようにして、照れ隠しのような、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「ゆーくんって、誰にでも優しいし、いつも完璧に振る舞ってるでしょ。でも、あの日、健一を殴ったとき……びっくりしたけど、不謹慎だけどね、嬉しくなっちゃったんだよね」
心臓の奥が、熱を帯びたまま静かに震えた。
僕が一年以上かけて必死に守り、凪紗にさえ見せなかった「不格好な僕」の欠片を、成瀬は否定することなく、むしろずっと待っていたかのように受け止めていた。
「これからさ、たまにこうやって話しかけてもいい? 暇つぶし相手くらいにはなるでしょ、ゆーくん」
その日から、成瀬遥は僕の孤独の中に、当然のような顔をして入り込んでくるようになった。
一軍のど真ん中にいるはずの彼女が、周囲の目を気にする様子もなく、放課後の図書室や屋上で僕に絡んでくる。彼女は僕の隣に座り、昨日見たテレビの話や、新しく買ったリップの色、最近お気に入りのコンビニスイーツの話など、本当にたわいもない話を、楽しそうに聞かせてくれた。
そして、もう一人が僕の机に現れた。同じクラスの、野原つむぎだ。
クラスのみんなが僕を腫れ物のように扱い、遠巻きに声を潜めるなか、彼女だけは迷いのない足取りで僕の隣に立った。
「瀬戸くん、これ。答えは合ってるんだけど、私のやり方だと計算が長くなりすぎて。……もっと、簡単にできないかな」
眼鏡の奥の瞳は、真っ直ぐに僕のノートだけを捉えていた。
周囲の冷ややかな視線も、ひそひそ話も、彼女の耳には届いていないようだった。
ただ、同じ水準で話ができる相手への、淡々とした期待だけを向けてくる。
それが、成瀬にかき乱されている僕には、何よりも逃げ場のない「義務」のように思えた。
ノートの余白にびっしりと書き込まれた彼女の几帳面な数字。その「正しさ」だけが並ぶ景色に、僕は自分の居場所を「優等生」と無理やり固定されているような、言いようのない息苦しさを感じていた。
そんなある日の放課後だった。
いつもの踊り場で、成瀬が
「ねえ、このリップどう?」
と僕の唇のすぐ近くまで顔を寄せてきた。彼女の甘い香水の匂いに酔いそうになりながら、僕は必死に
「いいと思う」
とだけ返した。
不意に、背筋に冷たい氷を押し当てられたような感覚が走り、僕は反射的に窓の外へと視線を投げた。
三組の教室の、あの窓だ。
……いた。
人混みの中から、凪紗がこちらをじっと見つめていた。
距離があるせいで、彼女がどんな表情をしているのかまでは分からない。けれど、あの全校集会で見せたような慈しみを含んだ微笑みなど、そこには欠片もないことだけは、肌が粟立つような感覚で理解できた。
彼女はほんの数秒、僕と成瀬の様子を見つめた後、誰かに呼ばれたかのように視線を外し、教室の奥へと消えていった。
心臓が嫌な音を立てて波打つ。
「ゆーくん、どうしたの?」
成瀬が首を傾げて覗き込んでくる。
その時、成瀬がふっと黙り込んだ。
僕が凝視していた窓の外、そして僕の顔。彼女はそれらを交互に、射抜くような強さで見つめる。
その瞳に宿った温度が、何を意味していたのか。そんなことを考える余裕なんて、僕にはなかった。
ただ、彼女が僕の「秘密」の断片を、ひどく無機質な、それでいて逃げ場を奪うような手つきで掴み取ったことだけは、肌の表面がひりつくような感覚で伝わってきた。
「……ふーん。そういうこと」
成瀬が小さく、誰に聞かせるでもないような声で呟いた。その口角がわずかに上がったのを見て、僕は背筋に冷たいものが走る。
成瀬だけには、今僕が抱えているこの泥沼のような感情を覗かれてはいけない。これ以上、成瀬の視線に晒されていたら、心臓の中身まで曝け出してしまいそうで怖かった。
「なんでもない」
僕は彼女の言葉を遮るように、短く突き放した。
その場を立ち去ろうと一歩踏み出した、その時だった。
「ねえ、ゆーくん」
背後から、低く、けれど逃げ場を塞ぐような成瀬の声が響く。
「三組の佐伯さん、だっけ。……綺麗な子だよね」
心臓が、跳ね上がった。
足が震え、その場に縫い止められる。
名前を。彼女は、凪紗の名前を口にした。今の今まで、ただ窓の外を眺めていただけの僕の視線が、正確に誰を捉えていたのか。成瀬は、完全に、そして残酷なほど完璧に理解していた。
「……何の話だよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど情けなく震えていた。
振り返らなくても分かった。成瀬は今、僕の剥き出しになった心を面白がるように、あの甘い笑みを浮かべて見つめているはずだ。
「いいよ。別に誰にも言わないから。……私と、ゆーくんだけの秘密」
彼女の「秘密」という言葉が、鋭い楔となって僕の心臓に打ち込まれる。
知られた。完全に知られてしまった。
隠し通してきた心臓の奥を土足で踏み荒らされたような、居たたまれない恥ずかしさがこみ上げてくる。
成瀬という「想定外の存在」と、無理やり秘密の鎖で繋がれてしまった後ろめたさ。その不快な熱のせいで、凪紗がいたはずのあの窓辺が、急激に色褪せ、手の届かないほど遠い場所へと遠のいていく。
「なんでもない」
僕はそれだけを返し、逃げるようにその場を後にした。
あの時、凪紗は何を思って僕を見ていたのだろう。
成瀬と身を寄せ合い、親しげに笑い合う僕たちの姿か。三組の窓から見えるのは、ただ無機質に切り取られた二人の影だけだ。
凪紗にだけは見られたくなかった。よりによって、成瀬にすべてを見透かされ、彼女と「秘密」を共有する形になってしまった今の自分を。
僕が必死に守りたかった凪紗との静かな境界線が、成瀬の派手なカーディガンの色に侵食され、一瞬で濁っていく。
窓越しに感じた、音のない冷ややかな視線。
それは、体育館で僕が抱くことになるあの「確信」を、音を立てて崩していくのに十分な破壊力を持っていた。
7
一度壊れてしまった世界が、元に戻るのには時間がかかった。
けれど、季節が移ろい、運動会の準備や合唱コンクールの練習といった学校行事が繰り返されるうちに、僕に向けられていた露骨な拒絶の空気は、少しずつ風化していった。
きっかけは、秋の終わりに健一が、
「あの時は、俺も悪かったな。ゆーくんがそんなに本屋のこと気にしてるとは思わなかったんだ」
と、照れくさそうに頭を掻きながら謝ってきたことだった。
健一はやっぱり、僕が憧れたままの快活な男だった。そして、残酷なまでに鈍感だった。
僕は、本屋に行けなかったことに腹を立てたわけじゃない。三時間半という途方もない時間を彼に捧げ、それを当然のように踏みにじられた自分の執着の惨めさに、耐えられなかっただけだ。
けれど、健一にとってそれは「たかが予定のキャンセル」でしかなかった。僕がどれほどの覚悟で彼を待ち続け、どんな絶望で拳を振るったのか。その本質は、彼には一生理解できないだろう。
「……いや、俺も悪かったよ。いきなり殴ったりして」
僕は喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、淡々と返した。
ここで「三時間半の意味」を説明したところで、もっと気まずくなるだけだ。僕はまた、優等生の仮面を被ることを選んだ。
健一と並んで廊下を歩くようになると、クラスメイトたちの警戒心も「あ、もう解決したんだな」という安堵に変わり、僕を避けるのをやめた。腫れ物が引くように、僕はまた「普通」の場所に戻っていった。
そんな僕の変化を、成瀬遥だけは少しつまらなそうな目で見守っていた。
「せっかく面白い顔してたのに。また仮面被っちゃうんだ、ゆーくん」
彼女はそう言いながらも、相変わらず僕の隣に居座り、推しのアイドルの話や、流行りの曲の話を一方的に聞かせてくれた。そして野原つむぎも淡々と
「瀬戸くん、またここ教えて」
と僕を振り回し続けた。
健一との和解、成瀬とのたわいもない会話、野原への数学指導。
かつての平穏を取り戻したかのように見えた二年生の冬。その安穏さに甘んじていた僕は、一番肝心なことに気づいていなかった。
三組の教室の前を通りかかったとき。あるいは、図書室の窓際で。
凪紗が、どんな顔をして僕を見ていたのか。
あの日、踊り場で浴びたあの冷ややかな視線。
僕はそれを、単なる軽蔑や誤解だと思い込み、勝手に絶望して、それ以上踏み込むことをやめてしまった。
けれど、その後の長い冬の間。
また「普通」の日常を歩く僕の背中に、ふと、視線を感じることがあった。
それが凪紗のものだったのか、それとも僕の自意識が見せた錯覚だったのか。
あの日、彼女から目を逸らしてしまった僕には、もう確かめる術もなかった。
8
三月の修了式。
二年生としての最後の日、成瀬遥は僕の机に小さなメモを置いていった。
『ゆーくん、春休み中に少しは素直になりなよ。じゃないと、来年は私と一緒のクラスになれないかもよ?』
二年生の間、成瀬は事あるごとに僕のところへやってきた。放課後の誰もいない教室や、屋上へと続く踊り場。彼女が当たり前のような顔をして僕の「隣」に座る時間は、気づけばこの一年の風景の一部になっていた。
そのメモは、三年生こそは同じクラスになりたいという、彼女なりの切実な願いだったと思う。
そして四月。柔らかな陽光が降り注ぐ始業式の朝、掲示板の前で僕はその願いが届かなかったことを知る。
一組:佐伯凪紗、成瀬 遥
三組:瀬戸悠真、野原つむぎ
五組:高木健一 、河村隼人
衝撃だった。
僕は凪紗と同じクラスになれることをどこかで期待していたけれど、叶わなかった。それどころか、僕を「ゆーくん」と呼ぶ成瀬と、僕が想いを寄せる凪紗が同じ一組になり、僕は野原と一緒に三組に割り振られた。
五組には、学年の人気者になった河村隼人と高木健一の名前がある。隼人は間違いなく、一組へ通い詰めるだろう。
「瀬戸くん、 また一緒だね。」
後ろから声をかけてきた野原つむぎは、僕の方を見ることさえせず、手帳に何かを書き込んでいた。
彼女にとってこのクラス替えは、新しい教室の場所や、年間行事予定を確認するための事務作業に過ぎないようだった。
周囲が歓声や悲鳴に包まれるなか、一人だけいつも通りに、淡々と自分のやるべきことを進めている彼女の横顔。その温度のなさが、今の僕にはどんな慰めよりも、逃げ場のない「日常」を突きつけてくるようだった。
掲示板の前を去る時、一組の女子の輪の中にいる成瀬と目が合った。
彼女はいつものように不敵な笑みを浮かべてみせたけれど、その瞳はどこか寂しげに揺れていた。念願の同じクラスにはなれず、あろうことか「僕の好きな人」と同じ教室で過ごすことになった彼女が、今何を思っているのか。鈍感な僕にはまだ、想像も及ばなかった。
視線を外すと、その少し先に凪紗が立っていた。
彼女もまた、僕の方をじっと見つめていた。一瞬、彼女の唇が小さく動いた気がした。祈るような、あるいは何かを諦めたような、微かな微笑み。けれど、彼女が言葉を発する前に、成瀬がその腕を引き、二人で一組の教室へと消えていった。
一組と三組。廊下をわずか数歩、歩けば届く距離。
けれど、三年生という新しい環境の中で、そのわずかな「距離」が、僕たちの想いを修復不可能なほどにかき乱していくことになる。
9 凪紗 二年生の終わり
成瀬遥という子は、最初から不思議な子だった。
三年生になってから同じクラスになることを、私は春の始めに知った。名簿を見た瞬間、なんとなく、この一年は騒がしくなるだろうと思った。成瀬遥は、そういう予感を連れてくるタイプの子だった。
予感は当たった。
彼女はよく、私に話しかけてきた。流行りの曲の話、好きなアイドルの話、コンビニの新作スイーツの話。他愛もない話ばかりだったけれど、成瀬さんの話し方には、聞いている人間を自然と引き込む引力があった。気がつけば私は、彼女の隣で笑っていることが多くなっていた。
でも、成瀬遥が本当に話したいことは、そういうことじゃないと、私はわかっていた。
彼女がゆーくんの話をする時だけ、その声のトーンが少しだけ変わった。さりげないふりをして、でも確かめるように、私の顔を横目で見ながら話す。
ゆーくんって面白いよね。ゆーくん、今日こんなこと言ってた。ゆーくんが、ゆーくんが。
私はその度に、穏やかな顔で聞いていた。
穏やかな顔で、聞き続けた。
成瀬さんは賢い子だから、きっと最初から気づいていたと思う。私が、ゆーくんの話になると、少しだけ相槌の間が変わることに。笑顔の作り方が、ほんの一ミリだけ、慎重になることに。
でも彼女は、それを直接口にしなかった。私も、口にしなかった。
二人の間に、言葉にならない均衡があった。
秋の終わり、成瀬さんが私に言った。
「ねえ凪紗。ゆーくんって、健一を殴ったって知ってた?」
知っていた。学年中に広まっていたから。でも私は「知らなかった」と答えた。
「びっくりだよね」
と成瀬さんは言った。
「でも私ね、正直ちょっと嬉しかったんだよね。あの子、いつも完璧な顔してるじゃない。それが崩れた瞬間みたいで」
私は何も答えなかった。
ただ、その時に思った。成瀬さんは、ゆーくんの仮面の下を見たくて、そばにいるのだと。
私とは、違う近づき方だと思った。
あの踊り場で、成瀬さんと並んでいるゆーくんの姿を、三組の窓から見てしまったのは、十一月の終わり頃だった。
成瀬さんが彼の顔に、ずいと顔を寄せていた。何かを言いながら、笑いながら。ゆーくんは少し顔を赤くして、でもいつもより表情が柔らかかった。
私は、窓から目が離せなかった。
あの子の前では、ああいう顔をするんだ。
そう思った瞬間、胸の奥が、静かにざわついた。嫉妬というより、もっと冷たい何か。自分が知らない場所で、自分が知らないゆーくんがいる。そのことへの、どうしようもない疎外感。
その日の放課後、成瀬はなんでもない顔で私に話しかけてきた。
私もなんでもない顔で答えた。
でも夜、布団の中で、私はあの踊り場の光景を何度も思い出した。成瀬さんの笑顔と、それを受けているゆーくんの、あの柔らかい表情。
一年生の終わりに、「うん」しか言えなかった人が、成瀬さんの前ではああいう顔をする。
それは、私のせいだろうか。
私の前だから、彼は仮面を被り続けるのだろうか。私が、彼にとって「そういう相手」なのだろうか。
答えは出なかった。
三月の修了式。
成瀬さんが、帰り際に私の腕を引いた。
「ねえ凪紗。来年、同じクラスになれるといいね」
彼女はいつもの不敵な笑顔で言った。でもその瞳の奥に、珍しく、真剣な光があった。
私は微笑んで、「そうだね」と答えた。
来年、ゆーくんと同じクラスになれたら。
その思いは、飲み込んだ。成瀬さんの前では、特に。
翌朝、掲示板の前に立った時、私は自分の名前と、瀬戸悠真という名前を、同時に探していた。
一組、佐伯凪紗。一組、成瀬遥。
三組、瀬戸悠真。
また、離れた。
成瀬さんと私は同じクラスで、ゆーくんは三組。
掲示板の前で、人波に押されながら、私はしばらく動けなかった。隣で成瀬さんが「あー、またゆーくんと違うクラスだ」と、わざとらしく言うのが聞こえた。
わざとらしく、というのは違うかもしれない。彼女も本当に残念だったのだと思う。ただその言葉は、私にとっては少しだけ、刃のように刺さった。
人波の切れ目に、ゆーくんの姿が見えた。
彼も掲示板を見ていた。そして、ふと顔を上げた瞬間、私たちの視線が合った。
私は、何かを言いたかった。
何かを、言わなければいけない気がした。
でも、言葉が出てくる前に、成瀬さんが私の腕を引いた。
「凪紗、行こ。一組の教室、確認しなきゃ」
私はゆーくんから視線を外して、成瀬さんと歩き出した。
廊下を歩きながら、私はさっき彼に言いかけた言葉が何だったのか、自分でもわからないまま、その欠片を心の中で探し続けていた。
三年生も、また離れたまま過ごすのかもしれない。
その予感は、駅までの坂道よりも、ずっと長く、重たく、私の足元に纏わりついていた。
第3章 侵食される境界線へつづく
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超大作・・・長編にしようと書いていたら、結局200ページ・・・
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