『僕らの未熟な蒼』第3章
第三章:侵食される境界線
1
オフィスを出ると、湿り気を帯びた都会の夜風がネクタイの隙間から入り込んできた。駅へと向かう人波に紛れながら、僕は特に急ぐ風でもなく、だらだらと歩を進める。
今日という一日、僕は一体何をしていたのだろうか。
デスクの前に座り、モニターを見つめていたはずなのに、記憶にあるのは白く発光する画面の余白だけだ。同僚から何かを話しかけられた気もするが、適当な相槌を打ってやり過ごした。仕事は山積みで、上司からの催促のメールも届いていたはずだが、どうしても指先が動かない。
あの日以来、凪紗という存在が、逃れようのない「足枷」となって僕の足元に絡みついている。
かつては「無難」にこなせていたはずのすべてが、今はひどく空虚で、価値のない砂を噛むような作業に思える。何をするにも、凪紗のことが頭から離れない。彼女の面影が意識の表層に浮かび上がるたび、鉄球を引きずるような重みが全身を支配し、日常という名の歩道を一歩進むことさえ億劫になるのだ。
家には、僕との未来を信じている奈緒がいる。
彼女の献身的な愛情も、穏やかな将来の約束も、今の僕には自分を縛り付ける新たな鎖にしか思えなかった。奈緒が隣で微笑み、結婚という名の「正解」を提示してくるほど、僕はその正解を蹴り飛ばし、あの日の凪紗がいた混沌とした熱の中へ帰りたくなってしまう。
会いたい。
その渇望は、もはや後悔なんて生ぬるい言葉では片付けられない。今の凪紗がどこで、誰と、どんな風に笑っているのか。
この「足枷」を外すためには、彼女に再会して、あの日から止まったままの時間を動かすしかないのだ。今の平穏な生活すべてを投げ打つことになっても、構わないとさえ思っていた。
奈緒のことは大切だ。彼女と築く未来に、何の不満もない。
それなのに、ふとした瞬間に、僕は今でもあの「色」を探してしまう。
あの図書室の埃っぽい匂いや、たった一つの消しゴムを共有した時の、指先が触れそうな距離の熱。
僕は本当に、このまま「無難」な人生を完成させていいのだろうか。
奈緒と過ごす時間は、僕にとっての「救い」ではある。けれど、僕の心臓の奥深くを震わせる「熱」は、あの場所、あの一年に置いたままになっていないか。
もし、あの日。
僕がもっと不器用に、なりふり構わず彼女に言葉を尽くしていたら。
あるいは、何があっても彼女の手を離さない強さを持っていたら。
2
駅前の大きな交差点。
赤信号に捕まり、僕はそんな湿った感傷を振り払うように顔を上げた。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた気がした。
そういえば、夕方に奈緒からLINEが届いていたはずだ。友達の莉奈とお茶をしてから帰る、というような内容だった気がするが、仕事が手につかないほど凪紗のことで頭が一杯だった僕は、通知の文字をなぞっただけで、その意味を脳にまで届かせていなかった。
僕は画面を確認することさえ億劫で、指先に触れた硬い感触をポケットの奥へ押し戻した。
信号が赤に変わり、行き交う車の走行音が途絶える。代わりに背後から、早く渡りたがっている人波のせっかちな気配が押し寄せてきた。
視線を何となく前方へ向けると、街灯に照らされたアスファルトの先に、いくつもの背中が重なり合って揺れている。
その、雑踏の最前列だった。
周囲の景色からそこだけが浮き上がったように、見間違えるはずのないシルエットが目に飛び込んできた。
そこに、奈緒がいた。
彼女は誰かを待っているようで、時折、爪先立ちになって人波の先を覗き込んでは、手元の時計に目を落とす。僕は声をかけようとして、一度開いた口を閉じた。
驚かせてやろうという、子供じみた悪戯心が、僕の中にまだ残っていたらしい。
僕は彼女との距離を詰めようと一歩踏み出し、その名を呼ぼうと深く息を吸い込んだ。
その瞬間、彼女の表情がパッと華やいだ。
夕闇の駅前で、彼女の瞳に熱い光が宿る。それは僕がよく知っている、親密な相手にだけ見せる、あの混じり気のない信頼と愛着を帯びた笑顔だった。
彼女の視線が、僕を真っ直ぐに捉えた――。
そう確信した僕は、吸い込んだ息と一緒に、上げた右手に力を込めた。自分を見つけてくれた彼女への、精一杯の返礼をしようとしたのだ。
けれど、その手は空中で凍りついた。
彼女は、僕を見てなどいなかった。
彼女の視線は、僕の顔を、僕の存在そのものを、まるで透明な空気であるかのように鋭く通り抜けていた。その熱を帯びた眼差しが射抜いていたのは、僕の数メートル斜め前にいた女性だった。
「お待たせ!」という高い声が、鼓膜を震わせる。
二人は僕のすぐ横で、僕という存在をただの風景、あるいは邪魔な障害物として扱いながら、再会を喜ぶ笑顔を交わし、親しげに腕を絡めて歩き出した。
上げたままの僕の手が、行き場を失って力なく垂れ下がる。
奈緒には、悪意なんて微塵もない。ただ、僕がいることに気づかず、先に友人を見つけただけのことだ。後で彼女に追いつけば、「なんだ、いたの」といつもの笑顔で迎え入れてくれるだろう。
けれど、自分だけに向けられていると自惚れていたその光が、僕を無慈悲に素通りして別の誰かに注がれた瞬間。
僕の中の「空っぽの車両」が、急ブレーキをかけて激しく脱線した。
一瞬前まで感じていた仕事の疲れも、奈緒への義務感も、すべてが嘘のように消え去った。
周囲の喧騒がふっと遠のき、アスファルトを叩く無数の足音が、冷たく古い木の床を叩く不穏な音に溶けていく。
オレンジ色の街灯は、古ぼけた体育館の窓から差し込む、あの重たくて埃っぽい光に変わる。
――あの日。
3
中学三年生。新しい教室の空気は、まだ少しだけ慣れない匂いがした。
男女混合の五十音順で割り振られた僕の席は、窓際の一番後ろ。
休み時間のたび、僕は窓の外を眺めるふりをして、廊下を遠くから走ってくる足音を聴いていた。
「お、隼人。また一組か?」
「おう、ちょっと借りてたもん返してくるわ!」
五組の河村隼人の、迷いのない真っ直ぐな声。それが二組という空間を隔てた先にある、凪紗のいる教室へと吸い込まれていく。
僕はその消えていった足音の余韻を、心の中でいつまでも追いかけていた。
あと数分、このまま放っておいてくれれば、彼女のことを考えていられるのに――。
「瀬戸くん、またここ。昨日言ってたところ、解き直してみたんだけど」
ふいに横から声をかけられ、現実に引き戻された。
二列目の自分の席から、音もなく移動してきた野原つむぎが、僕の横に立っていた。
彼女はびっしりと数式の書き込まれた自習ノートを僕の机に置くと、当然のように隣の空いた椅子を引き寄せた。
「お昼、成瀬さんが来る前にそこだけ確認させて。彼女が来ると、騒がしくて集中できないから」
野原は僕の顔を見ることもなく、淡々とノートを開く。几帳面な数字の羅列が、僕を「三組の優等生」という役割に静かに縛り付けていく。
それから数分、野原と数式の確認を続けていると、教室の前方のドアが勢いよく開いた。
「ゆーくん、何ぼーっとしてんの?」
一組から二組を通り抜け、わざわざ三組までやってきた成瀬遥だ。
彼女は僕の前の空席に、椅子を反対向きにして座ると、僕の筆箱を指先で弄び始めた。
「……成瀬、自分のクラスはいいのかよ」
「いいの。一組、隼人たちがうるさくて落ち着かないんだもん」
成瀬はそう言って、僕の消しゴムを指先で転がした。彼女のまとう甘い香水の匂いが、野原のノートの紙の匂いを上書きしていく。
休み時間も終わりに近づき、予鈴が鳴るかという頃。
廊下から、また別の騒がしい気配が近づいてきた。
「よう、ゆーくん! なんだ、今日も賑やかだな」
五組の高木健一が、三組のドアの枠に寄りかかって顔を出した。彼は教室の中には入ってこず、廊下の喧騒を背負ったまま、屈託のない笑顔を見せる。
「いいよな、三組は。……あ、ゆーくん、今度の部活のオフ、みんなで遊びに行こうぜ。大人数の方が楽しいだろ!」
健一の、底抜けに明るい提案。
「……そうだな。」
僕は穏やかな声で返した。
「稚拙ね」
野原がぼそっと呟いた。
健一が笑い、成瀬が前の席から身を乗り出してくる。女の子に囲まれて過ごす休み時間は、正直に言えば悪くないし、それなりに気分が良いものだ。
けれど、こうして成瀬たちと楽しげに喋っている姿を、もし凪紗が見たらどう思うだろう。
あの日、階段で聞いた「ゆーくん」という呼び声。それがもし、僕が期待した通りの「好意」だったとしたら。そして、あの踊り場で成瀬といた僕に向けられた冷ややかな視線が、もし「焼きもち」だったのだとしたら。
僕は今、彼女に致命的な誤解をさせているのではないか。
クラスが離れ、話す機会さえない今の僕には、彼女の気持ちがどこにあるのかを確かめる術はない。「あれは勘違いだよ」と言い訳をする権利さえ、今の僕にはないのだ。
それでも僕は、凪紗にだけは、僕と同じように感じていてほしかった。
僕が今も彼女を好きなように、彼女もまた、この賑やかな三組の光景をどこかで苦々しく見つめていてほしい。そんな、告白さえしていない僕の身勝手な傲慢さが、胸の奥でソワソワとした後ろめたさを生んでいた。
予鈴が鳴る。
賑やかな日常がまた動き出すなかで、僕は自分一人だけが抱えている、この整理のつかない期待と不安を、深く吐き出す息とともに飲み込んだ。
4
放課後。西日が差し込む三組の教室は、オレンジ色の濃い光に満たされていた。
宙を舞う小さな埃が黄金色に光り、机の影が廊下側に向かって長く伸びている。
窓際最後尾の僕の席には、いつの間にか一組から移動してきた成瀬が前に座り、僕の横では野原が当たり前のような顔をして、僕に数学のノートを突きつけていた。
「じゃあ、駅前のカラオケか、それともボウリング? どっちにするよ」
五組の健一が僕の机の端に腰掛け、後日の計画を問いかける。
「ボウリングがいい」
野原が僕のノートから目を離さないまま、事務的なトーンで断言した。はしゃいでいる様子はなかった。
「ボウリングね、いいじゃん。ゆーくん、勝負しようよ!」
成瀬が前の席から僕の顔を覗き込んで、不敵に笑った。
女の子に囲まれて、次の遊びの計画を立てる。
人気者の「瀬戸くん」としては正解の放課後なのだろうし、実際、成瀬の甘い香水の匂いや、野原の迷いのない言葉に囲まれているのは、悪い気分ではなかった。
ふいに、三組の入り口の引き戸が、ガラリと小さな音を立てて開いた。
誰かがそこに立ち止まる気配がした。
「……あ、遥。そろそろ帰れる?」
静かで、けれど凛として透き通った声。
二組という空間を通り過ぎ、わざわざ三組の入り口まで。一組の凪紗が、成瀬を迎えに来ていた。
成瀬は
「あ、ごめん凪紗。今行く!」
と応えたものの、すぐには腰を浮かせなかった。彼女は僕の横顔を覗き込むようにして、意味深な笑みを浮かべて動かない。
僕は、吸い寄せられるように顔を上げた。
入り口のそば、夕陽を背負って立つ凪紗と、視線が真っ直ぐにぶつかった。
一瞬だった。
健一が喋っているボウリングのレーンの予約の話も、野原がノートに書き込むシャープペンの音も、すべてが遠ざかり、消えた。
夕陽の逆光に透ける彼女の髪が、細い金色の糸のように輝いている。
彼女が探し、見つめていたのは――。
いや、それは僕の身勝手な自惚れかもしれない。ただ入り口から教室を眺めた視線が、偶然僕のところで止まっただけかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、凪紗の視線が僕を捉えて離さないその数秒間、僕は猛烈な後ろめたさに襲われていた。
成瀬や野原と、こんなに楽しそうに次の約束なんてして。
もし、あの日階段で聞いた「ゆーくん」という呼び声が、彼女からの何らかのサインだったとしたら。今の僕は、彼女を最悪な形で裏切っているのではないか。
凪紗の唇がほんの少しだけ、震えるように動く。何かを言いかけて、けれど思いとどまったような、言葉にならない形。
何かを言わなければ、と思うのに、喉の奥が熱くて言葉が出てこない。
「……ゆーくん、ほら。顔が固まってるよ」
成瀬のからかうような声が、止まっていた時間を無理やり引き戻した。
凪紗はハッとしたように瞬きをすると、何かに追われるようにして僕から視線を逸らした。
「……じゃあ、行こうか。遥」
「うん。じゃあね、みんな。また明日」
成瀬が凪紗の腕を引くようにして、廊下へと促す。
彼女たちの足音が遠ざかっていく。その規則正しい音を、僕はただ最後の一音が消えるまで追いかけていた。
「……ゆーくん? どうしたんだよ。おーい、結局いつにするんだよ、ボウリング」
健一が不思議そうに僕の目の前で手を振る。その声でようやく、教室に西日の匂いと喧騒が戻ってきた。
僕は、逃げるようにカバンの中に視線を落とした。
「……いや、なんでもない。来週の土曜でしょ? 空けておくよ」
僕は作り笑いを浮かべて答えた。指先にはまだ、凪紗に「見られていた」時の、あの痺れるような後ろめたさが残っていた。
5
凪紗たちが去ったあとの三組は、まるで止まっていた針が再び動き出したかのように、いつもの放課後の喧騒へと戻っていった。
夕日に照らされた黒板には、明日の時間割と誰かが書いた落書きが白く浮かび、廊下からは下校を急ぐ生徒たちの笑い声が途切れることなく聞こえてくる。
じゃあ、来週の土曜日ね。私、みんなの分のお菓子、焼いてくるから」
野原の声が、いつもの事務的なトーンより、ほんの少しだけ弾んだような気がした。
「瀬戸くん、チョコ味とか好きだったよね? クッキーと……あと、マドレーヌも焼けるかもしれない」
彼女は僕の答えを待たずに、手帳の余白になんだか嬉しそうにメモを取り始めた。
さっきまで僕と凪紗の間に流れていた、あの行き場のない沈黙。それを気にする様子もなく、野原はただ自分の決めた予定をなぞっている。その迷いのなさが、今の僕にはひどく潔く見えた。
「じゃ、来週の土曜な!」
健一が、僕の肩をガシガシと大きな手で叩く。その重みと、部活着から漂う汗の匂い。そんな何気ない「日常」の感触だけが、今の僕を現実の世界に繋ぎ止めていた。
翌朝。
教室で一限目の教科書を並べていると、背後からスッと人影が現れた。
「おはよ、ゆーくん。昨日はよく眠れた?」
成瀬遥だった。彼女は僕の前の席の椅子を反対向きにして座ると、頬杖をついてじっと僕の顔を覗き込む。
「……おはよう、成瀬。自分のクラスの方は大丈夫なの? 先生、もうすぐ来るんじゃない?」
「いいの。一組は朝から、隼人がサッカー部の連中集めて昨日の試合の反省会とかやってて、すっごく騒がしいんだもん。……それに」
彼女はそこで言葉を切り、僕の机の上にあった消しゴムを指先でトントンと弾いた。
「昨日の凪紗、見たでしょ。廊下に出たあと、あの子ずっと上の空だったよ。私の話、全然聞いてないの」
消しゴムがノートの上を滑り、床に落ちた。
僕はそれを拾おうとして、成瀬の鋭い視線から逃げるように顔を伏せた。
成瀬は、僕が凪紗を想っていることを知っている。だからこそ、彼女の言葉はいつも、僕が一番触れられたくない場所を正確に射抜いてくる。
拾い上げた消しゴムを握りしめると、手のひらに嫌な汗が滲んだ。
「あ、成瀬さん。おはよう」
そこへ、野原つむぎがやってきた。彼女は僕の前の席に成瀬が座っているのを見つけると、自分の椅子を引き寄せて僕の机の横に座った。
「瀬戸くん、昨日の続き。ここ、やっぱり計算が合わないんだけど」
野原は挨拶もそこそこに、僕の机の上に使い込まれた問題集を広げた。昨日のお菓子の話なんて、もう忘れてしまったと思えるほどの素振りだった。
「あはは、相変わらずだね」
成瀬が茶化すように笑うと、野原も
「瀬戸くんに教えてもらうのが、一番時間が無駄にならないし」
と短く答えて、シャープペンを動かし始める。
僕が窓の外を気にしている理由も、成瀬がわざわざ教室を移動してくる理由も、隣でノートに向かう野原には関係のないことのようだった。
彼女はただ、目の前の数式を解きながら、この三組での時間を淡々と過ごしている。
そんな彼女の迷いのない横顔を見ていると、凪紗への執着を捨てきれない自分が、ひどく不透明で、後ろ暗い存在のように思えて仕方がなかった。
予鈴が鳴り、成瀬が「また休み時間ね」と、軽やかに一組へ戻っていく。
自分の居場所へ帰っていく彼女の背中を見送りながら、僕の耳の奥には、さっき彼女が残していった言葉がこびりついて離れなかった。
『あの子ずっと上の空だったよ。私の話、全然聞いてないの』
凪紗が何を思い、何に心を乱しているのか。
確かめる術もないまま、成瀬の言葉だけが、僕の胸の奥をじりじりと焼き続ける。
僕は逃げるように、手元の数学の教科書を開いた。けれど、整然と並ぶ公式のどれひとつとして、今の僕の歪んだ焦燥を解き明かしてはくれなかった。
6
お昼休み。僕は、自分の席で一人、弁当と一緒に持ってきた菓子パンの袋を開けていた。
窓の外から聞こえるグラウンドの喧騒を遠くに聞きながら、少しだけぼんやりしたかった。自分の手元に落ちる影と、ノートの端に書かれた落書き。そんな小さな世界に閉じこもる時間は、自分を整理できる大切な時間だった。
「ゆーくん、昨日のゴール見た?」
不意に前の席の椅子が引かれ、五組からやってきた健一が、当然のような顔で反対向きに座った。自分の弁当を広げながら、昨日のサッカーの試合について話し始める。
「……ああ、見たよ。最後のは凄かったな」
「だろ? あれを止めろって方が無理だよな」
健一は楽しそうに笑い、僕の反応を待たずに話を続ける。その声に引き寄せられるように、他のクラスメイトも集まってきて、会話が僕の机の上を飛び交い始めた。
「稚拙ね……」
横から声がして、斜め前の席の野原が隣に来て弁当を広げた。彼女は健一たちの茶化しを慣れた様子でいなしながら、僕の食べかけのパンを横目で見る。
そこへ来たのは、成瀬だった。一組から迷うことなく歩いてくると、僕の前の席で我が物顔をして座っている健一を見て、あからさまに眉をひそめた。
「ちょっと健一。そこ、私の席なんだけど。どいてよ」
「あ? 先に座ったもん勝ちだろ。ほら、お前はそこらへんに立ってろよ」
健一がヘラヘラと笑い飛ばすと、成瀬は「信じらんない」と小さく舌打ちをした。そして僕のすぐ横の窓際に、背中を預けるようにして立った。
「ねえゆーくん。隼人たちのうるさいサッカーの話なんていいから、聞いてよ。これなんだと思う?、新作のグミだよ。あげる」
成瀬はそう言って、色鮮やかな小袋を開け、中から一粒つまみ上げる。
「はい、あーん」
窓際に寄りかかったまま、成瀬が僕の口元にグミを差し出してきた。屈託のない笑顔。けれどその瞳は、僕がどう反応するかを面白がっているようにも見える。
「……おい、やめろよ。成瀬」
僕は顔を赤くして、彼女の手を軽く押し返した。
「あはは! ゆーくん、顔赤ーい!」
「成瀬さん、相変わらずね」
健一が声を上げて笑い、野原も呆れたように小さく溜息をつく。周囲のクラスメイトたちも、僕たちの「いつものやり取り」を楽しそうに眺めている。
気づけば、僕の机の周りはクラスの枠を越えた、賑やかな熱気で埋め尽くされている。成瀬の甘い香水の匂いと、健一の無邪気な笑い声。その中心にいる「瀬戸くん」は、きっと誰から見ても満ち足りた日常の中にいるはずだった。
「そういえばさ、悠真って将来何になんの?」
一人が、半分に割った箸を動かしながら唐突に聞いてきた。進路希望調査の話題だ。
「ゆーくんは手先が器用だし、何やってもそれなりに形にしそうだよな。美容師とか似合いそうじゃね?」
健一が笑いながら続け、野原も
「確かに、瀬戸くんは作業が丁寧だから、向いてるかもしれないわね」
と淡々と同意した。
この街で美容師になって、馴染みの連中の髪を切って。そんな風に続いていく未来。みんなは、卒業してもこの距離感のまま続いていく「当たり前の日常」の話を広げていく。この街が嫌いなわけじゃないけれど、僕の視界はもう少し先、山の向こう側にある街へと向いていた。
「……俺さ、大学は東京に出たいんだよね」
ふいに、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
「東京? まあ、大学行くなら普通そうなるわな」
健一が納得したように頷く。大学を目指すなら、半分以上が東京を目指す。特別な決意というよりは、それが自然な流れだと思っていた。
「うん。どうせ行くなら、日本の中心で自分がどこまでいけるか試してみたいっていうかさ。……単純に、都会に憧れもあるし」
美容師も悪くないけれど、もっと広い世界で、もっと大勢の知らない人間がひしめく場所で、自分がどれだけ通用するのか。純粋な好奇心が、僕を突き動かしていた。
「東京……。じゃあ、向こうで一人暮らしね」
野原が、確認するように小さく呟いた。
彼女自身、難関大を目指すなら東京や関西に出ることになるし、そうなれば当然一人暮らしになる。それは僕たちの学力レベルなら「前提」とも言える未来だ。
「……まあ、そうなるだろうな」
「そう。妥当ね」
彼女はそれ以上何も言わず、また淡々と弁当を口に運んだ。
同じ目的地を見据えているという事実に、僕はどこか腑に落ちたような感覚を覚えただけで、すぐに視線を窓の外へと戻した。
けれど、いつもは事務的に進んでいく彼女の食事が、その時だけは、少しだけゆっくりになったような気がした。高い位置にある太陽から、真昼の明るい光が窓際に差し込み、僕らの机の上を白く照らしている。単語帳をめくる指が止まり、彼女の整った口角がほんの数ミリだけ、綻ぶように緩んだこと。
僕はそれを「野原も同じ目標があるから、少しは親近感が湧いたのかな」程度にしか思わなかった。彼女がその静かな沈黙の中で、僕と同じ場所へ向かうことに小さな喜びを感じていることなど想像もせずに、僕はまた、山の向こう側にある都会のイメージへと意識を戻した。
「ゆーくんなら、本当に行っちゃいそうだな。……まあ、お前がそう決めたなら、応援するけどよ」
彼だって、高校でサッカーを続けてその先を考えれば、同じように東京の大学へ進む可能性は十分にあるのだ。けれど、今はまだ具体的な進路の話よりも、目の前の「いつもの関係」が少しずつ形を変えていくことへの、名残惜しさのようなものがその笑顔に混じっていた。
賑やかな輪の中で、成瀬だけが僕の顔をじっと見つめていた。
予鈴が鳴り、健一が
「じゃあな、また放課後」
と五組へ戻っていき、成瀬もゆっくりと腰を浮かせた。
「じゃあね、ゆーくん。……東京、か。覚えておくよ」
彼女が去り際に見せた、何かを確かめるような微笑みの意味を、その時の僕はまだ知る由もなかった。
成瀬が自習時間の一組に戻り、同じクラスの凪紗に、ふとした拍子にそのことを話すことも。
「ねえ凪紗。ゆーくん、大学は東京に出たいんだって」
その一言が、凪紗の胸の中にどんな波紋を広げたのか。
午後の授業が始まっても、僕の頭の片隅には、成瀬が残していったあの含みのある笑顔が、消えない染みのようにこびりついて離れなかった。
7
「おーい、こっちこっち!」
貸し靴カウンターの向こうで、健一がぶんぶんと手を振っている。その横で、成瀬はスマホをいじりながら、時折顔を上げては「あ、来た」とでも言うように、屈託のない笑顔をこちらに向けていた。
その賑やかな喧騒に混じる直前、野原が急に足を止めた。
「……瀬戸くん、ちょっと」
呼び止められた僕が振り返ると、彼女は何かをこらえるように唇を一文字に結んでいた。いつもは冷静な彼女の視線が、僕の喉元あたりをうろうろと彷徨っている。
「これ……約束の。昨日、夜に焼いたから」
突き出された袋が、隠しようもなく小刻みに震えている。よく見ると、彼女の顔までが真っ赤に染まっていた。
「ああ、悪い。わざわざいいのに」
「……いいのよ。気分転換だから」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、彼女の指はまだ袋の端をぎゅっと握ったままだ。
「……チョコのやつ」
野原が、今にも消えそうな声で付け加えた。
「それだけは、瀬戸くんが前、好きだって言ってたから……。他のみんなのより、少しだけ、厚くしておいたから。……それだけ」
いつも数学の難しい問題だって迷わずに答えるのに、クッキーの厚みを説明するだけのことになんであんなに言葉を詰まらせているんだろう。最後の方はもう僕の顔すら見ていなかった。
そこまで必死に、僕のために何かを工夫してくれた。その事実が、驚くほど真っ直ぐに僕の胸に刺さって、僕はどう反応していいか分からず、ただ居心地の悪さに身を硬くした。
「……サンキュ。後で、大事に食べるよ」
「……ええ」
彼女がようやく指を離し、ふぅ、と小さく肩を落とした。その瞬間だった。
「お、なんだこれ。クッキー? 野原、これお前が焼いたの?すげーな!」
デリカシーの欠片もない健一の声が響いて、僕は正直、少しだけ救われたような気がした。
「マジか! 腹減ってたんだよなー。一個いいだろ?」
健一が、野原の必死な説明なんて耳に入っていない様子で、袋の中に手を突っ込んだ。
「あ、健一、ちょっと待て……」
僕が止めるより早く、健一は厚焼きのチョコ味を掴み出し、そのまま口に放り込もうとした。
「ちょっと健一、独り占めはナシだよ」
そこへ成瀬が割り込み、健一の手首を掴んでクッキーを取り上げた。
「これ、ゆーくんの好物なんでしょ? はい、半分こ」
成瀬は手慣れた動作でその厚焼きの一枚をパキッと二つに割ると、片方を僕の口元へ差し出し、もう片方を自分の口へ放り込んだ。
「ええっ、なんだよ成瀬! 俺が最初に見つけたんだぞ。半分くらい残せよ!」
獲物を奪われた健一が、本気で不服そうに声を上げる。
「いいじゃん、健一は他ので。ほら、このプレーンも美味しそうだよ」
成瀬は健一の抗議を笑って受け流しながら、僕にクッキーを促した。
「……サンキュ。野原、旨いよ」
僕は差し出された半分を受け取り、口に運んだ。
野原が夜中に何度も厚さを確かめて焼いたというチョコの味は、驚くほど濃厚で、彼女の体温が乗り移っているかのような熱を持っていた。
「あ、今の、いい感じ」
成瀬がスマホのカメラを向け、クッキーの袋を手に取った僕を勝手にフレームに収めた。
「凪紗に送っといた。これ美味しそうだったし」
彼女は画面を数回タップすると、満足そうにスマホをポケットに放り込む。
だが、その数秒後。成瀬が再びスマホを取り出し、届いた通知を確認するためにロックを解除したとき、僕はその画面を横から覗き見てしまった。
『野原さんのクッキー、私も食べてみたかったな。ゆーくん、美味しそう」
心臓が、跳ねるような音を立てた。
一年前まで、凪紗は僕のことを「瀬戸」と呼んでいた。それが普通だと思っていた。
なのに、画面の中の凪紗は、僕のことを当たり前のように「ゆーくん」と呼んでいる。
(……凪紗、裏じゃそう呼んでんのかよ)
僕の前で見せていた「瀬戸」という余所余所しい響き。凪紗が成瀬の前で、気を許している時だからこそ漏れ出してしまう、凪紗の本当の気持ち……。
盗み見てしまった後ろめたさと、それ以上に、凪紗の心のガードをすり抜けたような優越感で、喉の奥が熱くなる。
「……瀬戸くん、早くして。みんな待ってるわよ」
不意に、横から冷たい声が飛んできた。 見ると、野原がペンを握ったまま、僕を追い立てるようにレーンを指差していた。
二年生で同じクラスになって以来、一番近くで切磋琢磨してきた自負がある。けれど、今の僕には彼女の呼ぶ「瀬戸くん」という響きが、妙に硬く、遠いものに感じられた。
「……ああ、悪い。すぐ投げる」
僕は逃げるようにレーンへと向かった。
野原が妙にトゲトゲしているのは分かったけれど、今の僕には、さっきの画面に並んでいた四文字以外のことを考える余裕なんて、どこにもなかった。
重い球を拾い上げ、指をかける。
いつもなら、助走の歩数や手首の角度を慎重に確認するはずなのに、今はただ、早くこの高揚感をボールに乗せて叩きつけたい衝動しかなかった。
(ゆーくん、美味しそう)
脳内で、凪紗の声が再生される。
一年以上まともに話もしていないし、学校では「瀬戸」と呼ぶ佐伯を、僕は心の中でずっと「凪紗」と呼び続けてきた。その、一方通行だと思っていた距離が、あの画面一枚で、一気にゼロになったような気がした。
狙いなんて適当だった。
ただ、凪紗が僕のことをそう呼んだ。その事実が、僕の身体に得体の知れないエネルギーを充填させていた。
力任せに振り抜いたボールは、レーンの端を危うくかすめながらも、急激にカーブを描いて中央へと切れ込んでいく。 吸い込まれるようにセンターピンを撃ち抜いた瞬間、爆発したような音が響いた。
十本のピンが、一瞬で視界から消え去る。
「うおっ、またストライク!? ゆーくん、今日マジでどうしたんだよ!」
背後で健一が、喉を鳴らして騒いでいる。
僕は戻ってきたボールを拾い上げながら、緩みそうになる口角を必死に引き締めた。
ストライクを取ったことなんて、正直どうでもいい。
今はただ、凪紗が僕のことを「ゆーくん」と書いた、あのスマホの画面をもう一度思い出してニヤけたいだけだった。
「……次、成瀬さんの番ね。私はスコアつけるから」
野原の、感情を押し殺したような事務的な声が、ボウリング場の喧騒に混じって、僕の耳にだけはやけに鋭く届いた。
8
一ゲーム目が終わった。
スコア画面には「180」という数字が並んでいた。運動神経には自信があるし、これくらいは出そうと思えば出せる数字だが、今の僕にとってそれは、凪紗からの「ゆーくん」という呼びかけがもたらした、全能感の証明でしかなかった。
「マジですげーなゆーくん。今日、何かに取り憑かれてるだろ」
健一がコーラを喉に流し込みながら、呆れたように笑う。僕はクッキーの二枚目を口に運んだ。
「だろ? 俺を誰だと思ってんだよ」
僕はニヤリとして、健一の肩を軽く小突いた。いつも塾で見せている「ストイックな優等生」の皮が、全能感に背中を押されてベリベリと剥がれていく。本来の僕が持っているはずの、人を食ったような余裕が、今の僕からは無意識に溢れ出していた。
「ねえ、今のストライク、バッチリ撮っちゃった」
不意に、成瀬がスマホの画面を僕に突きつけてきた。そこには、ボールを放り、ピンが弾け飛ぶのを確認している僕の背中が映っていた。
「……いつの間に撮ってたんだよ」
「えー、だってカッコよかったから」
僕は成瀬の言葉を否定せず、曖昧に笑って流した。普段、凪紗を前にすると喉が固まったように何も言えなくなる自分が嘘のようだ。
「次も撮るよ。もっと近くで撮っちゃおっかな」
成瀬が茶目っ気たっぷりに笑うと、僕のすぐ隣に滑り込んできた。彼女の香水の鋭い香りが鼻をくすぐる。
「……第二ゲーム、始めるわよ」
氷のように冷たい声が、僕らの間に割り込んだ。
見ると、野原がペンを握り締めたまま、スコア表に視線を落としていた。
僕はレーンへと向かった。いつも通り歩数を確認して、助走をつける。
放たれたボールが、快音を響かせて十本のピンをなぎ倒す。
「うおぉ! またストライク! ゆーくん今日どうしたんだよ!」
健一の歓声が響く中、僕はただ、さっきの画面に並んでいた四文字を頭の中で反芻していた。 (ゆーくん、美味しそう)
凪紗の声で、その文字が再生される。
「凪紗から返信来たよ。『また撮って』って」
成瀬がスマホを覗きながら、僕に向かって画面を傾けた。
僕は「そっか」とだけ返して、戻ってきたボールを拾い上げた。口角が緩みそうになるのを、奥歯を噛んで堪える。
「……最低」
歓声に紛れて、野原の唇からそんな言葉が零れたのが見えた。
彼女は僕に一度も視線を合わせないまま、半分以上残ったクッキーの袋をベンチに置き去りにして、出口へと歩き出した。
「あーあ、怒らせちゃったかな。……でも、しょうがないよね」
成瀬が呟く。
僕は遠ざかる野原の背中を見送りながら、彼女がなぜ怒ったのか、よくわからないまま、また凪紗の四文字を頭の中で繰り返していた。
9
七月。梅雨明けを待たずに降り注ぐ陽光が、体育館の高い窓から斜めに差し込んでいた。
全校集会。
僕にとって、それは特別な時間だった。
二年生の五月、あの埃っぽい光の中で視線が合った日から、ずっとそうだった。集会のたびに、僕は前方に並ぶ三組の列を視線でなぞり、凪紗を見つけ、彼女が振り返る瞬間を待った。
視線が合う。凪紗が小さく微笑む。
それだけで、僕には十分だった。
言葉なんていらない。クラスが離れていても、廊下でまともに話せなくても、この一瞬があるから、僕たちは繋がっている。そんな確信が、集会のたびに積み重なっていった。
誰にも言えない、二人だけの秘密。
そのはずだった。
この日も僕はいつものように、整列した生徒たちの頭越しに、凪紗の姿を探した。すぐに見つかった。ポニーテールにまとめた彼女のうなじ。陽光を浴びて、しっとりと光る褐色の肌。
僕は胸の奥で静かに息を吸い込み、凪紗が振り返るその瞬間を待った。
やがて、凪紗の肩が微かに動いた。
来る、と思った。
彼女の視線が、ゆっくりと横に流れた。
僕は自然に、口角を上げようとした。
その笑顔が、途中で固まった。
凪紗の視線は、僕の顔の少し手前で止まらなかった。僕を素通りして、その数メートル斜め前へと吸い込まれていった。
僕は、反射的にその先を目で追った。
そこには、五組の列に並ぶ河村隼人がいた。
隼人は何も知らない顔で、隣の奴と小突き合いながら笑っていた。凪紗の視線に気づいてさえいない。
体育館の熱気が、一瞬で凍りついたような気がした。
僕は視線を戻した。凪紗はもう前を向いていた。さっきの一瞬が、なかったことのように。
校長の声が、遠くの異国語のように耳を滑っていく。隣のクラスの小林が何かを囁いてきたが、僕には聞こえなかった。ただ、自分の足元が、音もなく崩れていくような感覚だけがあった。
二人だけの秘密だと思っていた。
その「秘密」は、最初から、僕一人が作り上げた幻だったのかもしれない。
集会が終わり、生徒たちが一斉に動き出す。僕はその波に飲まれながら、ただ前を向いて歩いた。
その翌週のことだった。
昼休み、五組からやってきた健一が、僕の机に弁当を広げながら、何気ない口調で言った。
「そういえばゆーくん、聞いた? 隼人と佐伯、付き合ってるって」
僕の箸が、止まった。
「……誰から聞いたんだよ」
「隼人本人。昨日の部活帰りに、なんかニヤニヤしながら言ってきたんだよな。お前知り合いだろ、佐伯って」
健一はそう言いながら、おかずを口に放り込んだ。僕の表情の変化など、まるで気にしていない。ただの世間話だった。
「……そっか」
僕はそれだけ答えて、視線を弁当に戻した。
「なんだ、興味ないの? まあ隼人もついにって感じだよな。あいつ前から気になってたみたいだし」
健一は話を続けたが、その声は、僕の耳をただ滑っていくだけだった。
怒りはなかった。絶望というほど劇的な感情もなかった。
ただ、胸の奥にあった何かが、音もなくしぼんでいく感覚だけがあった。
隼人は、知っているだろうか。僕が凪紗をどれだけ想い続けてきたか。
知らないだろう。僕は一度も、誰にも言わなかったから。
言えなかったから。
昼休みが終わり、健一が五組へ戻っていく。チャイムが鳴り響く。
僕は机の端に置かれた消しゴムを、指先でそっと触れた。
窓の外では、梅雨明けの空が、残酷なほど青く広がっていた。あの消しゴムを初めて落とした六月から、二年以上が経っていた。
もう、落とさなくていい。
その思いが、ひどく静かに、ひどく深く、胸に沈んでいった。
10
それからの季節は、静かに、驚くほど静かに過ぎていった。
凪紗を目で追うのをやめた。廊下ですれ違っても、視線を合わせないようにした。全校集会も、もう前方の列を探すことはしなかった。それだけのことで、僕の一日はずいぶん楽になった。楽になったはずなのに、その空白が、思っていたよりもずっと大きく、冷たかった。
成瀬は相変わらず三組にやってきたが、凪紗の話を持ち込むことはなくなった。彼女なりの気遣いだったのかもしれない。あるいは、僕の変化に気づいて、触れないでいてくれたのかもしれない。成瀬はそういう子だった。鋭くて、残酷なくらい正確で、でもその鋭さをどこに向けるかを、ちゃんとわかっている子だった。
野原は変わらなかった。
ボウリングの翌週、彼女はいつもと同じ時間に僕の隣に来て、使い込まれた問題集を机に広げた。
「瀬戸くん、ここ。やっぱり計算が合わない」
それだけだった。先週のことには、一切触れなかった。
僕も触れなかった。
ただ、問題集の余白に数式を書きながら、僕は野原の横顔を少しだけ盗み見た。眼鏡の奥の瞳は、ノートだけを真っ直ぐに見つめている。あの日、彼女が「最低」と呟いた時の表情を、僕はまだ覚えていた。でも今の彼女の顔には、その痕跡は微塵もなかった。
潔い人だな、と思った。
秋が深まるにつれて、三年生の空気は少しずつ変わっていった。廊下を歩く僕らの顔から、少しずつ余裕が消えていく。放課後の教室に残って参考書を広げる人間が増え、休み時間の笑い声が短くなっていった。
受験という現実が、僕たちの日常に静かに侵食してきていた。
野原と過ごす時間が、自然と長くなっていった。
放課後の教室で、互いに参考書を広げて問題を出し合った。二人とも黙ったまま、それぞれの問題集に向かっていた。時折、野原が数学の解法を聞いてきて、僕が答える。その繰り返しだった。会話はそれだけで十分だった。二人とも、目指す場所は東京だった。それだけが、この受験期の、唯一の共通点だった。
「瀬戸くん、この英文の解釈、もう一回教えて」
「ここの構造がわかれば、あとは同じパターンだから」
感情のない、事務的なやり取り。でも、その淡々とした時間が、今の僕には妙に心地よかった。凪紗のことを考えなくて済む、数少ない時間のひとつだった。
十一月のある夜、塾からの帰り道で、野原と二人になった。
同じ方向に帰ることは知っていたけれど、自転車を並べて引きながら歩いたのは、その夜が初めてだった。冬の入り口の空気は乾いていて、街灯の下を歩く僕たちの息が、白く小さく弾けては消えた。
「瀬戸くん、第一志望は公立一本?」
野原が、前を向いたまま言った。
「ああ。私立は一校だけ併願する。野原は?」
「同じ。……第一志望、受かるといいね」
それだけだった。特別な感情も、含みもなかった。ただ、同じ季節を生きている二人が、同じ夜道を歩いている。それだけのことだった。
野原の家の近くの角で、二人は別れた。彼女は「じゃあ」とだけ言って自転車に跨り、暗い路地へと消えていった。
一人でペダルを漕ぎながら、僕はふと思った。野原つむぎという人間は、僕に対して一度も嘘をつかなかった。感情を隠すことはあっても、取り繕ったことは一度もなかった。「最低」と言った時も、何事もなかったように問題集を持ってきた時も、全部本当のことだった。
そういう人間が、僕の隣にずっといたんだな、と思った。
気づくのが遅すぎた、とも思った。
でも、それだけだった。
11
十二月。成瀬が三組に来なくなった。
最初は受験勉強で忙しいのかと思っていた。でも一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼女は現れなかった。放課後の教室が、妙に静かだった。成瀬の甘い香水の匂いも、野原の問題集も、健一の無遠慮な笑い声も、この季節だけは少しずつ遠のいていく。
冬休みが明けると、三年生の空気は完全に変わっていた。
廊下を歩く顔から笑顔が消え、休み時間も参考書を手放さない奴が増えた。僕も例外じゃなかった。朝、自転車を漕ぎながら英単語を頭の中で反芻して、夜は参考書を広げ、今日解けなかった問題を書き直した。凪紗のことを考える時間が、受験勉強に塗り替えられていく。それは少し、楽だった。
一月。私立の受験が終わった週の放課後。
帰り支度をしていると、教室のドアのところに成瀬が立っていた。指定外のカーディガンではなく、制服のブレザーをきちんと着ていた。それだけで、なんとなく、今日は違うとわかった。
「ゆーくん、ちょっといい?」
廊下に出ると、成瀬は僕の少し前に立ち、窓の外を見たまま言った。
「私ね、ゆーくんのことが好きだった」
過去形だった。
「一年生の時から。ずっと」
成瀬は窓の外を向いたまま、それだけ言った。顔が、赤く染まっていた。
僕は何も言えなかった。
「答えはいい。もう出てるから」
成瀬は、そこで初めて僕の顔を見た。いつもの不敵な笑顔を作ろうとして、でも頬がほんのり赤いままで、うまくいっていなかった。
「ゆーくんがずっと凪紗のことが好きなのは、知ってた。私じゃないことも、最初からわかってた。それでも言いたかっただけだから」
彼女は少しだけ視線を逸らして、小さく息を吐いた。
「……すっきりした」
彼女はそう言って、くるりと背を向けた。
「高校、違うところになるけど。……元気でね、ゆーくん」
廊下を歩いていく成瀬の背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
僕はその背中に、何も言えなかった。
ごめん、という言葉も。ありがとう、という言葉も。どちらも本当のことだったけれど、どちらも追いつかなかった。
二月。公立の受験が終わった。
合格発表の日、僕は一人で掲示板の前に立った。自分の番号を見つけた瞬間、安堵よりも先に、ああこれで終わった、という思いが浮かんだ。それだけだった。喜びというほど大きな感情もなく、ただ長かった何かが静かに終わった感覚だった。
その帰り道、自転車を漕ぎながら、僕は凪紗の受験結果が気になっていた。どこに受かったのか。どこに行くのか。聞ける立場じゃないのに、それだけが頭の片隅にこびりついて離れなかった。
12
三月。卒業式。
朝から空は高く晴れていた。三月にしては珍しいほど風のない日で、校庭の隅に植えられた桜の蕾が、もう少しで弾けそうなほど膨らんでいた。
制服に袖を通しながら、僕は鏡の前に立った。三年間着続けたこの学ランを脱ぐのが、今日で最後だ。そう思うと、不思議なほど実感がなかった。サイズが合わなくなった服を処分するような、それくらいの淡々とした感覚しかなかった。
でも自転車を漕いで校門をくぐる時、いつもと同じ風景がどこか違って見えた。校舎の壁の染み、昇降口の段差、体育館へ続く渡り廊下。三年間、当たり前のように通り過ぎてきた場所が、今日だけは妙に輪郭を持って目に映った。
体育館に整列すると、同じクラスの野原が隣に並んだ。彼女はいつもと変わらない真っ直ぐな姿勢で前を向いていた。その横顔が、少しだけ強張って見えた。
卒業証書を受け取る時、壇上から見た体育館の景色は、入学式の日とまるで変わっていなかった。あの埃っぽい光の柱も、高い位置にある窓から差し込む陽光も、何も変わっていない。変わったのは、この空間を満たしている僕たちだけだ。
証書を受け取りながら、僕はふと、一年生の五月の全校集会を思い出した。あの日、埃の舞う金色の光の中で、凪紗と視線が合った。彼女が頬を染めて、静かに微笑んだ。それからずっと、僕はこの体育館に来るたびに、彼女の視線を探し続けてきた。
もう、その習慣も終わりだ。
式が終わると、健一が人波をかき分けて飛んできた。泣きそうな顔で笑っていた。普段はあれほど騒がしい奴が、今日だけは何かをこらえているように見えた。僕は健一の肩に手を置いて、「また遊ぼうな」とだけ言った。それだけで十分だった。
その後教室に戻り、担任の最後のホームルームが始まった。
三組の教室は、掲示物が剥がされて殺風景になっていた。でも、その白い壁や、日焼けの跡や、歪んだ引き出しの机が、今日だけはひどく愛しく見えた。野原がいつも座っていた二列目の席。成瀬が反対向きに椅子を置いて座っていた前の席。健一が弁当を広げていた、僕の隣。
担任が一人ひとりに声をかけていく間、僕は窓の外を眺めた。
校庭では、すでに他のクラスが解散を始めていた。あちこちで写真を撮り合い、抱き合い、泣いている生徒たちの姿が見える。その中に、一組の生徒たちの姿もあった。
凪紗がいた。
友達に囲まれて笑っていた。制服の白いブラウスに、三月の柔らかい光が落ちている。彼女の褐色の肌が、春の陽光に溶け込むように輝いていた。
ホームルームが終わり、僕たちも校庭へ出た。
途端に、あちこちから声が飛んでくる。
「ゆーくん、写真撮ろうよ」
「瀬戸、サインちょうだい」
「ボタンくれ」
健一が僕の背中を叩き、また泣きそうな顔で笑っていた。普段はあれほど騒がしい奴が、今日だけは何かをこらえているように見えた。僕は健一の肩に手を置いて、「いつでも会えるよ」とだけ言った。それだけで十分だった。
写真を撮り、サインを書き、何人かのボタンの要求をうまくかわしながら、僕は人波の端へ少しずつ移動していた。
凪紗が来るかもしれない。
その淡い期待を、ずっと胸の奥に隠していた。来るわけがないとわかっていた。三年生になってから、まともに話したことすらない。でも、もしかしたら。その「もしかしたら」だけを、お守りのように握りしめていた。
野原が来た。
「瀬戸くん」
彼女はいつもと変わらない真っ直ぐな足取りで、人波をかき分けて僕の前に立った。眼鏡の奥の瞳が、いつもより少しだけ赤かった。
「第二ボタン、もらえる?」
いつもの事務的なトーンだった。でも、その声がほんの少しだけ震えていた。
僕は黙ってブレザーの第二ボタンを外し、彼女に渡した。
「……ありがとう」
野原はそれを両手で受け取り、一度だけ小さく頷いた。そして何も言わずに、人波の中へ戻っていった。
その背中を見送りながら、僕は胸に空いた小さな穴に指を当てた。
成瀬は来なかった。
一月の廊下で「元気でね」と言ったあの日から、成瀬遥は僕の前に現れなかった。潔い人だな、と思った。あれだけ当たり前のように僕の隣に居座っていた彼女が、いなくなるとこんなに静かになるんだと、改めて思い知った。
人波が少しずつ薄れていく中、僕は校庭の隅に立って、凪紗の姿を目で追い続けていた。
来ない。
わかっていた。でも、足が動かなかった。
凪紗は友達と写真を撮り、泣いている子の背中を撫で、笑いながら何かを話していた。その輪の中にいる彼女は、どこまでも眩しくて、どこまでも遠かった。
やがて、凪紗が不意にこちらを向いた。
視線が、一瞬だけ合った。
彼女は、かすかに微笑んだ。
消しゴムを拾ってくれた時の、あの笑顔とは違った。もっと静かな、もっと複雑な何かを含んだ、大人びた微笑みだった。
僕は、その場から動けなかった。
一歩踏み出せばよかった。名前を呼べばよかった。三年間、ずっとそう思い続けてきたのに、今日もまた、足が地面に縫い付けられたように動かない。
友達に腕を引かれて、凪紗は人波の中に消えていった。
僕はその場に立ったまま、春の風が制服の裾を揺らすのをただ感じていた。
学ランの第二ボタンの跡が、ぽつんと空いている。
凪紗は来なかった。
来るわけがなかった。それでも、あの一瞬の微笑みだけを、僕は胸のいちばん深いところに、そっとしまった。
あの消しゴムを落とした六月の雨の日から、三年という時間が経っていた。
13 凪紗 三年生の終わり
ゆーくんが私を見なくなったのは、七月の全校集会の後からだった。
最初は気のせいだと思った。
廊下ですれ違っても、視線が合わない。体育館に集まっても、あの視線が飛んでこない。二年生の五月からずっと続いていた、あの密かな習慣が、ある日を境にぷつりと途切れた。
私は、理由を知っていた。
あの集会で、私は河村くんを見た。ゆーくんに気づいてほしくて、わざと視線をずらした。もしゆーくんが見ていてくれたなら、私が別の誰かを見たことに気づいて、少しくらい焦ってくれるんじゃないかと思っていた。
幼稚な策だと、自分でもわかっていた。
でも、あの頃の私には、それしか思いつかなかった。直接言葉にする勇気もなくて、消しゴムを落とすみたいな不器用な方法でしか、気持ちを伝えられなかった。
結果は最悪だった。
ゆーくんは焦るどころか、私を見るのをやめてしまった。
その後、河村くんと付き合っているという噂が広まった。河村くんは五組なのに、一組にしょっちゅう顔を出していた。その度に私と話す様子を誰かが見ていたのだろう。気づいた時には噂は一人歩きしていて、私にはもう止める術がなかった。
ゆーくんの耳にも、届いたはずだ。
廊下ですれ違う時、以前は一瞬だけ視線が合うことがあった。でも噂が広まってからは、ゆーくんは私の存在ごと、視界の外に追いやるようになった。
私はその背中を、ただ目で追い続けた。
見てよ、と思った。
こっちはずっと見てるのに、と思った。
でも、ゆーくんの視線が私に戻ってくることは、秋が過ぎても、冬になっても、なかった。
一月の終わり、遥が私に打ち明けてきたのは、そんな頃だった。
放課後の教室に二人だけになった時、遥はいつもの不敵な笑顔を引っ込めて、窓の外を見ながら言った。
「ねえ凪紗。私、ゆーくんに告白したんだ」
心臓が、静かに跳ねた。
「……そうなんだ」
「振られた。まあ、わかってたけど」
遥は笑おうとして、うまくいかなかった。顔が赤くなっていた。私は何も言えなかった。
「ゆーくんね、ずっと別の誰かが好きなんだよ。私じゃない誰か。それだけははっきりわかった」
遥の言葉が、胸の奥に静かに落ちてきた。
別の誰か。
その言葉の意味を、私は咀嚼することができなかった。できなかったふりをした、と言う方が正確かもしれない。
「……遥、大丈夫?」
「大丈夫。すっきりしたし」
遥はそう言って、ようやくいつもの笑顔を取り戻した。でも私はその夜、布団の中で、遥の言葉を何度も反芻した。
ずっと別の誰かが好き。
私じゃない誰か。
その「誰か」が誰なのか、遥は言わなかった。私も聞けなかった。聞いてしまったら、何かが取り返しのつかない形で動き出してしまう気がした。
二月。受験が終わった。
合格発表の日、私は自分の番号を見つけながら、ゆーくんがどこに受かったのかを考えていた。市内で一番の公立。ゆーくんなら受かっているはずだ。
高校が分かれる。
その事実が、じわじわと胸に染み込んできた。中学でこれほどすれ違い続けたのに、高校でさらに離れたら、もう二度と話せないまま終わってしまうかもしれない。
卒業式までに、何かしなければ。
そう思い始めたのは、その頃からだった。
三月。卒業式の朝。
制服のブレザーを着ながら、私は鏡の前に立った。今日で最後だ。この制服を着るのも、この校舎に来るのも。
式が終わって校庭に出ると、遥が私の隣に来た。
「凪紗、行ってきなよ」
いきなりだった。
「……何が」
「とぼけないでよ。ゆーくんのとこ。第二ボタン、もらいに行きなよ」
遥は、まっすぐに私を見ていた。告白して振られた子の顔じゃなかった。もっと静かな、覚悟を決めた顔だった。
「遥……」
「私はもう終わったから。凪紗が行かないでどうすんの」
胸が、痛かった。
遥に背中を押されて、私は人波の中を歩き始めた。ゆーくんの姿を探しながら、心臓が喉元まで上がってくるのを感じていた。
見つけた。
校庭の隅、人波から少し離れた場所に、ゆーくんが立っていた。
行こう、と思った。
一歩踏み出した、その時だった。
悠真の前に、野原さんが現れた。
彼女はいつもの真っ直ぐな足取りでゆーくんの前に立ち、何かを言った。ゆーくんが学ランのボタンに手をかけた。
第二ボタンが、野原さんの手に渡った。
私の足が、止まった。
野原さんは両手でそれを受け取り、小さく頷いた。その横顔は、いつもの無表情とは少しだけ違って見えた。
ゆーくんは、穏やかな顔をしていた。
私は、その場から動けなかった。
怒っているわけじゃなかった。野原さんを恨む気持ちもなかった。ただ、一歩遅かった、という事実だけが、春の陽光の中で静かに私を押しつぶしていった。
遥が隣に来た。
「……凪紗」
「大丈夫」
私は笑った。遥が私に言ったのと同じ言葉で、同じように笑った。
その時、ゆーくんがこちらを向いた。
視線が、一瞬だけ合った。
ゆーくんは、かすかに微笑んだ。
私も、微笑み返した。
それだけだった。
友達に腕を引かれて、私は人波の中に戻っていった。
三年間。消しゴムを拾ってから、ずっとこうだった。
第四章 見えない距離 に続く
▼小説出版しました!KindleUnlimitedに加入しているかたは是非読んでみてください!(買うと高いので加入してない方はキャンペーンまで待っててね)
超大作・・・長編にしようと書いていたら、結局200ページ・・・
ん〜結構大変💦
ちなみに、ペンネームでだしたら、「あっちゃん」のページと別になっちゃいました(そりゃそうだ)
ちなみに現在出版中の本はこれら!↓
Kindle Unlimited(読み放題)なら全部0円で読めます。
▼ 僕がKindle出版した本はこちら
▼ もう一冊書いちゃいました!
▼ 3日連続出版(笑)
▼ 4冊目出版(笑)
今度は面白おかしいブログ運営ストーリー
▼ 5冊目出版!
今度はエッセイ
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