イランの記憶がよみがえる朝
朝、窓をあけると、雲ひとつない青空が広がっていた。
春らしい陽気に心が少しゆるむ。
ソファに横たわり、SNSを眺めると、
イランへの攻撃を伝える文字が目に入った。
すぐにBBCのニュース記事をひらく。
「アメリカとイスラエルは28日、イランへの攻撃を実施したと発表した。」
「イランのファルス通信は、テヘラン、イスファハン、コム、カラジ、ケルマーンシャーの各都市で爆発音が聞こえたと報じた。」
その文字を追ううちに、心臓がどくどくと早鐘のように鳴りはじめ、喉の奥がきゅっとつまった。
八年前、一人旅の途中で「イランいいよ」と勧められ、ふらりと向かった。
イスファハンからテヘランまで。
大雪で道が閉ざされ、本来なら六時間で着くはずが、二十七時間かかった忘れられない夜がある。
朝にはテヘランに着くはずで、バスに乗った。
けれど、あと少しというところで雪のために通行止めになり、バスは止まった。
車内で何時間も待ったあと、解除されないまま、引き返すことになった。
翌日の飛行機に乗るには、その日のうちにテヘランへ入らなければならない。けれど別の便まで運休になってしまった。
ターミナルのベンチで、途方にくれていると、
「こんにちは。何か僕が手伝えることはある?」
そう声をかけてくれたのが、サジャだった。
サジャは私の顔を見て「疲れているね」と言い、エナジードリンクを買ってきた。
そのあとも、あちこちへ電話をかけている。
バスは通れなくても、普通車なら行けるらしい。そんな情報まで見つけてくれた。
手持ちのお金が足りない私に、「心配しなくていいよ。足りない分は僕が出すから」と言い、近くの人たちにも声をかけはじめる。
そうして、モハメッドさんも加わり、運転手のホショーさんと私たち四人で、テヘランへ向かうことになった。
乗り込んだ車は、タクシーと呼ぶにはあまりにくたびれていて、
走り出してしばらくすると、二時間に一度は止まる。
冷却水を足したり、何かを覗き込んだりして、ホショーさんが外へ出る。
こんな車で六百キロも走るのかと思うと、胸がすくんだ。
けれど、車の中は不思議なくらいあたたかい。
ホショーさんは車内にティーポットを積んでいて、みんなにお茶を配る。
モハメッドさんはお菓子をたくさん買い込み、まるで小さなお茶会みたいだった。
サジャは三十分おきくらいに、「お腹は減ってないか」「お茶は?」「トイレは平気?」と声をかける。
そのたびに、張っていたものが少しずつほどけていった。
通行止めの場所まで戻ってきても、道はまだ閉ざされたまま、ほかの車は次々に引き返していく。
ここまで来たのに、また戻るのかと思っていると、ホショーさんは雪の中に出て情報を集めたあと、警察のいる通行止めのわずかな隙間をするりと抜けていった。
誰もいないハイウェイを、私たちの車だけが進んでいく。
テヘランに近づくほど、道は雪と氷でひどい悪路になっていく。
みんなで固唾をのんで前を見つめていた。
急にサジャが「道路じゃなくて、僕の携帯を見ながら音楽を聞いていなさい」と言って、スマホとイヤホンを渡してきた。
耳に流れてきたのは、嵐の曲だった。
久しぶりに耳に入ってきた日本語と、サジャの気づかいがあたたかい。
夜中の二時を過ぎて、ようやくテヘランの街に着いた。
けれどホテルまでの道に迷い、モハメッドさんの携帯のGPSも使えず、一時間近くさまよう。
それでもホショーさんは、苺のキャンディを差し出して、「大丈夫だよ、もうすぐ着くからね」と笑った。
やっとホテルに着いたあと、サジャは「僕の宝物を見せてあげる」と言って、小さな箱を開いた。
石をひとつひとつ取り出し、その中からイランの印が彫られたものを「これはひとみにプレゼントだよ。これを見て、いつでも僕を思い出してね」と手渡してくれた。
からだは睡眠不足と長距離移動で節々まで痛かった。
けれど心は、あたたかく、贅沢だった。
Instagramを開き、あの時の写真を見る。
真夜中の雪の中、みんな疲れ切った顔のまま、笑っている。
イランで過ごした二週間。
公園で一緒にピクニックをした家族。
エコシステムの発表パーティー。
イランママの料理の手つき。
塩の湖へのドライブ。
スワイプするたびに、悔しさが込み上げる。
彼らは今、どんな気持ちでいるのだろう。
安心できる場所にいるのだろうか。
気づくと、リプライをしていた。
画面がにじんでいく。
外では、ときおりピアニカの音がする。
さいた さいた チューリップの花が
小さな指先が、はねるように明るい音を鳴らしている。
好きだった人たち。
ほどけていった心。
人のあたたかさに何度も触れた場所。
ならんだ ならんだ 赤 白 黄色
音は何度も、明るく響く。
あの場所で今、何かが起きている。
それなのに、自分はここにいて、何ひとつ止められない。
どの花 みても きれいだな
部屋の中は、ただ静かなままだった。
