風が吹く。いのちは巡っている。
「あ、ワーキングスペースはこちらですか?」
ノートパソコンとキーボード、手帳を抱えて、リビングに入った。
おどける私にパートナーは苦笑いをする。
今日は彼が午前中、家で仕事をしている。
いつも食事をするテーブルに向かい合って、パソコンを開いた。
午前中をそれぞれ集中して過ごし、
お昼に彼を見送って、図書館に行った。
年末年始を越えて、ずっと休みだった図書館が、今日やっと開館した。
見慣れた景色、
見慣れた空気。
それが戻ってきたことに、ほっとする。
私の居場所、なんて言うと大げさだけど、
見慣れたものがあるだけで私はここに戻れる気がする。
本を返却して、日用品の買い物に行こうと
ショッピングモールへ車で向かう。
スリッパをそろそろ新調したい。
本屋さんで楽譜も見たい。
買い忘れた桜エビも買わなくちゃ。
そんなことを考えながら、赤信号で車が停まる。
目の前のけやきが、きらきら光って、気持ちよさそうに風に揺れている。
左へウインカーを出して、公園への坂道を登る。
木々の影がフロントガラスを流れていく。
車を降りた途端、鳥たちの声があちこちから聞こえてきた。
ピィーー。
チュチュチュ。
チーチー。
風が木々の間を抜けて、土と葉の匂いを運んでくる。
空気が冷たくて気持ちいい。
縮んでいた意識がぐんぐんと広がっていく。
風にのって。
鳥の声にのって。
どこまでも遠くへ。
たった一周だけでも、胸の中が澄んだ。
買い物をして家に帰った。
夕飯のあと、湯のみをソファの肘掛けに置いて、ひと息つく。
本をめくっていると、一節に目が止まる。
「小さな微生物からシロナガスクジラまで。
生き物たちは、みんな「生きる」方へ向かう。
その無数の集まりが、地球の仕組みを動かしうる。」
もう一度、なぞるように読み直した。
目の前に、生命全体が大きなうねりとなって浮かんでくる。
みんな違う姿で、
それぞれの中に躍動するいのちがあり、
その無数の営みが重なって、
地球の循環そのものが、回り続けている。
本を閉じても、胸の奥にはまだ、あのうねりが残っていた。
お風呂に入って、髪を洗っていると、
泡を流す手を動かした拍子に、足元で黒い点が目に引っかかった。
よく見ると、小さな黒い蜘蛛が丸まっている。
かなり弱っているようで、ほんの少しだけ手足を動かしている。
お湯やシャンプーは、蜘蛛にとってきついはず。
あわてて近くにあった古歯ブラシに乗せて、脱衣所に出した。
お風呂から上がると、蜘蛛は同じ形のまま動かなくなっていた。
ゴミ箱へ捨てようか……けど、そうするとこの蜘蛛のいのちは、ここで止まってしまう気がする。
バスローブを首元まできゅっと寄せて、
庭に面している窓を開けて、
土の上に蜘蛛を放った。
蜘蛛のからだは、小さな分解者たちによって、土の栄養として還り、いのちの循環へ巡っていく。
顔を上げると、柿の木の先で枯れ葉が揺れていた。
