理由の手前で
朝、コップの湯気を追っていた。
湯気は一筋にすぅと勢いよく伸び、
たおやかにひらいて、空気に溶けていく。
ゆらめき、
ひろがり、
交わっていく。
似た動きのはずなのに、
よく見ると一つ一つがまったく違って目が離せない。
だんだんと、ひらく力が小さくなって、
また、すぅと一筋に伸びて、
消えて、なくなった。
瞑想をして、今年最後のヨガレッスンへ。
季節をたどるように、からだを動かしていく。
春から夏。
からだの熱が巡り、強まってくる。
夏から秋、そして冬。
からだの奥の芯が通り、深く底へと落ち着いていく。
最後に、今年ずっと支えてくれたからだへ、
みんなで「ありがとう」をたむけた。
「また来年」と言って、画面を閉じる。
お昼を食べて、本を読む。
民俗学のやり方で聞き書きされた言葉が、介護の関係性をほどいていく。
相手が「ケアされる人」ではなく、
人生を語る語り手として立ち上がってくる。
その場面にハッとしてメモをとる。
福祉の仕事でもないのに、
障害のことや、共に生きることについて、
なぜか私は学び続けている。
「どうして?」
そう聞かれるたびに、
ボランティア論に興味があったことを話したり、
弱さや揺らぎを抱えたまま生きる人の姿に、惹かれてしまうんだと答えたりする。
どれもそのような感じもするし、
全然違う気もする。
その場で理由らしきものを繋ぎ合わせているだけで、
本当は、よく分かっていないのかもしれない。
そもそも、私は一つ一つの行動を、理由づけできるのだろうか。
なんでこれが好きなの?
どうしてこれをしたの?
その問いには「それをする理由がなにかしらある」という前提がある。
本当にそうだろうか。
理由がないもの。
世界は案外、そういうものでできているのかもしれない。
外出するパートナーを見送って、マットを広げる。
尾骨、骨盤、背骨。
一つ一つの小さな連なりを感じながら動かす。
縮んでいた胸がひらいて、呼吸がぐんぐん入る。
お腹の奥がしっとりと落ち着いていく。
それを感じていたら歌いたい気持ちが湧いてきた。
「カラオケに行こう」
むくりと立ち上がり、着替えて外に出る。
もうすっかり暗くなった道を自転車で走る。
子供が巣立って何年も経つのに、
未だに夜、一人で出かけることにどこか小さな後ろめたさと、新鮮なワクワクが入り混じる。
「フフーン、フンフフフーン」
鼻歌が、冷たい空気のなかへ溶けていく。
何歌おうかな。
ついでにコンビニでお菓子も買ってこう。
弾んだ気持ちでペダルを漕いだ。
