見出し画像

語りが支えていた居場所

ゴォォォォ。

夜のあいだ、ずっと風の音が続いている。

なかなか眠れなくて、ぼんやりと天井を見た。
それから襖、障子と目を移す。

目の前が、ほんのり明るい灰色のやわらかい膜に包まれているように見える。

なんだろう。安心する。

座敷童子がいると言われる部屋に泊まっているのに、不思議と怖さはない。

泊まる前までは、
金縛りにあったらどうするか。
布団の上に乗って来たら目を開けるか、開けないか。

ずいぶんシミュレーションをしていた自分を思い出して、苦笑いする。

隣では、ぐっすり眠っているパートナーが時折、寝息を立てていた。

うつらうつらしているうちに、窓の外が明るくなってきた。
からだを起こして、温泉へ向かう。

お布団のぬくもりから、湯のぬくもりへ。
ほとんど境目もないまま、ゆるんだ肌が湯の輪郭にふれて目覚めていく。

部屋に戻るとパートナーが起きていた。

「座敷童子、会えた?」

「なんも。よぉ寝た!」

あっけらかんとした笑顔に、夜のあいだ張っていたものがゆるむ。

会えたかどうか。
何か不思議なことが起きたかどうか。

そんなふうに聞かれるものとして、座敷童子は今も残っている。

けれど、残り方はずいぶん変わっているのかもしれない。

見えないものをどう受け取るか。
その捉え方は、個人の知識や体験だけでできているものではない。
時代の価値基準や、経済や合理性みたいなものに、知らないうちに形づくられていく。

昔はもっと当たり前に、自然や霊的なものとのやりとりが、暮らしの中にあったはずだ。
それが今は薄くなっている。

不確かなものは、安心と引き換えに少しずつ居場所を失っている。
その居場所を、昔は語りの中で支えていた。

伝承は内容だけでなく、語られ方ごと受け渡されていくものだ。

昔の妖怪や目に見えないものは、都合のいい存在だけじゃなかった。
怖いものも、厄介なものも、理不尽なものも、全部ひっくるめて、暮らしの中にいた。

それは、説明できない揺らぎを共同体で抱えるための器でもあったんだと思う。

けど今は、妖怪の気配そのものに出会いにくい。
「あの川にあずき洗いが出る」とか、
「このマンションでぬりかべの声がする」とか。

そういう「日常のなかの不確かさ」は、ほとんど語られない。

残りやすいのは、座敷童子みたいに、私たちにとって都合のいい存在。
怖さや不気味さが削がれて、やさしく、安全に、受け取れる形に整えられていく。

「見えないものと共に生きる場」というより、
「見えないものを安全に消費する場」になっていく。

そして私もその枠の中にいた。

童子に会えたらラッキーかな。
ご利益あるかな。
そんなふうに、どこかで成果を取りに行っていた。

泊まる前にあれこれ想定していたのも、先に安全な柵を作る癖だった。
けど先に世界の形を決めてしまうほど、世界は固くなる。

だからこそ大事なのは、どんな姿勢で世界に触れているか。
確証や成果として、見えないものを持ち帰ろうとする触れ方か。
それとも、関係の中に身を置く触れ方か。

見えることを目的にしない。
持ち帰ろうとせず、その関係の中に身を置いてみる。
たぶん私にできるのは、その練習をもう少しだけ続けることなんだと思う。

そんな話をしていると、
彼は、また難しい話が始まったな、という顔で笑った。

身支度を整えて朝食を食べたあと、
女将が「よく眠れましたか」と笑顔でいらしてくれた。

座敷童子に会えなかったことを伝えると、
「ここの空間、全部が童子ちゃんのふところなんだと思います。
会えなくても、ちゃんと童子ちゃんは藤田さんたちを認識していると思いますよ」
と、満面の笑みで伝えてくれた。

その言葉で、夜の灰色の膜を思い出した。
説明できないままの安心が、まだそこに残っていた。




いいなと思ったら応援しよう!