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若者を排除する都市――トー横を必然化してしまう現代の統治構造

断罪では終わらない

東京・歌舞伎町のトー横に通っていた女子中学生が、脅され売春を強いられていたという報道は、多くの人に怒りを抱かせた。未成年を囲い込み、なりすましで客を募り、利益を回収する。その行為は明確な犯罪であり、厳罰は当然である。

しかし、ここで思考を止めてはならない。

子どもは危険を知らなかったのではない。むしろ知っていたはずだ。それでも戻った。その事実こそが、この問題の核心である。問うべきは「なぜ騙されたのか」ではない。「なぜそこに通い続けたのか」である。


帰る場所が「家」とは限らない

「家に帰せばいい」と言う者は多いだろう。しかし帰る場所そのものが壊れている子どもにとって、帰宅は解決を意味しない。

家庭内暴力、ネグレクト、過干渉、貧困、孤立。屋根があっても、そこが安心できる場所とは限らない。物理的な住居と、存在を肯定される居場所は同義ではない。

トー横やグリ下に集まる若者たちは、危険よりも「分かってもらえる感覚」を選ぶ。同じ言葉を使い、同じ疲れを共有できる空間には、少なくとも無視されない時間がある。

孤独が極限に達したとき、人は合理性よりも居場所を選ぶ。これは未熟さではない。人間の構造である。


搾取は空白に入り込む

搾取は暴力から始まらない。寝る場所と食事から始まる。「今日はここにいなよ」という言葉で距離を縮め、依存関係を形成し、その後で支配へと切り替える。

制度の外にこぼれ落ちた子どもがいる場所には、必ず“回収する大人”が現れる。市場は空白を放置しない。支援が届かないところには、搾取が先に届く。

問題は個人の悪意だけではない。空白を放置している構造にある。


支援は存在する。しかし届かない

日本には児童相談所や自治体の窓口、民間団体など、支援制度が存在する。それでも守れないのはなぜか。

制度は「助けを求められる主体」を前提に設計されているからだ。電話をかけられること、自分の状況を説明できること、助けてほしいと口にできること。しかしトー横にいる子どもたちは、その前提の外側にいる。疲弊し、警戒し、大人に対する信用を失っている状態で、制度の入口は遠すぎる。

制度はある。だが、彼女たちの手の届くところにはない。


都市は排除するように設計されている

ここで視点を引かなければならない。この事件は、個人の悲劇ではない。都市統治の問題である。

現代の都市は、安全・効率・資産価値の最大化という論理で再編されている。再開発は街を美しくし、消費しやすくし、投資対象として磨き上げる。その過程で、予測不可能で滞留する身体は管理対象となる。

青色の街灯、寝転べないベンチ、滞留を許さない空間設計、監視カメラの増設。どれも直接的な暴力ではない。しかしそれらは、「ここに長く留まるな」という空間的メッセージである。

都市は排除を宣言しない。ただ、居られなくする。


再開発と資本の論理

都市再開発は「安全」や「健全化」を掲げる。しかしその背後には資産価値の論理がある。投資対象としての都市は、統制不能な身体を嫌う。消費に直結しない若者の滞留は、ブランド価値にとってノイズとなる。

中心部が磨かれるほど、はみ出した存在は縁へ押し出される。縁は管理の視線が弱い。だからこそ、搾取はそこに根を張る。

トー横は治安の失敗ではない。
都市設計の帰結である。


「自己責任」という思考停止

事件が起きるたびに、「自己責任」という言葉が出る。それは問題を個人に閉じ込める装置である。

だが未成年は市場参加者ではない。選択肢を奪われた状態を自己責任で語ることはできない。それは分析ではなく、社会の安心のための言葉である。

問われるべきは、「なぜ彼女はそこに行ったのか」ではない。「なぜ都市は、そこにしか居られない構造を作ってしまうのか」である。


排除を生み出してしまう統治構造

都市は、家族を前提とし、自己申告できる主体を前提とし、市場参加できる身体を前提として設計されている。その前提から外れた瞬間、子どもは制度の外へ滑り落ちる。

滑り落ちた先に、再開発からこぼれ落ちた空間がある。そこに集まるのは、失敗した個人ではない。前提から排除された存在である。

断罪は必要だ。厳罰も必要だ。しかし都市の設計思想が変わらない限り、縁は再生産される。中心が整うほど、周縁は濃くなる。

子どもは危険を知らないのではない。それでも戻るのは、そこにしか存在を許される場所がないからだ。

そしてそれは、個人の問題ではない。
都市が、誰を包摂し、誰を外縁へ追いやってしまうのかという、現代の統治構造の問題である。



追記|制度はなぜ「届かない」のか――非人間化というもう一つの統治

本稿に対し、三澤直己さんが丁寧な引用と考察を寄せてくださった。「制度はある。だが、彼女たちの手の届くところにはない」という一節を取り上げ、その言葉を抽象にとどめず、現実の場面へと引き戻してくださったことに、深い意味を感じている。

三澤さんが紹介されたのは、生活保護申請の現場で起きた出来事である。ある方が何度も申請を試みながら退けられた支援が、法律家の同行によってわずか30分で通ったという事例だ。この事実は重い。制度が存在するかどうかではない。制度へ到達する媒介者がいるかどうかで、生存の可否が分かれてしまう。

未成年にとって、その入口の高さは想像を超えるだろう。制度は「ある」。だが、そこへ辿り着く回路は均等ではない。ここで問題になるのは、水際作戦という行政技術だけではない。三澤さんが提示した「非人間化/再人間化」という視点こそが核心である。

搾取は暴力から始まらない。優しさを装った接近から始まる。「今日はここにいなよ」という言葉、寝る場所、食事。その前段階で起きているのは、身体の拘束ではなく、語られる価値の剥奪である。社会が「あの子たち」「そういう世界の人」とラベルを貼った瞬間、その存在は具体性を失い、共感は静かに弱まる。

非人間化とは、単なる差別ではない。それは感情の省力化であり、統治の効率化である。誰かを「例外」や「ノイズ」として扱うことで、社会は複雑な責任から解放される。

都市再開発が掲げる「安全」や「健全化」も、同じ構造を孕む。資産価値に適合しない身体は、静かに周縁へ押し出される。排除は警棒で行われない。照明の色、滞在しにくい設計、価格帯、視線の圧力によって行われる。そこに自己責任論が重なれば、「見ないこと」は倫理的に正当化される。

この構造のなかで、制度が届かないのは偶然ではない。非人間化された対象に、制度は冷たくなる。あるいは、冷たい制度に触れる前に、当事者の側が諦めてしまう。排除は都市の外側で起きているのではない。入口で起きている。

三澤さんはさらに、共感的関心の低下やモラル・ディスエンゲージメント(自己正当化の心理傾向)との関連にも触れている。いじめ研究が示すのは、「助けようとする子ども」と「仕方ないと考える子ども」の差である。これは子どもの話にとどまらない。共感の回路が弱まる社会では、排除は自然化される。

では、どうするのか。

三澤さんが提案する「通訳・翻訳としての大人」という発想は重要である。制度より先に、「怖くない」「説教しない」「話が通じる」大人との接点をつくること。制度は無機質だが、人は媒介になれる。制度へつなぐ回路は、人を経由しなければ機能しない。

しかし、これは単なる福祉の問題ではない。都市統治の問題である。排除の設計が続く限り、支援は常に後追いになる。入口で弾くのではなく、受け入れたうえで社会に戻す回路を分岐させる。三澤さんが比喩に用いたF1のピットのように、修復と再出発を同時に可能にする構造が必要だ。

街で働く大学生も、うまくいかず街に滞留する若者も、同じ都市の住民である。どちらかを「価値ある身体」とし、どちらかを「ノイズ」とする瞬間、都市は倫理を手放す。トー横の問題は、個人の逸脱ではない。都市が誰を人間として扱うのかという問いである。

三澤さんの考察によって、本稿は一段深まった。排除は空間の問題であると同時に、感覚の問題でもある。再人間化の場をどこに設計できるのか。そこに、教育と福祉の接点がある。

この問題を通して、私たちは問われているのだ。
誰を「同じ人間」と感じ続けられるのかを。

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