教育は子どもの時間を奪っていないか――私はなぜ「勉強させる教育」を信じなくなったのか
1.勉強時間を増やせば学力は伸びると思っていた
午後三時を過ぎると教室には少しずつ生徒たちが集まり始める。五時を過ぎる頃には最も活気づき、その状態は夜まで続く。そして九時頃になると、生徒たちはそれぞれ帰路につき、教室には静けさが戻る。その光景を見ながら、私は時々、昔の教室を思い出すことがある。
今から二十年以上前、私はかなり厳しい塾を運営していた。宿題を忘れれば居残り。勉強に向き合わなければさらに居残り。場合によっては深夜を越え、朝方まで教室に残して勉強させることもあった。当時の私は、それを特別なことだとは思っていなかった。むしろ勉強しない子どもに勉強させることこそ教育であり、努力を支えるためには一定の管理が必要だと信じていたのである。
実際、その方法によって成績が伸びた生徒もいた。志望校に合格した生徒もいた。学習時間と学力との間に一定の相関があることは、多くの調査でも示されている。だから私は長い間、自分の教育観を疑わなかった。しかし教室を続ける中で、一つだけ説明できない現象があったのである。
2.受験が終わると学びも終わってしまう
それは、受験が終わった途端に勉強しなくなる生徒たちの存在だった。高校受験を終えると机に向かわなくなる生徒。大学受験後に本を読まなくなる学生。もちろん全員ではないが、あれほど勉強していた子どもたちが、なぜ学ばなくなるのか。その問いだけは長い間、私の中から消えなかった。
当初は本人の問題だと思っていたが、同じ光景を何度も見続けるうちに、別の考えが浮かぶようになった。私たちは勉強させることには成功していても、学ぶ人間を育てることには成功していなかったのではないか。
受験には分かりやすい目標がある。期限があり、結果があり、数字で評価できる。だから教育もまた受験を中心に組み立てられやすい。しかし本来、受験は学びの終着点ではない。もし受験が終わった瞬間に学びも終わってしまうのであれば、その教育は本当に成功だったと言えるのだろうか。
3.子どもの時間は誰のものか
この疑問を持つようになってから、私は子どもたちの生活そのものを見るようになった。朝から学校へ行き、放課後は部活動へ向かう。帰宅して夕食を済ませると塾へ行き、帰宅後は風呂に入って寝る。現代の子どもたちは驚くほど忙しい。
学校、部活動、習い事、塾が時間を決める。一日のほとんどが誰かによって決められた予定で埋め尽くされている。それぞれに意味はあるにしても、その中に子ども自身が考え、試し、失敗し、学ぶための余白はどれほど残されているのだろうか。
近年は個別指導塾の増加に伴い、授業時間も夜へと集中するようになった。大学生が指導の中心となる個別指導においては、講師確保の観点からもやむを得ない側面がある。小学生が夜八時から授業を受け、十時近くに帰宅することも珍しくない。その光景を見るたびに私は考える。本当に必要なのは、さらに時間を埋めることなのだろうか。あるいは、子どもが自分自身と向き合う余白を確保することなのだろうか。
4.学習習慣とは何か
私は長い間、「勉強時間」と「学習習慣」を同じものとして考えていた。しかし今は違うと思っている。
勉強時間は外から与えることができる。塾へ行けば勉強するし、宿題を出して管理すれば取り組むだろう。しかし学習習慣とは本人の内側に形成されるものである。塾で二時間勉強したことと、自分から二時間勉強したことは同じではない。前者は管理によって成立するが、後者は主体性によって成立する。
そして教育が本当に育てるべきなのは後者である。
教育心理学では、人は自ら選択し、自ら決定した行動に対して強い意欲を持つことが知られている。逆に、常に指示され続ける環境では、自分で考え、自分で動く力は育ちにくい。学習習慣とは毎日机に向かうことではない。自分で必要性を感じ、自分から学び始めることに他ならない。
もちろん子どもに学習支援や管理が必要な時期はある。しかしそれは、自立に向かうための補助輪でなければならない。補助輪を外すための支援であって、補助輪をつけ続けるための支援であってはならないのである。
5.受験のための学びから、生涯の学びへ
社会は急速に変化している。知識や技術の寿命は短くなり、一度学んだことだけで生涯を生き抜くことは難しくなっている。これからは社会人になってからも学び続けることが当たり前になるだろう。
そう考えると、教育に求められるものも変わる。受験に合格するためだけの学力ではなく、自分に不足しているものを見つけ、自ら学び続ける力である。分からないことに出会ったとき、それを放置するのではなく、自ら調べ、考え、身につけていく力である。
受験は人生の一部に過ぎない。しかし学びは人生全体に関わる。だからこそ教育は、受験の成功だけではなく、その先の人生まで視野に入れなければならないのである。
6.教育とは管理を手放していく営みである
かつて、生徒を朝まで教室に残してまで勉強させていた頃、私は勉強しない子どもに勉強させることこそが教育であり、学力向上のためには管理が必要だと考えていた。
今でも努力の価値を疑ってはいないし、学力の重要性も変わらない。しかし教育とは、本来、管理を強めていく営みではなく、管理を少しずつ手放していく営みなのだと思う。
子どもは最初から自立できるわけではない。だから支援も必要であり、管理も必要である。しかしそれは永続的なものではない。子どもが自ら学べるようになるまで支え、やがて自分の力で歩き出せるようにすることこそが教育の役割である。
受験に合格することも大切だろう。点数を上げることも大切だろう。しかし教育の価値は、それだけでは測れない。教室を出た後も学ぶのか。受験が終わった後も学ぶのか。社会に出た後も学ぶのか。その問いに向き合ったとき、初めて教育の成果が見えてくるのではないだろうか。
教育観は教育者の数だけ存在する。そして私自身もまた、これから変わり続けるのだと思う。それでも今の私が一つだけ確信していることがある。教育とは、学びの主体を少しずつ子どもへと引き渡していく営みだということである。それが二十年以上教室に立ち続けた末に、私がたどり着いた一つの答えである。
