昔、社会運動が少し怖かった僕が、「署名」について考えたこと
最近、同性婚(婚姻の平等)に関する署名活動へ賛同した。
最高裁判所で、早ければ2026年中にも、同性婚をめぐる重要な憲法判断が示される可能性があると言われている。
現在行われている署名活動は、その最高裁判事へ向けて、民意や当事者・支援者の声を届けるためのものだ。
今回、僕自身も署名をしたのだけれど、それと同時に、「そもそも署名とは何なのだろう」ということを、あらためて考えてみた。
今日は、そのことについて少し書いてみたい。
(少し長めの文章になったので、初めて目次をつくりました)
1.「署名」や「社会運動」が少し怖かった頃のこと
子どもの頃や、上京して間もない頃の僕は、デモや署名活動のような社会運動に対して、少し距離を感じていた。
親元にいた頃、少なくとも子ども目線では、親は政治や社会活動に関心がある人ではなかった。
一度も投票へ行く姿を見たこともなかった。
だから10代の僕にとって、「社会について意思表示をする」ということ自体が、どこか遠い世界の出来事のようにも感じられていた。
街頭で響くシュプレヒコール。
インターネットに流れてくる切実なメッセージ。
怒りや悲しみ、切迫感を伴った投稿。
もちろん、それぞれに理由や背景があることは、今ではある程度想像できる。
けれど当時の僕は、その“熱量”や“表現の強さ”に、少し圧倒されてしまっていた。
駅前や街中でデモを見かけたとき。
ネット掲示板で激しい言葉が飛び交っているのを見たとき。
圧倒されたり、辟易したりして、「自分には関係ない世界だ」と思いたくなる瞬間が、正直あった。
自分はどう関わればよいのだろう。
賛同するにしても、どこまで理解すればよいのだろう。
そもそも、「自分のような人間」が賛同したり、活動に参加したり、声を上げてよいのだろうか。
自分のことすらおぼつかないのに…。
そんなふうに、戸惑っていた。
また、政治や社会について何かを表明することには、どこか「怖さ」があった。
間違えたくないし、過激だと思われたくない。
意識が高い人だと思われることへの、気恥ずかしさもあったのだと思う。
だからこそ僕は、「関心はあるけれど、どこか距離を感じている」という人の感覚を、少し想像することができる(けして、その人が僕と同じ、ということではなく)
2.なぜ人は、社会問題に距離を感じるのか
そして、最近は、社会問題に距離を感じる人がいるのは、ある意味では自然なことなのかもしれないと思っている。
現代は、本当にたくさんの問題か山積していて、絶え間なく情報が流れてくる。
災害。戦争。
差別。貧困。
政治。ジェンダーギャップ。
エネルギー問題。環境問題。
そのどれもが重要で、切実だ。
けれど、人間が一度に抱えられる感情や関心には限界もある。
仕事や学校、家事や介護や育児。
大切な人とのデート。
生活そのものに精一杯な日もある。
僕も心が疲れているときには、社会の問題や切実な声に触れること自体が、苦しく感じることもある。
そしてSNSや動画投稿サイトでは、ときに「強い言葉」や「尖った言葉」ほど拡散されやすい。
それによって、「ちゃんと理解していないと発言してはいけない」「完璧な知識がないと参加できない」という空気を感じてしまう人もいるのではないだろうか。
でも本当は、もっと不完全なままでも、迷いながらでも、社会について考えてよいのだと思う。
僕自身も、今なお「考えながら」「学びながら」の途中にいる。
3.そもそも署名とは何なのだろう
そこで今回、あらためて考えたのは、「署名とは何なのか」ということだった。
正直に言えば、僕自身も、その効力や影響力について完璧に理解しているわけではない。
ただ、今の自分なりに思うのは、署名とは「私はこういう社会であってほしい」という意思を、目に見える形で表明する行為なのではないか、ということだ。
もちろん、署名ひとつで法律が変わるわけではない。
社会が一夜で変わるわけでもない。
けれど、「この問題を大切だと思っている人がこれだけいる」という民意の可視化にはなる。
それは、政治や司法、メディアへのメッセージでもあるし、同時に、当事者へ向けた「あなたは一人ではない」というサインにもなるのだと思う。
また、署名という行為は、暴力ではなく、言葉と意思によって社会へ参加する方法のひとつでもある。
そう考えると、署名とは単なる紙や数字ではなく、「社会との関わり方」のひとつなのかもしれない。
4.同性婚訴訟と、最高裁・国会の関係
今回の同性婚訴訟について、現在最高裁で問われているのは、「現行制度が憲法に照らして問題がないのか」という点だと理解している。
つまり、司法の場で、「同性同士が結婚できない現在の制度は、憲法上問題があるのか」が問われている。
ただ、仮に最高裁で違憲、あるいは違憲状態という判断が示されたとしても、それだけで制度がすぐ変わるわけではない。
実際に法律を整備していくのは、立法府、つまり国会になる。
だから今回の署名も、「これだけで社会が変わる」というよりは、「この問題に関心を持ち、見つめている人たちがいる」という意思表示に近いのだと思う。
僕自身、署名がどこまで司法判断へ影響を与えるのかは、正直わからない部分もある。
それでも、「声がたしかに存在している」ということを可視化する意味は、決して小さくないように感じている。
5.署名に“どれくらい意味があるのか”を考える
「でさ、署名って、本当に意味があるの?」
そう感じる人もいると思う。
実際、僕自身も、どこかでそう思っている部分はある。
署名をしたからといって、すぐに法律が変わるわけではないし、オンライン署名そのものに、直接的な法的拘束力があるわけでもない。
今回の同性婚訴訟についても、最高裁が判断するのは、現在の制度が憲法に照らして問題がないのかどうか、という点であり、実際の制度整備は国会で議論されることになる。
だから正直に言えば、今回の署名が、どこまで司法判断へ直接的な影響を与えるのかについては、僕自身もわからない。
けれど。
それでもなお、署名には意味があるのではないか、と感じている。
僕は、署名とは「法律を一瞬で変える魔法」ではなく、「社会の中に存在している意思や願いを、可視化する行為」なのだと思っている。
たとえば、
「この問題を大切だと思っている人が、これだけいる」
「この制度について、社会は注目している」
「当事者の尊厳を大切にしたいと思っている人がいる」
そうした民意や空気を、目に見える形で社会へ届ける営みとも言えるのではないだろうか。
政治や司法、メディアも、社会の関心や変化をまったく見ていないわけでも、感じていないわけでもない。
だから署名には、「このテーマは、一部の人だけの問題ではない」ということを示す役割もあるのだと思う。
また、僕は、署名には「孤立を和らげる意味」もあるのではないかと感じている。
特に同性婚のようなテーマは、自分自身の存在や、大切な人との関係性が、社会の中で対等に扱われていないと感じる経験と隣り合わせにある。
そんな中で、「賛同している人がいる」「気にかけている人がいる」という事実は、当事者にとって小さくない支えになることもあるのではないだろうか。
そしてもうひとつ。
署名には、「社会に関わる入口」としての側面もあるように感じている。
いきなり大きな活動をするのが難しくても、知ることや考えること、意思を示してみること。
そうした小さな行動から、社会との関わりは始まっていく。
繰り返しになるが、もちろん、署名だけですべてが変わるわけではない。
制度を変えるには、継続的な議論や、立法府での議論、投票行動、国民の関心など、多くの積み重ねが必要になる。
それでも社会は案外、こうした一人ひとりの小さな意思表示の積み重ねによって、少しずつ形を変えてきたのかもしれない。
6.社会をつくるのは、誰なのか
そして最近よく考えるのは、「この社会をつくっているのは、誰なのだろうか」ということだ。
それは政治家なのだろうか。
あるいは、いわゆる“活動家”たちなのだろうか。
はたまた専門家や有識者と呼ばれる人たち?
もちろん、そうした人たちの役割や影響力は大きい。
けれど本来は、社会とは、僕たち一人ひとりの営みの積み重ねなのだと思う。
この社会には、まだ選挙権を持たない子どもたちもいる。
外国籍の人もいる。
制度の影響を受けながら、十分に声を届けづらい立場の人たちもいる。
そんな中で、意思表示ができる立場にいる僕たちは、「どんな社会であってほしいか」を考えることができるし、示すことができる。
それは、特別な人だけの役割ではない。
もちろん、すべての人が常に社会問題へ強く関わり続ける必要はないし、それが難しい時期もある。
疲れ果てている日もあるし、今は社会と距離を取りたい時期もある。
でも、自分の暮らしと社会が繋がっていることを、自分なりに考えて思うこと。
そのうえで、自分なりのかたちで関わってみること。
それを他者へ示してみること。
それだけでも、意味はある。
「十分に」かどうかは、また別の話としても。
7.署名だけで終わらせないために
そして今回、僕自身が大切だと感じているのは、「署名をして終わり」にしないことだ。
同性婚に関する制度を実際に整備していくのは、最終的には国会になる。
だからこそ、「自分はどんな社会を望むのか」「どんな政策や立場を支持したいのか」を考えたり話し合っていくことも、社会参加のひとつなのだと思う。
選挙で投票することもそうだし、誰かと議論や対話をしてみることもそうだ。
大きな活動である必要はない。
まず知ること。
そして考えること。
誰かと話してみること(できたら顔が見える関係がよい)
まとまらなくても意思を交わし合ってみること。
そうした積み重ねが、少しずつ社会を形作っていくのだと思う。
8.最後に 〜「迷いながら」の中で〜
僕自身、今も「迷いながら」の途中にいる。
制度や法律を完璧に理解しているわけではないし、「これが絶対に正しい」と言い切れる自信があるわけでもない。
自身の力のなさに打ちひしがれることもある。
それでも、自分が生きているこの社会について、「どうあってほしいか」を考えることは、続けたいし、諦めたくないという思いがある。
今回の署名行為も、こうやってnoteに記事を書いているのも、そのひとつ。
賛同する・しないを含めて、まずは知ることからでもよいのだと思う。
迷いながらでも、考え続けることはできるのだから。
僕は、そういう“完璧や完全ではない関わり方”が、この社会にもっとあってよいのではないかと思っている。
もし関心のある方がいれば、今回の署名活動のキャンページについても、ぜひ一度読んでみてください。
(署名は2026年6月7日まで募集しています)
そして、よかったらまた、お話をしましょう。
記事を紹介していただきました
この記事をRYOJIさんが、ご自身の記事で紹介していただきました。ありがとうございます。
もうすぐ大学講義の日ですね。頑張って。
