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【小説:ショート読み切り】:紙の匂いと、異国の太陽

恵那駅から始まるストーリーの2話目です。
今回は恵那駅要素が少ないですが、次回につなげる予定です。
もしよろしければ、1話目からお読みください。


大学の廊下は、いつも紙の匂いがする。
新しい掲示物が貼られた日は特に、インクと糊の匂いも混ざり合い、少しだけ“新学期”が近づいてきた気がする。

アンズは講義の教室へ向かう途中、学生課の前の掲示板で足を止めた。
張り紙は、サークルの勧誘、アルバイト募集、落とし物、奨学金。いつもの顔ぶれの中に、見慣れない文字があった。

「留学生チューター募集」
 興味のある人は学生課へ——。

(チューター……?)

声に出さないまま、わたしは文字を目でなぞった。
“教える人”という意味はわかる。でも、何を、誰に、どこまで?

ちょうど掲示板の前を通りかかった友だちが言った。

「それ、留学生のサポートするやつじゃない? 生活とか授業とか」

「へえ……」

わたしはなんとなく頷いた。
でも、その「へえ」の奥には、少しだけ引っかかるものが残った。

——案内。
最近、わたしの中でその言葉がよく顔を出す。
恵那峡の遊覧船でマイクを握った日のことが、まだ胸の奥に残っている。
景色を言葉にすること。
誰かの“はじめて”を預かること。

(……それと、似てるのかも)

そう思ったら、急にこの張り紙が“自分の方を向いた”気がした。

講義が終わって、昼休み。
わたしは学生課の窓口の前に立っていた。ガラス越しに見える職員さんは忙しそうに書類を並べている。蛍光灯の光が紙の白さを強調して、少しまぶしい。

「すみません、チューターの募集って……」

声は思ったより落ち着いて出た。
職員さんは顔を上げて、にこっと笑った。

「留学生チューターですね。説明しますね」

座らされて渡された紙には、箇条書きで役割が並んでいた。

  • 在学中の留学生の“困りごと”を聞く

  • 学内の手続き(学生証、履修、図書館など)の手助けをする

  • 生活面(通学、買い物、病院、ゴミ出し)の相談に乗る

  • 必要なら学習の進め方も一緒に考える

  • ただし“先生”ではなく、同じ学生として伴走する存在

「家庭教師みたいに“教える”というより、大学生活の案内役、先輩役に近いです。困ったときに最初に声をかけられる相手、みたいな」

案内役。
その言葉が、わたしの胸にすとんと落ちた。

(やっぱり、案内だ)

“誰かの困りごと”って、多分大きな問題じゃない。
食堂でメニューが読めないとか、履修登録の画面がわかりづらいとか、ゴミ袋の色がわからないとか。
でもそういう“小さな困りごと”が積み重なると、毎日がどんどん不安になっていく。

わたしは、自分が恵那駅の掲示板で立ち止まって、そこから少しずつ世界が広がった日のことを思い出した。
一枚の紙が、生活を変えることがある。

「興味ありますか?」

職員さんにそう聞かれて、わたしは少し考えた。
“できます”と即答するほど自信はない。
でも、“やってみたい”は、確かにある。

「……興味、あります」

言いながら少し照れた。
でも、その照れは悪いものじゃなかった。

「じゃあ簡単な面談をして、成績や語学、生活態度を見て選考します。英語は必須じゃないですけど、少しできると心強いですね」

わたしは成績のことを思い出す。
飛び抜けて優秀ではない。
でも単位はちゃんと取っている。
授業に出る。
提出は遅れない。
それに、英語は——得意と言うほどじゃないけれど、多少は自信がある。

面談の日。
小さな会議室。
椅子の脚が床に擦れて、きゅっと鳴る。
質問は思ったより素朴だった。

「人の話を聞くのは好きですか」
「困っている人に声をかけられますか」
「自分が困ったとき、相談できる人はいますか」

最後の質問だけ、少し胸に刺さった。
“助ける側”になるとき、人はつい、自分が助けられることを忘れがちだ。

わたしは正直に言った。

「……一人で抱えがちなところは、あります。でも最近、誰かに頼るのも大事だって思いました」

言い終わったあと、少しだけ息が深くなった。
それを見ていた職員さんが、頷いた。

数日後、メールが届いた。
「留学生チューターに採用」の文字。
画面の白さが、春みたいに明るく見えた。


そして最初の面談日。

国際交流センターの部屋は、いつもより静かだった。
廊下のざわめきが扉一枚で薄くなる。机の上には、資料と、名前の書かれたカード。窓の外の木が、少しだけ揺れている。

わたしは椅子に座り、膝の上で指を組んだ。
緊張しているとき、自分の指は冷たくなる。
それがわかる。
だから手のひらをぎゅっと握って温めた。

(どんな人なんだろう)

まもなく扉がノックされ、職員さんが一人の女の子を連れて入ってきた。

小柄で、髪は黒に近い茶色。
目が大きくて、表情がころころ変わりそうな顔。
そして背筋がきれいだった。きれいなのに、どこか“いたずら”っぽい気配がある。

「紹介しますね。こちらが留学生の……黄雨晴(ホアン・ユーチン)さん。英語の名前はSunnyです」

女の子は少しだけ恥ずかしそうに笑ってから、丁寧に頭を下げた。

「はじめまして。Sunnyです。よろしくお願いします」

「はじめまして。アンズです。よろしくね」

“Sunny”。
呼ぶだけで部屋の中が明るくなるような名前だ、と思った。

職員さんが軽く説明をして、二人に任せるように席を外す。
扉が閉まった途端、部屋の静けさが少し濃くなる。

わたしは言葉を探して、机の上の資料に目を落としかけて——やめた。
紙の言葉より、目の前の人の温度を先に見たかった。

「日本、来たばっかり?」

「はい。まだ二週間くらい」

「寒さ、大丈夫?」

Sunnyは笑って、肩をすくめた。

「寒い。でも、冬好き。アニメみたい」

言い方が可愛くて、わたしも思わずつられて笑う。
“好き”を言うとき、声の輪郭がはっきりする人だ。

「趣味、ありますか?」

わたしがそう聞くと、Sunnyは少しだけ間を置いて、急に目を輝かせた。

「お城!」

「お城?」

「うん。日本のお城、大好き。石垣、天守、かっこいい」

勢いがあって、わたしは思わず身を乗り出した。

「もう、どこか行った?」

Sunnyは胸を張った。ちょっと得意そうに。

「名古屋城、行った!」

「早い!」

「はい。来たら、まず行く。……金のしゃちほこ、写真いっぱい撮った」

言いながらSunnyはスマホを取り出しかけて、はっとして手を止めた。
“面談中だから”って、自分でわかっている顔が可笑しい。

「名古屋城、どうだった?」

「大きい。人も多い。展示もすごい。でも……」

Sunnyは言葉を探すみたいに天井を見てから、少し声を落とした。

「もっと、静かな城も好き。山の上とか。城跡とか。想像するの、楽しい」

“静かな城”。
その言葉を聞いた瞬間、わたしの中で、恵那の景色がすっと立ち上がった。

(……あ、わたし知ってるかも?)

わたしは息を一つ吸って、言った。

「それなら……私の地元にも、城跡があるよ」

Sunnyがぱっと顔を上げる。

「地元?」

「うん。恵那っていうところ。岐阜なんだけど」

Sunnyは音の響きを楽しむみたいに繰り返した。

「恵那……」

「そこに、岩村城っていう城跡がある。山の上にあって、石垣がすごいんだ」

Sunnyの目がさらに大きくなる。

「いわむら……?」

「うん。しかもね、“女城主”っていう話が残ってる」

「女城主……!」

その三文字が、Sunnyの中で花火みたいに弾けたのがわかった。
“好き”のアンテナが、まっすぐ立つ感じ。

「それ、行きたい。すごく行きたい」

わたしはその姿に微笑んだ。
この反応が見たかった、と言うほど狙ってはいないのに、胸の奥がちょっと嬉しい。

「今度、一緒に行こうか」

Sunnyは一拍おいて、ふわっと笑う。

「約束?」

その日本語は、少しだけ拙いのに、まっすぐだった。

わたしは頷く。

「うん。約束」

“約束”って言った瞬間、言葉が胸の奥に落ちて、熱になる。
大げさじゃない。
でもこういう小さな約束が、あとから思い出になることを、わたしは知っている。

Sunnyは少し照れたように笑ってから、ぽつりと言った。

「実は……親に、ちょっと嘘ついた」

「え?」

「“日本の大学でしか学べないことがある”って言った。半分ほんと。半分……」

Sunnyは困ったみたいに笑う。

「本当は、日本で好きなもの、いっぱい見たい。お城とか文化とか。でも親、心配する。だから“ちゃんとした理由”が必要」

わたしはその言葉に、勢いじゃない強さを感じた。
好きなものの方へ進むために、努力してきた人の強さ。

「……わかる気がする」

Sunnyが目を丸くする。

「ほんと?」

「私も、説明が難しい“やりたいこと”ってあるから」

剣道を再開した理由も。
恵那峡で案内をしてみたくなった理由も。
言葉にしにくい熱は、確かに存在する。

Sunnyは小さく頷いて、静かに言った。

「アンズ、チューター、ありがとう。安心する」

その一言が、わたしの胸にすとんと落ちた。
“案内”は景色だけじゃない。人にもできる。
そんな気づきが、じわっと広がる。

「じゃあ、まずは生活で困ってること、ある?」

わたしがそう切り出すと、Sunnyは指を折りながら言った。

「ゴミ。スーパー。電車の乗り換え。あと、学食、どれが辛い?」

「辛い、気になるんだ」

「台湾、辛い多い。日本、やさしい辛い?」

思わず笑ってしまう。

「学食は……カレーは日によって違う。あと唐揚げは正義」

Sunnyが真顔で頷いた。

「正義。覚えた。唐揚げ、正義」

二人で笑った。
部屋の空気が少し軽くなる。

——面談が終わる頃には、わたしの緊張はすっかりなくなっていた。
代わりに残ったのは、細い糸みたいな“つながり”だ。

扉の前で別れるとき、Sunnyがもう一度言う。

「岩村城、いつ行く?」

「桜の時期に合わせたら、きっときれいだよ」

「いい。楽しみ。約束」

「恵那駅に集合しよう。私案内するから」

Sunnyは小さく拳を握って、ガッツポーズを作った。

わたしはその仕草を見ながら、胸の奥で思う。

(日本のことも、恵那のことも好きになってくれるといいな。)

大学の掲示板から始まった出会い。
ちょっとした勇気、ちょっとした一歩で、キャンバスに新しい色を追加できる気がする。

わたしは廊下の光に目を細めながら、心の中で小さく言った。

(案内って……景色だけじゃない。困ってる人、迷ってる人の力になることもできる。)

それはチューターとしての最初の仕事で、
わたし自身が受け取った、いちばん大事な“説明”だった。


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