命は平等だが等価ではない――アクアリウムがくれた“気づき”
こんにちは。Sol@です。
昨日、こんな記事を書きました。
まぁ要するに「お散歩気持ちよかったよ~」という記事ですが、その中で、またある考え事をしましたので、共有したく思いました。
それはホームセンターのアクアリウムコーナーを見ていた時の事でした。その時、私はお気に入りのペットコーナー(特にネコちゃん)のコーナーを見てホクホクの気持ちでいたのですが、水槽を泳いでいるお魚さんを見て、「あぁ、かわいいな」と思ったのです。
そりゃあまぁお魚さんがかわいいことには間違いないのですが、その時私が考えていたのは直前に見ていたネコちゃんとの温度差です。
私は今、ネコちゃんにハマっています。飼ってはいないのですが、毎日ネコちゃんの本を読み、イメージトレーニングでネコちゃんを飼う練習をする日々です。
ホームセンターでもそりゃあまぁネココーナーに引き寄せられていて、飼ってもいないのにネコちゃんのご飯を吟味していました。
真剣にご飯の品質に悩み、爪とぎやおトイレを見比べていたのですが、お魚さんの時は「あぁ、かわいいな」で済みました。
その時思ったのは「僕は命に差をつけているな?重みづけをしているな?」ということです。
別にそれが悪いというわけではなく、私はネコちゃんとお魚さんを目にしたとき、自然にネコちゃんの方を優先して考えていたのです。
仮に私がネコちゃんとお魚さんを同時に飼っていたとして、ネコちゃんがお魚さんを食べてしまっても私はネコちゃんを軽くしかって、軽く悲しんで終わりでしょう。数週間くらいは後悔もするかもしれません。
これが逆であったら、即ちもし(例としてはいささか極端ですが、)お魚さんがネコちゃんを食べてしまったとしたら、私は恐らくお魚さんを処分した挙句1~2年は落ち込み、後悔し続けるでしょう。
ここに僕が考えている命の重さがあります。
その基準はなんでしょうか。値段でしょうか、大きさでしょうか、触れ合えるかどうかでしょうか。
何を基準にしているかわかりませんが、私は命に差をつけているのです。
勿論、どの命も大切であることは変わりません。
命をぞんざいに扱うことは論外です。
しかしながらその一方、「命は平等だが等価ではない」とも思います。
もしすべての命を平等に扱うのであれば、私達人間と同様に扱うのであれば、ヒトはどの生物も殺すことができなくなってしまいます。
お野菜を食べることはできず、勿論家畜など殺せません。それどころか部屋に現れた憎き"アイツ"ですら殺すことはできないわけです。
人間はどこかで命に重みづけをします。そしてその基準を明確にすることは非常に困難です。
しかしその「重みづけ」そのものを思考の外においてしまってよいものでしょうか。
「なるべく命は大切にしましょう」なんて決まりきったお題目ではありますが、改めてそれを考えてみてもよいかと思います。
どの命を大切にするのか、何を基準に大切にするのか。
命に触れ合うことが少なくなった都会に住んでいる方こそ、それを今一度考えてみてもよいかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
